第38話 しのぶれど…(4)
周囲のざわめきが遠のいていく気がした。
一夜は己を脅そうとしている少女の顔をじっと見た。凍りついた無表情の日本人形。今にも壊れそうなほど不安定なそれは、正直怖いと思った。
「……」
しかしどうにか心を落ち着かせ、しばし沈黙を置き、冷静に和歌の言葉の意味を考える。
淫行条例違反を盾に、この少女は自分を脅そうとしているのだろう。愛していた男を奪った自分を許せないのだろう。こんな風に、まだ十七の子供を追い詰めたのは、大人である自分だ。
子供を守る職にありながら、確かにそれは恥ずべき行動だ。どれだけ深い想いが源二との間に生まれていても、それが正論だ。
――ならば、どうすればいい?
もし彼女がひとたび口を開けば、源二はどうなる、自分はどうなる?
好奇の目に晒され、影口を叩かれ、その結果、人の輪から外され避けられていくだろう。それが現代社会のよくある縮図だ。――そしてそれは、とても惨めで辛いことだ。
耐え切れなくなって仕事を辞めたくなるかもしれない、または解雇を言い渡されるかもしれない。
今の家に住んでいても噂が広がり、いたずらなどされたり――ああ、ワイドショーなんかも押しかけてくるしれないな。
――じゃあ、どうする?
彼を、諦めればそれで解決するのか?
……だが……。
確かにそんなことになれば、それはきっと想像するよりもずっとずっと苦しいことで、死にたくなるくらい辛いことなのだと思う。気が狂うかもしれないし、何より源二にそんな思いをさせたくなかった。
――だけど、それでも彼と生きてきたことに、一度も後悔したことはない。
これからも一緒に居たいと思ったこと、そのために、恋をすることは今もまだとても怖いけれど、彼の想いを少しずつ受け入れようと考えたことは間違っているとは思えない。
そう思った瞬間、一夜の心にすうっとひとつの覚悟が出来た。何処からか力が漲り、度胸がついた。
それと同時に静かに沸き起こるのは――…、怒り、であった。
己を脅かそうとする見えない力に対しての。
それは久々に抱いた感情だった。
父親と性格の不一致で別れた母親は、非常に気丈な女であった。
自分が女らしくなくとも細かいことは何も言わず、義理や人の輪は大切にするが、己を強引に脅かすものにまでは迎合しなくて構わない、己の信条だけは貫け、己を大切にしろ、ということだけは常に厳しく言われてきた。
女手ひとつで自分を守ってくれた彼女のことは尊敬していたし、その言葉に間違いはないと一夜は思っていた。彼女が亡くなりひとりぼっちになってからも、そのように今まで生きてきた。
だから源二のことが好きかどうか以前の問題で、自分だけでなく源二も辛い思いをしてしまうかもしれないと分かっていても、どうしても己の行動や信条を脅かそうとする行為に屈服することは出来ない――と一夜は思った。これこそ一夜が頑固者だと言われる所以であるが、そうでなければ自分は自分で居られないと彼女は信じていた。
その結果、己を脅かすモノに対し、彼女は静かに静かに怒りを露わにしていったのだった。
別にこの少女が憎いわけでなく、寧ろたこんなことを言わせているのは、自分の所為であるので申し訳ないと思っている。
しかしその『脅す』という卑怯とも言えるやり方には、ずぼらでも干物でも自分が悪くても、どうしても頭を下げたくないと思った。寧ろ、生粋の面倒臭がりとしては、こんな子供の言う事に踊らされること自体面倒臭いと思っているのかもしれなかった。
この信条こそが一夜が女ひとりでも逞しく真っ直ぐに、恥じることなく生きてこれた底力であったのだが――。
一夜はこのふつふつと湧き上がる静かな怒りの中で、驚くほど冷静に次の言葉を口にした。
「――…それを聞いて、どうするの?」
「――」
うろたえるどころか、静かに、そして強い眼差で自分の眼を見据えて答える一夜の迫力に、和歌は思わず押し黙った。
「私が、『誰にも言わないでくれ』って言えばいいの? そして、源二とは絶対に付き合わないって言えばいいの? それをしなければ、あなたは私の職場に私がそういうことをしているって言いふらすの? それによって、あなたを裏切った源二も追い詰められてしまえばいいと思っているの?」
「……」
「確かに、あなたをそこまで追い詰めたのは源二だ。きっとあいつもそれは分かっているよ。だから、あなたがそうしたければ――、そうすればいい」
眼を泳がせていた和歌が一夜を見上げた。
「あなたが、私たちが悪いと思うなら、どうにでもすればいい。――こっちは何もやましいことなんて、していない」
キスしちゃったとかキスマークつけられたとか、お試しの恋人同士とか2人しか知らない秘密は全部棚に上げているものの、それでも源二は彼の性的な欲望を全部押さえ込んでくれている。
自分の想いを尊重してくれるために、自分の立場を守ってくれるために、2人の空間を他人に侵害されないためにだ。彼のその努力は決して無駄ではないだろう?
そんな風にしてくれる彼に対し、胸が締め付けられるくらいの感謝と敬意があるからこそ、そんな彼を誰よりも守りたいと思うからこそ――。今の一夜の視線は、何者も撥ね付けてしまう強さを持っていた。
「私なんて、確かにそんな風に疑われるような駄目な人間だよ。だらしないし、面倒臭がりだし、あの子を立派な人間にしようだなんて大それたことはできない。そもそも私なんかに、あの子を引き取って保護する資格なんてなかった。――それでも、あの子は私にとって大事な子供なんだ。胸張って、社会に出れる大人になって欲しい。そのためにも、どんなどうしようもない私でも、あいつに恥ずかしいような、そんな行動だけはとりたくないんだ」
結果的に、言いふらされることで源二を苦境に追いやり、彼を苦しめてしまうかもしれない。それでも、心を折りたくなどなかった。
そうするくらいなら、周囲の罵声を浴びてやる。その風評や軋轢の中で、背筋を伸ばして立っていてやる。
それが『一夜』だった。それは源二を想う以前に、彼女を存立させている根幹であった。
逆にこれについては、彼でさえも不可侵のものであるのだ。実際、源二はあの夕暮れの中、それに惹かれて彼女の手を取り、そんな姿に憧れて今まで生きてきたのだが、一夜はそこまで気づいていない。
だが、もし彼が自分のこの決断をしのごの言うような男であれば、自分はここまで彼のことを意識しない。源二には悪いが、それでも自分を信じて欲しいし、信じてくれると思いたい――。
そこまで覚悟を背負って言い切る自分に対し、子供の和歌が口を開けるわけない、と熱くなってしまった頭の隅で一夜は思っていた。そして案の定、和歌は真っ青な顔をして口を噤んでいた。
――当たり前だ。切り抜けてきた場数が違う。たとえ恋愛経験はなくとも、自分の身や信条を犯すような危険から己を守り続け、そうしないで身を立てる努力を最大限してきたのだ。
乾いた心で何にも興味を持たず、何にも執着せずに来たのは、それにより誰かに頼ってしまったり、誰かに干渉されたり心をかき乱されるのが恐かったからだ。そうすることで孤独のままであったが、寂しさに負けず己を見失わないようどうにか保って生きてきた。
もしかしたら途中でくじけていたかもしれないが、五年前に自分と同じような眼をした少年に出会った。彼と共に居られることで、彼を守ろうと思ったことで、また強くなれた。―源二に救われていたのは自分の方だったのだ。
そんな自分は、あの孤独に突き落とされた日ほど辛い日などないと思っている。だからひとりぼっちでないならば、どんなことでも耐えられると思っていた。
――だが、そこまで言い切り、ふっと一夜は身体の力を抜く。
自分の信条は侵されたくないし、人を脅すことは人として許せないことにしても、子供を大人気なく傷つけるのは如何なものか。
本当は源二は同世代の和歌に譲るべきではないのか?
年甲斐もなく男子高校生と恋人ごっこなどしていないで、現実を見て身を引くべきではないのか?
きっと彼女はこんな風に更に傷つけられたことを一生忘れないだろう。たとえ源二を諦めても、今度は自暴自棄になった彼女が変なことをするかもしれない。
そう考えると一夜は新たな恐怖を感じたが、今自分が言った言葉は絶対に取り消したくはなかった。真面目で頑固な彼女にとって、それは自分や源二の存在を否定するのと同じことだと思っているからだった。
だからと言って、彼女が非行に走ったり自殺などしては困る。だったら源二に彼女の傍に居てもらうのがいいのか――?
源二の気持ちはさておき、一夜はそんな心配をし始めた。
だが自分がそう提案しても、今はもう、和歌はそれを受け入れられないだろう。それこそ彼女のプライドをズタズタにしてしまうだろう。
しかしここで何も言い返すことなく、一夜の言葉を噛み締めているような彼女は、やはり源二と付き合っていただけあったというか、その辺の女子高校生よりもずっとしっかりした賢い子だろう、と一夜は思った。
――だから思わず、ぽつりと呟いた。
「……本当は、あなただって、わかってるんだろう」
どんなことをしても、何にもならないことは。
どんなことをしても、一度決めてしまった、あの意思の強いひたむきな男は、手に入らないことは。
「……」
和歌は血の味がするほど、唇を噛み締めていた。
――違う―と思った。このひとは根本的に、違う、と。
自分のような子供とはまったく違う。彼に対して抱いている感情の種類が違うのだ。源二に対し、ただのいやらしい恋心や性欲を抱いているように追求した自分を、和歌は恥じていた。
そしてこの女性が彼のことをどう思っているかに関わらず、――それは自分が源二にどう思われても彼に憧れ追い求めたように――、源二は彼女のこういうところに惹かれてやまないのだろう。
あの両親のいない彼が欲しいのは、自分のようなただの『彼女』という枠の『女』ではない、こんな風に自分を思ってくれる人なのだろう、と先ほどの少年の表情を思い出した和歌は、嫌というほど実感させられていた。
そのまま少女は何も言わず……きっと口を開けば涙が零れたであろうから、踵を返して廊下を走り去っていった。
一夜はそれを追いかけなかった。出来るわけもなかった。
言う言葉など何もないのだから。
恋なんてやっぱり煩わしい。人とこんな風に争い、人も自分も一生忘れられないほど、深く深く傷つける。そんなことならしたくない。そんな恋なら欲しくない。
だけど自分が望む望まないに関わらず、彼が自分に好意を抱いてくれた以上、男と女である自分たちが一緒に生きていきたいと望んだ以上、それはどうしても生じる障害なのであった。
たとえ、一生分の傷を少女につけ、彼女がこれからどんな恐ろしい行動に出たとしても。たとえ、彼女や彼女を愛する者に永遠に恨まれたとしても。
それにこの先は、彼女の経験であり、人生の一部となっていくものである。自分なんかの作用するところではない。
そりゃ勿論、子供たちにはいつだって笑顔でいて欲しい、というのが大人としての理想だが……。そう出来ない状況を作った原因が、自分の存在と望みにあったのだが……。
どうすればよかったのか、分からない。あの子を傷つけてまで、自分はこのまま源二とこんな関係を続けていていいのだろうか。
不安は募るが、あの源二を選んだ頭のよさそうな少女である。取り返しのつかないことはしないだろう、ということを今は信じるしかなかった。
一夜は深い深いため息をついた。
ふと、疲れた顔を上げるとそこにはカップに入った飲み物を二つ持った千菜がとても心配そうな顔で立っていた。
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