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『あるシツジの日常』末摘花 様より

【末摘花様よりいただきもの】


 私はシツジである。名前はまだ無い。


 先日メグという少女と供に故郷より旅立ち、今はその少女の故郷であるもんじゃという名の緑多き里に住んでいる。

 私の故郷、ネストにも植物は生えているが、これだけの緑に囲まれるのは初めての経験で、圧巻である。

 そしてこれもこの土地の特徴なのか、とにかく賑やかだ。

 人間はそれぞれの間に複雑な関係を築くものであるが、シツジである私にもここの一部の人間たちのそれは特に顕著であるように思える。


 と、そんなことを考えている間に誰かが近づいてきたようだ。

 見れば、夕焼けのような赤い髪に同色の澄んだ双眸。穢れを知らぬ純白の衣を纏った男が歩いてくる。先ほど考えていた複雑な人間関係をもつ一人、というかまさにその中心に位置する人物だった。

 赤い男は気の抜けた顔で――また何かくだらないことを考えていたに違いない――私の前で歩を止めると徐に私を抱き込むようにして体全体で私の胴体にしがみついてきた。


 モフモフなどと奇声を発し、少しでも深く私の毛に埋もれようとしがみついてくる様は玩具を与えられたばかりの童のようにも見える。

 痛い掴み方をされてるわけでもなし、ならば好きにさせてやろうかと視線を外したら、男の背後の草影に不自然な白い毛玉を見つけた。毛玉はまるで何かを堪えるようにうずうずと身じろぎ、ふとこちらの視線に気づいたかと思えば、どこから取り出したのか手のひら大の布を噛み締めている。……悔しさの表現……だろうか。はたしてあの毛玉に歯があるのか甚だ疑問だが。


 奇妙な二人?組が去ると、今度は若い男女が歩いてきた。

 墨色の黒い髪に褐色の肌、見る者に引き締まった印象を与える青年と、少々奇抜な服装をした銀の髪の美しい少女。名前は確かロイとヒノと言ったか。

 二人は集落の方から歩いてきていて、近づくにつれて会話の内容も漏れ聞こえてくる。


「でも、どうしたんだ?ヒノ。急に、勉強を見てほしいだなんて」

「あー…最近、建築の材料に金属を使うことが増えてきたからさ。色々と知っといた方がいいかなー…なんて。ほら! そういうのはロイが一番詳しいだろ!?」

「うーん、まあ、もんじゃの中ならそうなのかな。でもそれなら神様に聞いたらいいんじゃ? それにラウルさんも一緒の方が…」

「か、神様なら自分たちで考えることに意味があるのですって言うんじゃないかな! あと兄貴は兄貴で今忙しいと思うよ、主にメグとか、メグのことで」


「そう言われると、そうかな…。うん、分かった。ヒノ一人なら教えるのも手間じゃないし、これからは時間があるときに教えていこうか」

(やった! これで自然に二人きりの時間が!)

「ん? 今何か言った?」

「え!? いや、何も言ってないよ! 二人きりとか、自然にとか言ってないから!」

「そう? …まあいいや。それじゃあ早速、まずは原子と分子って言うのがあってね」

「――うん?」

 どうやらあの少女が青年に近付こうとしているようだ。

 見たところ、あのロイという青年は文武に長けているようで、その優秀さにかこつけて少女が接触を図った。と言うところだろう。

 そのまま少女と青年は通り過ぎていったが、後ろからでも少女が首を傾げているのが解る。授業を長引かせるための演技……ではないだろう。


 そして二人は去り、辺りに誰もいなくなり穏やかな時間が訪れる。

 風が凪ぎ、雲がゆっくりと流れていく。先刻までの賑やかさが嘘のような静けさだ。

 しかしそんな平穏を堪能する間もなく、またしても人が訪れた。

 艶めいた長い黒髪に透き通った肌、隣に私たちの大先輩たるアイさんをつれて現れた彼女。

 私たちをこの集落に連れてきてくれた少女、メグが訪れた。軽い足取りで近づいてくる彼女は、何か良いことでもあったのだろうか、花のような笑顔を浮かべている。ここ最近、どこか影のある顔を見せていただけに、私としても嬉しくなってくる。


 そんなメグは花の笑顔をそのままに私たちの小屋まで来て、ぐるりと全体を見渡す。

「今日はみんなの名前を考えようと思って来たの!やっぱり名前がないとかわいそうだしね。まずは、うんキミから!」

 そしてメグは一番近くにいた私を見て言った。

「キミの名前は―――」

 もんじゃでの生活が始まってしばらく、いつもの如く賑やかなある日の午後。私は名前を手に入れた。



【筆者のアンサー】


「キミがチャイ」

 茶色の首輪を、コバルトブルーの毛の中に埋めるようにして取り付ける。彼はシツジ達の中でも最もおとなしいので、赤い神が気に入ってよく抱きつきにきていた。メグはなぜ、彼がそんな行動をとるのかよく分からない。シツジ達の毛に触れるのは、確かに気持ちがいいとは思うけれども。

 ネストの森の精霊さんが毛玉なのだから間に合っているだろうに、と思いきやそうではないらしい。


「キミがダイでしょ」

 橙色の首輪。マー、と一声鳴いて走り去っていった。いつも臆病な性格。メグも長時間触らせてはもらえない。ましてや、アイには近づきもしない。

「キイね!」

 黄色い首輪。キイはお転婆な女の子だ。後ろ足でぴょんぴょん跳ねて、跳躍力があり、すばしこい。


「んー。シロ!?」

 という具合に、メグの名付け方法は、実に安直なものだった。シツジたちの顔はよく似ているので、首輪を外せば途端に見分けがつかないが、ひとまずこれでメグに見分けがつくようになった。個体を識別するのは大切、というのはメグの持論だ。

 メグは満足して、いつものように水と塩、そして果物を桶の中に準備する。四頭の仔シツジはブラッシングを終えると、ママーと鳴いて牧場の中を駆けまわっている。


 仔シツジの面倒をみるのはメグの仕事で、メグは親元から離れて暮らす仔シツジたちの親代わりだ。アイは牧羊犬のような立ち位置にいる。ガウ、とアイが一声鳴けば、シツジ達は戻ってくる。アイは頼りになるお姉さんだな、とメグは尊敬する。皆から忘れられることが多々あるが、アイはメスのエドだった。


 シツジという家畜の恩恵は計り知れない。シツジからは温かい毛が取れる。肉が食べられる、そして背中に乗って高速で移動することができる。シツジに乗って移動することができたら、グランダやネストとの交通の便もよくなるので、ロイもシツジの有用性に目をつけている。彼らは大切なモンジャの資源だから、エドの餌食にさせるわけにはいかない。いつかこの牧場いっぱいにシツジの群れが走る光景が広がるといいな……とメグは夢を膨らませながら、日課をこなすために集落に戻っていった。


 夕方、メグは自分の畑の農作業を一通り済ませ、夕飯の下ごしらえをしてから、アイと共にシツジ達を餌で釣って小屋に入れるために再び牧場を訪れた。モンジャの冬は、日が傾いてから落ちるのが早い。シツジ達は夕闇迫る牧場の中に長い影を纏わりつかせていた。彼らの目の覚めるような青く美しい毛を、夕日がほの赤く染めている。


 メグは牧場の柵を開き、シツジ達の顔を見回し指さし点呼。たった四頭しかいないが、数が多くても少なくてもきちんと毎日シツジの数を数えておくの、とミシカに念を入れて教えられていたため、メグはミシカに倣う。

「チャイ、ダイ、シロ……」

 メグははっと息をのむ。何かにすがるように、牧場の隅々に目を凝らす。

「チャイ、ダイ、シロ……」

 キイがいない。牧場の中を見回す。真っ先に、エドが来たのかと疑った。しかし血痕などは見当たらず、シツジ達も怯えてはいない……ということは

「キイが外に、出ちゃった……」

 シツジは跳躍力の高い家畜だとは先に述べたとおり。仔シツジとはいえ、大人の背の高さほどまで跳ぶのだ。もちろんメグは脱走に用心して成体のシツジが乗り越えられないほどの十分な高さの柵を設けていた。が、ミシカの話を思い出した。


“前にね、シツジが他のシツジの背を踏み台にして外に出ていっちゃったことがあったの”


「アイ、キイを探そう」

 肉食獣であるエドはもともと嗅覚が鋭く、どんな小動物も追跡することができる。メグは三頭のシツジを小屋の中に誘導し戸締りをすると、アイの嗅覚だけを頼りに、メグは牧場の周囲を探し回った。メグの想像した通り、シツジのにおいは牧場の柵の外にあった。悪い方向に悪い方向に想像を傾けるメグ……気持ちばかりが焦る。

 メグの心を映すかのように、冷たい小雨がぱらぱらと降ってきた。その寒さが今日ほどメグの肌に染みたことはない。しかしアイは迷いの中で、ある方向を指し示す。シツジの気配は、モンジャの裏の森の奥に続いている。メグは反射的に太陽を見た。最後の残照が山際にかかり、夜のとばりが落ちるまでに幾ばくの猶予もないことを示している。


「森、かあ……」

 この夕暮れ時……。火も持たず、獣道すらついていない森に踏み込むなんてどうかしている。メグは光る薬花を持っているが、乾燥させた状態では光らない。森の中は、複雑に入り組んだ獣たちの縄張りが広がっている。モンジャ周辺の獣たちの殆どが夜行性なのだ。草原の王たるエドのアイも森の中の探索は不向きだと自覚して二の足を踏む。メグは懇願するように、アイを促す。アイが嫌だと言えば、メグが一人で森に入る度胸はない。


「お願い、アイ、ちょっとだけだから。ついてきて、キイが獣に食べられちゃうかも……」

 森の木々の小枝をかき分け、倒木を乗り越え、ぬかるみにはまり、落ち葉を踏みしめながら先へと進む。全方位から、獣たちが息をひそめている気配がした。背後で物音がしても、メグは後ろを振り返ることすらできなかった。潜在的な恐怖心を覚えているのはアイも同じだ。メグにぴったりと寄り添って、ふさふさのしっぽを丸めてしまっている。


 それでも、一人と一匹が連れ添ってどれくらい夜の森を歩いただろうか。行く手を阻んだ深い渕のあたりでぷっつりとキイのにおいは途切れた。アイはメグの顔を見て、クウー、と弱音を吐いてメグの腰のあたりに頬をこすりつけた。もう無理だ、帰ろう、と彼女はメグに訴えている。日は落ち真っ暗になるまで、アイは頑張ってくれた。明日、またここに来て探せばいいんだ……でも、この一晩でキイがどうなるかわからない。まさにここが、生死の境目となる。


 アイのオレンジ色の頭をよしよしと撫でながら、メグは川の畔を通って帰れば、いつかモンジャの付近に出ることを知っている。メグは近くの木に、捜索の目印の白布を結わえつけた。


「キイ、まさかここから流されてしまったのかな……」

 アイが、もう一刻の猶予もないと言わんばかりにメグを促す。アイはエドだが、人間に育てられたため野生を忘れ臆病になっている。メグは段々と半泣きになって、しかしアイの言うとおりだと思った。

「かえろう、アイ」

 そして小声で、キイに呼びかけるのを忘れなかった。

「キイ! もし近くにいるなら、明るくなるまで隠れてて! 明日必ず捜しに来るから!」

 キイが聞いていたかどうか分からない。聞こえていないかもしれない、とメグは弱気になる。それとも、もう既に……という思いも込み上げてくる。でも、やっぱり諦めたくはない。


 アイと共に、キイの気配に聴覚を研ぎ澄ましつつ、砂利を踏みしめながら、メグたちは川沿いに歩いた。夜の暗さが、今更のようにメグの恐怖心を掻き立てる。夕刻からの小雨が降り続いて、雨雲が分厚く月は出ていない。アイとメグの足音だけが、ざっ、ざっ、と規則正しく単調に聞こえている。アイも黙ってメグの後をついてくるだけ。川面が僅かな雲明かりを照り返して反射し辛うじて進路はわかるが、足元の視界は悪い。

 岩に何度も躓いて、小枝に足を取られたりもした。いつもは何でもない川沿いの道も、時間がかかる。


「もう少しだよ、アイ。家に帰ろう」


 歩き疲れ、擦り傷だらけのメグの足が限界に達し、棒のようになってきたとき。


 うんと遠くに、モンジャの集落の火、そして七色に輝く薬花畑が見えた。その暖かな橙色の光の群れ、爛々と蛍光色に輝く花畑を見たとき、メグは込み上げてくる涙を抑えきれなかった。一人一人があの光に守られながら、寄り添って支えあい暮らして、だから安全な夜を過ごせている。


 メグは今更ながらのように思った。

 人は人に寄り添ってしか生きられないんだ、みんなで夜を乗り越えるから怖くないんだ。

 闇に支配された夜の中で、私は一人で生きてゆくことはできない。夜が怖いなんて思わなかったのは、みんなと一緒だったから。


 そして、光も闇も天も地も、恐怖も喜びも、世界のすべてを創り上げた造物主。

 赤い神が人々と共にいて、夜を照らしてくれたから――。


 カルーア湖の湖畔に浮かぶ彼の神殿は夜間、門扉は固く閉ざされている……昼も夜もなく働いて疲れておられる神様のもとを、急に会いたくなったから、などと我儘を言って騒がせてはいけない。メグは重々分かっている。しかし今夜はどうしても、神殿に行きたくなった。赤い神が出てきてくれなくても構わない、そんなことは望まない。少しでも彼の傍に近づきたかった、凍えた心が暖を求めるように。神殿の外から祈るだけでも、キイの無事を夜通し祈るだけでも……許してほしい、メグは衝動を抑えられなかった。


 そんなときだった。月のない曇夜に、白く輝く長い尾を引く流星を見た。

 それはあまりに明るくて、眩しくて。アイも、彼の名を呼ぶように切なげに遠吠えをする。

 メグが赤い神と少し距離を置くようになって、近くにいた時には気付かなかった彼への思慕が日に日に強まっているのを感じていた。遠くから見ると、彼はこんなにも輝いていたんだろうか。深い闇が無尽の光明を引き立てる。

 言葉もなく見惚れている間に、白い流星は天から一直線にメグのもとに降ってきた。メグとアイを包み込むかのように、優しい白光が場に満ちた。


「あかいかみさ……」

 しゃくり上げてしまって、最後まで言い遂げることができなかった。どうしようもなく、自分の臆病な心に、その弱さに、卑小さに挫けそうになった。メグが言葉にならずその場でもじもじとしていると、彼はほっとしたような顔をして、理由も訊かずメグを抱き締めた。その手に、いつになく力がこもっている。僅かな力加減の違いで、彼の心が分かる。心配してくれていたんだ……そう、メグは心が張り裂けそうなほどに思い知った。

 彼はメグの心を読むこともできるけれど、それに甘えて黙っていてはいけない。何があったのか、自分の口からきちんと打ち明けよう。そしてごめんなさいを言おう、メグは声を整えて……


「かみさま、大事なシツジが一匹……いなくなっちゃいました。ほうぼう探しましたが、どうしても見つからないんです。私たちはシツジを置いて帰ってきてしまいました。ごめんなさい……」

 メグは彼の腕の中に居心地悪そうにおさまりながら、とめどなく泣いた。

 何かが悔しかったのかもしれない、その正体の片鱗すらも掴めないが、ままならない自分自身が悔しかったのだろうと思った。こんなに心が濁った状態では、祝福を受けるに値しない。彼に以前と同じ、疾しい気持ちのない信頼の力を返すことができない。


 すると

『メグさんは、よいシツジ飼いですね』

 至近距離で、メグという存在のほんの少し上から、柔らかな口調で赦しの言葉が返ってきた。

『私がシツジを捜して、今夜中に連れて帰って小屋に戻しておきます。あなたは元気な顔をご家族に見せてあげてください』

「私も一緒に探します。シツジをちゃんと見ていなかったのは、私の責任です」

 許されてはいけない気がして、メグは首を左右に振る。

『あなたがシツジを心配しているように、あなたのご家族がどんなにかあなたの帰りを待ち詫びています』

 その言葉に、メグははっとさせられた。 

 ああ、もしかすると彼にとっての人間は、まったくシツジと同じなのかもしれない。

 メグがシツジを飼い守り育てるように、彼の絶対的な守りのうちに人々は与っているのだ。ついていくと言うと、彼を心配させる。どうしようもないほどに、神から与えられる愛は一方通行なのだ。人間から返せるものは何もない。


『メグさん、帰りましょう』

 迷いシツジを見つけたら、メグも「帰ろう」と、同じように促しただろう。

 メグは何も言い返すことができず、素直に小さく頷き、アイとともに駆け足で家路へと急いだ。

 彼はメグの後ろ姿を見守っていたように思う。


 翌日、メグが牧場に向かうと……。

 そこには四頭のシツジたちと、牧場に大の字で爆睡している赤い神の姿があった。

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