第22話 茨(後編)
自分は一体『何』が欲しいのか?
鈍感で乾物でだらしない一夜だが、一番最初に出会ったあの日、本当は自分が『救い』を心から切望していたことを、同じ『ひとりぼっち』である彼女だからこそ察し、自分に迷いなく手を差し伸べてくれた。
その時の例のように、時々どきっとするくらい鋭いことがある。
それは彼女自身が繊細だからこそ、そういう人の心の細部まで分かってしまうのだろう。実際、その部分に自分は惹かれていた。
そんな繊細な一夜のことだ、そして恋愛に、男にトラウマがあるのだ。自分が欲望のままに彼女の心と身体を無理矢理壊せば、その先どんなことになってしまうのか、予測できないほど源二は馬鹿ではなかった。
そしてその全てが壊れた後に、それでもそれを覆せる自信があるほど、社会的にも精神的にもまだ成熟していないという自覚も、悔しいけれど少年にはあった。
それこそ高校生としてみたいなどという性的な欲求があるならまだしも、あの恋愛を厭うところすらある彼女が真に欲しいならば、自分が子供であるうちは絶対に相手にされないだろう。
立場的にも、精神的にも強くならないと、彼女を守れるほどにならないと、絶対に自分を欲してはもらえない。
それは長年の付き合いからそう直感していた。
つまりそのためには、今この年代の少年が当然抱くこと、望むこと、全ての自然な感情を、たったひとつの欲しいもののために殺さなくてはいけないのだ。
――それを、このたったひとりの人間のために俺は出来るのか?
深い闇の中で、抱き続けていた命題。
その中では、一筋の光も見えなかった。
五年前に見た淡い光だけを眼の裏に残像として焼付け、その光を守りたくて、それだけを求めて、茨の中でただ足掻き苦しんできた。
そんな自分の隣を歩き、何も知らずに幸せそうに笑う少女。最も傍に居て欲しいのはこの女ではないのに。それでも和歌は、どうやらこんな自分に心底惚れているらしい。それはその仕草や、一途な態度、真っ直ぐな視線などで嫌でも思い知らされた。
なのに、嬉しいとも欲しいとも思えなかった。
友人からは可愛い彼女が出来てうらやましいと何度も言われた。しかしどれだけ時を重ねても、何か心に違和感が在り続けた。
話していても、心が軽くならない。会話は成立するが、救われる気持ちにならない。
――それこそが、この少女を好きではないと言う証であった。
こんな状態で手を出すのか?
確かに、別に出来ないわけではない。周囲にもそんな男はいくらでも居る。寧ろそんな奴らが殆どだ。下手すればそれだけを目的に、それの対象としたい女を選び付き合っているほどなのだ。
逆に元々何の感情を抱いていなくても、相手が自分に好意を抱いていることをいいことに、それを利用して都合よく、性欲処理だけを行うこともある。
そういうことが絶対に出来ないというほど、自分も綺麗な人間ではない。実際割り切って性欲だけを、手の代わりにこの少女で満たすことだって出来るだろう。
ただそれをするには、源二は余りにも大人に近くなり過ぎていた。
そして一夜の傍にいて彼女だけを見続けていたことで、少年だった彼は彼女に深く感化されていたのだった。
彼にそれを思いとどまらせたのは、和歌の純真で深すぎる自分への想いだった。この少女が一途な性分であることは伝わってきた。自分のためならその身も捧げるであろう。
自分を欲し、甘えてくる態度もこれまでに何度もあった。
そんな少女に手を出し、そして初めての男―なんてことになったらどうなる。
女にも経験値稼ぎや性欲だけで男に抱かれる奴も居るだろう。精神的にタフで、別れてもあっさりと次の男に行ける女も居るだろう。しかし和歌はとりあえずそういうタイプに見えなかった。
もし本当に経験だけを目的として、この少女を抱いた後に別れを告げたとしたら――?
黒目がちのその瞳から溢れる涙と、絶望に震える様が安易に予想できて源二はぞっとした。
別れると言えば泣いて自分に縋るであろう、そして自分に全てを捧げた日を思い返して、激しく後悔するのだろう。……リストカットなどもされるかもしれない。
そんな重いことなど御免だった。
それに百パーセント確実な避妊法などないと思っている。
これは彼の性分で、子供の頃から慎重すぎると言われるくらいだが、もし万が一、和歌との行為の後そんなことになれば、未成年であり高校生の自分には実質責任などとれない。自分が最も大切に想う保護者の一夜に迷惑を掛けたうえに、哀しませ、失望させるだけだ。
その結果、堕胎ということになれば、あの少女の心と身体に一生分の傷を負わせる。逆に産むこととなっても、自分は彼女に一生添い遂げなければいけない。
本当に好きな女が別に居るのに、どうして一生を別の女に捧げなくてはならない?第一イノチをそんなに軽く考えているつもりもなかった。
……それこそ相手が一夜であれば、いくら二十代後半で適齢期でも経験もなくても、少しも重いとは思わない。
寧ろそうして既成事実を作りたいほどだった。残念ながら今はまだそう出来ないのだけれど。
元からの性分で源二はそこまで深く考えてしまっていたが、そんなことを考えない男は、自分の周囲に数限りなく居る。逆にその危険を冒すことを武勇伝として話す奴らすらいる。
そういう話を聞かされると、よくやるよな、と思い、源二としては密かにその男との付き合い方の判断基準としていたのだが。
それはさておき、そういう結論に至った源二は、自分はこの少女に対しそこまで負わされたくない、そして一夜にやはり迷惑を掛けたくない、そんな無鉄砲な子供と思われたくない、ひとりの頼れる男として見て欲しい。
――そう思ったので、少女とそういう関係を結ぶことになる前に、彼女に別れを告げた。
実際別れた後も、和歌は自分のことが諦めきれないらしく、家には来るわ、抱いて欲しいと迫られるわで、これも自分が彼女の真剣な想いを弄んだ罪の報いかと自己嫌悪と罪悪感に陥りながらも、彼女を拒絶し続けた。
悩んで苦しんで、自分の黒く弱い心と欲望に負けて、人の心を利用しようとした、そんな自分の罪深さ。
そんな自分が、一夜に必要とされるだろうか。
彼女の傍に居てもいいのだろうか。
この汚い人間に、その資格はあるのだろうか?
それは今でも迷っていた。
それでも、あの日自分を救ったあの存在を諦めることは出来なかった。
どうしてもあれが欲しかった。
恋愛に奥手な彼女が眠り続けているうちに、早く大人になって、そして初めて想いを告げようなどと言う有り得ない夢も描いたが、それは余りにも遠すぎた。
そしてやはり身体が耐えきれなかった。北條などの邪魔も入った。
こんな面倒くさい女、やはり諦めてしまおうかと何度も思った。
だけどあの上司の青年を見れば苛立ち、渡したくないという独占欲が擡げ上がる。
そして同じ頃、和歌への嫉妬心から一夜が自分に見せた『女』の顔――。
あの一夜が、と。もしかしたら『自分』だからではないか、自分に特別な感情を抱いているのではないかと期待し、抑圧していた胸が震えた。
そしてその昂ぶりのままに、思わず抑え続けていた欲望が決壊してしまった。
それをどうにか踏みとどまったのは、衝動的に襲い掛かった時に彼女が激しく拒絶し、その怯えた眼から、今焦ってもろくな結果にはならないと痛いくらいに感じたことと、やはりもし万が一にも失敗して身篭らせた時に、自分には社会的な責任が何もとれないということからだった。
そんなことになれば社会人であり、女であり、自分の保護者である一夜が、自分が守りたいと思っていた女が、一生分の傷を自分の所為で負うことになる。
更には18歳に満たない自分とそんな関係になり、それが周囲に知られれば、罪となり職すら失ってしまうのではないか。惚れた女をそんな目に遭わせられるわけがない。
誰よりも傍に居るのに、どうしてこれほど高い壁があるのだろう。
年齢と立場の違い。それをクリアするには歳月しかないのに、それを待てるほど気が長くも強くもない――。
呆れるほど、苛立つほど、それは途轍もなく長い時間。
なのにそれがどれほど面倒でも、どれほど自分を傷つけ、抑えつけることになっても、それでもどうしても諦めることも手放すことも出来なかった。
だったらもう、このままこの気持ちを素直に受け止めるしかないじゃないか。
汚くても、狂おしくても。
もがいて、足掻いて、苦しんで。
この気持ちの終焉まで。
いつか何年かのその先に、この気持ちが届くか、それとも自然に逝く日まで。
また誰かを弄ぶような、これ以上の罪は犯したくない。為すがままに、自然のままに、自分の気持ちを認めて解放するしか、もうこの行き場のない、かつ彼女を傷つけたくない想いの行く道は、残されていなかった。
その道の上で、この先もまた、傷つけたり傷つくことはあるだろうけれど、それでも――。
・・・・・・・・・・
少しの沈黙の後、源二は独り言のように言葉を続けた。
「出来る限り行動に移さないようにしてるだけで、やべえことも酷えこともいつだってグダグダと俺は考えてる。実際、人を利用して傷つけたりもした。言うほど、俺は、ロクな人間じゃないっすよ」
一夜や奥原に言われるほど大人でも優等生でも、ない。ただの、もがいているガキだ。
その自嘲的な冷たい笑いを奥原は思わず見上げた。
この少年は基本的に成熟していて正しい行動の出来る男だけれど、何処か冷たい隙間風のような、何か足りないものを垣間見せていた。それが埋まる日は、くるのだろうか。
……だから自分のようなどうしようもない男と気が合うんだろうが…。
奥原が何を言ってよいか分かりもしないが口を開いた時、彼の携帯電話が鳴った。届いたメールを確認すると、彼はよいしょと立ち上がり、互いに独り言のようだったこの話を中断させた。
「そんじゃ、俺、出かけっから。あ、明日の朝メシいらねーから。合鍵は……渡したよな? 勝手に出入りしていーぜ。でも出来れば女は連れ込むなよなー」
煙草を消しながら奥原は源二にそう言うと、この部屋の家主のくせに居候を置いてあっさりと女の元へと出かけてしまう。それは源二も予測の範囲内であったし、だからこそ彼の家を選んだのであったが。
そして台所に立つ少年の横を通り過ぎ様、ふと言うことを思い出したように奥原は言った。
「……でも、ホントにロクでもねー人間は、自分で自分のコト、そーは言わんと思うぞ」
そんな人間は自分を含め、幾らでも見てきた。源二がそういうタイプの人間なら、こんなにも悩みはしないだろうし、やりたくて仕方ないのに相手のために自分を抑え込んだりもしないだろう。彼に言わせれば、少年はやはり『優等生』なのであった。……今度はいい意味での。
うん、と奥原は自分の言葉に満足したようにひとつ頷くと、源二の反応は気にしないで、そのまま家を後にした。
奥原のフォローには少し救われる気もしたものの、自己嫌悪のようなため息をひとつつきながら、源二は六畳一間の小さな部屋の中に戻った。
自分が許されるのか、自分たちは許されることをしているのか、これでいいのか―なんて、分からない。
だが、今はそれ以外に欲しいものはなかった。
それ以外に考えられなかった。それだけだった。
それに躍起になることでどうにか生きてきた。それがこの五年間だった。
そんな考え方しか出来ない自分はきっと子供なんだろうと思う。
――だけど聖域は自分の手で破ってしまった。
この想いを伝えてしまった。
もう、後戻りは出来ない。
大人になるまでなんて言っていたのに、その決め事を破ったのは自分の性の欲望からだった。
相手も何故か自分を意識してくれてはいるらしいものの、別に恋愛感情を持っていると、はっきり言われたわけではない。だが何を考えているのかは全く分からないが、あの態度からするに、少しずつ変化もしていくだろうか。期待してもよいものだろうか。
二人きりでひっそりと生きてきた聖域から、この関係では物足りなくなった自分が彼女を目覚めさせ、連れ出してもよいだろうか。
答えなど出ないまま、夏の寝苦しい夜が更けていく……。
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