――もう、朝が来なければいいんじゃないかと思った。
そうしたら、一生夢の中に居られる。
しかし一夜が眼を覚ませば、夏の朝日はきらきらと容赦なく目の中に飛び込んできた。
眠れなかった――と思ったが、少しはうとうととしていたらしい。昨日の朝も同じように眠りが浅くあっさりと起きれたが、今日は昨日以上に早く起きてしまった。
……本能的にどこかで、「彼」に起こされるのを恐いと思っているのだろうか。
台所からは朝食を作る音が聞こえてくる。どんなことがあろうと、源二は自分自身を崩さないタイプなんだろうな、と一夜は思った。
――私とは正反対だ。なのにどうして、私なんかを……。
そう思うと一夜はたちどころに昨日の全てを思い出し、そわそわと落ち着かなくなる。この年齢だというのに、初めての、それ、であったからだ。昨夜、北條から再度告白されてしまったことも吹き飛んでしまうほどの衝撃だった。
まさかあの日拾った子供に、自分がそんな対象に見られる日が来るとは思わなかったし、あんなことをされるとも――。
そのまま唇の感触までを思い出されるような気がし、一夜は赤くなった顔を再び枕に押し付け、ばたばたと暴れる。
その行為自体も恥ずかしいし驚いたが、昨夜の自分でも分からない感情を、一夜が全て吐露してしまったことに対し、源二は少しも怒らなかった。そのことにも更に驚きと安堵を感じる。そしてそれもまた自分への気持ちのひとつの表れかと思うと、気恥ずかしくなってくる。
あの嫉妬も劣等感もまだくすぶってはいるが、彼に全て受け入れられてしまった――そんな気がした。そう思うとある意味自分よりも大人なんじゃないかと思い、そのことに一夜の胸が妙に高鳴ってくる。
その時だった。乱暴にドアが叩かれ、
「おい、起きてんのか」
部屋の外からあの低い声が聞こえてきた。突然の音に一夜はびくっと驚き、そのままベッドの上に正座し、思わずシーツでキャミソールの胸を隠しながら、
「おおお起きてるー」
とどうにか返事をした。
「朝メシ出来たぞ」
声の主はそれ以上何を言うこともなく、部屋に入ってくることもなく、立ち去っていったようだった。
――源二も、気、使ってるのかな……。
頬を叩いてしまったのはこちらなのに(そもそも向こうが悪いのだが)、相変わらずいいヤツだな、と一夜は思った。
そして身体からシーツを下ろし、ハーフパンツを脱ぎ捨て、キャミソールと下着姿で今日着ていく服を漁りながら更にふと思う。
――っていうか、この格好で今までうろうろしてたんだっけ……。
押さえつけられ身動きが取れなかった強い力、この胸に一瞬触れた大きな手のことを思い出してはぞくりとする。
――洗濯物とかも……基本的に私がやってたけど、私が遅い日とか取り込ませてたし……。
それらのことも、あの仏頂面の下でどう思われていたのかと思うと非常に不思議に思い、よくないことをしていたような気分になる。
だが、意外に不快感はなかった。嫌われるよりは特別に想われている方が、はるかに嬉しい。昨日の彼の告白染みたものにどう答えたらよいのかわからない一夜であったが、それだけは思った。
だが、彼女が彼の気持ちにこのまま答えなければ、天気のように彼の気持ちも移ってしまうかもしれないが。
――どうしたら、いいんだろう……。
他の女の子には眼を向けて欲しくないと昨日宣言してしまった。だからと言って――。
自分で自分の気持ちが分からないのは朝が来ても同じまま、一夜は大きなため息をついた。その時、ドアが再びどん! と激しく鳴った。
「早く食わねーと遅刻するぞ! アホ!」
「朝からアホアホ言うな!!」
……こん、の……! 色気の欠片もない……!
真面目で口の悪いのは少しも変わらない少年の態度に、本当にコイツは私のことが好きなのか? と疑問に思い始める一夜であった。
だがおかげで部屋から出るきっかけがつかめた。着替え終わった一夜は、既に朝食を食べ終わったらしい源二の前に顔を出す。
「おはよー……」
「おー」
源二が一夜の顔を見ないのはいつものことである。一夜は気にせず、だが少々居心地悪く台所のテーブルに座った。すぐさま白いご飯と味噌汁が乱暴に置かれる。今朝はベーコンエッグだった。そこに生野菜と、ご丁寧にうさぎに剥かれたりんごまで添えられている。
――無駄に、豪華だ……。
やはり昨夜のことは、彼もそれなりに意識しているのだろうか? と思い一夜がこっそり顔を上げると、源二と眼が合ってしまい、その顔も、唇も、肩も腕も、全部直視出来ず彼女は顔を背けた。
しばらくの沈黙の後、
「……あのさあ、」
先に口を開いたのは源二の方であった。
「ははははははい!!?」
それに対し一夜はひっくり返ったような声で返事をしてしまった上に、持っていた味噌汁も零してしまう。恥ずかしさやら戸惑いやらで真っ赤になっている、そんな彼女のリアクションを驚いたように見ていた源二は短くため息をつくとこう言った。
「俺、今日からしばらく友達の家に泊まるから」
「え……?」
零した味噌汁を拭きながら、一夜は驚いた表情を源二に向ける。彼は少し困っているような笑みを浮かべていた。
「どうして……」
「その方が、お前もいいだろ。少し頭、冷やしてくる」
源二もまた昨夜のことを思い出してしまったのか、照れたように頭を掻くと一夜から目を逸らした。
「でも……」
確かにいい大人だと言うのに、あまりに突然な出来事に情けなくもこれだけ動揺し意識してしまっているのは事実だ。だからほっとしている筈なのだが……この不安と罪悪感は何なのだろうか。
彼が居なくなることが一夜にはやけに不安であった。もしかしたら、もうこのまま帰ってこないような――。
告白されて戸惑うのも事実なのに、自分の傍にも居て欲しい。
そして子供である彼に気を遣わせているという申し訳なさも、一夜は感じていた。
なのに何を言えばいいのか、どうしたらよいのか、何も分からない。悔しさに一夜は唇を噛む。
「まあ夏休みだし。それに友達ってもバイト先の先輩の家だけどな」
源二は一度こうすると決めたら曲げない。そしてしっかり者なので、既に昨夜のうちに段取りも組んでしまっているようだった。心配そうに彼を見上げた一夜に、源二は嘘のない真っ直ぐな視線を向けるとこう言った。
「べっつにヤケを起こす気はねえよ。お前の心配してるようなことは、しない。約束する」
また少し笑ったその笑顔が、昨日までよりもどこか大人びたものに見える。それは長年、内に溜め込んでいたものを吐き出して、彼もまたすっきりしたからだろうか。
源二は源二で、ここで自棄を起こして子供染みた行動に走れば、一夜の中での自分への信頼度が下がるだけで何にもならないということは分かっていた。だから焦りや憤りややるせなさなどを懸命に抑えるために、この決断をしたのであった。
十七歳の彼が決めた固い意思に、一夜は黙って頷くほかなかった。
・・・・・・・・・・
「おはよーございますー……」
そして朝から暑い日差しが照りつける中、一夜は普段どおりの時間に出勤していった。必要以上に愛想を振舞わない彼女の心境の変化は、余程彼女のことを知り尽くしているか、観察していない限り気付かれることはない。――そう、あの男のように。
ふと一夜が顔を上げれば室長席に座る北條と眼が合ってしまい、明らかに「作った」笑顔でぺこりと会釈する。その内心で、
『うおおおすみません、室長、お約束したのに元気な顔で出勤してくるどころか、室長の仰るとおり、あの坊主と妙な関係になってキスまでしてしまいました~』
などと頭を抱えているのだが、勿論正直に言えるわけもなく、罪悪感に胸を痛ませながら席についた。
そんな一夜の前の席には、昨日休みをとった千菜が既に座っていた。彼女もまた頬杖をついて、はあ、と大きなため息をついている。その瞬間一夜と眼が合った。
一夜のことを知り尽くしている、と言えばある意味、千菜こそがそうであり、二人は職場で最も互いのことを分かり合っている相手かもしれない。一夜は千菜も自分同様に、昨日何かあったなと察し、自分にも何かあったことを察されたな、と思った。
と言っても仕事中はそんな悩みを見せるわけにはいかない。ぐうたらだ、だらしないと言われても、一夜も社会人としてそれなりに真面目に責任を持って仕事をする。仕事時間においては、いつもどおりの「鎌田一夜」の看板を背負って仕事をこなすだけだった。
……しかし、昼休みになり。昼食は一斉に食べにいくのではなく、事務所のメンバーで交代で取っている。今日の一夜の休憩は丁度正午からの時間であり、千菜も同じであった。
忙しい日はデスクで弁当を食べるのだが、今日は仕事の手も空いていたため、再び眼が合った千菜に引っ張られ、事務所裏の中庭まで源二お手製の弁当と共に連れて行かれた。
「何か、あったね……」
「……そちらこそ」
互いに家から持ってきた弁当をもそもそと頬張りながら、ベンチの上で肩を突き合ってぼそぼそと呟くOL二名。
採用されて以来、価値観が合ってどんなきつい仕事も笑い飛ばして協力し合ってきた一夜と千菜。女性ながら深夜に及ぶ仕事もあれば、肉体労働もあった。その幾つもの死線を超えたという連帯感と、女同士という共感が友情を育て、一夜と千菜は互いの小さな変化も分かるくらいまでになっていた。
と言ってこのような場所で深い話もできない。千菜がサンドイッチを手にぽつりと呟いた。
「今夜、飲みに行こっかー」
「……いいよ」
一夜にとって外食は二日連続になってしまうので家計上よくないのだが、どうせ源二も居ないのだ。昨夜からの衝撃と不安を忘れたかったし、千菜にこんなことを話していいのかは分からないが、やはり誰かに話は聞いて欲しかった。今度こそ北條に話せる内容でもない。
しかし一夜の即答に千菜は驚いたようだった。
「源二くんは、いいの?」
源二の非行を心配し、昔から食事当番を理由に一夜は急な飲み会を断ることが多かったからである。
「……」
どう答えてよいか分からない一夜は黙って俯くと、しょり、と源二がうさぎの形に剥いてくれたりんごを齧った。朝のデザートは弁当の残りだったらしい。
「って、あああ~! なんかあったんだあ~!!」
途端に千菜は非常に嬉しそうな顔になると、ゆっさゆっさと一夜の肩を揺さぶり出した。その振動で一夜はりんごを落としそうになるが、絶対に手放すものかと根性で最後まで口に入れた。
「きゃあーうそー! ついにー? 遂に何か既成事実がー、あらそうー、やだいやーん」
落ち込んでいた筈の千菜が、何故かまるで噂好き世話好きのおばさんのように眼をらんらんとさせて、肩を掴んだまま隣から一夜を覗き込んでくる。
思えば彼女は以前から一夜と源二をそういう仲にしたがっていたようだった。彼女と同じ年齢である千菜としては、「男子高校生と二十七歳OLの禁断の恋!?」といった普通なら許されないことを夢見ていのだろうか。何故かきらきらした、恋に恋する少女のような眼をしていた。
「何があったか、ちゃんと夜聞いてあげるからね! あーそー、ふーんそー、やっぱりねえー」
うんうんと至極納得したように、千菜は既に食べ終えたランチボックスを片付けている。
――『やっぱり』……?
北條と言い、千菜と言い、本当にどうして自分たちのことをそう思うのかと一夜が尋ねようとした瞬間、
「この暑いのに外で食っているのか?」
思い切り「オンナノコ」の世界に浸っていて周りの見えていなかった二人は、突然振ってきた声に驚いて顔を上げた。
「室長!」
二人を見下ろす、夏でもどこか涼しげな顔の長身の男――上司の北條に屈託なく笑顔を向けたのは勿論、千菜の方だった。
「女子高校生みたいだな。日に焼けるぞ」
そう言うと北條は、パックの冷たい緑茶を二本、一夜と千菜に手渡した。
「おごりですか?」
「違う。向こうの課で会議用に準備したけど余ったそうだ」
それを受け取りながら尋ねる千菜の言葉をあっさりと否定すると、その課と何か話でもして来たのか、書類の束で自身を仰ぎながら北條は二人の前から立ち去って行った。
「ありがとうございますー」
その背中に千菜が礼を言い、一夜も慌ててぺこりと頭を下げる。
その遠ざかる背中を見ながら、千菜が小さくため息をついた気がして――。
それに気付いた一夜はまさか、な……と、首を傾げていた。
◇拍手&簡易メッセ◇
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