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  ネムリヒメ。 作者:takao
第6章
第38話 しのぶれど…(4)
 周囲のざわめきが遠のいていく。
 一夜は己を脅そうとしている和歌の顔を、じっと見た。凍りついた無表情の日本人形。今にも壊れそうなほど不安定なそれは、正直怖いほどであった。
 しかしどうにか心を落ち着かせ、しばし沈黙を置き、冷静に和歌に言われた言葉を考える。
 淫行条例違反ではないかということを盾に、この少女は自分を脅そうとしているのだろう。愛していた男を奪った自分を許せないのだろう。こんな風にまだ十七の子供を追い詰めたのは、大人である自分であると、一夜にも自覚はある。
 子供を守る職にありながら、確かにそれは恥ずべき行動だ。どれだけ深い想いが源二との間に生まれていても、保護者である一夜と源二とたとえ今すぐ婚約したとしても、それが正論だ。

 ――ならば、どうすればいい?
 もし彼女がひとたび口を開けば、源二はどうなる、自分はどうなる?
 好奇の目に晒され、影口を叩かれ、その結果、人の輪から外され避けられていくだろう。それが現代社会のよくある縮図。――そしてそれは、とても惨めで辛いことだろう。
 耐え切れなくなって仕事を辞めたくなるかもしれない、または解雇を言い渡されるかもしれない。今の家に住んでいても噂が広がり、いたずらなどされたり――ああ、ワイドショーなんかも押しかけてくるしれないな。
 ――じゃあ、どうする?
 一夜は自問自答する。
 ――彼を、諦めればそれで解決するのか? でも……。
 そんなことになれば、想像するよりもきっとずっと苦しく、死にたくなるくらい辛い思いをするかもしれなかった。気が狂うかもしれないし、何より源二を孤独に突き落としたり、そんな思いをさせたくない。
 それに一夜は彼と生きてきたことに、一度も後悔したことはない。これからもずっと一緒に生きていたいと思ったこと、そのために大人になりゆく源二の想いを少しずつ受け入れようと考えたことは、間違っているとは思えない。

 そう思った瞬間、一夜の心にすうっとひとつの覚悟が出来た。何処からか力が漲り、度胸がつく。それと同時に静かに沸き起こるのは……怒り、であった。己を脅かそうとする見えない力に対しての。
 それは久々に抱いた感情だった。
 父親と性格の不一致で別れた一夜の母親は、非常に気丈な女であった。
 一夜が女らしくなくとも、礼儀以外に細かいことはあまり言わない。義理や人への配慮は大切にするが、己を強引に脅かすものにまでは迎合しなくて構わない、己の信条だけは貫け、己を大切にしろ、ということだけは常に厳しく言われてきた。
 女手ひとつで自分を守ってくれた母親のことを、一夜は尊敬しており、彼女が亡くなり一人きりになってからも、そのように今まで生きてきた。
 だから源二のこと以前の問題で、どうしても己の行動や信条を脅かそうとする行為に屈服することは出来ない――と一夜は思ったのだった。これこそ一夜が頑固者だと言われる所以であるが、そうでなければ自分は自分で居られないと思うほど、彼女はそれを信じていた。
 その結果、己を脅かす力に対し静かに怒りを露わにしていったのだった。

 決して和歌が憎いわけでなく、寧ろ己の所為でこんなことを言わせているのは申し訳ないと一夜も心から思っている。
 しかしその「脅す」というやり方には、ずぼらでも干物でも自分が悪くても、どうしても頭を下げたくないと思った。寧ろ生粋の面倒臭がりとしては、こんな子供の言う事に踊らされること自体面倒臭いと思っているのかもしれない。
 この信条こそが一夜が女ひとりでも逞しく真っ直ぐに、恥じることなく生きてこれた底力であったのだが――。
 一夜はこのふつふつと湧き上がる怒りの中で、驚くほど冷静に次の言葉を口にした。
「……それを聞いて、どうするの?」
「――」
 うろたえるどころか、強い眼差で自分の眼を見据えて答える一夜の迫力に、和歌は思わず押し黙った。

「私が、『誰にも言わないでくれ』って言えばいいの? そして、源二とは絶対に付き合わないって言えばいいの? それをしなければ、あなたは私の職場に私がそういうことをしているって言いふらすの? それによって、あなたを裏切った源二も追い詰められてしまえばいいと思っているの?」
「……」
「確かに、あなたをそこまで追い詰めたのは源二だ。きっとあいつもそれは分かっているよ。私だって大人なのにそれに加担している。だから、あなたがそうしたければ……そうすればいい」
 眼を泳がせていた和歌は、はっとして一夜を見上げた。
「あなたが私たちが悪いと思うなら、どうにでもすればいい。――こっちは何もやましいことなんて、していない」
 キスしてしまったことやお試しの「恋人」同士であるということなど、ニ人しか知らない秘密は全部棚に上げているが、それでも源二は当然抱くはずの性的な欲望を、全部押さえ込んでいる。
 それは一夜の気持ちを尊重するために、一夜の立場を守るために、ニ人の空間を他人に侵害されないために、なのだ。彼のその努力は決して無駄ではないと思いたい。
 そこまでしてくれる源二に対し、胸が締め付けられるくらいの感謝と敬意があるからこそ、そんな彼を誰よりも守りたいと思うからこそ――今の一夜の視線は、何者も撥ね付けてしまう強さを持っていた。

「私なんて、確かに駄目な人間だよ。だらしないし、面倒臭がりだし、あの子を立派な人間にしようだなんて大それたことはできない。そもそも私なんかに、あの子を引き取って保護する資格なんてなかった。――それでも、あの子は私にとって大事な子供なんだよ。子供らしく自由に生きて欲しいし、胸張って社会に出れる大人になって欲しい。だから私も、あの子に恥ずかしいような、そんな行動だけはとりたくないんだ」

 結果的に、言いふらされることで一夜の所為で源二を苦境に追いやり、彼を苦しめてしまうかもしれない。それでも、心を折りたくなどなかった。
 ――そうするくらいなら、私が周囲の罵声を浴びてやる。その風評や軋轢の中で、背筋を伸ばして立っていてやる。
 それが「一夜」という女性だった。それが彼女というものを存立させている根幹であった。
 逆にこういった気質については、源二でさえも不可侵のものなのだ。実際、源二は彼女のそんな姿に憧れて今まで生きてきたのだが、一夜はそこまで気づいていない。
 だが一夜にしても、もし源二が彼女のこの決断をしのごの言うような男であれば、おそらくここまで彼のことを手放したくないと思わない。
 源二には悪いがそれでも自分を信じて欲しいし、信じてくれると思いたい――。

 そこまで覚悟を背負って言い切る一夜に対し、子供の和歌が口を開けるわけないだろうということは、彼女の熱くなってしまった頭の隅で冷静に判断された。そして案の定、和歌は真っ青な顔をして口を噤んでいる。
 ――当たり前だ。切り抜けてきた場数が違う。たとえ恋愛経験はなくとも、自分の身や信条を犯すような危険から己を守り続け、そうしないで身を立てる努力を最大限してきたのだ。……ずっと一人で。
 乾いた心を持ち、何にも執着せずに来たのは、その結果、誰かに頼ってしまったり、誰かを求めて心を乱されるのが恐かったからだ。余計に寂しくなりたくなかったからだ。
 もしかしたら、途中でくじけていたかもしれないところ、五年前に同じような眼をした源二に出会った。彼と共に過ごし、彼を守ろうと思ったことで、また強くなれた。――源二に救われていたのは、一夜の方であったのだ。

 だから彼女は、あの孤独に突き落とされた日ほど辛い日などないと思っている。
 「ひとり」でないならば、どんなことでも耐えられると思っていた。

 そこで一夜はふっと身体の力を抜き、我に返って考える。
 ――自分の信条は侵されたくないし、脅されることも許せないにしても、子供を大人気なく傷つけるのは如何なものか、と。
 本当は源二は同世代の和歌に譲るべきではないのか? 年甲斐もなく男子高校生と恋人ごっこなどしていないで、現実を見て身を引くべきではないのか?
 それに今度は自暴自棄になった和歌が、変なことをするかもしれない。そう考えると一夜は別の恐怖を感じるが、今自分が言った言葉は絶対に取り消したくなかった。真面目で頑固な彼女にとって、それは自分や源二の存在を否定するのと同じだと思っているからだった。
 だからと言って、和歌が非行に走ったり自殺などしては困る。だったら源二には彼女の傍に居てもらうのがよいのか――?
 源二の考えも聞かず、一夜はそんな心配をし始めた。
 だが今の一夜がそう提案しても、和歌はそれを受け入れられないだろう。それこそ彼女のプライドをズタズタにしてしまう。
 しかしここで何も言い返すことなく、一夜の言葉を噛み締めているような彼女は、やはり源二と付き合っていただけある。その辺の女子高校生よりもずっとしっかりした賢い子だろう、と一夜は思った。――だから思わず、ぽつりと呟いた。
「……本当は、あなただって、わかってるんでしょう」
 ――どんなことをしても、もう何にもならないことは。どんなことをしても、あの意思の強いひたむきな男は、一度決めてしまえば手に入らないことは。

「……」
 和歌は血の味がするほど、唇を噛み締めていた。
 そして彼女は、違う――と思った。このひとは根本的に、違う、と。
 自分のような子供とはまったく違う。源二に対して抱いている感情の種類が違うのだ。ただのいやらしい恋心や性欲を抱いているように追求した自分を、和歌は恥じていた。
 そしてこの女性が源二のことをどう思っているかに関わらず、彼は彼女のこういうところに惹かれてやまないのだろう。和歌が源二にどう思われていようと、未だ惹かれているように。
 あの両親のいない少年が欲しいのは、己のようなただの「彼女」という役割だけの「女」ではない、こんな風に、彼を包み込むように思ってくれる人なのだろう。と先ほどの源二の表情を思い出した和歌は、今、嫌というほど実感させられていた。

 そして和歌は、そのまま何も言わず……きっと口を開けば涙が零れたであろうから、踵を返して廊下を走り去っていった。

 一夜はそれを追いかけなかった。出来るわけもなかった。言う言葉など何もないのだから。
 ――恋なんてやっぱり煩わしい。人とこんな風に争い、一生忘れられないほど、深く深く傷つける。そんなことならしたくない。そんな恋なら欲しくない。
 だがそれは一夜が望む望まないに関わらず、源二と男と女として一緒に生きていきたいと望んだ以上、どうしても生じる障害なのであった。傷ついた和歌が、たとえこれからどんな恐ろしい行動に出たとしても。たとえ、彼女の周囲の人々に永遠に恨まれたとしても。
 傷つけておいて言う言葉ではないが、これは和歌の経験であり、人生の一部となっていくものである。子供たちにはいつだって笑顔でいて欲しいと願う一夜だが、この先については力を貸せることではない。

 どうすればよかったのか、分からなかった。
 ――あの子を傷つけてまで、源二とこんな関係を続けていていいのだろうか。
 不安は募るが、あの源二を選んだ和歌である。取り返しのつかないことはしないだろう、ということを今は信じるしかない。
 一夜は深い深いため息をついた。
 ふと彼女が疲れた顔を上げると、そこにはカップに入った飲み物を二つ持った千菜がとても心配そうな顔で立ち竦んでいた。
 


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