「難しいな……」
一夜は「はあ、」と熱いため息と共に吐き出した。その熱は酔っているからだと思いたい。残った冷酒を一気にあおる。
「難しく考えることないじゃん」
千菜は一夜に飲み物のメニューを渡した。
「だって私には何が恋愛で何がそうじゃないのか、分からない……」
一夜は少し恥ずかしそうにそう呟くと、そんな自分を誤魔化すように竹酒(※竹筒に入った日本酒)を、次に注文しようと決めた。それを聞くと千菜は一瞬きょとんとした後、けらけらと笑い、一夜の黒く艶やかな髪をぐしゃぐしゃと撫でてくる。
「一夜はかわいーなー」
……彼女は笑い上戸らしい。一夜は髪を整えながら、目の前の活発そのものな短い茶髪の友人を見る と、ぶすりと言った。
「いい年こいてって思うでしょ」
「思わないよ。てか、だから源二くんと合うんじゃないのー?」
酔いどれの千菜は鳥つくねをもぐもぐと頬張ると、その串を振って熱弁を振るう。
「頭で考えることじゃないのよ。純粋に会いたいとか声が聞きたいとか、そんなとこから始まったり、別にあの人の体に抱かれたいでもいいし、暴力とかどんなひどいことされても、どこもいいところないけど離れられないとか――男と女なんて、色々よ」
一夜は千菜の言葉に、ふむむ、と唸った。
――確かにそれらの気持ちは、今までの一夜にはなかった心理状態である。そして今の気持ちもそういった言葉で、何か表現出来るのかもしれない。
だが考えても分からないならば、「頭で考えることじゃない」のとおり自然に分かるのを待った方がいいかもしれない、とも一夜は思った。実際、源二はこうして時間をくれたのだし。
しかしそれでは本当に源二が自分を好きなら、まだ十代の彼に甘えているだけではないだろうか―― 一夜がそう思いどきりとした時、
「というか、源二くん、何それ?」
――ナニソレとは何ですか? と、一夜は大きな眼を据わらせ始めた千菜のことを、少々おののいて眺めた。おそらく彼女自身にも何かが起きており、酔いも手伝っていよいよ荒れ始めたのだろう。
千菜はそのまま一夜にくどくどと説教を始めた。
「どうせ一夜のことだから、好きだって急に言われておろおろしてて、それに気を遣った源二くんが一歩引いてあげたんでしょ? まだ高校生がだよ!?」
しかし千菜の言葉には、「はい、まったくそのとおりです」と小さくなってしまうばかりである。
「好きなオンナとひとつ屋根の下に暮らしてて、十代後半なんてやりたい盛りだろうに、なんて偉い、涙ぐましい話だよ? そりゃ」
言われれば言われるほど、それを全く察してやれなかったことにぐさぐさとくる一夜。千菜の口調が、酔ってどんどんおばさんくさくなってくるのが密かに面白いのだが。
「それもみーんな、一夜を大事に思ってのことだよ? わかる? 普通有り得ないよ? あーもう、あんな若くていい男に大切にされてて、一夜はいいなあ……」
半分苦笑いして聞いていた一夜であったが、その言葉にはまた改めてどきりとさせられた。
――自分が守ってやる、源二のことを一夜はずっとそう思っていた。
優しい子だとは知っていたが、大人である一夜の方が「大事にされる」「守られる」などとは思ったことがなく、それでも言われてみれば、以前から何か言いたげだったような瞳や、触れてきた大きな手が思い出され、何やらどきまぎとさせられた。
その気恥ずかしさから逃れるように――、何よりも千菜が徐々にテンションを下げ、しょげたようにカクテルのマドラーを回し出したので(やはり泣き上戸か?)、一夜は自分の話を終わらせ、もうひとつの本題に入ろうと思った。
「っつうか、千菜にも何かあったんじゃないの?」
「そーなのよ!」
話を聞いてくれたのはありがたいが、そんなに話したいならもっと早く話してくれてよかったんのだが……と思うほど、千菜はテーブルの向こうの一夜に抱きつきそうな勢いで、前に身を乗り出した。
「遠距離恋愛の彼の話?」
「そう。――別れたけどね」
「へ?」
千菜は甘いカクテルをくいっと一気に半分ほど飲むと、腕を組んだ。
少し前までたまに週末会いに来てくれたり、会いに行ったりとしていた仲のよいカップルだと思っていたのだが……。突然のことに一夜が唖然としてしまう。
男と女の間にはどうしてこんな青天の霹靂のように、いきなり仲が良かった筈の二人に永遠に決別するほどの亀裂が走るのだろうか。一夜の両親も性格の不一致のようなことを言って離婚した。
――ああ本当に恋というものは、よく分からない。好きになって体の関係を結んで、そして時が経てば、あっさりと離れていくものなのか――?
「別にそのことについてはもう悩んでないよ。だってもう終わったことだもん。だんだん話が合わなくなってきて、喧嘩が多くなって、連絡もとらなくなってきて、……会ってもしたくなくなって、もうこれ以上怒るのも相手に気を遣うのも嫌で、やめたの。向こうも同じ考えだった。疲れたって。それだけだよ。遠恋のよくある話だって」
千菜は淡々とそう言うと――それでも、一夜の心配そうな視線は分かったのか、
「もう大丈夫だから」
と少し笑顔を向けて、気分を変えるように再び飲み物のメニューに目をやった。
一人の男とも心を通わせたことのない一夜は、何年もの間、心や体を許してきた相手と別れを決めた千菜を、逆にとても強くパワーとバイタリティがある女性として、感嘆の思いで眺めてしまう。
父母の離婚と、友人が恋人と別れたという話は、千菜が結婚しているわけではないことから、また別の気持ちで感じている。寧ろ一夜は両親のことがトラウマになって恋愛を出来ないでいるので、なんのこだわりもなくこの理屈で図れない「恋愛感情」に身をやつしている友人を普通にすごいなと思ってしまう。
――これだけのことでこんなに悩む未熟な自分に対し、それだけの経験をしたのに普通に生活を送り仕事にも支障を来たさず、自分の世話まで焼いてくれるなんて。
「千菜はすごいなあ……」
そう思った一夜はしみじみと呟き、
「何をおっしゃる」
それを聞いた千菜は肩を竦めて苦笑した。
「それはさておき、相談したかったのは、『これから』のことよ」
千菜はまた新たな飲み物を注文し、一夜に向き直った。終わったことはどうでもよく、本題はここからだ、という真剣な表情をしていた。
「そうは言っても寂しいわけよ」
一夜は頬杖をつく千菜の主張に、言い返せるわけもなくこくんこくんと頷いた。逆に恋に慣れてしまった女は、常に傍に誰か……しかも肌を重ねられるくらい、信頼出来る相手がいないと寂しくなってしまうものなのだろうか。一夜には理解しがたいものの、恋多き女というのはそういう性なのだろう。
「前の彼も悪くはなかったんだけど、ちょっと甘えられるのも疲れたし」
前の恋人は同い年だが、少し子供っぽいタイプであったと一夜も千菜から聞いたことがある。
「そこで、相談なんだけどさ、」
千菜はそこで意味ありげに笑うと、一夜を見据えて言った。
「――北條室長ってどう思う?」
ごほっげへっぐはっと、一夜は飲んでいた折角の竹酒を勿体無くも吐き出すほど咽てしまった。
そうくるか! と驚きもあるが、今日の昼に千菜が北條に送った不可解な視線はやはり見間違いではなかったようだ。しかし思い返せば、以前から一夜と違い北條に甘えるのも気の利いた会話が出来るのも、悪い意味でなく上手であった千菜なので、意外とお似合いかもしれないと思い直す。
それに一夜には荷が重く感じられたが、確かに人間としてあの男は申し分ない。
「い、いいんじゃないの……?」
だけど北條との間にあった色々なことを思えば――まあ事実、恋愛関係にはないのだが、どこか罪悪感はあるが一夜は本心からそう答えたが、
「うん……でも室長は、一夜がお気に入りなんだよねえ」
ほう、と切ないため息と共に呟かれた千菜の言葉には、ぽかんと口を開けてしまった。
千菜は、言葉も忘れて真っ赤になっている一夜に笑いかける。
「そんなのその気になって室長のこと見てれば分かるよー。恋する女の勘ってやつよ。彼氏と上手くいかなくなってきた頃から、室長のこといいなーって思ってたし」
――恋って……恋って……! 超能力まで使えるようになるのか!!?
一夜は頭がくらくらしてきた……というかショックで酔いが回ってきたようだ。次はウーロン茶でも頼もう、と決める。源二も迎えに来ないのだし。
本当に恋愛は恐ろしい、と愕然とする一夜に気付いた千菜は、
「あ、でもそんなのよっぽど室長のことを、そういう目で見て観察してなきゃ分からないくらいだって。他の人はそう思ってないだろうから、安心しなよ。その辺はちゃんと室長、気にして表に出さないでいるよ。だって北條室長だもん」
と慌ててフォローした。
「一夜も室長好きだって言うなら、別に狙おうなんて思わないんだけど、なんか見てると源二くんのことしか考えてないかなーと思ったし、だから今日も先にそっちの話を聞いたんだけどさ……」
別に無理矢理源二とくっつけようとしているわけではない、ということは理解してもらいたいと、千菜は上目遣いで一夜を見た。
「いやいや室長のことはまったく好きなんてことはないし、てか何も関係ありませんから」
告白されたことや昨日のことを思い出し何故か妙な敬語になってしまったが、この馬の合う友人と恋敵にはなりたくなく、北條のことが好きだと誤解されたくもなかったので、一夜は手を振りながら思い切り否定する。
しかし千菜は苦笑するとこう言った。
「でも私だってまだどうしようもなく好きになっちゃったわけじゃないし、室長が一夜をお気に入りな理由も分かるから、別に一夜が室長好きだったり、適齢期だし結婚したいから高校生なんかとは付き合いたくない、室長みたいな安全圏と付き合いたいって言うなら、それはそれで応援するよー」
その言葉に一夜はぴたりと振っていた手を止めた。確かに当初はまさか源二が己を異性として見ているとは思わず、いつかは自分だけ聖域にひとり取り残されると思っていたので、北條とのことも若干は悩んでいた。ひとりぼっちは嫌だったからだ。
しかし昨日の逢瀬で北條の気持ちは受け入れられないと自覚してしまい、思わせぶりな態度も反省した。そして聖域自体も一夜が源二に抱いた嫉妬の所為で、昨夜粉々に壊れてしまったのだ。
だから今現在、一夜の心は全をリセットされた裸の状態で放り出されているようなものであった。
それでも千菜の言うとおり冷静に考え、十も年下の男と付き合ってこの先大丈夫なのかと言えば、結婚やそれ以前の問題を気にすれば、心配事しか思いつかない。だが源二のことは気になっていても、北條のことは現在異性としては好きではないので、やはり北條の気持ちには答えることは出来ない……とも思っている。
つまり今の一夜は壊れたガラスの聖域のかけらを手に、最も傍に居て欲しかった少年をこれから男として見るのかどうか、裏切られることを覚悟で傍に居るのかどうか、という選択肢の前に立たされているのだった。
――だったら、こんな曖昧な状態の自分なんかよりも余程、
「私は、私なんかよりも千菜に、室長は似合うと思うんだけどな……」
そう思うのも、また本心であった。
それこそ女の勘であるが、多分千菜は北條の前でもこのまま自然体で居られるだろう。天真爛漫な彼女は、彼の優しさを素直に存分に受け取り、きっと同じくらいのもので彼を包むことが出来るだろう。
自分は北條にそこまで出来ない。そんなに強くない。北條が優しくとも、いつかこんな自分に疲れる時がくるのではないか。一夜はそう思っていた。
一夜とて北條が嫌いなわけではなく、彼を大切に出来る女性と幸せになって欲しいから、そのよう千菜に言うのであった。
「ありがと」と千菜は笑ったが、もう一度一夜に確認した。
「一夜は、本当にそれでいいの? 本当はどうしたいの?」
確かに北條はいい条件だと思うので、後々一夜に恨まれたくないと思っているからだ。
しかし彼女はまだ分からない、と首を振るだけだった。
「でも……、」
答えを急ぐのも可哀相なので諦めてため息をつく千菜であったが、その声にふと顔を上げた。
一夜は言おうかどうか迷ったが、これは昨日の時点でどことなく分かっていたことだし、酔っていた勢いで思い切って口に出した。
「室長に優しくされたことよりも、昨日源二に言われたことの方が、気になるんだ……」
自分の気持ちは何も分からないし、それに身を任せるのは恐くて仕方ない。北條の方が断然安全圏であり、大事にしてもらえるのは分かっている――が、源二からの告白が今は胸の全てを占めているのは事実であり、そうである内はあの上司に縋っても、きっと昨夜のように疲れてしまい、傷つけてしまうだろう。
だから一夜は恥ずかしくはあるが、今の気持ちを素直に打ち明けた。
その言葉を聞き、千菜は思わず北條のこと以上に、この奥手で純粋な友人を愛しく思ってしまった。
「そっかあ……! あーもー、なんて可愛いの、一夜は!」
そして彼女も相当酔っているのだろう、一夜の手をがっしと掴むと、突然こんなことを提案した。
「だったらこんなとこでぐだぐだ悩んでないで、今の言葉、源二くんに言ってあげなよ。かわいそーだよ」
「へ?」
確かにすっかり忘れていたが、源二は現在、一夜の所為で家出をしている形になっている。
「善は急げだ、今すぐ電話しよう!」
酔っ払いのノリとは、恐ろしいものである……。
◇拍手&簡易メッセ◇
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