第41話 狸寝入りの姫君(後編)
彼の気持ちを受け入れようと思ったのは、彼への同情なのか?
それこそ馬鹿にするなと、ひとつの人格を持つ彼を傷つけることになる。一夜はそうしたくなかったのだから、この気持ちは同情ではなかった筈だ。
つまり本当は、彼の言うとおり恐いのだ。ひとりの人間に想いを懸けること、その勇気がなく逃げ出したいのだ。
だけど、それを失いたくもないのだ――。
全てが自分の『やりたいこと』であり本心であるから、一夜はどうしていいのか分からなかった。
――だけど。
「……だったら、しのごの言ってねーで、一緒に居ればいいだろ。そーやって、五年間、生きてきただろ。今更、そんなん変えられねーよ」
一夜の言葉で少し冷静になった源二は、一言一言に力を込めてそう言った。
――ああ、そうなのだ。
あの日、手を握った。
家族でもない、友達でもない、恋人でもない、自分と『同じ』モノ――。
この人なら、自分を救ってくれるのではないかと、互いにそう思ったのだ。
そしてそれは間違いなどではなかった。
そう思うのだったら、相手を、この五年間を意味のないものと否定したくないなら、逃げてはいけないと、それを貫く勇気を持たねばならないと、源二の言葉を一夜はそう受け取った。
それでも不安はあるけれど。変に男と女の仲になってしまえば、逆に性欲からの裏切りが伴うかもしれないけれど。
それでもまだそうなっていない今は、後ろめたいことなど何もないのだから、このまま『家族』以上のものとして、一緒に居てもよいのだと。
二人一緒なら、どんなことになってもまたきっと生きていけるのではないか――と、少しだけ思えた。
「ごめんね……」
あの日彼を連れてきたのも、彼とこんな微妙な関係になってしまったのも、全ては自分の所為だと思っている一夜は呟いた。
「謝ってチャラにするつもりかよ。まだ、『借り』は返してもらってねえぞ」
まだ近づいた距離にあるので、頭の上で源二にそう囁かれた一夜は、またどきっとさせられる。
だけど、これこそが壊された『聖域』の跡に生まれた、二人の本当の『新しい関係』かもしれなかった。
家族よりも、恋人よりも、深い、絆――。
それは一夜にとっては、今までよりも、そしてただの恋人よりもずっと確かで尊い関係のような気がしていた。ただし源二に告白されている以上、そっちの方も前向きに考えねばならないのだが……。
そう思った一夜が、午後の緊張からようやく安堵した反面、少し困ったように、いつの間にかルール違反で体を近づけてしまっていた少年を見上げると、源二は再び彼女に触れていた手に力を込めた。
「……それに、そんな信じられねーっつーんなら、一度、ほんとにしてみるか?」
「へ!?」
あの、…眼が真剣なんですけど……と、一気に一夜の体から冷や汗が吹き出る。
「ヤッたら簡単に、終わりにされるって言ったじゃねえか。それで俺のこと信じられねえんだろ? だったら、そーじゃねえって証明してやろうか?」
「……っ」
源二の顔が徐々に近づいてきた。
「そうしたら多分、嫌ってほど、分かると思うぞ。俺がどれだけ、お前のこと――…」
源二はそこで口を噤んだ。
これだけ追い求めてきたのだ。一度決壊すれば、もう最後だろう。
彼女の全てに溺れてしまい、戻れなくなる。年上で保護者のくせに、この自分に縋るであろう、そして自分だけにそのあられない姿を見せるであろう彼女をこの腕に抱けば、今以上に愛しく思い、きっともっと執着してしまうに違いない――。
しかしその瞳を見つめていた一夜は、一瞬、思ってしまった。
戻れなくなる『その先』はとても恐いけれど、本当に源二の言うとおり、『そんな証明』がなされるなら、私はどれくらい幸せだと思えるんだろうか――と。
それは今までに何回かこういう状況になって、自分も少し慣れてきたからかもしれなかった。花火の夜の出来事以上に、彼とまた新しい絆を確かめ合い気持ちが昂ぶっている今は、このまま流されてもいいような気さえしてしまっていた。――しかし、
「ちょちょちょちょちょっと待て!やっぱ、まだ早――」
『今日処女を捨てる』などと言う心の準備などなかったし、年齢的な問題もあり、やっぱり犯罪の片棒をこの少年に担がせたくないと焦った一夜が、迫る源二の胸に手を置いた時、
折り悪く家の電話が鳴った。
「………」
はっと我に返り、非常に気まずく顔を見合わせる二人。
時間も時間であり何か大事な用事かもしれない、と源二は渋々立ち上がり電話を取った。
「――はい…、…え?」
そして一夜の方を振り向くと、電話口を片手で押さえたまま不機嫌そうに受話器を渡した。
「――北條」
「え!?」
予想しない人物からの連絡に一夜は驚いたが、何か緊急の要件かもしれないと慌ててその電話を取った。
「はい――あ、はい、そうなんですか。ええ、大丈夫です。…わかりました…あ、いいです、気になさらないでください。…はい、おやすみなさい……」
しかしそれは一分ほどの短い電話だった。
受話器を置いた一夜は、背中にじとっとした視線を感じて振り向いた。
「仕事だよ! 臨職さんがひとり急に休むことになったから、明日の日曜代わりに出勤してくれって言われたの! そんだけ」
てか、こうして妬いてくれてるっぽいのも、『彼氏』だからかなあ…と思うと、恥ずかしながらそういう経験のない一夜は、またふわーっとした感覚になってしまう。
「それに、……千菜は室長のこと好きで、今、がんばってるんだって」
「……ふーん…」
少し間を置いて源二は興味なさそうな返事をした。彼にとって北條は一夜に手を出しさえしなければどうでもいい存在らしい。
「……」
また妙な間に戻り、電話の前で立ち竦んでいた一夜であったが、源二がゆっくりと立ち上がったので、びくん!と体を震わせると、
「私、明日仕事だから、もう寝る」
と早口で言い、源二の横を擦り抜けるように部屋へと入っていった。
一夜が立ち去った後、少年は無言で首筋を掻いた。
暗い部屋に閉じこもった一夜は、不思議な感覚に陥っていた。
和歌に脅され、今の生活が出来なくなり、二人が引き裂かれるのではないかという危機に晒された。寧ろそうなる前に逃げてしまおうと一夜は思っていた。
――しかしそれはされなかった。
どんなことになるか分からなかったとしても、自分と一緒に居たいなら覚悟を決めろ、自分は疾うにそれは出来ている、とたかが十七の少年に力強く言われた。
それは彼がまだ若く無鉄砲であるからかもしれないし、源二は和歌のことを自分よりも知っているので、プライドのある彼女は行動に移さないのではないか、と予測しているから、それだけ自信が持てるのであろうが。
それでも、自分の発言に責任をとらない男ではない。
嘘は言わないし、滅多なことじゃ自分の本心など口にしないし、覚悟していない空言も言わない。
言ったことは必ず実行するし、逆に実行する気のないことは絶対に口にしない男なのだ。
だからこれは、彼を疑っているのではない。彼を信じられない――本当に信じていれば裏切られても恐くないのに――自分が臆病なだけなのだ。
本当はそれだけの信頼感を彼に対して持っているのだ。あとは自分次第、なのだ。
一夜はベッドの上に座り壁に凭れた。源二が隣の部屋に入った音が聞こえた。
そして窓の外を眺めながら、あの初夏の日に北條に告白された、それまでの関係を壊すきっかけのことからを思い出していた。
北條に現実を突きつけられ、このままでいたいのに、と切なくなった時も。
可愛くて彼と同じ立場の若い和歌に嫉妬をした時も。
自分が守っていたつもりだった彼が、自分よりも先に『大人』になってしまったようで、寂しかった時も。
初めてキスをした時も。
彼がずっと前から自分を想っていたと知った時も。
怯える自分を傷つけないために、彼が家を出た時も。
それでも寂しがるわがままな自分のために戻ってきてくれた時も。
怪我をしたと聞いて、彼を失うのではないかと震えた時も。
大事な彼の想いを受け入れようと、海で滅茶苦茶な交際宣言をした時も。
初めてデートをした時も。
花火の時に触れられて、たくさんドキドキして、でも嫌じゃない、とはっきり思ったあの時も。
脅されて不安になり、自分や彼の想いから逃げ出したくなったのを叱咤して覚悟決めさせてくれた今日も。
傍に居たいなら居ればいい、自分を信じろと言ってくれた今も――。
自分はいつだって、彼に守られていた。
子供だった筈の、彼に。自分が守ってやりたいとずっと思っていた少年に。
それは恋をしたり女であることを認めない自分が、年の割に精神的に未熟だからであるかもしれないが。
いつからか、なんてもう関係ない。それでも、いつの間にか自分は彼を頼っていた。
その大きな手を求め、それがなくてはならないところまで来てしまっていた。
どこかで彼ならばきっと自分を安心させてくれると、お守りのようにいつの間にか認識していた。
だから今日だって、まだ高校生の彼を信じているから、素直に全てを打ち明けてしまった。
本当は大人として、恋人として、こんなことではいけないのかもしれない。ドラマのように一歩引いてあげることが正しい大人の女の姿なのかもしれない。
だけどそれ以前の問題で、『同じひとりぼっち』だからこそ始まった2人の特別な関係が、そんな『よくある男女の恋仲の関係』のわけはないのだ。
自分たち2人の間には駆け引きも、隠し事も存在しないし、きっとそんなことは出来やしない。一見正反対だけれど、どこか似ていて同じ方向を見ている2人は、どうしたって感情を共有しあう。
どんな常識も一般的な感覚も通用しない、彼ら独自の距離感と絆で。
こんなことでは十も上だからいつか裏切られるのではないか――という年齢を言い訳にした不安までも崩されてしまうではないか。
彼への気持ちに眼を瞑れる最後の理由までも、破壊されそうになっている。
花火の夜と、おんなじ…。触れられれば、最後、溢れ出す。
身体中から、心よりも正直に速く、かれへの想いが。
今宵もなんとか流されずに済んだ、と北條の電話に感謝すらしてしまう。やっぱり法律的によくないことだという理性は、まだ辛うじて残っている。
もしかしたら…自分の全てを晒け出すことは非常に恥ずかしいけれど、本当は『そうすること』も自分はもう嫌じゃないのかもしれない。
その先に、今よりももっと渇望することも不安になることもあるに決まっているが、それでも彼とだけ成し得るその行為の瞬間と終えた後に、今よりももっと別の意味で満たされる幸せがあるならば、
――結ばれてもいいかな。
と一夜はあの一瞬だけ、一度限り、思った。
……明日にはもう思わないかもしれないけどな、とまだそんな風に素直にならずに居たものだが。
そして、和歌がどれほど彼を脅しても、絶対に強い心で彼女を撥ね付ける源二の態度には、正直少し安心していた。だからこそ彼を信じられると思ったのだった。
彼が何を犠牲にしても、自分を選んでくれて嬉しい――ひとりの少女を不幸にし、犠牲にしても構わないと思っているのだ。
それほど、自分は彼のことを『欲しい』のだ――。
いつの間にか自分は、眼を背けてきたはずの、そんな醜い『女』に堕ちきっていた…。
そんな嫌悪感と、甘い想いに、どっぷりと満たされ、目眩がしそうなたゆたう感覚。
『恋愛感情』とは何なのか未だにわからないけれど、これら全ての気持ちを総合した結果、この胸が締め付けられるような想いを表現できる言葉は、もうこれでいいのではないかという気がしていた。
――嗚呼。だけどこうやって、どれだけたくさんあがいてみても、
もしかしなくても、私は、
アナタが好きなのかも――知れません。
……なんてなあ。
あんなガキに…何を考えとるんだ、私は……と、生まれて初めて自覚した気持ちに身体の底から恥ずかしくなる一夜だが、まるでその胸に凭れるように、隣の部屋へと繋がる壁に向けてごつんと額を当てた。
少し開いていた窓から涼しい風がすうっと入ってきた。
だけどこれは内緒の気持ち。まだ結ばれてはいけない二人だから。
言えばきっと全てが動き出す。今度こそ本当に引き返せなくなる。
約束どおり十八を超える春まで、子供の彼には内緒にしておきたい――。
この『嘘』がいつ見破られるか。
とっくの昔に目覚めているのに、彼に対してまだ狸寝入りをしている、ネムリヒメの長い夜。 |