黄の章 17
*
9時25分。
本日の営業は終了し、店の入り口には『close』の札がかけられる。
荒川宿禰は帰り支度をしながら、山田、伊藤の二人と事務所で談笑していた。
残念なことに既にネコ耳は外している。
「それじゃお疲れ様でしたー」帰り支度を終えたスタッフの何人かは、宿禰たちにそう告げて帰宅コース。
宿禰たち三人は、彼もしくは彼女たちに手を振ってそれを見送った。
事務所に残ったのが、宿禰、山田、伊藤の三人だけになると、山田が改まったような口調で言う。
「で、だね。荒川さんちょっとこっちに座って」ちょいちょい、と山田は手招きをして余った椅子を示す。
「なんですか?」
帰り支度を終えた宿禰は言われた通り椅子に座る。
素直な子だった。
「いやね、荒川さんにちょっち聞きたい事があってね」
山田が視線で伊藤に合図を送ると、伊藤はコホンとわざとらしく咳をついて、口を開いた。
「ずばりですね」
宿禰はなんなんだろう、と警戒しながら伊藤の次の言葉を待った。
「先輩には好きな人がいますよね?」
「……う、うん。それがどうかしたのかな?」
突然の質問に宿禰は警戒を通り越して脅えたように聞く。
その宿禰の脅えた様子に、山田が苦笑いしながら言う。
「そんな脅えるような話じゃないから」
「そっ、そうですか?」
「そうですよぅ」
半信半疑な声で聞いた宿禰の声に伊藤が答えた。
宿禰は伊藤の答えだけでは、信じるどころか疑いが増すところだったが、山田をちらりと見ると山田が、そうそう、と伊藤に同意するように小刻みに頷いていたので信じることにした。
宿禰の目に怯えと疑いの色が消えかけたのを見て、山田が漸く本題に入る。
「それでさ、聞きたい事ってのは、その好きな人の事なのよ。あたしはまだ見たことないけど、その人のどこを好きになったの?」
何のことはない。
ただの恋バナだった。
「……ええっ!? なんですかいきなり?!」
いきなりそんな話を振られて宿禰は大声で驚いた。
「いやいや、驚きすぎだから」山田は大仰に驚いた宿禰に突っ込みを入れる。
宿禰は口を押さえて「すみません」と謝った。
「まあ良いんだけど。とにかくお姉さんとこのロリっ子は、そこんとこに興味津々なわけよ」
「なわけですよう」
伊藤が鼻声のような甘えた声を出して言った。
そして、山田と伊藤は答えを期待した眼差しで宿禰を見た。
宿禰はその二人の表情を見た。
「……」
この場には、仲の良い女子しかいない。
なので宿禰は、観念したように肩を落として言う。
「どこをって言われても具体的には……なんとなく、本当になんとなく好きなんです」
「全部って事ですか?」
「うーん。そうなるのかな? ……ああ、でもそうかもしれない」
「のろけるねえ」山田が囃すような口調で言った。
「いやいや、そんなんじゃないですよ」宿禰は赤くなった頬を掻く。
「じゃあじゃあ、どうして好きになったんですか?」
「それは――」
「それは?」
「それは?」
伊藤と山田は息を飲み身を乗り出して、宿禰の答えを待つ。
「それは――なんでしたっけ?」
宿禰は、はにかんだ笑顔で首をかしげた。
「へ?」
「引っ張っといてそれですかぁ?」
肩透かしを食らった二人は不満げな顔で言った。
「あはは。ごめん。よくわからないや」
「何よそれ。じゃあいつの間にか好きになってた感じなの?」
「そうですね。多分そんな感じです」
ぶー、ぶー、ブーイングをする山田に宿禰は申し訳なさそうな顔で答えた。
「そっかー。でもまあなんとなく好きになったのなら、そうなのかねぇ」
「すみません。あ、でもいつ頃好きになったかっていうのは、覚えてるんですよ」
「そうなんですかぁ?」
「うん。確か――丁度2年くらい前だったかな?」
「2年前? っていうと荒川さんってまだ中学生よね?」
「はい。中3ですね」宿禰が頷いた。
「てことは荒川さんと好きな人って同じ中学なの?」
「え? 違いますよ?」
「……ちょっと待って。それっておかしくない?」
山田が眉をひそめる。
伊藤も山田が言わんとしていることに気付いたらしく、妙な顔をする。
宿禰だけが何もわかっていない様子だった。
「あー、でもでも、違う中学でも塾とか一緒だったんじゃないんですかぁ?」伊藤が思いついたように言った。
これは宿禰ではなく、山田と納得しあう為の発言だった。
しかし、この意見は山田と納得しあう前に、当の本人に否定される。
「え? 私と天倉君は塾も一緒じゃないけど? そもそも私が天倉君に会ったのは、高校の入学式の時が最初だったし」宿禰はさも当然の風にいった。
だが今の発言の矛盾、違和感に、山田も伊藤も珍妙な顔をする。
「……えっと、荒川さん。それっておかしくない?」
「何がですか?」
「本気で気付いていないんですかぁ?」
疑いの視線で宿禰を見た伊藤だったが、宿禰の目は本当に何もわかっていない事を如実に物語っていた。
「だから何がおかしいの?」宿禰が伊藤に問う。
問われた伊藤は困ったような顔をした。
何かこの矛盾を追及してはいけないような、気がしたからだ。
伊藤が黙ってしまったので、宿禰は山田の方を向いた。
山田は宿禰と目が合うと、やはり困った顔をした。
しかし、このまま黙り通せる空気ではなかったので、重そうに口を開いた。
「あのね、荒川さん。あなたが好きな人を初めて見たのは、高校の入学式が最初なんだよね?」
「はい。そうですけど?」
恐る恐る口を開く山田に対して、宿禰は普通に頷いた。
「……なのに、あなたがその人を好きになったのは、2年前なんでしょう? それって計算おかしくない? あたしたちがおかしいって言ってるのはそこなわけよ」
「――え?」
瞬間、宿禰の顔が凍り付いたように固まった。
「会ってもいない人を、どうして好きになったんですか? それって絶対おかしいですよ。先輩が勘違いしているのか、もしくは何か切欠みたいなものがあったはずです」
「そう……だよね」
「勘違いって事はないの? 2年前じゃなくて、入学式の時に一目ぼれしたってだけじゃ?」
「……」
宿禰は黙って考える。
勘違い。
そんな事はありえない。
宿禰の中の確固たる記憶として、宿禰が彼を好きになったのは2年前である。
しかし、その2年前の事が何も思い出せない。
何か記憶に靄がかかったような感覚だけがある。
そして、その靄の中から何かが掴めそうになると、それが端から霧のように消えていってしまう。
「……荒川さん?」
「……先輩?」
山田と伊藤が、黙ってしまった宿禰に心配そうに声をかけた。
「……え、あ」宿禰はハっと我に返ると、バツの悪そうな顔をして言う。
「えっと、私の勘違いだったみたいです。あはは、すみません」
宿禰はお騒がせしました、と頭を下げると、ゴツン、とテーブルに頭をぶつけた。
「いたっ」
その宿禰のコミカルな様子に、二人は心配気だった表情をいつものものに戻し、
「勘弁してよー」
「人騒がせですよぅ」と笑った。
「えへへ。ですよねー」宿禰は苦笑いで言った。
その後、店長の「そろそろ店を閉めるよ」、という言葉を号令にするまで三人は暫くの間、談笑を続けた。
そして三人が店の裏口から出ると、雨が降っていた。
「あらら、雨かー。ちょっと伊藤ちゃん、事務所に戻って置き傘3つばかし持ってきて」
「えー、私ですかぁ? ていうか私、折畳み持ってるんで傘いらないんですけど」
「そうなの? じゃあ2つだ。店長まだいるから、雨降ってるって伝えてあげて」
山田は指を2本立てて、伊藤の眼前に突き出した。
山田の目は、これ以上ガタガタぬかすな、とでも言いだけだった。
「……わかりましたよぅ」伊藤は不満たらたらに言って、一度事務所に戻っていった。
伊藤はすぐに戻ってきた。
その手には、傘が2本ある。
山田がその傘を見て、頬をひくつかせる。
「伊藤ちゃん。これはどういうこと?」
「どういう事って傘ですけど?」何か問題ありますか、と確信的な笑みをこぼす伊藤。
「あたしが言いたいのは、そういうことじゃなくてね。何でそんな傘持ってきたの、って事が言いたいわけよ」
「何か変ですか?」と呆けるような口調で伊藤は言った。
「変に決まってるだろ! 何その小学生1年生みたいな色した傘は!!」
伊藤が持っている2本の傘。
それはまあ鮮やかな黄色をした子供用の傘と、これまた見事なピンク色の子供用の傘だった。
「変って言われても、これしか傘なかったですよ?」
「んなわけないでしょう! 代えてきて。荒川さんだってこんな傘、嫌でしょ?」
仲間を増やそうと、山田は宿禰に話を振った。
しかし、宿禰は「いや、別に平気ですよ? それしかないって言うなら」と天然爆発な発言で返した。
伊藤が今の宿禰の発言は計算済みだ、とでも言いたげにニヤリと笑い、山田を見た。
「こっ……この計算ロリめ」伊藤の笑みを見た山田が憎憎しげに言った。
「はい。じゃあこれ荒川先輩のです」そう言って伊藤は黄色い方の傘を宿禰に渡し、「こっちは山田先輩のです」と含み笑いをしながら、山田にピンク色の傘を渡した。
宿禰は普通に渡された傘を受け取ったが、山田は渡された傘を受け取らずに、一瞬の早業で伊藤の鞄を強奪した。
「あああーーっ!! 何するんですかぁ!」
伊藤の叫びを山田は無視して鞄を漁り、目的のものを奪取すると鞄を返す。
「あたしはこっちで帰るから、伊藤ちゃんはその可愛いので帰って」
山田の手には折畳み傘が握られていた。
「ううぅぅ……油断しました」
伊藤はそう悔しげに言って、裏口からもう一度店に入ろうとする。
「どこに行くの? もう置き傘はそれしかないんでしょ? だったらそれで帰るしかないんじゃないの? それともー、伊藤ちゃんは私に嘘を吐いたのかな?」
今度は山田がニヤリと笑い、勝ち誇った目で伊藤を見た。
完全に形勢逆転だった。
「……無念です」
伊藤はガクリと肩を落とし、渋々そのピンク色の傘を使うことになった。
そんな伊藤と山田のじゃれ合いの一幕の後、三人はそれぞれバラバラの帰路につく。
宿禰は黄色い傘をさして、帰り道を歩く。
帰路についてから、
いや、それよりずっと前から宿禰は考えていた。
何か切欠があったはずだった。
なのに、何も思い出せない。
霧散する記憶。
掴めない疑問。
薄暗い帰り道。
竹林の笹の擦れる音。
石畳を叩く、自分の足音。
いつか体感したことのあるシンとした空気。
でもあの時、天に昇っていた朧げな月は出ていない。
それに、あの時は雨は降っていない。
あの時とは違う今。
あの時?
あの時って何時だろうか。
それが、
酷く、気になる。
しとしと、とすすり泣くような雨音が誰かが魔法をかける声のように、耳に響いた。
|