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爪先で水を蹴り飛ばせ
 オレはシンキチだ。ジャック・ラッセルテリアって大層な犬種らしいけど、そんなオレをご主人のユキは「こいつ、意外と和風な顔してんじゃん」と笑って、やたらとシンプルな名前を付けた。仔犬のうちに店のお客から譲られて、丸四年になる。
 割と早い段階で、更に縮めて「シン」と呼ぶようになった。省略もほどほどにしろよな、とも思ったけど、まあ別に名前になんて意味はないしな。
 ところがある日、いきなり「シンキチ」に戻された。これはちょっとショックなことでもあったけど、まあ事情が事情だから仕方ない。
 原因は、なかなか清潔でいい匂いのする「シン」という男が、オレたちの生活に割り込んできたからだ。ご主人が甘く「シン」と呼ぶたびにオレが間違えて反応するんじゃ、お互い手間だろ? でもあいつは伸ばすべき名前がないからさ、大人らしく優しく妥協してやったって訳。
 オレがこの男を好きかどうか、気になる?
 別にいいよ、許してやるよ。ご主人、オレ、シン。その上下関係が崩れさえしなければね。

 ご主人は、毎朝日の出と共に起きる。昔はすぐに散歩に出掛けていたのに、今はちょっと違うんだ。
 引っ越した先の広いリビングで、まずカウンターキッチンに入り、オレに水をくれる。それからお湯を沸かして、ニンジンやらカリフラワーやらを洗って切って、茹でておくんだ。
「ちょっと待ってろよ」
 そう言って、出来上がるまでに洗濯機のスイッチを押して、掃除機を掛ける。オレはあの音が大嫌いだからいつもやめて欲しいと願っているけど、日課なんだって。
 茹で上がると、野菜のいい匂いが立ち込めてきて、無性にシンが羨ましくなる。オレより下っ端の癖に、もう朝日が輝いているのにまだ寝ていて、目が覚めるとフツーに食べるんだ。
「欲しいのか?」
 ニンゲンの食べるものは絶対にくれないご主人だけど、ただ茹でた野菜なら、くれることもある。それでオレのナンバー2の体面も保たれる。八方丸く収まるって寸法だ。
 さて、やっと散歩の時間が来た。と思ったら……
「おはよう」
 あろうことか、シンが起きてきた。珍しいこともあるものだ。
「おはようって、本当は寝てないだろ」
「……大丈夫だよ」
「ショーを控えてりゃ、仕方ないか。でももう少し休んでおけよ。出がけに起こしてやるから」
 まるでオレの天敵のネコみたいに目を擦って、されるがままに茶色い寝癖を撫でられて、甘えた様子で伸びなんてしてる。
「散歩?」
「ああ」
「僕も行っていい?」
 おいおい、冗談じゃないよ。決まったコースを五キロ駆け抜けるんだぞ? 窒息して死んでも知らないぞ? 朝の散歩は、ご主人と同じ風を楽しめる、オレの特権なんだからな。
 なのにご主人は、一度持ったリードを置いて、こう言ったんだ。
「息抜きになるなら、今日は少し歩くか」

 シンが着替えるのを待って家を出て、ゆっくりと土手を歩かされた。
 オレは不機嫌だった。
 シンが同居するのはいい。まあ、構わない。いつでも催促通りに撫でてくれるし、いきなりびっくりするような音を立てるニンゲンでもないし。
 でも日常を崩されるって、ストレスなんだよな。
「おいシンキチ、そんなに引っ張るな」
 オレの気持ちがわかってる癖に。オレは、ご主人と走りたいんだよ!
 昨夜はザアッと派手に雨が降って、どこもかしこも新鮮な緑の匂いが溢れている。ジョギングコースの水溜まりも空の青を映して、朝陽にキラキラしているってのに。
 ちょっと気になる匂いがして、オレはそれに釣られ、長い草の茂みをガサガサ漁ってみた。二丁目のミントって名前のゴールデンリトリバー、今日はもう帰ったみたいだ。
 凄いだろ? 匂いを嗅げば、いろいろわかるんだよ。
 その間にシンは少し先を行き、頭でも痛いみたいに眉間と肩を揉み、河川敷を眺めていた。ご主人は殊シンに関しては心配症で、リード越しの手の引き具合で、奴のことばかり考えているのがわかる。
 敏感なのは、鼻だけじゃないんだぞ。もっとオレに集中してくれよ。
 ご主人に擦り寄って、靴に付いた水を舐め、ご機嫌を取っても気付いてくれない。「大丈夫か」とか「仕事休めないのか?」とか話す合間に「もう引き返すか?」という、信じられない言葉を聞いた。
 それもさあ。オレはご主人の右側が好きなのに、どうしてか左側に回されて、一緒に歩きたくないシンとの間にさせられているんだ。
 よく考えると、いつもいつも、三人で歩く時はオレが真ん中。家の中ではベタベタくっ付いてばかりの癖に、外ではわざと距離を空けるんだ。
 ニンゲンて、変なの。
「風が気持ちいいけど、ちょっと疲れたかも」
 膝に手を着いて、今にも後ろに踵を返しそうなシン。
 冗談じゃないよ。走り足りないんだってば。ちきしょう、ちきしょう! まだ遊ぶんだ!
「おいシンキチ!」
 いきなり飛び出そうとしたオレはリードに阻まれて、反動で高くジャンプした足が水溜まりに落ち、前に向かって派手に飛沫を上げた。
「わっ」
 シンが驚いて尻もちを着いたけど、呆気に取られた顔は、ちょっと面白い。いつもマイペースを気取っている奴を翻弄するのは、気分がいいんだな。
「シンキチ、やめろ」
 ちょうど、大きな水溜まりを前にしていた。調子に乗ったオレは何度も跳ねて、今度はわざと水を撥ねかした。
「ちょ……」
 顔の目前にきた水を手で避けて、シンは慌てて立ち上がった。爪先が何度も何度も水を蹴り、ご主人が勢いよくリードを引くまでやめなかった。
「コラ!」
 とうとう首根っこを押さえられ、オレは観念してやめた。オレよりご主人が上だ。ここまでされれば、言うことを聞くしかない。
 パニックを起こしたとでも思ったんだろう。ご主人は混乱して、珍しく怒った声でオレを捩じ伏せた。
「シンキチ、どうしたんだ? あまり暴れると、躾け教室に入れちまうぞ」
 う。
 ミントが言ってた。躾け教室では鬼のようなニンゲンが待っていて、ご主人よりも更に立場が上でビックリしたって。偉いはずのご主人が「毅然としてください!」なんて叱られたんだってさ。そんで、いつの間にか伏せだの待てだのしたくなっちゃって、自分でも気持ち悪いほどだって。オレは噛んだりしないし、伏せも待てもオカワリもできるから、完全に油断してたのに。
「それとも、保健所かな〜?」
 ご主人が、耳元に怖い声で囁く。嘘なのはわかってる。ニンゲンは、オレらがそこまで言葉を理解してると思ってないんだから。要するに、シンに向けた冗談なんだ。
 それでもオレは、犬なのに鳥肌を立てて、必死で尻尾を巻いた。保健所って、マジで冗談きついよ。
「そんな、可哀想だよ」
 シンがしゃがみ、オレの下顎に手を当てた。
 少し安心するって、悔しいな。今いきなり上から撫でられたらムカつくトコだけど、そういう空気は読める奴なんだ。
「シンキチは、走りたいんだよね?」
 そう、そうなんだよ。わかってんじゃんか。
「ユキ、僕、一人で戻るからいいよ」
 あれ、こいつ、よく見るといつもと顔が違うな。白っていうより青い顔してるじゃないか。
「本当に大丈夫なのか?」
 呼吸の仕方が、ちょっと変だ。いつもよりも浅く、肩で息をしているみたいだ。
「うん、シンキチにストレス貯めさせちゃ駄目だよ」
 ご主人はニンゲンだから、わかんねえんだろうなあこの微妙なニュアンスは。呼吸の音や匂いや波動っていうか、具合が悪いことを伝える材料は揃ってる。
「ストレスって、誰の話だよ」
 ちょっとちょっと、そんなこと言ってる場合じゃないかもしれないよ?
 オレはついつい、情にほだされた。たとえ機嫌が悪くても、ガキとか仔犬とか、自分よりも格下の奴には優しくするものなんだ。さっき撥ねかした水が前髪に一滴付いていて、舐め取ってやった。
 シンはくすぐったそうに薄く笑ったけれど、頬を舐めると筋肉が強張っている。笑えてない証拠だ。
「帰るね」
 立ち上がろうとして、咄嗟に差し出されたご主人の手を頼った。スキンシップじゃなくて立ち眩みで、腕を借りて休んでいる。
 オレは尻もち着かせて濡らしたことを、少し……そう。ほんの少しだけ後悔した。オレにとって雨水の匂いは気持ち良くても、シンに付ける匂いじゃなかった。
 だから、ご主人が何か言う前に、オレは後ろにリードを軽く引っ張ったんだ。
 愛すべき、三人の家に向けて。
「シンキチ?」
 ご主人が不思議そうにしながら、シンの腕を支えて歩き出した。
「こいつ、意外とわかってんだ。あながち駄犬って訳じゃないな」
 当たり前だろ? ご主人、今まで見くびってたな?
 躾け教室なんて行かなくても、オレはルールを知っている。帰る意思表示だけしたら、きちんとご主人の真横に戻って、長い脚にぶつからない距離で歩くんだ。拗ねてさえいなければ、こんなことくらい簡単だよ。
 オレが後でも先でもなく。そんでお気に入りじゃない方、ご主人の左側をキープするんだ。
 どうしてかって?
 ご主人が、右手でシンを支えてやってるからだよ。こんな時くらい、オレが真ん中に割り込まなくたっていいだろ?
 オレはシンキチ。ジャック・ラッセルテリアだ。そんで、世界で一番空気を読んで、ご主人をサポートしてやれる犬なんだぜ。
「過ぎゆく夏の日」完結です。
モモジルシお題サイトさま、ありがとうございました。
明日は「three asterisk」更新。かなり昔の、ユウとカオルです。
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