就業後、夏の空がようやく薄暗くなった午後七時。北條に指定された、職場から少し離れた場所で一夜は彼の車に乗った。
「……弟君は、いいのか?」
以前、源二を理由に彼の誘いを断ったことから第一声にそれを尋ねられる。
「いいんです」
一夜は即答した。それは北條に、彼との間に何かあったことを知らせるようなものである。それが分かった彼女は、すぐに、
「友達と、夕食食べに行くって言いました……」
とその空気を誤魔化すように付け足した。
北條とのことを前向きに考えてではなく、源二と何かがあったからこそ彼を誘ったということは、北條にとっては本意ではない。しかしこれ以上一夜を悩ませたくないと思ったのか、彼はそれ以上何も言わなかった。
ちなみに一夜が源二にもそのように「友達と行く」と嘘をつき、北條と行くということを言わなかったのは、源二が彼を快く思っていないから、というのもある。
男性と夜二人きりで出掛けると言う状況であるにも関わらず、一夜が浮かれていたりときめいたりしているということは全くなかった。
寧ろ今日のことは、心のどこかで、源二だって可愛い女の子とあーんなことやこーんなことしてんだから、別に私だっていいじゃん、教育上悪いなんてもう関係ない、本人がまだ子供のくせにそんな変なことしてるんだし――とまるで拗ねる子供のように自棄くそな気持ちになったからであった。
そして彼によって見せつけられた、男女の恋仲になるということがどういうことか、入り口だけでも知りたかったというそれこそ子供のような好奇心で今、一夜はここにいた。
それに今日は家に帰りたくもなかった。今は源二の顔を見たくなく、彼の携帯電話を見てしまったという罪悪感も残っていた。と言って外泊するつもりはないので、ただずるずると帰宅時間を延ばしているだけにすぎないのだが……。
そのような理由で北條が向けてくれた好意に甘えるのは失礼な話であるが、昨日からの気持ち悪い、行き場の無いこの悔しさ――つまりは嫉妬なのだが――に対し、一夜は今、他に頼れる人間を見つけられなかったのだった。
しかし確かに北條には申し訳なく思い、誤解されても困ることだ。一夜は正直に全てを話そうと口を開いたが、その前に北條の方から尋ねられた。
「鎌田は何が食いたい?」
「え、と……、」
ただ単に家に帰りたくないだけだった一夜には、もちろん何のデートプランもない。源二と行けばラーメン屋か安くてお変わり自由の定食屋、千菜や仲間と行けば居酒屋という具合なので、いざ男性とニ人で何処に行けばよいのか分からない。
困ってしまった一夜の様子が余りに彼女らしく、北條は苦笑する。
「酒でも飲むか?」
ただこの質問には、
「いえ、結構です……」
先日のことを思い出し、流石に一夜も頬が引きつった。
そして結局答えられないままの一夜であったが、北條は職場から車で四十分ほど離れたところまで来ると、一軒の店の前に車を止めた。
「酒飲める店だけど、飯も美味いから」
そこはまだ新しい店であったが、だからと言って派手な装飾などはない落ち着いた雰囲気の建物だった。彼に誘われて一夜はたどたどしく店内に入る。北條が入り口で店のスタッフに何事か言うと、二人は個室に通された。
「室長、VIP待遇ですか……」
オレンジ色の柔らかい光が和紙から透過される、静かで小粋なしつらいの席に座りながら、一夜は感嘆のため息を漏らした。
「平日だから、たまたまだろう」
北條は笑うと、彼女にメニュー表を渡した。
――て、手馴れてるな……、と一夜は思わず心の中でファインティングポーズをとりそうになっていた。
男と女の駆け引きはこうでなければいけないのだろうか。源二とラーメン屋でチャーシューを取り合った過去が、一夜には妙に懐かしくなってしまっていた。
そこでふと気付く。――自分は源二に嫉妬してここにいる筈なのに、何故彼のことを考えているのだろう、と。
メニューを見ているのに心は違うことを考えている一夜の浮かない表情を、北條は片手で頬杖をついて眺めていた。
・・・・・・・・・・
「今日は私の都合で、突然付き合ってもらってすみません……」
一夜がようやく北條に話を切り出したのは、一品料理を何品か頼み、他愛無いことを少し話した後、一品目が運ばれてくる頃だった。北條に対しひとりの男として失礼なだけでなく、プライベートの事情で上司に当たる男を巻き込んでしまっていることも、よくないことだと感じていた。
「別に。半分諦めていたから、鎌田に頼られるのは嬉しいよ」
それはやはり告白めいたもののことを指してのことだろう。自分への気持ちが変わっていないという男の意思表示に、そういうつもりではなかった一夜は、申し訳なさにぐっと押し黙る。
「あ、あの、返事をするとかではなくて……」
中性的なところがある割には、すっぱりと彼を拒絶することも何処か悪くてためらわれ、運ばれた綺麗な料理を睨んでぶつぶつと言う一夜に対し、
「ああ、分かってる。俺に何か相談したかったんだろ? 京屋千菜も今日は休みだったしな」
北條はあっさりそう言うと、「食べれば?」と促した。
――室長は、やっぱり大人だなあ……。
一夜は心の中で感動していた。自分の感情を出さずに、相手が話しやすいように切り出してくれる。この男に恋愛感情はなかったが、先輩・上司としては確かに尊敬に近い憧れを抱いていた。
と言っても実際はこの男も悩みの原因の一端ではあるのだが。とりあえず今悩んでいる昨日からの疑念について、一夜は遂に口を開いた。
「やっぱり男の人は、好きな人とじゃなくても、『しちゃえる』んでしょうか」
「……?」
思わず口走ったはいいものの、一夜はしまった、と思った。余りに悩んでいたので正直に言ってしまったが、その直接的過ぎる質問に北條はまたもや面食らい、きょとんとしてしまったからである。
悩んでいたと思ったら、こんな変な質問を唐突にしてくる一夜に彼はさぞかし呆れていることだろう。
別に彼に好かれたい訳でもなし、答えが返ってこなければ、それはそれまでのこと――。一夜はそう思っていたが、やがて北條はゆっくりと口を開いた。
「……人に、よるんじゃないのか」
それは確かに、北條らしい無難な答えだった。
タイミングよくその答えの後に、二品目、三品目が続けて運ばれてきた。
恥ずかしいは恥ずかしいものの、一度口に出したらもうこういう話をする度胸がついた一夜は空腹だったことを思い出し、「確かに、そうですよね……」と呟きながら食事に箸を伸ばした。
「そういうことが、あったのか?」
同じく箸を出しながら、少々不機嫌な声で北條が尋ねてきた。今の流れでいけば、一夜がそういう男と関係を持っているのかと捉えられてもおかしくない。
「ちちち違います! 私のことじゃないですよ。人のことだから、分からないんですよ」
北條に特別好かれたい訳ではないが、自分が遊んでいる女だと誤解されるのが嫌で一夜は慌てて否定する。
北條は一夜をちらりと見た。一夜のことではないとすると――といった、何かに勘付いているような表情であったが、彼女はそれに気付かず、反動で大きく息を吐きながら言った。
「……私、もうこんな歳なのに、今まで全然興味なかったから、そういうことに疎いんですよね。だから男の人の気持ちとか、ちっとも分からないんですよ」
淡い明かりの中で、黒く長い髪がさらりと落ちるその姿が北條の目に映る。
「今まではそれでもいいや、って思ってたんですが……」
一夜はそう言うといったん言葉を区切り、自嘲的に笑った。
――そう思えなくなったのは、最初に眼の前の北條に指摘をされてからだ。
現実離れしたことを願う、一夜。それでも源二は傍に居ると言ってくれた。だから自分は今のままでいいんだと思おうとしたが、その彼自身が、一夜を取り残して既に現実の中に行ってしまっていた。それは北條に指摘をされた以上にショックなことだった。
彼女は自分だけが取り残されたような気がしていた。最も身近な存在だった年下の源二への絶望や嫉妬を、勝手に彼に押し付けていた。それらは全部、彼女が逃げてきたことだけが原因なのに。
だが一夜は恋など知りたく無い、と未だに逃げ続けているため、彼とのこの経験の差はいつまでも埋まらないだろう。年下のくせに、と自分が保護してきた少年だからこそ、彼女は益々悔しく思う。
とりあえず擬似的な恋愛経験だけでもしてみたいと思い、また誰かに話を聞いて欲しかったこともあり、今夜は北條を頼り、傍にいるのだが……。
「よく言いますよね。二十代後半の女のケーケンない奴なんて重いって」
恥ずかしながら、この歳まで一夜は恋をしたことがない。小学校の時に男の先生に憧れたとかそういうのではない、男と女がする恋愛のことだ。
一夜にとって北條は人として憧れはするが、彼のことを求めたり焦がれたりはしていない。和歌のように相手の心だけでなく身体も欲し、自分も愛して欲しいと思うような、激しい恋も分からない。
両親の離婚は、確かに一夜を男嫌いにはしていた。
一旦は愛されても、結局裏切られる。それよりも自分ひとりで生きていこう、少女だった一夜はそう思った。
だがひとりぼっちは寂しかった。だから同じひとりぼっちだった源二を見捨てておけず、共に暮らした。彼を守ることで、彼女は自分自身の居場所を作っていた。彼との空間はとても居心地がよかった。
しかし源二は立場的にはまだ「子供」であっても、いつの間にか大人へと成長していた。一夜が避けている「外」との関係を求め、彼女を追い越していた。
――こうして眠り続けて、未だ大人になれない、人を愛せない自分なんかとは……違う。
これはきっと、ただ単にずっと子供だと思っていた、そして勝手に「ひとりぼっち」の同属意識を抱いてきた、源二に対する劣等感なのだろう。
彼は「ひとりぼっち」の一夜にとって、同じ立場の特別な存在だった。だが彼にとって自分は違っているのではないか。それがただ、悔しかったのだ――。
北條と話しているうちに気持ちが少し整理されてきた一夜は、何処か泣きそうに笑った。
一夜の悩みの全ては北條にも分からないが、彼女の「悩みの種」――最も彼女に近しい存在――には大体見当がついており、彼女が一般的な女性に対し、劣等感を抱いていることは察することが出来た。
北條は想い人に彼が思っていることを正直に伝える。
「それも、人によるんじゃないのか」
「え?」
「『経験ない女が重い』、ってやつも」
「……」
優雅に箸を運び淡々と答える北條を、一夜は思わず箸を止めて見た。
「傾向として男にそういうところがあっても、肝心なのは自分の好きな相手がどう考えているか、が大事だろう?」
「――」
――そうか……。
「……室長は、やっぱり、すごいですね」
一夜は少しだけほっとしたような笑顔になると、再び食事に手を伸ばした。
自分を卑下する前に、相手の気持ちを確かめろ――北條の言葉をそう解釈した一夜は、彼の言うとおりであると思った。とりあえず疑念を抱いているだけで、源二が事実、和歌とどういう関係であるのかは明らかでないのだ。
――私なんかに話したくもないだろうけど、疑っていてもきりがないから、真実だけは確かめてみようかな……。
かと言って、「やりまくってます」と彼に開き直られてもショックだが、源二の行動や気持ちを勝手に想像して勝手に盛り上がっているだけなのは事実。確かめようとするとまたこの前のような恐い雰囲気になることが予想され、少々緊張するものの。
そんな風に北條に慰めてもらっているにも関わらず、他の男のことを延々と考えている一夜であったが、
「少なくとも、俺はそんなこと気にしないがな」
その言葉に顔を上げると、いつの間にか箸を置いた北條が真剣な眼で見つめていた。
彼の気持ちを差し置いて自分のことばかり悩んでしまっていた一夜だが、そこで急に彼の気持ちが本気のものであることを伝えられ、今更ながら二人きりの状況に頬を赤く染めた。
なんのことはない。今までの言葉は、全て彼自身の考え方であったのだ。
――そりゃ、そういう考え方をしている室長は、本当にいい人だと思うけれど……。
熱い視線に耐え切れず、一夜は俯いた。
職場ではない今は逃げることを許さず見つめ続ける北條が、やがて机の上の手を動かそうと力を入れた瞬間、一夜はぽつりと呟いた。
「室長は、私なんかのどこがいいんですか……?」
◇拍手&簡易メッセ◇
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