第3話 酒は飲んでも飲まれるな
「あ、今週の金曜、飲み会だから夕飯要らない」
春が終わり、初夏の六月。夕食後、修学旅行のおみやげのもみじまんじゅうを頬張りながら、一夜は片付けをしている源二の背中に声を掛けた。夕飯は当番制にしている以上、それを知らせ合うことは二人にとって重要なことである。
濡れた台所周りを拭き、片付けを終えた少年は、その言葉に一夜を睨み付けるようにぐるりと振り返った。
「前回みたいな失態はすんなよ……」
その釘を刺すような一言に、一夜はあははーと乾いた笑いを浮かべる。
前回は五月の頭に飲みに出掛けた一夜。愛想はそれほど良くない癖に、酒が入るとやたら陽気になってしまう彼女は調子に乗って次の店次の店へと行き、最後にはへべれけになって帰ってくる。
しかも途中で酔い潰れるほど弱くはなく、さりとて二日酔いにならないほど強くもないからして、際限なく飲んでは次の日に後悔すると言ったパターンであった。それでも酔い潰れて寝てしまったり、記憶がなくなったり脱ぎ上戸になるなどといった癖があるわけではないのが、まだ幸いと言えば幸いだった。
その時は親しい友人たちと飲んだようで、タクシーで帰ってくればよいものの、お金がないと歩いて帰ってきた結果、家の近くまで来たところで疲れたとほざき、午前零時に源二は一夜に迎えに来いと呼び出された。
そして付き添っていた彼女の友人の千菜に頭を下げ、この馬鹿女を半ば担ぎながら彼は帰ってきたのであった。
連れて帰ってもらっているくせに、もっと優しく運べ等々悪態を付く女に辟易としながらも、それでも布団にぶちこんでやり、胃薬や何かを甲斐甲斐しく用意してしまうのは最早彼の習性とも言えよう。
ちなみに次の日の土曜日に、一夜が源二から散々説教を食らったことは言うまでもない。
「昔はそうでもなかったんだけどなー。やっぱ二十五過ぎると変わるよなー」
居間の小さなソファに座り腕組みをして頭を振る一夜に、
「それって歳ってことだろ」
ぼそりと呟いた少年の声が聞こえ、間髪入れずに手元のクッションが源二の頭に飛んできた。
「……とにかく、気をつけろよ」
落ちたクッションを拾い上げながら保護者のように言う少年の言葉に、一夜は「へーい」と子供のように返事をした。これではどちらが大人か分からない。
これだけ駄目な大人だと思ってもそれでも彼が彼女を見捨てておけないのは、やはりあの日、孤独に突き落とされた少年へと差し伸べられた手に、彼が心から救われてしまったからに他ならなかった、きっとあの手の為ならば、無償で何でもしてやりたいような気にさせられてしまうのだろう。
それは、言い換えれば――……。
「って、ゴミ捨ててけ!アホ!」
そんな源二の甘い感傷も、食べたお土産の片付けもせずにさっさと風呂へ向かうようなぐうたら女を怒鳴っている内に、いつも消えてしまうのであるが。
・・・・・・・・・・
そして迎えた金曜日の夜――。
「そーなんですよ! 室長! 文科省とか厚労省とかゆってる場合じゃ……」
今日は急に辞めることとなった臨時職員の送別会であったが、既に一次会は終わり主賓も家に帰っており、二次会以降は一夜を含めた少数で飲んでいた。
相変わらず飲んでいつもよりもお喋りになった一夜は、室長の北條にも仕事の愚痴のような意見のような話を絡むようにしている。だが失礼なほどの態度でもないので、北條もゆっくりとウィスキーを口にしながら、頷いて話を聞いていた。
彼は昨年から世話になっている上司であるが、あまりじっくりと話す機会はない。しかし管理職としては若いが的確な指示を出してくれ、困った管理職の中年が多いあの職場の中では『当たり』であると一夜たちも思っていた。現にこうしたオフの時間でも仕事の話を根気よく聞いてくれ、途中で余分なことを言うでもなく、時折納得できる相槌を打ってくれる。
女の習性だろうか、酔いながらも何処か冷静にこの男を観察していた一夜は内心感心していたものであった。
……そんな風に冷静でいられたのも、二次会までであったが。
午後十一時半過ぎ。三次会が終わった後、残っていたのは一夜と北條、そして同僚の若い男二人と歳のいった臨時職員の女性の五人であった。千菜は遠距離恋愛中という恋人が突然来たからと言って、一次会で今日は帰ってしまっている。
北條と珍しく話が合い、仕事上のちょっとした鬱憤も解決できそうな気がしてきた一夜は非常に機嫌よく飲んでおり、酩酊状態となっていた。
量としてはかなり飲んでいる筈なのだが一糸乱れていない北條は、解散後、若い男二人は更に夜の街に消えていくらしいことを察し、臨時職員の女性は彼女の夫が迎えに来ることを確認してから――、
「歩くうちに酔いも醒めると思うんで、歩いて帰りますー」
などとぬかして一人でふらふらと歩き出そうとする、もう二十七と言ってもまだ嫁入り前の若い女……一夜の首根っこをがっしと掴んで言った。
「――鎌田は俺が送っていく」
・・・・・・・・・・
「いやいやいいです、ほんと、いーですから」
残りの三人が居なくなった後の店の前で、酔いどれ一夜は何度も首を振った。振るたびに酔いが更に回ってしまう気もするのだが。
「タクシーも呼んだ。大人しく待っていろ」
その体が車道に出ないことだけを見張りながら、諭すように北條は言う。
「タクシーなんてお金掛かるしいーです」
「俺が払うからいいだろう」
「だったら尚更申し訳ないです。室長だけ乗ってってください。私はいーです」
「気にするな」
「借りは作りたくないんです」
「……」
酔っていても自分に向けられる真っ直ぐな眼差は、変わらない。一夜をまじまじと見返した後、北條はふっと笑った。
「……なんですか?」
「鎌田らしいな」
北條の笑顔の意味が一夜には分からなかった。なのでそれ以上は突っ込まずに、なんとか借りを作らないでおこうと北條に言った。
「ひとりで帰るのが駄目なら、迎えを呼びますから」
「迎え……?」
北條の視線が鋭くなったことにも気付かず、一夜は軽い調子で答えた。
「『弟』、ですよー」
そういう内にも一夜は携帯電話を取り出して、あの少年に電話を掛けていた。
『……何だよ』
電話に出た源二は非常に不機嫌そうな声をしていた。
「迎えに来て」
『今何処にいんだよ』
「んーと、駅前の公園の近くのお店の前ー」
『……ってホントーにお前は学習能力がねえな』
「えー今日はちゃんとひとりでも歩いて帰れるよー。でも室長がひとりで帰るの危ないからダメだって……え? 大丈夫、まだひとりじゃないよ。室長も一緒にいるもん」
と源二といつものように話していたところ、突然北條に電話を取り上げられた。
「ちょ……、室長?」
自分よりも頭ひとつ分背の高い男を見上げ、その電話を取り返そうとした一夜だが、それは大きな手によって軽く制された。
「お世話になってます。一夜さんの職場の上司の北條と言いますが、」
『……』
電話の向こうの主から不審そうな空気が伝わる。
「彼女は今からタクシーで責任持って家まで送ります。……君もまだ高校生なんだろう。こんな時間に、外に出るべきではないよ」
人づてに一夜の家族構成について聞いたことがあった北條は、穏やかではあるが低い声で源二に言い放つ。それを眼を白黒させて聞いていた一夜に、彼は電話を戻した。既にそれは切られた後だった。
「あ、あの……」
突然のことだったが、確かに自分は酔っていて判断力は危ういし、北條の言うことも正論だった。一夜はどう言ったらよいのかわからず、ただ北條を見上げた。
「今言ったとおりだ」
一瞬仕事中と同じ厳しい眼になって彼が一夜を見た時、やってきたタクシーが二人を照らした。
タクシーの中は無言であった。
……室長は、大人だなあ……。
窓の外を見ながら一夜はぼんやり思っていた。こんな風に高校生に夜中迎えに来させるは、飯を作らせるは肩を揉ませるわ……。馬鹿で幼い自分とは全然違う、大人の男だ、と。
ワイシャツから隣までふわりと漂う、汗臭い源二とはまた違う香り。微かに香水でもつけているのだろう。
自分の馬鹿さ加減に一時反省していた一夜であったが、酔っていないつもりが車の振動で再び酔いが回ってきてしまった。そのため自宅のアパートに着く頃には、眠いやら気持ち悪いやらで、一夜の足は覚束なかった。それを支えながら北條は彼女を部屋まで連れて行った。
北條がインターホンを押すと、直ぐに一人の背の高い少年が出てきた。その北條を確認した瞬間、彼を鋭く睨み付けた――かと思った源二だったが、
「だから気をつけろっつっただろーが! このアホ!」
直ぐに北條の腕の中にあった女の体を引っ張ると、その耳に第一声を怒鳴りつけた。
「うるさいなあ……。あー、室長、ありがとうございました……」
一夜は煩わしそうに首を振ると、源二の腕を振りほどき、北條に頭だけは下げた後、家の中にふらふらと入っていった。それを舌打ちをして見送った源二は、
「じゃあ、俺はこれで」
と手を上げて去ろうとする北條を再びぎろりと睨み付け、ずい、と千円札を二枚突き出した。
「――タクシー代です。……『姉』がお世話になりました」
お礼を言っている割には、何故か初対面の自分に敵意を剥き出しにしている少年の鋭い視線をしっかりと受け止めた北條は、札を握り締めた自分と変わらないくらいの大きな手を軽く押し返して、ふっと笑った。
「これは、いいよ」
すかさず何かを言おうとした源二であったが、流石年の功――と言うべきか、北條の言葉の方が早かった。
「似てない……姉弟だね」
「――!」
その言葉に思わず不覚をとった源二が絶句してしまった間にも、北條は「鎌田の介抱よろしく」と一言言い残すと立ち去っていった。
そして彼は待たせておいたタクシーに乗り、自宅へと向かった。
酔いもすっかり醒めた気分だった。北條は窓に頬杖をつき、何か得心したような表情で、ひとつ軽いため息をついた。
突然現れた男に言いようのない怒りと焦りを覚えた源二であったが、今はどうにも出来ない。
乱暴にドアを閉めると、居間で「ぎもぢわるいー」などとのたまい、ぐったりと横になっている諸悪の根源の駄目女に、それでも胃薬と水をテーブルの上に置いてやると、
「だから言っただろうが! テメーはもう二度と酒飲むな!!」
……etcと苛立ちのままにいつも以上に長く厳しい説教をしていたのだが、彼女が途中で寝てしまったが為に、その続きは明日へと持ち越されたのであった。
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