この不況のご時世で仕事が忙しいというのは、ある意味では良いことなのかも知れない。
だけど家庭を預かる主婦としては、これがなかなかに大変なこと。多分、同業者でなければ判らない悩みだろう。
夜も更けたというには早いものの、朝の早い年代には眠気を催すに十分な時間。
「静香さん、稔明はまだ帰ってこないのかしら?」
この世の終りのような苦悶を眉の間に浮かべているのは、夫の母……つまりは姑だ。それが年甲斐もなく唇を尖らせて、駄々をこねるように時計を見上げている。
「こんなに遅いなんて……もしかしたら、途中で事故にでもあってるんじゃないだろうね?」
「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。残業で遅いだけですから」
結婚する前は、私も同じ職場で働いていた。時季的にどんな職務が与えられるか、就業時間や労働状況がどんなかは、大抵の予想がつく。しかも、夫は夜遊びをする人間じゃない。友達も少ないので、彼が誘われて飲みに行くようなこともありはしない。何が楽しいのか判らない、会社と家の往復生活。
だから、心配はいらないのだが――そんな"常識"は、姑の干からびかけた脳みそにはあるはずもない。案の定、然程心配を見せない私に眉をしかめてみせた。
「心配じゃないって云うのかい!? 軽々しく判った風な口を利くんじゃないよ」
そして続く、バカのひとつ覚え。
「まったく、何て冷酷な嫁なんだろうね」
もう、耳にタコができた言葉だ。
そんな姑の癇癪も何処吹く風、今度は舅が私を見上げてくる。
テレビの前に寝転がり、そのまま首だけを巡らして私のほうを向く。気付かれてないと思っているのだろうが、その視線を作ることで、ソファーに座った私の膝頭を拝むことができるのだ。私が膝上のスカートを穿いていれば、当然その先に映るものは決まっている。
定年退職したこの男は、一日中こんなことしか考えていない。
「静香さん、お風呂はまだかな?」
動かなくても垢は溜まるものね。
そんなことを億尾にも出さず、私はにっこりと笑って立ち上がると風呂場へと足を向けた。
それを追って、姑が声をあげる。
「まだ用意もしてなかったのかい? 何て気の利かない人かしら」
既に支度はできている――と、結婚当初なら反論の手間を惜しむこともしなかった。けれど、もうそんな労力は無駄だと判りきっている。姑は、他人の話しなど聞く気もないのだから。自分の都合だけが、彼女の法律。そして、その姑との生活を半世紀近くに渡って続けてきた舅も、まさしく同類だ。息子もまた彼等と同等の人間なのだから……遺伝子の脅威は、決して医学界だけの専売特許ではない。
「バスタオルと下着の用意しておきますね、お義父さん」
脱衣所に、厭味なほど奇麗に畳まれた下着とバスタオルを。あなたの妻ではできないほどの、器用さで。
そんな思惑など、判るはずもないでしょうけど。
結婚を申し込まれた時、同居なんてことは一度も口にはされなかった。
当時はまだ夫の姉、つまりは小姑が家に居たから、さすがの姑も少しは遠慮をしたのだろう。別に部屋を借りて、二人でのんびり新婚生活を楽しみなさいとまで云っていたのだから、今とは雲泥の差だ。
ただ当初は、出産を強く仄めかした言葉が多かったのを覚えている。早く孫の顔を見たいとか、時には私の生理日まで気にかけてくれていた。だからこそ、私が母親になれない躰だと一早く気付いてしまったのだろうけれど……そんな勝手な期待を押し付けてきた彼女の罪は、責めるだけバカを見るだけだ。
とにかく、小姑が家を出てしまった現状が、私に予定外の家族をもたらした。
勿論、ゆくゆくは面倒をみなくちゃいけないと判ってはいたが、その予定がとにかく早過ぎた。管理費を払っていた部屋は、一度も家具を入れることなく売り払われ――その変わりに得たのは、築三十年の古びた一戸建てと憎まれ口を吐き続ける大荷物だけなのだから、貧乏クジもいいところ。
続けるはずだった仕事も辞めさせられ、買物でさえケチを合図に送り出される。クラス会さえ断り続けて久しいほどで、実家の両親さえ解せない親不孝を責める始末だ。
相談相手にさえならない夫は、仕事さえしていれば役目を果たした顔をしている。残業でもしようものなら、国家の一大事を担った顔で胡座をかいている。
どうして私は、こんな結婚を選んでしまったの?
そんな自責を呑み込む変わりに包丁を振るっているなんて、多分誰も気付いてはいない、私だけの秘密だろう。
舅の欠伸が頻繁になった。時計を覗くと、そろそろゴールデンタイムも終了の時刻。
「まだ飯は食べられんのかな?」
「ほら、静香さん。さっさと食事の用意をしてちょうだいな!」
息子の帰宅を待つと云ったことなんて欠片も憶えていない声が、私の耳を刺した。
急いでテーブルを整えて、さっさと椅子に座った舅に箸を渡していると。
「あら、またお肉なの? 年寄りがこんなもの、食べられる訳ないじゃない」
やたらと疎ましい表情を作った姑が、のろのろと席に就く。
昼間は婦人会だお稽古事だと暇に任せた生活をしているのに、何故か食事だけは作ろうとしない。いや、食事だけでなく、家のこと全般をする気がないのか、自分達の寝室の掃除さえしようとはしない。文句だけは人の三倍は云ってくるのだから、元気なのにもほどがある。
「コレステロールだって溜まるじゃないの。私達のこと、何も考えちゃいないんだから」
コレステロールの意味も判らないくせに。
だけどやっぱり、私はここでも反論を呑み込んでしまう。仕方ないでしょう? バカには何を云っても通じないんだから。説明するだけ時間の無駄よ。
「でもね、お義母さん」
私はいつもより自然に笑って、彼女に箸を手渡した。それでもブツブツと云い続ける彼女に、もう一度微笑みかける。
「このお肉は特別なんですよ。お義母さんも絶対気に入るはずです」
珍しく断言した私に、二人が奇妙な顔を見せた。
いつもなら適当に逸らかすだけだものね。普段から従順じゃないとはいえ、だけど奇異な反応なのは確かかも。
でもこれは、本当にあなた達にお勧めのメニューなのよ。食べてみれば、すぐに判るわ。
私はもう一度、にっこりと微笑んだ。
そうして咥え慣れてるその肉を、殊更美味しそうに頬張って見せた。 |