第17話 一夜明けて…
――もう、朝が来なければいいんじゃないかと思った。
そうしたら、一生夢の中に居られる。
しかし一夜が眼を覚ますと、夏の朝日がきらきらと容赦なく飛び込んできたのだった。
眠れなかった―と思ったけれど、やはりいつの間にかうとうとしていたらしい。昨日の朝も同じように眠れなくて逆にあっさりと起きれたが、今日は更に昨日以上に早く起きてしまった。
……本能的にどこかで、『彼』に起こされるのを恐いと思っているのだろうか。
台所からは朝食を作る音が聞こえてくる。どんなことがあろうと、彼は自分自身を崩さないタイプなんだろうな、と思う。自分とは正反対だ。
なのに、どうして、自分なんかを……。
そう思うと一夜はたちどころに昨日の全てを思い出し、恥ずかしくなりそわそわと落ち着かなくなる。申し訳ないが昨夜、北條から再度告白されてしまったことも吹き飛んでしまうほどの衝撃だったのだ。
まさかあの日拾った子供に、自分がそんな対象に見られる日が来るとは思わなかったし、あんなことをされるとも――。
昨夜の唇の感触までを思い出し、一夜は赤くなった顔を再び枕に押し付け、ばたばたと暴れる。
そのこと自体も恥ずかしいし驚いたが、昨夜の自分でも分からない感情を全て吐露してしまったことに対し、彼はひとつも怒らなかった。そのことにもまた驚きと安堵を感じるうえに、それもまた自分への気持ちのひとつの表れかと思うと気恥ずかしくもなる。
あの嫉妬も劣等感もまだくすぶりは残っているけれど、彼によって全て受け入れられてしまった―そんな気がした。そう思うとある意味自分よりも大人なんじゃないかと思い、そう思うとなんだか妙にドキドキしてくる。
その時だった。ごんごんと部屋のドアが叩かれ、
「おい、起きてんのか」
ドアの外からあの低い声が聞こえてきた。突然の音に一夜はびくうっと驚き、そのままベッドの上に正座して、思わずシーツでキャミソールの胸を隠しながら、
「おおお起きてるー」
とどうにか返事をした。
「朝メシ出来たぞ」
声の主はそれ以上何を言うこともなく、部屋に入ってくることもなく、立ち去っていったようだった。
……源二も、気ぃ使ってんのかな…。
頬を叩いてしまったのはこっちなのに(いや向こうが悪いんだけれど)、相変わらずいいヤツだなあと一夜は思った。
そして身体からシーツを下ろし、ハーフパンツを脱ぎ捨て、キャミソールと下着姿で今日着ていく服を漁りながら更にふと思う。
……っつーか、この格好で今までうろうろしてたんだよな…。
押さえつけられ身動きが取れなかった強い力、この胸に一瞬触れた大きな手のことを思い出してはぞくっとする。
洗濯物とかも…基本的に私がやってたけど、私が遅い日とか取り込ませてたし…うむむ。
それらのことも、あの仏頂面の下でどう思われていたのかと思うと、非常に不思議だしよくないことをしていたような気分になる。
だけど、意外に不快感はなかった。嫌われるよりは特別に想われている方が、はるかに嬉しい。
昨日の彼の告白染みたものにどう答えたらよいのかわからない一夜であったが、それだけは思った。
だが、自分が彼の気持ちにこのまま答えなかったら、天気のように彼の気持ちも移ってしまうかもしれないが。
――どうしたら、いいんだろう……。
他の女の子には眼を向けて欲しくないと昨日宣言してしまった。だからと言って―…。
自分で自分の気持ちが分からないのは朝が来ても同じまま、一夜は大きなため息をついた。
その時、ドアが再びどん!と激しく鳴った。
「早く食わねーと遅刻するぞ! アホ!」
「朝からアホアホゆーな!!」
……こん、の…!色気の欠片もない…!
真面目で口の悪いのはちっとも変わらない少年の態度に、本当にコイツは私のことが好きなのか…?と疑問に思い始める一夜であった。
だがおかげで部屋から出るきっかけがつかめた。着替え終わった一夜は、既に朝食を食べ終わったらしい少年の前に顔を出す。
「おはよー……」
「おー」
源二が自分の顔を見ないのはいつものことである。台所のテーブルに、所在無く一夜は腰を下ろした。すぐさま白いご飯と味噌汁が乱暴に置かれた。
今朝はベーコンエッグだった。更には生野菜と、ご丁寧にうさぎに剥かれたりんごまで添えられている。無駄に、豪華だ……。
やっぱりゆうべのことは、彼もそれなりに意識しているのだろうか?と思い一夜がこっそり顔を上げると、源二と眼が合ってしまい、その顔も唇も、肩も腕も、全部直視出来ずに、一夜は顔を背けた。
しばらくの沈黙の後、
「――…あのさあ、」
先に口を開いたのは源二だった。
「ははははははい!!?」
それに対し一夜はひっくり返ったような声で返事をしてしまった上に、持っていた味噌汁も零してしまう。
恥ずかしさやら戸惑いやらで真っ赤になっているそんな一夜のリアクションを、驚いたように見ていた源二は短くため息をつくとこう言った。
「俺、今日からしばらく友達の家に泊まるから」
「え……?」
零した味噌汁を拭きながら、一夜は驚いた表情を源二に向けた。彼は少し困っているような笑みを浮かべていた。
「どーして……」
「その方が、お前もいーだろ。少し頭、冷やしてくる」
彼もまた昨夜のことを思い出してしまったのか、源二は照れたように頭を掻くと一夜から目を逸らした。
「でも……」
確かにいい大人だと言うのに、あまりに突然な昨夜の出来事に情けなくもこれだけ動揺し意識してしまっているのは事実だ。
ほっとしている筈なのに…なんなんだろう、この不安と罪悪感は。彼が居なくなることが妙に不安だった。もう、このまま帰ってこないような――。
告白されて戸惑うのも事実なのに、自分の傍にも居て欲しい。
そして子供である彼に、ここまで気を遣わせているという申し訳なさも確かにあった。
なのに何を言えばいいのか、どうしたらよいのか、自分でもよくわからず、ただ悔しくて一夜は唇を噛む。
「まあ夏休みだし。それに友達っつってもバイト先の先輩の家だけどな」
彼は一度こうすると決めたら曲げない。そしてしっかり者なので、既に昨夜のうちに段取りも組んでしまっているようだった。
心配そうに自分を見上げた一夜に、源二は嘘のない真っ直ぐな視線を向けるとこう言った。
「べっつにヤケになってグレたりしねーよ。お前の心配してるようなことは、しない。約束する」
また少し笑ったその笑顔が、昨日までよりもどこか大人びたものに見えた。
それは長年、内に溜め込んでいたものを吐き出して、彼もまたすっきりしたからだろうか。
源二は源二で、ここで自棄を起こして子供染みた行動に走れば、一夜の中での自分への信頼度が下がるだけで何にもならないということは分かっていた。
だから焦りや憤りややるせなさなどを懸命に抑えるために、この決断をしたのであった。
少年の決めた固い意志に、一夜はこくんと頷くほかなかった。
・・・・・・・・・・
「おはよーございますー……」
そして朝から暑い日差しが照りつける中、一夜は普段どおりの時間に出勤していった。
必要以上に愛想を振舞わない一夜の心情の変化は、余程彼女のことを知り尽くしているか、観察していない限り気付かれることはない。
――そう、あの男のように……。
ふと顔を上げれば、室長席に座る北條と眼が合ってしまい、一夜は明らかに『作った』笑顔でぺこりと会釈した…ものの、明らかにそれが作り笑いだとバレてるなーと自分でも感じたが、
『うおおおすみません、室長、お約束したのに元気な顔で出勤してくるどころか、室長の仰るとおり、あの坊主と妙な関係になってキスまでしてしまいました〜』
などと勿論言えるわけもなく、今度は北條に対する罪悪感に心を痛めながら一夜は席についた。
そして自分の前の席には、昨日休みをとった千菜が既に座っていた。彼女もまた頬杖をついて、はあ、と大きなため息をつき、ばちっと一夜と眼が合った。
知り尽くしている、と言えばある意味最も互いを知り尽くしているのは、この彼女と、かもしれない。
一夜は千菜にも昨夜何かあったことを察し、自分にも何かあったことを察されたな、と思った。
と言っても恋愛に対しては奥手でも、一端の社会人であるから干物女な一夜にもそれなりに仕事に熱意もある。仕事中はそんな悩みも見せず、いつもどおりの『鎌田一夜』の看板を背負って仕事をこなすだけだった。それは千菜も同じであった。
そして昼休みになった。
昼食は事務所のメンバーで交代で取っているが、今日の休憩は丁度正午からの正規の昼休み時間にもらえた。事務所で急いで弁当を食べる日もあるが、仕事の手が空いたのもあり、示し合わせるでもなしに一夜は再び眼が合った千菜に、死角となる事務所裏の中庭まで、弁当と一緒に引っ張られていった。
「何か、あったね……」
「…そちらこそ」
互いに家から持ってきた弁当をもそもそと頬張りながら、ベンチの上で肩を突き合ってぼそぼそと呟くOL二名。
採用されて以来、価値観が合ってどんなきつい仕事も笑い飛ばして協力し合ってきた。女性ながら深夜に及ぶ仕事もあれば、肉体労働もあった。その幾つもの死線を超えたという連帯感と、女同士という共感が友情を育て、互いの小さな変化も分かるくらいまでになっていた。
かと言ってこのような場所で深い話もできない。千菜がサンドイッチを手にぽつりと呟いた。
「今夜、飲みに行こっかー」
「……いいよ」
一夜にとって外食は二日連続になってしまうので家計上よくないのだが、どうせ源二もいないのだ。昨夜からの新たな不安を忘れたかったし、千菜にこんなことを話していいのかはわからないが、やはり誰かに話は聞いて欲しかった―今度こそ北條に話せる内容でもないし。
一夜の即答に千菜は驚いたようだった。
「源二くんは、いいの?」
昔から食事当番がどうこう言って、急な飲み会は中々応じてもらえないことが多かったからである。
「………」
どう答えてよいか分からず一夜は黙り込んで俯くと、しょり、とうさぎに剥いてもらったりんごを齧った。…朝のは弁当の残りだったらしい。
「って、あああ〜!! なんかあったんだあ〜!!」
すると途端に千菜は非常に嬉しそうな顔になると、ゆっさゆっさと一夜の肩を揺さぶり出した。その振動で一夜はりんごを落としそうになるが、絶対に手放すものかと根性で最後まで口に入れた。
「きゃあーうそー! ついにー? 遂に何か既成事実がー、あらそうーやだいやんー」
落ち込んでいた筈の千菜が、何故かまるで噂好き世話好きのおばさんのように眼をらんらんとさせて、肩を掴んだまま隣から一夜を覗き込んでくる。
思えば彼女は以前から自分と源二をそういう仲にしたがっていたようだった。自分と同じ年齢である彼女としては、『男子高校生と二十七歳OLの禁断の恋!?』といった普通なら有り得ないことを夢として見たいのだろうか。そんなきらきらした、ある意味では夢見る少女のような眼をしていた……。
「何があったかは、ちゃんと夜聞いてあげるからね! あーそー、ふーんそー、やっぱりねえー」
う んうんと至極納得したように、千菜はランチボックスを片付けている。
――『やっぱり』……?
室長と言い、千菜と言い、本当にどうして自分たちのことをそう思うのかと一夜が友人に尋ねようとした瞬間、
「この暑いのに外で食ってるのか?」
思い切りオンナノコの世界に浸っていて周りの見えていなかった二人は、突然振ってきた声に驚いて顔を上げた。
「室長!」
二人を見下ろす、夏でもどこか涼しげな顔の長身の男―北條に屈託なく笑顔を向けたのは勿論、千菜の方だった。
「……女子高校生みたいだな。陽に焼けるぞ」
そう言うと北條は、パックの冷たい緑茶を二本、一夜と千菜に手渡した。
「おごりですか?」
「違う。向こうの課で会議用に準備したけど余ったそうだ」
それを受け取りながら尋ねてくる千菜の言葉をあっさりと否定すると、その課と何か話でもして来たのか、書類の束で自身を仰ぎながら北條は二人の前から立ち去って行った。
「ありがとーございますー」
その背中に千菜が礼を言い、一夜も慌ててぺこりと頭を下げる。
その遠ざかる背中を見ながら、千菜が小さく小さくため息をついた気がして――。
それに気付いた一夜はまさか、な…と、首を傾げた。
|