第21話 茨(前編)
「飲む?」
缶ビールを片手にやってきた金髪の青年は、そんな声を未成年の少年に掛ける。
「いりません」
「タバコは」
「同じく」
「べっつに誰も見てねえんだからいいじゃねえよー、この優等生ー」
金髪の青年は源二の後ろに胡坐をかいて座る。そしてそうぶつぶつ言いながら、その引き締まった固い背中を裸足でぐいぐい押しつつ煙草に火をつけた。
この男に優等生優等生言われるものの、自分とてそんなに綺麗なことばかりしたり考えたりしている訳でもない。
未成年に禁止されているその2大嗜好品も、別に味を知らない訳でもないが、今の自分に必要だとは思わないし、あえてその経験を人に話す必要もない。
源二はそう思っていたので、後は何を言われようとも黙っていた。
そんなことを源二が考えていようとも、夜は暇だからと、夏休み明けの課外模試の勉強など始めるこの少年は――学外の業者テストなど進学校では日常茶飯事で、結果を出してこれまたご近所の国立大学に行きたいというどこかの女を意識した野望があったとしても、このフリーター生活をしている青年にしてみれば、流石に気味の悪いものを見るような眼で見てしまう。
そんな視線もこの独立独歩の少年は何ら気にすることはない。そしてそんな風に言いつつも、この奥原という青年が他人に干渉しない男であることはよく知っているので、だからこそこの家に転がり込んだのであった。
しかし、
「まあでも、そんなおりこーさんな水倉くんも、オンナの問題で悩むほど色気づいてきたか。結構結構」
着信音が止まってしまうことを恐れ、思わずこの場で先ほどの一夜からの電話を受けてしまったが、こういうことに関してはやたら興味を示す男なので、無駄にいじられる羽目になる。
いつもならこの男こそ女のところに転がり込んでいる時間であろうに、今日は予定がなく暇なのか、ほろ酔い気分で自分に絡んでくる。彼のこういうところはどことなく一夜のノリに似ているな、と源二は前から思っていた。
ちなみにこの青年・奥原にとってこのアパートはたまに帰って寝るためだけの役割のもので、女はここには連れ込まないらしい。よって源二が連絡した時も、食事と掃除と言う交換条件を出す前に、二つ返事で「俺いねーけど勝手に使ってくれていーよ」と彼の居候を快諾してくれたのであった。
そういう意味では非常に有難く、以前から自分のことはよく言えば可愛がってくれ(悪く言えばからかわれているとも言えるが)、中々よいアルバイト先が見つからない高校生の自分に、実入りがよく信頼できる働き口を回してくれるなど世話になっているのであった。そのうえ意外と口は堅いし、仕事の手際もよい。
一見根無し草のように見えるこの男でも、そんな自分にとってはある意味頼れる、身近な年上の男性なのであった。
「なに? いつぞやのあのきれーなねーちゃんとなんかあったワケ?」
……こういう色ボケ癖さえなければの話だが。
うるせーから早くどっか行ってくれねーかなー、と家主は向こうであるにも関わらず、源二は心の中でそんなことをこっそり思いながら、背中を足でそのままぐりぐりと押され続けた姿勢のまま(それが意外に上手いことほぐしてくれる)、根性で英単語のひとつでも覚えてやろうと参考書から眼を離さず、ひたすら黙秘していた。
そう、この男には本当に色ボケセンサーでもあるのではないかと源二は思っているのだが――。
知られたくない関係の相手と二人で居る時に、会いたくない人間に限って会ってしまうのが世の常である。
たまたま荷物持ちが必要だと一夜に買い物へと付き合わされた時に、その店でアルバイトをしていたこの男に偶然出会ってしまった。
自分が和歌と付き合っていたことも何処かから聞いていたらしく、余計にこのことは大騒ぎされた。
面倒臭いから姉弟だと説明したのだが、どうやら一夜もまた奥原の広いストライクゾーンの範疇らしく、
「あんなきれーなねーちゃんと二人きりで暮らしてて間違いのひとつもないわけがない!」
と彼はくだらない自論を主張し出した。更には実の姉弟であったとしても近親相姦説を繰り広げる始末。
しかしそこまで言われてようやく源二も気付いたのだが、何のことはない、彼がそこまで言い張る理由は、自分の一夜への気持ちをあの一瞬で察しよく気付かれたからなのであった。
「しのぶれど……」ではないが、ちょっとした態度や仕草で他人に分かるほど自分の気持ちが周囲に漏れているのかと思うと、源二は少しばかりショックな気分になった。
とにかくそういう理由であるならば、この件についてはもう否定することはやめた。
奥原は『自分』を決して崩さない源二を、どうにかして困らせたい、焦らせたいといじることだけが目的であり(それも迷惑だが)、このことをどこかに言いふらしたり、それによって一夜に迷惑が掛かるようなことをされるわけでもないので、別に冷やかされることくらいどうということはなかった……既成事実もないのに、とは思うが。
しかし否定する気はなくとも、積極的に話す気はさらさらない。源二は口を一切閉ざしたまま、初出の英単語にチェックを入れる。
「痴話喧嘩とかー、まあどーせつまんねーことだと思ったけどー、」
背後で携帯電話のボタンを押しているらしい音も一緒に聞こえてくる。メールでもしているならそっちに集中しろってか、つまらんとか思うならほっとけと源二は心底思うが、奥原は余分なことを更に言う。
「っつーか、前から不思議だったんだけど、モチロンもー済んでるんだよなあ、あのねーちゃんとは」
……何がだよ、とタイムリーな突っ込みに源二の肩が僅かに揺れた。
携帯電話を見ていた筈の奥原の視界にもそれが入ってしまったらしい。彼は「まさかな」と思いついた仮定がまさか当たるとは思っていなかったらしく、驚いたようにあんぐりと口を開ける。
「もしかして……、まだ手ぇ出せなくて、ヤらせてくんねーから家出てきたとか、そーゆーオチじゃーねーだろな」
「……」
英単語が頭に入ってこなくなってきた。視界には映っているけれど、滑るように流れていくだけだった。
奥原の言葉に、正直昨日の出来事に決して凹んでいなかった訳ではない少年は、きっと顔に全て出ているだろうな、と思った。だったらいっそ開き直ってしまえばいいのだが――、
「奥原さん」
背を向けたまま後ろの青年に源二は呟く。心の中では散々毒づいているけれど、一応「さん」付けである。
「何」
「メシ食った後、食器水につけといてくれました?」
「あー、言われたとーりちゃんとやったやった。つーかお前、下手なオンナよりもメシ作んの上手いなー」
ちなみに客が殆ど来ない奥原のこの部屋は、源二が足を踏み入れた時はゴミ箱と見紛うばかりの有様であった。それを今日の夕方から慣れた手つきによっててきぱきと片付け、風呂もトイレも台所も輝かんばかりに掃除し、このように清潔に生活できる環境としたのであった。
逆に源二はそれくらいしないと申し訳なくて居候など出来ない性分であったのだ――。
「じゃ、ねえよ」
そこでワントーン低い声になると、奥原は源二の背中を軽く蹴飛ばした。「話を逸らすな」という意思の表れらしい。
「っつーか、そーなの? マジで!? ありえねー!!」
と自身の乱れた十七の頃を振り返りながら、奥原は大仰に体を反らせると、背後の座椅子代わりの大きなクッションに身を凭せ掛けた。
「じゃーなに。俺の目の前に居るのは、実はかなり溜まっちゃってる人?」
……明日の朝飯には毒でも盛ってやろうかと、絶対に奥原の方など見たくない源二は、ひたすら頭に入りもしない参考書を捲りながら、そんなことを考えて、体がやるせなさに震えそうになるのを堪えていた。
「ふ、うぅーーーん。お前も大変だな」
奥原は口ではそう言うものの、かなり呆れたような言い方であった。
しかし誰に何を言われようとも、一夜の性格が普通の女と違うことによる彼女との特殊な関係は、他人には理解できないだろうと源二は思っていた。だからこそ世間一般の感覚や自分の欲望云々に流されないように、此処まで慎重に駒を進めてきたのだ。
そんな物差しで彼女を推し量るなんてことをすれば、絶対に手に入れることが出来ないからだ。だから今更ここで余分な言葉に耳を傾けるつもりはなかった。
一夜も相当であるがこの少年もまた、一夜以上に輪を掛けた頑固者なのであった……。
「そんなにガマンしてると、体に悪いぞー。っつーかよく出来るよな。お前、かなりストレス溜まってんじゃねえの? なんなら誰か紹介してやろーか? フーゾク嬢じゃなくても、コーコーセーとヤッてみてえってヤツなら多分いるぞ。てかお前、なんか付き合ってた女の子いなかったっけ? あれはどーしたよ。そっちとよろしくしてりゃいーじゃん」
「………」
此処まで言われると流石に大きなお世話だと言いたくなってくる。
この苛立ちは奥原に対してのものではなく、そう出来る立場でない自分自身やこのどうにも出来ない関係に向けたものであった。
源二は思い切ってぐるりと後ろを振り向いた。気がつけばかなりの量の缶ビールの缶が転がっており、この奥原のおせっかいはただ酔っ払って暇だからだな、と言うことが理解できた。
そして源二はそんな彼を一瞥すると、
「別に、必要ないですから」
と一言言い切り、立ち上がった。
そして立ち上がった彼のやることが台所の片付けというのだから、本当に所帯臭い17歳である。
源二のような複雑な家庭環境にある者は、奥原自身も含めて彼の知り合いにも大勢居るが、自分のように身を持ち崩したり、法律など知りもしないで平気で犯すようになってしまった中で、この少年だけは何処か違った雰囲気を持っていた。妙に安定していて模範的であり、『自分』を崩さずあくまで筋を通す。多分、『何か確固たるもの』を持っているからだろう。
あまりに品行方正過ぎることから危険な感じもするこの少年は、自分の周りには居ない珍しいタイプのうえに、仕事は確実にこなす信頼が置ける人間でもある。それで奥原は源二を気に掛けているのであった。
だからこの言葉は、こんな自分と違って決して弱みを見せないよう肩肘を張る源二への、嫌味やひがみが込められていたかもしれなかった。
「それはそれはユートーセーなこって」
決して悪気があるわけではない奥原のその隠さない感情は源二にも伝わったが、何も言わずに、今日自分が磨いたばかりの小さな台所で食器を洗い流していた。
その言葉は少年の心の中で短いさざ波の様に反芻されていたが、やがて源二はぽつりと口を開いた。
「……そーでも、ねーっすよ…」
『付き合っていた女の子が居ただろう、あの子とすれば……』と言われ、少し嫌なことを思い出した。
黒い自分の気持ちのことを。
・・・・・・・・・・
結果的に自分を意識してくれるきっかけとなったものの、一夜にもどうせ和歌に手を出したんだろうと言われ、奥原にもそうじゃないのかと思われ、その少女自体にも求められた。
自分なりの考えがあってそういうことをしないのに、どうせしているだろうと言われることに少し腹も立った。しかし最初にそう誤解されるようなことをしたのも、密かにそうしようと考えたこともあったのも、全て自分の所為だった。
自分の黒くて弱い心がそうしてしまったことだった。
一夜が恋愛から逃げているのは、彼女の元からの性格もあるが、両親の離婚も原因のひとつであることは彼女と話す中でどことなく伝わってきた。
出会った頃からずっと追いかけてきたけれど、まだ「子供」で彼女に保護される立場である自分はどうすることも出来なかった。そのうえ彼女は全く恋愛に興味を持っていないのだ。
それでもアンバランスに身体だけは成長する中、フラストレーションが溜まりに溜まり、それをどう解消すればいいのか分からなくなった時に、和歌から告白された。
全く興味のない女だったが――真面目そうなところとストレートの黒髪はあの女の雰囲気と僅かには似ていたが、この鬱憤をこの少女で爆発させられないかと汚いことを考えて、彼女にOKをした。少女の言葉を理解し断るのももう面倒くさかった、というのもあった。
つまりあの少女とは、惰性とストレス解消のために付き合い出したのであった。
そんな自分は汚い存在だと思っていた。
だけどどうせ振り向いてもらえないならば、こうすることで一夜のことを忘れられるのではないかと、何処か祈るような気持ちもあった。
家でいつものように笑い、自分を拾った時から寂しくないようにとたくさん話をしてくれる一夜にも、つっけんどんな態度になった。この女は自分の滾る想いには気付きもしない。それに益々苛立ちを感じる。
それは、彼女は自分のことは『庇護する子供』としか見ていないからだ。
あの自分を拾ってくれた日から、彼女の中の自分の存在は成長していない。自分もあの日と気持ちは何ら変わらないものの、元々抱いていた感情の種類が違うのだ。それを自分の望む方向に変換させるために、自分は何をすればいいのか分からない。
だから忘れてしまおうとも思ったのに、忘れようと思えば思うほど、忘れられない。目の前の少女と話していても、ちっとも心は満たされない。
ならばいっそ、隣の部屋で眠るあの女を無理矢理犯してしまおうかと思ったことも、数え切れないほどある。そうすれば嫌でも自分を『子供』扱い出来なくなる。『男』として見ざるを得なくなる。
大人だけでなく自分の年代であっても、身体から始まる男女の関係などよくあることだ。してしまえばなんとななるのではないか、それに持ち込むことは出来ないかと、何度も何度も考えた。
しかしそれを実行した時に、子供みたいに戸惑ったり失敗してしまえば元も子もない。
それに、おそらく経験がないと思われるあの女を自分が立場逆転してリードするしかない――と思っていたので、この目の前の少女をその練習台に使おうかなどと考えたことすらあった。
寝室に忍び入り、何も知らずに眠る一夜のその寝顔を覗き込んだことも、一度だけあったが――、
その決断は出来なかった。
|