第46話 糸車の針
運命の糸車が、回る。三人の女神が糸を紡いで、繰って、断ち切って――。
十三番目の呪いで指に針を刺した。
十二番目の魔法で死は免れ、百年の眠りについた。
茨に守られ、眠りについた――。
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その後のことは、あまり覚えていない。男と言葉を交わす前に、源二が去っていったのと反対方向から、北條と共にバーコード頭の講演会の講師とやらが現れた。
その男は講師と話を始め、一夜は逃げるようにそこから去り、講師控え室の準備をした。
お茶を出し、その茶碗を片付けに来る頃には、男の姿はもうなかった。
放心状態の一夜は北條との出来事のショックも、既に遠いものとなってしまっていた。
ぼーっとした一夜の様子に、何も知らない北條は自分の所為なのではないかと心配していた。しかし自分すらも目に入っていないような様子に、それ以外にも何かショックなことがあったようにも感じた。
しかしこの先は、自分から彼女を奪っていった、年若いがあの少年がきっと全て受け入れることだろうから、どこか危なっかしい彼女のことはもう自分が心配する筋合いではないだろう、と少し寂しいもののそう思っていた。
そして一夜はふらふらと家に帰り着き、スーツを脱ぎ捨てた。
腕には少し赤く源二の指の痕がついており、スーツにはあちこちに埃がついていた。
彼との情事の痕跡から、礼服であんなことをしていたのだと改めて実感し、またじんわりと身体中で感じてしまう。しかし心に大きな石があるように何かが重く圧し掛かって、甘い気持ちには浸れなかった。
スーツはクリーニングに出そうと壁に掛け、一夜は服を着替えた。
そしてベッドに倒れこむ。……眠くなってきた。まるで現実逃避のように。
もう、自分には関係のない人間なのだ。自分にするべきことなどない。偶然会ってしまったことなど、忘れればいい。会わなければそれまでだった。
なのに、妙に心が重く、どうしたらいいのか、分からない――。
一夜は昼食を食べそびれたことをようやく思い出した。秋の夕暮れが広がっている。もうすぐ暗くなる。
だが夕食を作る気力もなかった。
北條とのこと源二とのことでどっと疲れた上に、……まさかあんなところで、『奴』に会うなんて――。
一夜が眠ることも出来ず、かと言って起き上がる気力もなくいると、しばらくして玄関のドアが開く音がした。源二が帰ってきたらしい。
彼は居間を通り、自分の部屋に入って着替えなどをしていたようだった。
それらの音をぼーっと聞いていた一夜であったが、やがて彼は自分の部屋を出ると、一夜の部屋のドアの前で言った。
「――居るのか」
「うん……」
一夜は無気力な返事をした。
寝ているわけではないその返答に、源二は少し考えた後に、言った。
「……入るぞ」
「いーよ……」
今日二人で秘め事をしてきた割にはその放心したよう返事に、源二はあることに『確信』を持ってドアを開けた。
部屋の中では、長袖のパーカーに着替えた一夜がベッドの上に長い髪を散らかせて寝そべっていた。
それを見下ろす源二と見上げる一夜の目が合う。源二は少し考えたが、ベッドの端に腰を下ろした。
「……」
源二は考えていた。今までの一夜なら今日、あれだけ激しいことを自分はしたのだ。自分を見れば、きっとそれを思い出し、焦り、照れてしまったであろう。少なくとも、こんな風に無防備にベッドに寝そべり、自分をその横に座らせることなど出来るわけがない。
いつもの彼女ならきっと、「今日の続きを今からしてくるのではないか」と自分を警戒するほどだろう。
しかし一夜は無気力そうに、自分の髪をいじって見るともなしに窓の外を見ている。
逆に今なら襲っても抵抗すらしないような気がしていた。そのまま無気力に、何も感じず自分に抱かれそうだった。
そんな『初めての』は源二の望むところではなく、ただやれればいいというものではないので、この据え膳の状況でもとびつきなどしなかった。第一、そのような低俗なことよりも、彼女をこうしてしまった理由の方が源二には重要なことであった。
『それ』により、甘い雰囲気を台無しにされたのは悔しいが、逆に『それ』は自分たちの間の最後の障害とも言えた。
一夜をこんな風に壊してしまう、呪いのような――。
彼女がおかしくなったのは、情交の後、謎の男に会ってから、だろう。
遠目にだが見えたあの男と一夜の様子に、まさか、という勘は源二にもあった。
「――なあ、」
源二は一夜に問い掛けた。
「今日、会った男――」
「……あー、」
一夜は源二の方を見た。
源二は一夜を見ていた。
一夜は一瞬、誤魔化そうかと思った。この男が誤魔化しを許さない男だと分かっているけれど。
だけど、目が合った瞬間に思い知る。
この男は私の恋人であり、――そして今、この世にたったひとりだけの『家族』なのだと。
一夜に家族はもう居ない。だけど本当はひとりぼっちは寂しかった。一緒に暮らした少年と、恋人になるよりも先に、いつの間にか家族と呼べる関係に自然になっていた。
それは同じ『ひとりぼっち』として、一夜が既に失っている血の繋がった家族以上に今や大切なものであり、互いにしか分からない深い繋がりがその間にあると思っていた。
そうであれば、まさに彼への嘘は無意味なことだった。それにここで自分が嘘をつけば、自分が恐れる、父親と母親と同じ信頼の崩壊を繰り返すだけだろう。
それだけはもう嫌だった。自分は両親と違って、彼を最後まで信じたかったし信じて欲しかった。
それに、今の自分の『家族』はこの少年になるのだ。彼しかもう、居ないのだ。『過去の思い出』に彼は存在していないが、それは既に過去のこと。血は薄くしか繋がっていなくとも、今現実の、『家族』を大切にし、本当のことを伝えたかった。
たとえ、その過去の事実の中で、
「――私の、父親、だった奴――」
あの者が自分の血の繋がった、家族だったことがあったとしても――。
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それは十三年前のこと。
教員の父と、会社員の母と、自分、の三人暮らし。仲のいい家族は周りにたくさんあったけれど、自分の家はベタベタする関係でも仲が悪いというわけでもなかった。
お喋りな性格の人がいなかったので、会話は少ない一家だったが、父親は穏やかで優しいし、母親もどんなに忙しくても何かあれば力にもなり、間違った時には叱ってくれた。
元々母親も男勝りであったことから、自分も年頃を迎えても着飾ったりすることもせず、男に興味も持たなかった。
当時はまだ子供だったから今以上に愛想笑いも苦手で、無表情な子だとよく言われた。
父親と母親も性格なのか、どこか中性的で夫婦仲もさっぱりしすぎなほどさっぱりしていて、会話をしているところすら物心ついた時からあまり見なかった。
やたらいちゃいちゃしている両親を持つ友達もいれば、隣のクラスの不良の両親は父親が母親に暴力を振っているという噂も聞く。
――しかし自分の家はどちらでもなかった。
会話もないが、喧嘩もしない。淡々と必要な会話をたまに聞くのみ。
まだ初恋をしていない一夜は、男と付き合っているクラスメイトを見ては、カップルだと毎日ああ楽しそうにしているが、夫婦になったらこんなものなのだろうとずっと思っていた。
今にして思えば、その二人は自分という子までなした仲なのだ。
『会話がなくなる』『だが相手の生活は大事にする』というスタンスがどれだけ互いにとって辛いものであったか。もしかしたら余程喧嘩でもしあう方が分かりやすい表現であったかもしれない。
もう少し言えば、夫婦間で弱音を言い合うことを、今思えば彼らはいつしか一切しなくなったのだろう。
二人とも真面目過ぎた、そして忙し過ぎた。
そしてある日、父親と離婚すると母親に言われた。
突然であったのに、何故か驚かなかった。
ドラマや漫画、人の噂話などでそういう事例を聞き、思春期の自分は「うちはどうなんだろう」といつの間にか想像を膨らませており、喧嘩はしていなくとも、どこかおかしいということを、子供心に察していたのかもしれなかった。
――ああ、やっぱりな、と思ったものだった。
だけど。
今までそこに居たはずの人が居なくなること、もう家族でなくなり、もう二度と会えなくなること、――自分を守ってくれていた人に裏切られること――は、
本当は、本当は、本当は、
すごく、哀しかったのだ。
母は泣かなかった。だから自分も泣かなかったが、部屋でこっそり、夜泣いた。
泣いて、泣いて、声を殺して泣き喚いた。
だけど、父こそ母と別れることを決めたのだ。
本当に娘の自分のことが大事なら、たとえ母親と男と女の関係が結べなくとも、自分の傍に居てくれてもよかったのではないか!?
しかしもう、彼は自分を捨てた。それは事実だ。
母と儚い男女の関係が終わった時点で、その産物の自分にも興味は無くなったのだ。
――それだけが、事実。
恨んでもどうしようもないことに、自分は彼の存在自体を忘れようと決めた。
自分を捨てた人間だ。自分も、彼の存在を捨てよう。
母親が気丈であったことと、その少女本来の気質の強さと賢さから、彼女は非行に走ることもなく、そのような大人びた結論に達した。
寧ろ、自分が壊れないためにその域に達せざるを得なかったのだった。
その見えない綻びが、後にひとりの少年を求め、知らず知らずのうちに大人のくせに子供のように依存するようになってしまうのだが、その時はそんな未来のことは分からない。
父親の収入がなくなった分、母親は仕事を増やした。
男と女の間に永遠などない。こんな風に一度は頼りにしても、別れてひとりで生きていく羽目になる。
その日から他人に頼らず、自分ひとりの力で生きていこうと決めた。
十四の、冬。
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一夜が寝転んでぽつりぽつりと呟く昔話を、源二は黙って聞いていた。
彼女は泣くこともせず、少し面倒くさそうに、そしてひどく冷めた口調で、その日のことを源二に話した。
一夜がその時の話を源二にするのは、五年間一緒に暮らしていて初めてのことだった。
こんな話が出来るのも、色々な出来事をとおして彼に対して保護すべき子供以上の感情と信頼感を持つようになったからだろうと、互いに思っていた。
一夜とて別にこんな話をして源二にどうして欲しいわけでもない。
それは源二も分かっているからこそ、何も言わずにいた。
――だって。
「――だって、もう、『家族』じゃないんだからさ」
それだけが、事実。
薄暗くなったが二人共部屋の電気もつけずに、そこにじっとしていた。一夜は源二の肩越しに天井を見上げて淡々と呟いていた。抑揚のない声で。
「私と母さんはもう要らない、別々に生きていくと彼は決めたんだ。だったら血の繋がりはあったかもしれないが、他人でいいんだ。私と源二が血のつながりが薄くても、家族だと言い切ればそうであるように――その逆も、あるんだ。それでいいんだ」
その存在こそが、一夜を頑なにし、男女の仲を厭わせ、寂しさから己を守り、ネムリヒメの深い眠りにつかせた、糸車の呪いの針。
その呪い自体は、解けようとしているものの……この、今目の前にいる存在によって。
一夜は手を伸ばすと、秋なのにまだ半袖を着ている源二のTシャツの裾を握った。
今日ばかりは彼はその手をあえて取らなかった。そういう意味に勘違いされたくなかったからだ。
だけど、ずっと傍に居た。
――もう、全部、自分から失われたのだ。
父親も、母親も。
最後に残ったのは、この子だけなんだ。
深い依存、深い愛情?
異常なのは、きっと、私のほうだ。
だけど、彼は私を受け入れてくれた。
彼に出会えてよかったと思う。
今は彼が居てくれる。
彼さえ居てくれれば私はいい。それで、いい。
十年後、二十年後までは分からないけれど、今は自分を信じろと言ってくれた。
はじめて、私に、そう言ってくれたひと。
手放したく、ないんだ……。
尊いものを握るように、一夜は少年のシャツの袖を掴んでいた。
少年もそれを分かっていた。だが今は幼い子供のように戻ってしまったこの女をどうしてやることも出来ずに、ただ己が過去口にしたことと、そして彼女自身のことだけは何があっても守ろうと、そこにただ存在していた。
――そして、その時、源二の中でぼんやりとだが、ひとつの『決断』がなされていた。
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