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口を開けば暑いと言う―1
 黒いBMWは、風を切って都心を抜けていた。
「暑いね」
 クーラーはガンガンに利いているのに、一体何を言うのかと助手席を窺う。
「外を歩いている人、ギラギラしてて凄く暑そうなの。車を降りたらあの陽射しを浴びると思うと、想像だけで暑くなっちゃう」
「今は涼しいだろう?」
 フィーリングだけの会話。この世の女性は、誰も彼もが同じなのだろうか?……いや、末弟の彼女だけは、そういう風に見えないな。いつでも理論的で、アレはアレでどうかと思うが。
 隣に座る弥生は「ココは涼しいよ」と小首を傾げた。彼女に限っては、その場の感覚のみで紡ぐ言葉を不快に感じない。仕事で、趣味で、数えきれない女性を口説いてきたし、その場限りのリップサービスで応じるくらいなら我慢もする。
 しかしそれを楽しみ、脳をくすぐるように意味なく面白いと思える相手は、彼女一人だけだった。だからこそ、人生の中に一切予定していなかった結婚までする気になったのだ。そう。彼にとって結婚とは、限りなくアクシデントに近いものだった。
 今日は久し振りの休暇。何の気なしにドライブをした、帰りのこと。
 弥生は金沢から引っ越してきたばかりで、花嫁修業の真っ最中。料理を習う傍ら、本格的な仕事を探すまでの繋ぎに、カフェでアルバイトをしている身だ。
「わお、あつい」
「また暑い?」
 クスッと笑い、悪戯めかしてレンの膝に手を載せた。
「なんか、熱いカップルがいた」
「覗き見するな」
「覗いてないよ、目に入る処でキスしてるんだもん」
「変なものを見ると、脳がやられるぞ」
 真面目な冗談をまともに笑い、灼けたアスファルトを進む。ふと目に留まるものがあり、咄嗟にハザードを出して停車した。一転して真剣な瞳になったのを、弥生が訝しげに見守っていた。
「どうしたの?」
「ああ、いや。ちょっと待ってくれ」
 ダッシュボードからサングラスを掛け、不自然だと思われないよう、携帯で話すフリをする。視界の遠くにいる精悍な中年男を、しかとその目に焼き付けていた。
「誰?」
「……裏の、取引相手だ。在庫を全部引き受けてくれるという話だが、近頃こっちが望まないルートと繋がったという噂もあってね」
「警察とか?」
「まさか。それならすぐに情報が回ってくるさ。僕は女子供相手の暴力は好きじゃない。僕の流す物品を、そっち系の売買に使って欲しくないってこと。まだ申し出だけで、口約束すら交わしていない。身辺を探りたいが、情報が少なくてね。本名も、表で何をしているかも、どこを攫っても出てこない。顔を知っているというだけでも幸運って相手」
 弥生はふうん……と相槌を打ち、黒いベンツに乗り込んだ大物っぽい男を観察した。
「追う?」
「滅多に姿を現さないから勿体ないが……帰るよ」
「どうして? 危険?」
「気付かれても、自然を装って撒かれるだけだが……デートの最後に、コレはないだろ?」
「やだ、勿体ない!」
 あっけらかんと返った返事に、レンの方がずっこけた。
 誰のために言っていると思ってる?
「早く追ってよ! 見失っちゃう!」
 釣られてエンジンを掛け、数台挟んで信号を待った。普段なら自分の車で尾行など絶対にやらないが、これはこれで得意分野でもある。気付かれないうちに撒かれるタイミングも心得ている。心配なのはそちらではない。
 夕日が陽炎を呼び起こし、ウキウキと前を見る弥生の頬をオレンジ色に染め上げる。
「どうしてそんなに楽しそうなんだ?」
「あたし、尾行はやらせてもらったことないもん。それに、在庫が捌けたら結婚の準備に入れるんでしょ? 早い方がいい」
 甘さ上乗せの響きに、そういうことかと腑に落ちる。
 ベンツは段々歓楽街に入り込み、営業準備が整ったばかりの高級クラブの前に止まった。さり気なく横を通り過ぎると、目的の男はたった一人で店に入り、ボディガードを乗せたままベンツが出発した。どうやら完全にプライベートの遊びのようだ。
「情報が欲しいの?」
「まあな。ここで遊ぶことはわかった。あとはカーキに連絡して、この店の情報や常連客を調べて、炙り出す」
 表通りに戻り、早速停車してメールを打ち始めた。
 弥生は顎に指を掛けて考え込み、突然彼のメールの指を止めさせた。
「ねえ、考えがあるの」
「何だ?」
 裏の仕事に、他人の意見を取り入れたことはほとんどない。よほど名案ならば聞かないこともないが、大抵は時間の無駄になる。
 指を押しのけてカーキへのメールを続け、視線だけで次を促す。
「お店のこと、今すぐ調べて。危なくないなら、あたしが調べてきてあげる」
「……は?」
「お店のママやオーナーが怪しくないなら、キャバ嬢として潜入する。お金を握らせれば無理なことないんじゃない?」
「弥生にそんなことは」
「あーあ、そゆこと言うんだ」
 さすがに返す言葉がない。結婚を決める直前まで、時たまではあるが、汚い仕事を任せることがあったのだ。今更、と言えなくもない。しかし結婚を決めた相手をダイレクトに潜入させるなど、考えられない。
「お願い。今後あたし、こういうことしなくていいんでしょ?」
「当然だ」
「じゃあ最後に、レンの役に立たせて。危なくなったら助けてくれるって信じてるし。それにレンが商品を流したくないかもしれないだけで、向こうは正当に取引しようとしているんだよね? 敵の最中に放り込むんじゃないんだから。ね?」
 メールを打ち終わったが、送信できずに止まっていた。
 確かに、千載一遇のチャンスだ。カーキの情報収集力は目を見張るが、常連客云々までとなると、時間がかかる。普段の取引に自分同様に姿を見せない男のこと。これを逃すと、いつ調べられるか予想も付かなかった。
「昔行きつけだったドレスのお店があるの。行って」
「しかし―」
「お願い」
 突っ撥ねる言葉が弱く、弥生は自信満々だ。彼女のコミュニケーション能力は、カーキと同じく実力がある。そうでなければ、最初から仕事を頼んでいなかった。
「……危険だと思ったら、すぐ引き下がるんだぞ」
「了解、ボス?」
「ボスはやめてくれ」
 
 弥生がぴったりのドレスを選び、美容室でセットとメイクを特急で頼んで助手席に戻った時、レンはカーキからの返信で安心していた処だった。
 高級クラブは、完全に無関係。どこの組とも通じず、自力経営、明朗会計。あの男にとって、どうやら本物のプライベートゾーンであり、仕事を持ち込む宴の席ではないらしい。
 その男は、働き方が自分と似ている。裏も表もキッチリ区別し、裏には顔を出さずに済ませる。なんだか滑稽で、時間短縮のため既にドレス姿になっている弥生の美しさに、改めて惚れ惚れする余裕が生まれた。
 白い、ラインストーンが大小煩いほど主張するロングドレス。豊かな胸を見せ付けて、持ち上げるのではなく中央に寄せ、グラビアアイドル並みに谷間を強調させている。しかし決して不潔な印象は与えないのが、昔夜の世界でそれなりに人気があったことの証だ。
 巨乳なのに清純、派手なのに可憐。甘い喋りで屈託ない会話。大抵の男ならば騙されるだろう。
……いや、僕は飽くまでそう判断できる高みに立っている訳で、僕が大抵の男で、騙されているという話ではないが。
「綺麗?」
「ああ、とびきり綺麗だよ」
「よかった」
「できるだけ、その……触らせるようなマネはするな」
「当たり前でしょ」
 一緒に車を降り、半地下の階段を下りた。店のママにはカーキから渡りを付けさせ、一日体験入店という名目で雇ってもらうことになっている。
 表通りから一本入った隠れ家的な店のママは、シックな和服で出迎え、弥生の頭から爪先まで眺め回して深く頷いた。
「えろうよさそなコやないですのん。下品なコやったら、どないに頼まれてもあきませんさかい、よかったわぁ」
 流れる水のような京都弁で弥生の背を押し、レンも二・三確認事を済ませ、陰で封筒を手渡した。
「おおきに」
 不必要にウロつくことはできない。あとは弥生を信じるのみだ。
「弥生」
「はぁい」
「……いや、なんでもない」
 彼女の力を信じるならば、何も言うべきことはない。無言で頷いて見せるだけに留め、レンは車に戻って行った。


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