ネムリヒメ。(44/57)PDFで表示縦書き表示RDF


ネムリヒメ。
作:takao



第43話 WAKE UP!(2)


 思えば北條と二人きりで話すのは、源二に告白される直前に彼と食事に行ったあの夏の夜以来のことだった。
 そこで彼には想いがないことを自分で悟り、更には千菜の想いすら知ってしまったため、彼と個人的に関わることはしないでいたのだった。

「どーしたんですか……」
 少し緊張するものの、信頼できる上司だ。一夜はいつもの出勤どおりワイシャツ姿にネクタイをしている男を見上げると尋ねた。
「別に。あそこの課長とは予算の段階で散々やり合ったからな。どれほどのことをするか見に来ただけだ」
 北條はそう言って薄く笑った。いつも冷静で温厚、内には優しい上司であるが、流石に若くして管理職まで昇っただけはある。ひとたび外部とやり合う時は、必ず結果を勝ち取ってくる――そういう意志の強いところもあるイメージがあった。
 だから一夜はその言葉を疑ってはいなかった――が、カチャ、と鍵の閉まる音が静かな部屋に響き、北條が後ろ手に扉の鍵を閉めたことには流石に驚いた。

「――室長……」

 その音とこの不自然な登場に、嫌な予感がしてきた一夜の心臓がばくばくと鳴り始める。
 不安そうに眉を寄せて北條を見上げた一夜に向けて、彼はまた薄く笑った。
「まだ、時間あるんだろう。……少し話は出来るか?」
 口調は静かなものであったが、自分を見据えるその切れ長の目は明らかにいつもの穏やかな上司のそれと違っていた。 
「お、お話ならいつもの勤務時間にも出来ませんか?」
 焦り、どうにかこの状況を回避しようとする一夜の声に、北條は今までに聞いたこともないような冷たい声で答える。
「そういう話だと思うのか?」
「……」
 ――恐い、と一夜は思った。今まで彼は一夜に対しては、時には厳しい面もあったが、それでも彼女が心からは傷つかないよう常に優しく接してくれていた。自分を誘いながらも絶対に手も出さないでくれたし、彼の気持ちを押し付けることもしてこなかった。
 言い換えれば、自分が源二に突きつけられたような剥き出しの『男』の感情は、彼が大人で余裕があったのか、自分がそういうものが苦手だから遠慮をしてくれていたのか、彼は一夜には一切見せてこなかったのだ。

 だが今だけは違った。若い源二とはまた違う、何か深淵なものを感じる『男』のそれ――。
 一夜はそれを恐いと思っていたが、拒絶することも出来ないでいた。学生の頃から男性とこういう雰囲気になりそうになった時は、本能で察し、こうなる前にいつも逃げ出していた。
 しかし今回は、相手が上司であり此処が職場であることから、「まさか」という隙があった。そして確かに源二との関係の変化により、パニックを起こさない程度には男性とのこういう状況に慣れた、というのもあった。
 しかしそれよりも何よりも、一夜が身動きすらとれないでいるのは、北條に負い目を感じているから――彼をこんな風に追い詰めたのは自分だと言う負い目があるからだ。

 だがそうであっても、受け入れてはいけない、と思っていた。それは自分が一応源二の『恋人』であり、あの少年のことを少なからず想っているからであるが、もうひとつ。
 自分が源二に『この顔』を他の女に向けて欲しくないように、千菜も同じ気持ちであるからだろうと思うからだ。友人のことだけは絶対に裏切りたくなかった。

 北條が一歩一歩一夜に近づく。一夜は思わず後ずさるが、後ずさった方向が悪く、すぐに壁にぶつかってしまった。
「――それに、別の場所でそんな話しようったって、もう応じないくせに」
「……」
 明らかに、今までの優しかった上司の彼とは違う、怒りのような悲しみのような、複雑な『負』の感情が自分に向けられていることを感じる。居心地悪いだけでなく、それを自分に向けてほしくないと言う嫌悪感が走る。源二や千菜の顔が浮かび、罪悪感で泣きそうになる。

 壁を背中にぴったりとつけた一夜に、ただの上司と部下の距離とは言い難いところまで近づいた北條は、一夜の顔のすぐ上で低く、呟いた。
「……あのガキと付き合ってるんだろ?」
 その冷たい声に一夜の身がぞくっと震えた。彼の言う人物はただひとりでしかないだろう。源二と自分との関係を最初から怪しんでいた、この男なのであるから。

 確かにその質問への答えは今度こそYESになるのだが、相手が高校生であることと、北條はとっくに見破っているようだが一応表向きは『家族』であるので、一夜はどう答えてよいか分からず俯いたまま唇を噛み締めた。
 早くそこを退いて欲しかった。それは源二に迫られた時と全然違う理由からだ。
 この状況が嫌で嫌でたまらない。黙っていればいつかは彼も引くだろうか。しかし彼は自分に腹を立てているのだ――。

 そう、こうなってしまったのは、もっと早く素直に自分や源二を受け入れなかった自分の所為なのだ。

 一夜はただ小さく呟いた。
「……すみません……」
 それは北條の言葉を肯定していることと同じだった。
 その時、――どん、と重い音がした思うと、北條は一夜の追い詰められていた壁に拳を押し当てていた。
「そうか……」
 それは低く、重い声だった。一夜は思わず北條を見上げた。その目と目が合った。

 その暗く静かに、だが深くえぐるような――、滾るような熱さの源二の激情とはまったく違った迫力に一夜は硬直してしまった。
 千菜はこの人を好きなのに。そしてきっとこの人に抱かれているのに。
 私は源二が、好きなのに。仮でもままごとでも、あの人の『彼女』なのに。
 この人の思いは受け入れられないのに――。

 きっと、今の自分はそういう想いから彼を拒絶する眼をしているのだろう。北條の瞳が揺れた気がした。
 苦しげに、悲しげに――憎しみを持って。

 恋はよくわからないと自分は言った。知りたくないと。
 ――そこから眼を逸らし続けてきた結果が、これなのか。
 和歌を傷つけた時の後悔とはまた違う感情に、一夜は揺らぐ。
 和歌が自分へぶつけてきた気持ちは、自分への『嫉妬』。――しかし今回は、違う。
 自分へぶつけられている想いは、それが行き過ぎてもう自分を憎んでしまうほどの、哀しくて恐ろしくて、食らいつくすような、激しい――何か。

 一緒に働いていたのに、自分のことばかり夢中で少しも気付きもしなかった。
 彼はいつからこんな感情を隠していたのだろう。
 いつの間にこんなに混沌とした黒い渦に飲まれていたのだろう。
 どんな想いで隠し続けてきたのだろう。
 自分はどれほど無神経に、彼の想いを踏みにじっていたのだろう。

 だけどそれでも、自分はそれを受け止められない。相手は自分を渇望しているのに。
 だがこれは、互いにどうにもできない感情なのだ。自分も、北條も。
 誰が傍にいたって――その人じゃなきゃ駄目だという絶望。
 傷つけるよりも傷付く方がいいと誰かが言っていたが、それはこんな、やりきれない気持ちだろうか。
 そうやって自分まで苦しくなっても、やっぱり彼の想いは受け入れられない。――あのひとじゃなきゃ、いやだ!

 一夜は呼吸の音が聞こえるほどの至近距離で北條と見詰め合いながら、そう思っていた。
 何をしても、誰と居てもあの存在を思い出すだけだった。比較してしまった。

「……すみません…」

 彼への申し訳なさから苦しくなり、再び俯いて呟く。他に何の言葉が言える?

 だがもう源二との関係を察しているならば、彼はどうして今日此処に来たのだろう?
 もう千菜がいるのに、どうして――?

 そこで一夜はこんな風に、行き場のない気持ちにもがいていた和歌のことを思い出していた。北條も……同じなのだろうか。
 自分は恥ずかしながら、源二が初恋、になるのだろう。 だが彼は自分の想いを最初から100%受け入れてくれていた。こんな切なさ、やりきれなさ、必死さを自分はまだ経験していない。真綿のような何かに、包まれていた。源二に、皆にずっと庇護されていた。

 なんという未熟さ。なんという浅はかさ。
 なんて自分は汚くて頼りないんだ。
 自分だけが幸せになれればいいのか?

 ――こんな愚かな自分に、愛してもらう価値はあるのか?

 こんな風に、色んな人を傷つけて傷つけて――。

 考えているうちに、一夜もまた悔しく、哀しくなってきた。しかしそんな彼女の耳に、
「そんな顔するな――」
北條の切なげな囁きが聞こえた。
 それはとても哀しい響きだったがいつもの彼と同じ優しいものに一瞬戻っていたので、一夜は思わず顔を上げた。

 ――すると、間近に北條の顔があった。

「――っ」

一夜が慌てて顔を逸らそうとした瞬間、その頭を両手で荒々しく押さえられた――と思うと、強引に口付けの体勢にされた。
「いや……っ!!」
 源二に、千菜に、大事な人たちに後ろめたいことはしたくない!たとえ綺麗事でもそんな恋なら絶対に嫌だ!!
 一夜は抗ったが男の力には敵わない。
 そして信頼していた上司にこんなことをされるのもショックだった――。

 しかし、

 そのまま抵抗の出来ない一夜に北條の唇が触れた。

 ――が、無理矢理彼女を引き寄せた割には、それを荒々しく奪うつもりが、

 触れる瞬間にその凶暴さは消え、やはり氷の糸のような繊細な想いの果てのように、

 触れたか触れてないか分からないくらいにそっと、

 優しく、大事なものに触れるように、


 一夜の唇――のすぐ横に、唇が、触った。


 その瞬間、北條の中でも何かが砕けたのか、一夜の力で振りほどけるほどには力が抜けていたので、一夜は泣きそうな顔をしてばっと手を振りほどいた。
 緊張と動揺の余り、身体がよろけたが、それを北條に受け止められた。それすらもう嫌だったが、彼の腕に支えられてなんとか久しぶりのハイヒールの足で立つ。

「……」

 気まずい空気。
 だが確かに、心に傷の残るような深いキスをされなかったのは幸いだった。それに別の男であれば、もっと変なことをされていたかもしれない。
 そしてこんなことをされることが初めてではないのも、まだ救われた。
 実際北條も、一夜が源二と付き合っていると知った時点で、一緒に暮らしているのだし、もうそういう関係になっているだろうと思い、今まで彼女を気遣い遠慮してきた『男』の本性を剥き出しに出来たのかもしれないが。

「ち、千菜のことは――…」
 その名前も出すのが苦しい。たったこれだけのことであっても、自分が彼女の立場だったらどう思うだろうと思うと、こんなことは許されないと思った。
「分かっている」
 北條の言葉に一夜が再び顔を上げると、その少しだけ笑った顔は、いつもの彼のものに戻りつつあった。
「謝る。そして、大事にする」
 その声に迷いはなかったが、どこか寂しそうな笑顔が一夜には気になった。
「大事にするなら、どうして――…」
 しかしそれ以上は言えなかった。

 こんなことを上司に、友人の恋人にされてショックなのに、それでも『こんなこと』くらいで済んだことから、自分が今までどれほどこの男に大事に想われていたのか――恋を少しでも知った今なら分かる。
 もっと荒々しく自分を壊されていたかもしれなかった。だが先ほどのそれは、多分自分への、そして千菜への、様々な欲望と想いと全てがぐちゃぐちゃになって砕けた結果、あれだけのそっと触れるものとなっていたのだろう。
 この男の中に、どれほどのものが眠っていたのか、どれだけ狂いそうな想いで押し殺してきたのかは、彼と気持ちを共有しないと決めた自分には一生分からないだろう。
 だけど彼を、ここまで抑え付け、こんな風に苦しめてきたのは、自分だ。

 もし、最初に彼が自分の源二への、源二の自分への想いを疑った時に、自分がもっと周りを見ていれば、他人や自分の気持ちともっと早く勇気を出して向かい合っていれば、彼のことをこんな風に追い詰めなかったのではないか。
 それは最早同情でしかないのかもしれない。
 だが、だからこそ一夜には北條を詰ることがどうしても出来なかった。


 互いにもう、どんな言葉を掛けてよいのかも分からなかったその時――、静寂が破られた。

 突然響いたドアをノックする音に、一夜はびくんと身体を竦ませ北條から離れた。
 先程から三十分ほどしか立っておらず、講師が到着するにはまだ一時間もある。本部の職員だろうか。
 カーテンも引いてあるし、外からは見えない。服も乱れていないし、北條が此処に居ることはここの職員ならばさほど疑問には思わないはず――。
 そうは言っても今の出来事がバレてしまうのではないかと一夜がドキドキしていると、

「誰もいないんすか?」

「――!!」

そのドアを叩いていた主の声に一夜は心臓が止まるかと思った。

 ――なんで、源二が――!?




 源二としては此処を去ってあまり時間が経っていないので、まだ一夜は此処にいるだろうと思ってやってきた。その理由も非常に初歩的なミスで恥ずかしいのだが、受領書と請求書を間違えて渡してしまう、という情けないことをしていたために。
 そう思うと自分もどこか動揺していた――のだろうか。
 情けない気持ちで戻ってきた源二であったが、ドアを叩いても反応が無い。鍵も――掛かっているようだ。

 ――?

 何か他の仕事で何処かに行ったのだろうか。
 だが――虫の知らせで、何か嫌な予感がし、彼はドアをもう一度叩いた。




 ――早く、行って――!

 別に抱かれていたわけでもないのに、男をまだ知らない一夜には、たったこれだけのことでも恐くて仕方なかった。
 しかしこれだけのことでも、少年とて大人ではない。こんなことをしていたと知れば、どんな気持ちになるだろうか。今は北條ともう身体を離しているが、あのようなことがあったすぐ後の顔を、一夜は源二に見られたくなかった。

 北條と目があった一夜は、また泣きそうな顔で首を振った。

 ――なのに。

 源二はそこを退くことなく、そして、
「……」
声で判別出来るほど少年のことは知らないものの、先程遠目で作業着姿の年若い男を見たことと、一夜の反応から確信を持った北條は、何を思ったか一夜の願いを踏みにじり、


 ――やめて……!!


その、ドアを開けた。


「な……」

 ドアを開け、姿を現したのが北條であったことに、源二は驚きの声を上げた。
 そして嫌な予感のままに北條を押しのけるように会議室の中を覗くと、先程自分に見せていた笑顔はどこへやら、身を固くし唇を噛み締め、源二に背を向けるように立っている一夜の姿を見つけた。

 源二が北條に視線を移すと、男はただ無表情に自分よりも少しだけ背の低い少年を見下ろしていた。

「――テメエ……っ!!!」

 その瞬間、体中の血が沸騰したかと思うくらい怒りの込み上げた源二は、北條の胸倉を掴み上げた。







個人サイト>碧落の砂時計TOP





ケータイ表示 | 小説情報 | 小説評価/感想 | 縦書き表示 | TXTファイル | トラックバック(0) | 作者紹介ページ


小説の責任/著作権は特に記載のない場合は作者にあります。
作者の許可なく小説を無断転載することは法律で堅く禁じられています。




BACK | TOP | NEXT


小説家になろう