第40話 狸寝入りの姫君(前編)
昼寝から目が覚めても、現実は現実だった。日が暮れるのが昨日よりも少し早くなったくらいだろう。赤い夕日が差し込んでいる。
彼は家で夕食を食べると言っていたので、ごはんを作って待っていてやろう。
そんなわけで一夜は、昼寝後のぼーっとした頭で夕食を作り、源二の帰りを待っていた。
食卓を囲んで今日の事件を言う機会を探していたが、今日1日頑張ってきた少年にそんな暗い話も出来ずに、他愛無い話をしてしまった。
・・・・・・・・・・
――やっぱり、言わないほうが、いいのかな……。
結局言えないまま風呂に入り、湯船の中でほっこりしながら一夜はまだ悩んでいた。
いっそ、何も言わないで彼から身を引くのも手ではないか?
そうすれば今不安に思っている将来捨てられるかもしれない心配もなくなる。何より、彼に迷惑をかけ、思い悩ませることはない。だからそれが一番丸く収まる。
それこそ変な噂を立てられても、そもそも『そういう関係』でなければもっと後ろめたさはないし、いっそこの家から自分が出て行けば誰にも何も言われない。
もうひとりぼっちが嫌だとか、そういう子供染みたことを言ってていてはいけないのかもしれない……。
そこまで考えた一夜は自分でも勝手だよな、と思った。
孤独が嫌で彼の思いを受け入れようと勝手な提案をしたのに、またそれを拒絶しようとしている。
……一体何が彼にとって本当の幸せなのだろう。
やりたいようにやればいい、と千菜は言っていた。
私は、源二は、どうしたいのだろう……。
やはり答えの出ないまま、一夜は風呂から上がった。
だが明日も源二は文化祭で学校に行く。もしかしたら既に明日には噂になってるかもしれないので、やはりこのまま何も言わないわけにもいかない。
流石に夜は少し涼しいのでキャミソールの上に男ものの大きな半袖Tシャツ(源二から拝借したもの)を羽織った格好で、風呂上りの一夜は源二が風呂から上がるのをドキドキして待っていた――が、
「今日、尾川と何話してた?」
「へ!??」
風呂上りにペットボトルの水を煽りながら、なんと源二の方から先手を打たれてしまった。
というか、彼女のことを前は名前で呼んでいたような気がするのだが、苗字でわざわざ呼んでいるのは自分に気を遣ってかな?――なんてちょっと期待してしまったことは伏せておく。
それはさておき、隣の教室の前で話していたつもりだが、
「皆本が言ってた」
やはり壁に耳あり障子に目あり…。誰かには見られているものだな、と一夜は今更ながら誰かに会話を聞かれていないかとぞっとしてきた。
そんな一夜の様子に、
「でも他のヤツらに聞かれないようにこっそり教えてくれたけど」
と源二はフォローを入れた。
一夜は今日会ったゴツいお兄さんを思い出し、彼は中々気配りの人なのか…と見直す気分になった――とか考えている場合ではない。
居間の三畳敷きの絨毯の上で風呂上りのジャージ姿で見詰め合う男女。二人にとってはよくある色気もない光景だが、内心ではせめぎ合いが始まっている。
源二はじいっと睨むように一夜の目を見た。問い正すようなそれに、一夜はぐっと押し黙る。
自分と和歌が話すことが世間話であるわけがない。しかも彼女が実はああいう激しい性格であることは、曲がりなりにも彼女と付き合っていた源二は、一夜なんかよりもずっと知っているに決まっている。
「付き合ってるって、言ったの?」
源二の声に、ぶわっと下から何かが押し上がるように一夜の顔から身体から熱くなる。千菜や和歌に指摘されるよりも、彼本人にこう言われるのが一番恥ずかしい。
「……はっきりとは、言わなかった。だって、やましいことは…、してないから」
一夜は源二から目を逸らし、大きなTシャツの裾をいじりながら、俯いて答えた。
「別に言っちまってもよかったのに」
「……って、お前、なあ!」
その言葉に一夜は思わず顔を上げた。
「バレたら大変なんだぞ!? 私仕事なくなっちゃうかもしんないし、お前も学校でいじめられるかもしんないし、ワイドショーとかくるかもしんないし!!」
最初のはともかく寧ろお前の思考自体がワイドショーだよ、と内心突っ込みながら源二は無表情のままペットボトルの水を飲んだ。
――そうは言っても有り得ない話でもない。源二はペットボトルを床にどん、と置いた。
「まーな、前にあいつに疑われた時は俺もごまかしたけど」
実際その時はまだ夏のはじめで、恋人云々の関係どころか一夜に片思いをしていた頃で――と言っても今でもそんなようなものだけれど。とにかく本人にすら打ち明けてもいないような勝算の見えない片思いを、和歌に話すことはないと思ったからであった。
「でも……その、私が?彼女、だとかははっきり言わなかったけど――、ごめん、言いふらしたいなら勝手にすれば、とかは…言いました…」
一夜は再び俯くと、そのまま「ごめん、」と頭を少し下げた。
「……」
売り言葉に買い言葉で勝手に二人分の引導を突きつけて、源二もさすがに怒るよな、と思った一夜の耳に、
「まあ、こーなりゃもう、なるようにしかならねえよなあ」
特に怒るわけでも困ったわけでもない、淡々とした声が聞こえてきた。
一夜が再び顔を上げると、源二はまたペットボトルの水を飲んでいた。そして彼を見た一夜の視線に気付いて視線を彼女に移した。
「他に言いようもなかっただろ。こんなん、他人みてえなモン同士で一緒に住むって決めた時から、腹括らなきゃいけねーことだったんだよ。そう決めた時点で、もう仕方ねえよ。お前が免職なら、こっちだって働かなきゃいけねえ覚悟くらい出来てるし」
源二は苦笑してそう言うけれど、彼のことを立派な大人になるまで、彼のやりたいように人生を歩ませてやれるよう、面倒看てやりたかった一夜はそんな仮定に思わずショックを受けてしまう。
しかし源二は落ち込んだ表情の一夜を見て、あっさりと言い放つ。
「もう考えたって仕方ねーだろ。じゃあごまかすために、どっちかが家出てく…つったって、第一ほんとにお前が免職なんてことになりゃ、金もなくなんだしさ、アパートなんか二つも借りれるかよ」
冷静に分析する源二の言葉は、非常に現実的であった。
……確かに。実際、自分は源二にとって『保護者』であるので、それこそ変な行為はしないでもらっているのだから、噂はされても罪にはならないかもしれない。
そもそも彼を大人になるまできちんと育ててやることが、何よりもの自分の責任である。とりあえずは源二がご飯を食べれる環境だけは確保し、高校を卒業出来るくらいの収入も得て、どうにか明日を生きていかなねばならないのが最重要課題だ。
説得力のある言葉に一夜はためらいがちに頷いた。
「それに……尾川もそんなにバカじゃねえだろ」
ふと呟かれた言葉に、どうせ私はバカですよー、と一夜は子供っぽく逆らいたくなるが、そんなどうでもいい嫉妬はさておき、実際そうであれば―問題は、なくなる。
「そんなコトすりゃ、余計に惨めになるだけだろーが……」
自分が彼女を傷つけたことを思い出したのか、源二は一夜から目を逸らし、苦々しそうにそう言った。
源二のその言葉から、言いふらされるかどうかの不安以前に、少女が少女自身を大事にしてくれることを信じたいと思った一夜であった。――彼女を支える周囲にもよるだろうが……。
「源二は、怒ってないの……?」
そして今までの彼の様子から、一夜は意外そうに呟いた。
「なんで怒んだよ。最初に言っただろ。家族でもねえのにこーやって一緒に暮らしてんのがおかしいコトだったんだから。それでも俺は行く当てなかったし、お前は―俺でいいとか俺じゃなきゃやだとか、この前言ってただろ。既に五年もこんなことしてんだ。それが間違ってねえと思うなら、他人に何言われようとも堂々としてるしかねえじゃねーか」
同じようなことを自分は和歌に言った筈なのに、今度は逆に源二に説き伏せられてしまった。
言葉も返せず源二を見つめていた一夜に、彼は更にむっとしたようにこう続けた。
「……もしかして、こんな関係やめちまいたいとか、この家出てくつもりだったとか、そんなん考えてたワケじゃねえだろうな…」
「――…」
やっぱり読まれてる、と一夜は絶句した。
「……だって、私がお前の前から居なくなれば、全部丸く収まるだろ?」
一夜は再び俯いて、膝の間に両手をつくと悩んでいたことをぽつりぽつりと話し出した。
「こんなオバサン、絶対数年後には捨てられるんだし、たとえ本当の恋人になったって、きっとしちゃったら、はい、それまでになるんだし、これを機会に夢みたいなこと言ってないで、いい大人なんだから若者の世界から手を引くべき―」
「――」
一夜が己の迷いを吐き出した瞬間、突然左の上腕を大きな手にがっと掴まれ、自動的に彼の方を見上げさせられてしまった。
「痛…い…っ」
驚きとその痛みと、彼が自分に触れたことに、また身体中がびくんと反応する。
「腹立つなあ。大人とか子供とかじゃねえだろ。じゃあお前はなんであん時、俺じゃなきゃヤだとか言ったんだよ。なんで付き合おうなんて言ったんだよ。テメーが恐いからって逃げんな!」
「……」
千菜が『正論は耳に痛い』と言ったが、全くそのとおりである。源二はこうしていつも筋の通ったことを言う(少々短気で口の悪いことはあっても)。
だからいつも何も言い返せなくなるのだ。言い返すとしたら、もう意味のない言い訳でしかなかった。
「――でも…源二に迷惑かけたくな…」
「別に構わねえよ! それが嫌ならなんでお前のこと好きなんて言うんだよ。お前のイメージの中の男がどーだか知んねえけどなあ、俺がそんなことも考えねーでお前に手ぇ出そうとしたと思ってんのかよ!」
「……」
自分を信じて欲しいと思っているくせに、源二のことは信じていないというような自分の言動に、彼は腹を立てている――と一夜にも理解できた。
だが、この自分の不安をどう表現してよいか分からない。下手に言えば彼を誤解させてしまうし……。
困った一夜は何も言えずに、ただ首を横に振った。
しかしそこで、自分の腕を掴んでいた少年の手の力がふっと弱まった。
「……それとも、俺じゃなきゃ嫌だっつったのは、そんなに、軽い気持ちだったのかよ……」
源二のその声は、どこか絶望したようなもので、一夜は、はっとした。
それこそ、大事な子供に、いや大人とか子供とかじゃない、『源二』にそんな思いをさせたくないと思い続けていた筈だったのに!
今の彼は自分が出会った日と同じような、暗くて孤独な眼をしていた――。
「――違う!それは、違うっ」
一夜は慌てて否定した。
それだけは、違っていた。
あの日、海で自分が告げた言葉はきっと少年には重いものだと思っていた。まさか、彼がその言葉をこんな風に受け止めているとは思っていなかった。
彼にもう二度とこんな顔をさせたくなくてあの日、連れ出したのに。
源二が消えてしまいそうな気がして、一夜は思わずその胸のTシャツを両手で握り締めていた。
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