「えっと……」
一夜は視線を泳がせた。何をどう言えばよいのか分からない。今夜の相手が北條であったことを、源二に見られてしまっただろうか。
――嘘をついたのはよくないことだ。しかし自分が誰と何をしようが、彼だって知らない少女と過ごしたことはあるわけだし、報告する義務もない関係なのだから、何も問題はない筈……。
そう思うのに一夜の居心地が妙に悪いのは、源二が一言も発さず、そして苛立った空気が隠しもせずに伝わってくるからだ。
源二は何も言わずに一夜に背を向けると、家へと歩き出した。
「待ってよ!」
――怒ってる。
それだけは長年の付き合いから直感で分かった。
北條を嫌っているからか、一夜が嘘をついたからか。一夜は少し焦ったように、彼を追いかけた。
アパートの階段を無言で上り、鍵を開けて家に入った源二に続いて一夜も帰宅する。鍵を掛けた一夜が部屋の中に視線を向けると、源二はコンビニの袋をソファに放り投げ、そのまま自分の部屋に入ろうとするところだった。
朝起きられない一夜を起こす時以外は、互いの部屋は唯一のプライベートな空間であり、絶対にそこへは入ってならない、というような暗黙の了解があった。よって源二が部屋に入る前に一夜は呼び止める。
「何怒ってんの!?」
源二は足を止めた。
「――別に」
だが彼女の方は見ずに、そのまま部屋のドアノブに手を掛けた。
「嘘だ! 怒ってるじゃないか! な、なんで私が怒られなきゃいけないんだよ!」
源二が怒るのはよくあることであるが、それは一夜が飲みすぎたり、ぐうたらしていたり……と完全に彼女が悪い時であり、怒ると言っても心配が混ざっていることは分かるので、それほど恐いとは思わなかった。
だが今夜に限っては、そういった理由ではなく静かに、かつ本気で彼が怒っていることが嫌と言うほど伝わってくる。その恐怖を振り払うように、一夜はむきになって叫んだのだった。
「なんで」の一夜の問いに源二は彼女の顔を見ないまま、居間のソファへどかっと乱暴に座ると、
「べっつに怒ってねえよ」
ぶすりとした声でそう吐き捨てた。
彼が座った振動で、かちゃん、と瓶と瓶が触れ合う音が持っていたコンビニの袋から聞こえた。立ち尽くす一夜がちらりと確認した茶色の小瓶。一夜が友達と飲みに行ったのではないかと思っていた源二は、彼女が飲み過ぎることを見越して胃腸薬を買いに行っていたらしい。
そこまで気を回す少年に対し、一夜は自分が嘘をついたことは確かに申し訳なく思った。自分を心配してくれていた彼の気持ちを思うと、その怒りももっともな気がした。
一夜が自分の方を見ようともしない源二に何か言おうとした時、彼の方から肩を竦めて嘲る様に、はっと笑うとこう言った。
「付き合う気ねえとか言いながら、上手くやってんじゃん」
やはり北條と一緒だったところを見られたのだろう。
確かに一夜は北條に告白されたものの付き合わない、と彼にはっきり言った。互いに誰と恋愛しようが自由で、報告し合う義務もない筈なのだが、一夜が「嘘をついて出かけたこと」を、真っ直ぐな性分の源二は怒っているのだろう。彼女はそう思っていた。現に彼もまた嘘をつかない人間だからだ。しかし一夜は源二の口調にむきになって言い返す。
「ただ夕飯食べに行っただけじゃん! 今夜だけだよ。別にそんなんじゃない!」
「へー、どうだかね」
彼女の眼を見ないまま、さも北條とこそこそ付き合っているとでも言わんばかりに厭味な言い方をする源二に、一夜は段々腹が立ってきた。
―― 一体、誰の所為だと思ってんだよ……!
別に室長がよくて出かけたんじゃないやい! そもそも……。
「……なん、で、男とごはん食べに行ったくらいで、そんな言い方されなきゃいけないわけ……!」
一夜の声が震えてきたので、源二は思わず彼女を見た。一夜は棒立ちになったまま、フローリングの床を見つめていた。
「源二なんか……、源二なんか、もっとやらしいことしてるくせにっ!」
「――」
源二が息を飲んだような音が、俯く一夜の耳に届く。
「なんだよ、それ……。俺が、何だって?」
その言葉に彼は更に怒りを募らせたようだった。
――言っちゃった…!
一夜はさあっと冷や汗をかいたが、もう引っ込みがつかないところまで来てしまっている。彼女は昨日からの……いやもっと前からの――和歌が現れてから、北條に告白されて二人の関係を否定された時からの苛立ちのままに、思わず十も下の少年に、八つ当たりのように今までの気持ちをぶつけてしまった。
「いーじゃん! 源二なんてまだ高校生のくせに、あの付き合ってた和歌ちゃんって子と、いろいろ変なことしてんでしょ! だったら私が室長とごはん食べにいくくらい、いいじゃないかっ! そっちのがずっとすごいことしてるくせにっ!!」
言いながらなんて低俗で子供染みた罵声を、自分が守ってきた筈の子供に浴びせているんだろう、と一夜は情けなくて頭がくらくらしてきた。
だが実際、「身体の関係を結んだかもしれない」という可能性の時点で、もうこの少年が「子供」には見えない――「男性」に見えてしまったのも事実だった。そこに一夜が元々持っていた性的なことへの苦手意識が、「子供のくせに」「自分が守ってきたのに」と源二に対する妙な劣等感として増幅してしまっているのだった。
混乱した一夜は思わず叫んだものの、
「なんで、そう断言できんだよ……」
源二の怪訝そうな声に、同時に自分の卑怯な行動も明かしてしまったことに、気付いた。
源二の顔を直視出来なくなってきた。逆に彼は一夜の真意を探るように、じっと視線を注いでいる。もう誤魔化しきれない、どうにでもなれ! と、彼女は自棄くそのように一気に告白した。
「ご……ごめんなさい! つ、つい、携帯見ちゃった……の!!」
「……」
源二は何も言わなかったが、きっとこんな変なことをした自分を軽蔑するだろう、と一夜は覚悟した。
もう保護者として一夜を信じられなくなるだろう。一夜自身が彼の信頼を失うような行動をしたのだ。
――こんなことして……「女」として嫌悪されるべきは、自分ではないのか?
破れかぶれになった一夜は、源二から何かを言われることが恐く、軽蔑と失望の視線を向けられることすら恐く、彼の方を見ずに一気に畳み掛けた。
「携帯見たのは謝る! ほんとにごめん!! でも、なんかイヤだったんだもん!」
――もう軽蔑されついでだ。どう思われてもいい。もう取り返しつかないことをしてしまったのだ。
ただ悶々と悩み続け、自分でも分からない行動を取ってしまう苛立ち。今まで自分の中で存在し得なかった不思議な感情が募りに募って、それに翻弄されストレスが溜まっていた一夜は、知られてしまったことで完全に自暴自棄になっていた。
「先にあの女の子とこそこそ付き合ってたの、源二じゃないか! そのくせあの子のこと好きじゃないとか言ってるくせに、どーせ、やらしいこともしちゃったんだろ!? あんな、かわいい子に誘われて、今時の男子コーコーセーが断るわけないじゃん……!」
和歌からの過激な携帯メールの文面がちらつく。それにどう返信したんだろう、彼はそれを見てどう思ったんだろう。
――情けない。大人の癖に、私は子供に何て汚いことを、言ってるんだ。他人のプライバシーに土足で立ち入っているだけじゃないか。
なのにそんな自己嫌悪する理性に対し、感情が全く制御できない。
「わかっている、そんなの源二の自由だ。そうしたけりゃ、すればいい。……でも、なんか、イヤだったんだ……!」
――その手で、その身体で、彼女に触れていたと思うと……許せない。
自分だけは同属だと思っていたのに、自分には向けない表情を他人に向け、自分が聞いたことのない声を別の少女に発していたと思うと、まるで子供のように、寂しくなる。
「まだ子供のくせにって、思って、考えると気持ち悪くて、悔しくって……、でも源二が誰かとそういう関係になるのは、この先大人になればあることだから、それはもう仕方ないことだから、それが少し早くなっただけかもしれなくて……。だから私もって、室長とごはんだけ出掛けてみたけれど、室長優しいのに、それなのにダメで、何か違って面白くなくて。自分でもどうしていいか分からなくて……」
一夜にももう、自分が何を言っているのか分からない。だが思っていること、劣等感、嫉妬等の醜い感情の全てをこの守るべき少年にぶつけてしまった。
先ほど彼と向き合おうと思っていたが、こんな風に爆発するつもりはなかった。
あの小さな手を引いた日から、守ってきたのに。守ってあげたかったのに。その気持ちがいつの間に、こんな醜いものになってしまった? これこそ、ただの「女」の嫉妬ではないか。
そんなことはあの日、一夜を信頼してついてきてくれた子供に対する、裏切りだ。
そんなことをした自分への、失望。
一夜はこんなことを言ってしまったショックの余り、そして緊張の糸が切れたように、その場にぺたんと座り込んだ。源二の顔など、もう見れない。床に手をつき、下ばかり見つめる。
――ごめん、ごめん……。今更、少年に対し謝罪の言葉だけが浮かぶ。
あの日、ひとりぼっちの彼を救ってあげられた、敢然たる大人のままで居たかった。どうして、こんな風になってしまった?
他の男と出かけて怒られて、逆ギレして。こっそり調べた相手の女性関係を晒して貶して、そして痴情の全てを相手に甘えてぶつけて――。
――保護するべき子供に自分は何をしているんだ。こんなの、「子供」に対してじゃない。まるで……。
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