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灰と王国  作者: 風羽洸海
第一部 北辺の闇
37/209

5-6. 晩鐘

 ありあわせの質素な食事でも、効果は大きかった。明日どころか今夜のことすら考える余力もなさそうだった兵たちが、目に見えて安堵し、生気を取り戻している。

 皆が充分くつろぐのを見計らって、フィンは立ち上がった。

「少し話を聞いて下さい」

 静かな声が注目を集める。フィンは全員の顔を見渡し、ゆっくり言った。

「ここからどこへ行くか、改めて一人一人に決めて貰いたいんです。ヴァルト隊長から事情は説明されたと思いますが……もし、過大な期待をされていたら、お互い困りますから」

〈レーナ〉

 呼びかけると、軽いはばたきの気配がして、ふわりと傍らに少女の姿が現れた。フィンが何を望んでいるのか、名を呼ぶだけでおおよそ伝わったらしい。

 兵士たちの凝視を浴びて、レーナは目をぱちくりさせたものの、前のようにフィンの陰に隠れることはなかった。

「彼女が、俺を助けてくれた竜です。名前はディアエルファレナ」

〈覚えてたの?〉

 小さな驚きの気配。フィンは一瞬だけおどけた微笑を浮かべ、話を続けた。

「俺たちはレーナと呼んでいます。……見ただけで、叙事詩の竜や竜侯とは随分違うと分かって貰えたと思いますが」

 そこで彼はレーナに向き直り、皆にも聞こえるように声に出して質問した。

「レーナ。君は俺を助けるために絆を結んだ。お陰で死にかけていたのが嘘みたいに回復したよな。でも、それ以外に君には何が出来るのか、教えてくれないか。つまりその……大昔の竜みたいに、竜巻を操ったり、炎や爆発を起こしたり、なにか凄い事が」

〈それはフィンの望みじゃないわ。そんな事、する必要があるの?〉

〈もちろん俺の望みじゃない。ただ人間の中には、竜は皆、そういうことが出来ると思い込んでいる人がいるんだ。何でも出来る、万能の存在だ、って〉

 フィンの説明に返って来たのはまさに、呆気に取られた、という感覚だった。レーナは金色の目をしばたき、その場の人間たちを見回して言った。

「なぜ意味もなくそんな荒々しいことをするの? 必要ないわ。せっかくここまで整った世界が、また壊れてしまう。……私たちが他の生き物と絆を結ぶ本来の目的は、力を繊細に用いるため。小さな体に宿る心を通せば、余計なものを壊したり変えたりせずに、私たちの力を解き放てるから」

 レーナの言葉にともなって、フィンの意識にひとつのイメージが浮かんだ。丁寧に細密につくられた箱庭に、ごく細い葦の管を使って川の水を流す。あるいは、扇を使わず鳥の羽でそよ風を送る。それによって新たな力が箱庭に加わり、全体を活性化させてゆくのだ。

「それじゃつまり」

 ヴァルトの声がフィンの意識を現実に引き戻した。

「敵の軍隊を焼き払うとか吹き飛ばすとか、ウィネアの街をガタガタ揺さぶって司令官のケツを蹴り上げるとかいうのは、出来ない相談ってわけだな?」

「誰かのお尻を蹴り上げるぐらいなら、出来るけど」

 レーナが真顔で応じたもので、一呼吸の間を置いて、兵たちはどっと笑いに沸きかえった。フィンも苦笑しながら、きょとんとしているレーナの頭を撫でてやる。少し笑いがおさまると、フィンは手を上げて場を静め、結論を告げた。

「そう、確かにレーナは竜だし、俺は彼女と絆を結んだ。でも、だからって何か特別な事が出来るわけではないんです」

 少なくとも今は、と心中で独りごちる。人の心が見えるだなんて、知られたらどんな反応が返ってくることか。

「このまま俺たち家族と一緒に逃げたら、全員が脱走兵として市民権を失うでしょう。代わりに得られるものといったら、闇夜の野宿でも生きて朝を迎えられるっていうことだけです。金も食べ物も、身分も、……将来の保証も、何もありません」

 そこまで言い、フィンはユーチスにひたと目を当ててから、また全員を見回した。

「ウィネアに戻りたくなった人は、こうして下さい。まず、他の誰がどこへ向かったかについては、目も耳も塞いでおくこと。そして、数日ここにとどまってからウィネアに戻って、報告するんです。俺たちを追って北へ向かったが最初の晩に闇の獣に襲われて、気が付いたらかなり南へ追いやられていた、と。負傷者が多くてその日の内にウィネアには戻れそうになかったから、一番近いこの四辻を目指し、ここの人たちに手厚く看護してもらって、やっと帰り着いた……と、そう言うんです。

 どっちにしろディルギウス司令官は怒り狂うでしょうが、少なくとも、俺たちに追いついていながらおめおめ逃したと言うよりは、ましな処遇になるはずです」

 そうすれば、口封じに殺す必要も、殺される必要もない。お互いにとって良い方法のはずだ、とフィンは言外に滲ませた。だが伝わっているのかいないのか、ユーチスはただ唇を噛んでうつむき、上着の裾を捻り回している。

「俺は逃げる」

 厳かに言うような内容でもないが、重々しくそう告げたのはプラストだった。弓をこつこつと爪で弾きながら、誰の目も見ずに続ける。

「北には戻りたくないし戻れない。ディルギウスの独裁にも飽き飽きだ。おまえがどこへ逃げるつもりかは知らんが、少なくとも当面は同行しよう。お互いに便利だろう」

 そこまで言って、彼はフィンを見上げて片眉を上げた。

「知ってるか、弓矢ってのは飯を調達する役にも立つぞ」

 冗談にするにはあまりに辛辣な皮肉だった。鳥獣を狩って夕餉の炉辺を豊かにすることこそが、弓矢の本来の目的だ。人殺しではなく。

 フィンはかろうじて微苦笑を浮かべ、うなずいた。

「来て貰えたら助かります」

「俺も行く」

 間を置かずにヴァルトが手を挙げた。哨戒隊の面々が隊長を見つめる。

「昨夜も言ったが、俺は到底、司令官の目こぼしを期待出来ん。する気もないがね。それにこの竜侯様は、たいしたことは出来ないと仰せられるが、なに、ただの若造だとしたって剣の腕はかなりのもんだ。ウィネアに来てわずかひと月で、二人の命を救った」

 ヴァルトは含みを持たせて「ユーチスと、俺をな」とゆっくり言った。相変わらずユーチスは顔を上げない。代わりに、追跡隊の生き残り五人の目がフィンに注がれる。フィンはどんな顔をしたら良いのか分からず、曖昧にちょっと肩を竦めた。

 そんなフィンを見てヴァルトはにやりとすると、軽い口調で続けた。

「どこへ行くにせよ、腕が立って、おつむの出来もまあまあ良くて、そうそう、それにこの兄ちゃんは飯の用意も出来るんだ。仲間になっておいて損はない。いつ、どこまでかは分からんが、俺はおまえについて行く」

 妙に偉そうに宣言した隊長に続き、部下達が俺も俺もと同意のしるしにうなずく。プラスト以外の元追跡隊も、あるいは顔を見合わせ、あるいは一人決意して、同行を申し出た。

 どのみち一人ではどこにも行けない、闇の獣に食われて終わりだ。ウィネアに戻ってもディルギウスに蹴り殺される、さもなくば追放されてやっぱり野垂れ死にだろう。せめてどこかの街に着くまでは……

 理由や思惑は様々だが、それでも、ここに残るという者はいなかった。たった一人、最後まで黙っていたユーチスを除いては。

「……僕は残る」

 聞き取れないほど小さな声だったが、それは瞬時に場を沈黙させた。全員の凝視に晒され、ユーチスはうつむいたまま、恨みがましい声音で言った。

「君と一緒に行ったって、じきに見捨てられそうだしさ。君も隊長も、どうせ皆、僕のことは嫌ってるんだ。どこにでも行けばいい。僕はウィネアに戻る」

 白けた空気が漂う。ある者は呆れ、ある者はどうでも良いと無関心に、ただ黙り込む。フィンは少し考えてから、ユーチスに歩み寄ってその傍らに膝をついた。

「今さら何を言っても意味はないかもしれない。確かに俺はあんたを好きじゃないし、一緒に来て欲しいとも思わない。でも……無事を、願ってる」

 はっ、と虚を突かれたようにユーチスが顔を上げる。フィンは複雑な気持ちを抱えたまま、それでも偽りのない本心を告げた。

「これだけは本当だ。あんたが生き延びられたら良いと思ってるよ」

「君は、……」

 ユーチスは混乱した表情で何かを言いかけたが、結局、目を背けてきつく唇を噛んだ。飲み込んだ言葉に棘があったのは、その表情からして明らかだった。

 と、そこへいきなり幼い声が割り込んだ。

「あたしも帰る」

 途端にフィンはしかめっ面になり、立ち上がった。倉庫の壁際でオアンドゥスに抱かれているファーネインが、唇を尖らせて、家来を叱責する女王よろしく彼を睨んでいる。

 フィンはため息を押し殺し、「駄目だ」と辛抱強く言った。

「ウィネアに帰ったら、ニアルドがお菓子と花束で迎えてくれるかも知れないが、飽きられたらすぐに殺されるんだぞ。仮にあいつがほかの子供に目移りしなくても、何年かしておまえが成長してきたら、おしまいだ。大人になったおまえはもう、あいつに必要とされない」

「大人になんか、ならないもの」

「ファーネイン……」

「あたしずっと子供でいいもの、大きくなんかならないわ。帰ってお風呂に入って、服も着替えて、お菓子を食べたい」

「そうはいかないんだ」

 フィンは頭痛を堪える風情で唸った。ヴァルトが、ほお、と声を上げ、ファーネインとフィンとを見比べる。

「なるほど、あの変態野郎の正体に気付いて逃げ出したわけか」

「ニアルドのこと、ご存じなんですか」

「有名だよ。司令官の甥とそのお仲間の、胸糞悪いご趣味のことはな」

 そこまで言うと、ヴァルトはよっこらせと腰を上げ、少女の前に行って屈んだ。

「お嬢ちゃん、駄々をこねて困らせるんじゃない。フィニアスの家族は優しいかもしれんが、俺は聞き分けのないガキが嫌いでね。あんまりわがままを言うなら、真っ赤になるまでケツをひっぱたくぞ。馬にも乗れなくなって歩くしかなくなるが、さあ、どっちがいい。黙って大人の言うことを聞くか、泣きべそかきながら引きずられて行くか」

 凄まれて、もうファーネインは泣き顔になっている。口答えがなかったので、ヴァルトは荒っぽく小さな頭を撫でた。

「よぉし、分かりゃいい」

 ヴァルトは素っ気なくファーネインを放免し、のしのしとフィンの横まで戻ってきた。フィンの咎めるまなざしに気付き、ヴァルトは小さく鼻を鳴らしてささやく。

「甘やかされたガキは、限度も引き際も分かっちゃいない。優しくばっかりしてたんじゃきりがないし、後々困るぞ。お互いにな」

「…………」

 フィンは口を開きかけたが、思い直してただ曖昧にうなずいた。経験談かと訊きかけて、妻子を盗賊に殺されたという話を思い出したのだ。

 そんな気遣いがばれたのか、ヴァルトはフィンの肩を荒っぽく叩いてから皆に向き直った。

「さて、もうたっぷり休憩は出来たろう。ぼつぼつ出発するぞ! 司令官に勘付かれる前に、少しでも遠くへ逃げておきたいからな。俺たちが州境に近付けば近付くほど、おおっぴらに追手を差し向けることは出来なくなる。南の本国はきなくさいし、東の丘陵じゃいつでもよそ者に喧嘩をふっかける口実を探してるからな。どこかに紛れ込んでしまや、こっちのもんだ」

 おお、だか、ああ、だか、曖昧な同意の声。元気溌剌とはいかないものの、兵たちはそれぞれ、気力を奮い起こして腰を上げた。

 荷物を持ったか、傷薬は、水は。ざわざわと互いに確認し合いながら、準備を整える。一人それとは無縁のユーチスが、ぼんやり突っ立ったまま、尻についた藁屑を払っていた。その目はかつての仲間達から背けられている。

 フィンは彼の姿を視界の端で捉え、何とも言えない気分になった。ユーチスが惨めに落ち込んでいるのではないかと慮りながら、なにげなく彼の視線を追う。そして、ぎくりとした。

 ――違う。

 仲間を見まいとしているのではない。別のものを見ている。

 ファーネインを。

(まさか)

 疑いが心に兆し、確かめたいという欲求が無意識に生じた。と同時に、視界に靄がかかる。フィンは慌てて頭を振って顔を背けた。

(駄目だ、やめろ、見るな!)

 かたく目を瞑ってうつむき、ユーチスのことを意識から締め出そうとする。

 知りたくない。これ以上、彼を疑いたくはない。疑えば確かめずにはいられない、見てしまったら警告せずにはいられない。そうなれば結局、ユーチスを追い詰めて疑った通りの行動に走らせるだけではないか。

〈フィン〉

 優しいささやきに顔を上げると、傍らでレーナが寂しそうに微笑んでいた。

〈目を背けても、何も変わらないわ。見えているでしょう?……彼はまたあなたを裏切るわ〉

〈まだそうと決まったわけじゃない〉

 フィンは即座に否定したが、己が言葉の虚しさに情けなくなった。振り払ったつもりの靄は、閉ざした扉の隙間から忍び込む煙のように、無意識に染み込んでいた。

 ああそうだ、分かっている。彼はまた裏切るだろう。その自覚もなしに、ただ正義感ゆえに、誘拐された子供を目撃したと司令官に告げるだろう。少女を望み通り街に連れ戻すのが、正しいことだと信じて。

(こんなことが分かってしまうなんて)

 感情を無理やり抑えつけ、嘆きを押し殺す。だが無駄だった。彼のやり切れなさはレーナに伝わり、ごめんなさい、と悲しい想いが返ってくる。フィンは頭を振り、レーナに微苦笑を向けると、ふわりと髪を撫でた。

「大丈夫だ」

 ささやいて、フィンは歩き出した。ユーチスの方へ。

(分かってしまうからといって、未来が決まっているわけじゃない。そうなると決め付けたら、そこで終わりだ)

 決意をかためてユーチスの肩をつかむ。彼はまるで死神に触れられたように、びくりと竦んで振り返った。フィンにまっすぐ見据えられ、ユーチスの目は怯えと警戒にせわしなく動く。

「ユーチス」

 名を呼ばれた瞬間、逃げ回っていた目が、吸い寄せられるように正面を向いて、止まった。海色の瞳に映った己自身に魅入られたかのように。

 フィンは誰にも聞かれないようにぐっと声を低め、静かにささやいた。

「俺たちは、カルスム峠を越えて本国へ行く」

 ユーチスは小さく息を呑み、瞬きもせずフィンを見つめ返した。無言のまま、石像になったように互いを凝視する。ひと呼吸の後、フィンがふっと緊張を緩めて微笑んだ。

「無事を祈っててくれ。俺も、あんたの無事を祈っておくよ」

「あ……あ、うん」

 気迫に呑まれ、ユーチスは半ば呆然と答える。フィンは相手の肩をしっかりと叩いてから、手を離した。


 それから間もなく、逃亡者の一団は一人を倉庫に残して旅立った。

 四辻を西へ。すなわち、大陸の西端コムリスの町を目指して。

 フィンと並んで先頭を歩きながら、マックが不安げにちらっと後ろを振り返った。

「どうした、マック?」

「誰かに見られてないかと思って」

 ごまかすようにマックは言い、頭を振った。

「そうじゃなくても、足音がどっちに行ったかぐらい分かるよね」

「そうだな」

 フィンは苦笑をこぼした。マックは疑わしげにフィンを見上げて問うた。

「兄貴、もしかして、あいつが密告するだろうって承知してるのかい」

「さあな。しそうな気はするが、しないかも知れない。するとしても、いつ司令官の元へ駆け込むかは、まったく分からない。一日でも一刻でも長く悩んでくれたら、こっちも距離を稼げる」

「悩むかなぁ。あいつ、ファーネインを見てたんだ。ニアルドの名前が出た途端、急に様子が変わって……、道に落ちてる銀貨でも見つけたみたいだった」

 マックは顔をしかめ、足元の小石を蹴飛ばした。

「ファーネインを守るのは、兄貴だけの責任じゃないよ。俺も心配してる」

「ああ、すまない」

 口では謝ったものの、フィンは内心、マックの頼もしさが嬉しかった。声にそれが出たのだろう、マックは本当に分かっているのかと問いたげな目を向けた。フィンは慌てて表情を取り繕い、前を向く。

「大丈夫だ。ユーチスには、俺たちはカルスム峠を越える、と教えておいた」

「ええっ!?」

「まともに考えたら、脱走兵が選ぶ道じゃない。それに、足音に聞き耳を立てていたなら、西へ向かったことは分かるだろう。でもあいつは、俺が峠を選ぶと確かに聞いたわけだから、悩むだろうな」

 司令官に教えるか否か、教えるとしても何をどう知らせるか。逃亡者の行き先は南か、西か?

「でも……そんなの、すぐに嘘だってばれるだろ?」

「ばれないさ」

 フィンは静かに、しかし確信を持って言い切った。

 分かっている。

 自分には分かっている。ユーチスがフィンの言葉を無下に出来ないと。おかしいと感じながらも、南に向かったという思い込みを正せない、と。

(俺は、何をしたんだろう)

 ゆっくりと瞬きし、刹那の闇に己が心を覗き込む。だが何も見えない。

 フィンが黙想に沈んだので、マックもそれ以上の言葉を続けられなくなって、口をつぐんだ。

 西へと続く街道に陽炎が立ち、行く手の景色が融けてゆらめく。未来と同じように、不確かに、危うげに。足は進むべき方向を見失ってためらい、さまよう。

(それでも行くしかない。きっと……きっと、この街道が果てる先には、平穏な暮らしが待ってるはずだ)

 そして、辿り着くには一歩一歩、ともかく進むしかない。

 フィンは振り返って家族の姿を確かめると、再びしっかりとした足取りで前へと歩き出した。


 同じ頃、四辻の倉庫ではユーチスがまだ頭を抱えて座り込んでいた。

「残ったのは兄ちゃんひとりかい?」

 農夫がやってきて、気遣うような、あるいは探るような口調で問う。その不審さに、ユーチスはまったく気付かなかった。自分の悩みで手一杯だったのだ。声も出さず、こくりと小さくうなずく。

「ウィネアにはいつ戻るね? あんたひとりなら、何日か泊まってっても構わねえよ。その方が、隊長さんたちも助かるんだろ」

「ほっといてくれよ」

 ユーチスは苛々と甲高い声を上げた。何をどうすればいいのか分からなかった。すぐにもウィネアに戻って司令官に知らせるべきだ、と急かす声。無事を祈ると言ってくれた相手を売るのか、と制止する声。

 でも子供がいたじゃないか、あいつらどっちへ逃げたんだ、きっと司令官に怒られる、でも子供のことを知らせたら褒められるかも……

 様々な声がてんで勝手に主張して、考えはまとまるどころか混乱する一方だ。ユーチスは頭をかきむしって呻いた。

「なんだか知らねえが、悩んでるようだね」

 農夫が同情的に言ったが、それも今はただ煩わしい。ユーチスは彼を追い払いたくて、威嚇するように唸った。しかし農夫は鈍いのかなんなのか、立ち去る気配もなく、それどころかさらに近付いてきた。

「なぁ兄ちゃん、あっしはただの農夫だがね、年の功って言葉があるだろう。ちょっくら手助けしてやれなくもないと思うんだよ」

 とうとうユーチスは両手を振り上げて喚いた。

「ほっといてくれって言ってるだろ!」

 その、語尾の響きも消えぬ間に、彼の意識は途切れた。

 額に鉈を突き刺され、目を怒りと驚愕に見開いたまま、ぐらりと体が傾いで倒れる。

「おっと」

 足にぶつかられそうになり、農夫は小さく飛びのいた。ふう、と一息ついてから、そっと屈んで死んでいるのを確かめる。

「やれやれ……一人で良かったよ。悪いな兄ちゃん、あんたらがここを通ったってことが司令官にばれちゃ、こっちも危ないんでねぇ」

 死者に対する言い訳は、ほとんど恐縮といっても良い声音だった。しかし動作はまるで無頓着に、鉈を引っこ抜く。かつて盗賊の頭をかち割った鉈は、もう薪割などしないと宣言するように、ぬらりと血に光っていた。

 農夫は少しだけ残念そうに鉈とユーチスを見比べ、それから小さく肩を竦めて、片手の指を組んで祈りのしるしをつくった。

「こういうご時世だからね。あんたも運が悪かった。まぁ、葬式は出せないけど、きちんと埋葬はしてやるからさ」

 な、と宥めるように言って、彼は背を向けた。

 足音が外へと消える。

 風に乗って遠くかすかに、黄昏を告げる神殿の鐘が、哀しく響いた。



(第一部・完)

※元はこの部分のあと、「幕間」として各部の間の出来事を短い話として挿入しておりましたが、出版にあたり書籍のみに収録するとしてweb版からは削除いたしました。

第二部、第三部の後にあった「幕間」も同様です。

物語の大筋の把握には問題ありません。

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― 新着の感想 ―
なるほど 確かにユーチスが害されるに足る理由ですね 予想外の退場でしたが納得です
[一言] フィンにしつこく話しかけたユーチスと、農夫にしつこく話しかけられたユーチスの対比になんとも 私の予想に反してあっさり退場したユーチス君ですが、案外化けて出たりして。
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