永遠の空に、貴方を想う。
2008.08.18公開/2009.02.24移転
魂の存在というのは、科学では証明出来ないものらしい。彼が前に言っていた。
熱烈な科学教信者の彼は、強烈にリアリストかというとそうでもなくて、けれども根拠のない主張にはひどく否定的ではあったと思う。
魂なんてものは存在しているはずもなく、感情というのは脳内の働きによるものでしかないのだ、と、最愛の恋人に対して声高に主張するあたり、やっぱりどこかおかしな人だったのだろう。いや、まあ。最愛の恋人、と自分で言いきる私の方がおかしいような気はするけれども。
ああ。彼に関して過去形にするのは間違っている。彼は健在で、健康で、涙ひとつ見せずに佇んでいて。過去の遺物に過ぎないのは私の方なのだから。
例えば人間の肉体が死を迎える瞬間に、ほんのわずかだけれども体重が軽くなることがあるという。彼はそれを、肺に残った空気の重量だと言っていたし、私もそうだと思っていた。
違うらしいよ、と、彼に教えてあげられないのがもどかしい。私はここにいるのに、ここに存在はしていない。
存在は質量を伴い、感情は質量を伴わない。私の存在は質量を伴っていないので、存在しているとは言えない。少なくとも彼は、存在しているとは言わないだろう。
女心と秋の空。元々は、男心と秋の空、だったらしい。これも彼から聞いた話だ。人間が物理的に死を迎える。いつか来る別離。それがたまたま早かっただけだと、彼は冷静に受け止めているのだろうか。
覗き込み、見上げた表情からは、冷静さしか感じなかった。それを悲しいと思うのは私のエゴでしかない。彼の冷静沈着なところに私は惹かれていたのだし、ここで涙にまみれた姿を見せられたらそれはそれで幻滅していたような気もする。
彼は私のことを、もう過去の存在だと割り切っているのかもしれない。
男心と秋の空。移り変わりが早過ぎるような気はするけれども、これで良かったかな、とも思う。彼はこのまま歩み続けなければいけないのだから。
それなのに、私は気付いてしまった。
彼の左手薬指にはめられた指輪。
涙ひとつ見せず冷静な彼が、私との婚約指輪をはめたままにしている。これが示すことは、ただひとつ。私の存在を過去の遺物だと割り切れていない、と、いうこと。
それはとても嬉しいことでもあり、とても悲しいことでもある。私が存在していたという事実が彼を苦しめることに繋がるのではないかという、恐怖感。どこか冷静さを欠いている彼を愛しく感じる、満足感。
触れることも会話を交わすことも適わない私の、自分勝手な解釈に過ぎないのだとしても。
恋心は一種の脳内遊戯に過ぎない。恋人に向かって真面目に語る話ではないと思ったけれども、彼はそう言っていた。他人を愛しく思うのは子孫を残したいからなのだ、と。
もしもそれが真理だとしたら、今の私が彼を愛しく思う感情は、どういう理屈になるのだろう。今の私は子孫を残せない。けれども、彼を愛しいと感じる。これは矛盾なのだろうか。
多分、彼に言わせれば矛盾に他ならないと断言するはずだ。彼に尋ねてみたい。彼と会話が交わせればいいのに、と、私は切実に願ってしまった。叶わぬ願いだと判ってはいたのだけれども。
火葬場は郊外にあることが多いと思う。現に私の肉体だったものも、今は緑に囲まれた火葬場で眠っている。焼かれるまで、あとわずか。この世界に私の姿を留めていられるのも、きっと。
入れ物から抜け出した魂は、入れ物を失えば存在すらも出来なくなる。誰に聞いたわけでもないが、私はそう思うし、そうだと知っている。
きっとこれは生命に組み込まれた本能のようなものであり、要するに、私が私として思考し続けられる時間はあとわずかということだ。彼を見つめていられるのも、あとわずか。
存在しているようで存在していない矛盾した私の思考が留まり続けることは、叶わぬ願いなのだ。
最後にもう一度だけ、この世に存在していた私の姿を確認しておきたい。本当はこんな状態になってから何度となく戻る方法がないかと試していた。けれども身体を重ね合わせても、手を触れても、変な呪文を唱えても。私の身体は私の思考と合体をしてくれなかった。
私は死んだのだ、と。嫌でも自覚させられた。
ああ。何で私は死んでしまったのだろう。彼を残して。彼と共に歩む未来を捨てて。
自分の目を閉じた姿を見ることに、私は慣れてしまった。生きている間には出来るはずのない、自分の寝姿の確認。私は目を閉じるとこんな顔をしていたのだと、それだけが今の状態になって始めて知ったことだった。
私が彼に触れていたのは、今のこの魂という存在ではなく、私の入れ物、私の肉体だったのだろう。彼は私の入れ物に触れているけれども、私は彼に触れることが出来ない。彼の魂が彼の肉体から抜け出してきたら、あるいは。
否、生きている人間の魂が肉体から抜け出すことはあり得ない。身体は一種の檻だ。解き放たれ、自由になり、また檻に還っていく。
今の私は檻から放たれ檻に戻るまでの、一瞬の自由を謳歌しているに過ぎない。再び檻に入り、今の感情も記憶も全てを失い、この世に生を受ける。
そういえば彼は輪廻転生も否定していた。私も同じ考えだった。けれどもこうして魂だけの存在になり、自分の行く末を知ってしまうと、否定的だったことが愚かなことのように感じてしまう。
この世には科学では立証できない事象もあるらしい。これは、死んでから確信した事実のひとつだ。
私の肉体が焼かれたら、私の感情はどこに向かうのだろうか。彼と出会える場所で生まれたい。お互い存在に気付くことはなくても、もう二度とあのような関係に戻れなくても。
彼の行く末を見守りたいと願う。
私は、私のことを早く忘れて欲しいと願う反面、私のことを永遠に覚えていて欲しいとも願っている。いつか時が彼を癒し、私のことを良い思い出として語れる日が来るのであれば。
冷静なふりを続ける彼の本心は、私には判らない。
私の肉体の眠る棺の中に、彼が何かをそっと入れた。周囲の人間に気付かれないよう、小さく折り畳まれた手紙のようなものを。
確認したいと思った。けれども、きっと。彼が入れたのは私の肉体への贈り物であって、私のような矛盾に溢れた存在への捧げ物ではないのだ。
生きている間は私は私でしかなかったのだけれども、死んでしまった今、彼が見ている私は思考している私ではなく、横たわっている私なのだ。
悲しいことに、私は存在しているのに存在していない、存在だ。
ゆっくりと棺が持ち上げられ、私の終焉が近付いてくる。窯に入れられたらお終い。私は次の檻に向かい、彼を見ることは適わなくなる。
愛しい彼。愛しかった彼。生真面目な現実主義者で、いつも冷静で。時折、間が抜けていて。お酒はあまり強くなかった。誰よりもご飯を美味しそうに食べる人だった。
節くれだった指。お揃いの指輪が似合わない、大きな手。
きっと私に涙腺があったなら、涙を流していただろう。彼との別離がこれほど辛いなら、いっそ恋なんてしない方が良かったと思う。
彼の表情を、彼の仕草を。私は、存在しない脳裏に焼き付ける。忘れてしまうことが確実でも、今はまだ、私は私でしかないのだから。
ゆっくりと運ばれる私の身体だったもの。灰になり、彼の傍に居続けるもの。
彼が私を思い出し微笑む日が来ることを、私は願って止まない。
思考する魂が消えてしまっても、私が存在していたことは事実。彼を愛したことは事実。彼に愛されたことは、事実。
共に歩めない未来でも、彼には幸せになって欲しいと願う。最後の願い。最期の願い。せめてこれだけは、叶えて欲しい。
今日も空は青いのだから。
拙作に最後まで目を通して頂き、本当にありがとうございました。
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