空と雲の向こう
1.夜の向こう――由紀
「眠れないのか?」
布団の中で寝返りをうっていたら大輔が突然、声を掛けてきた。
寝返りの衣擦れの音が耳障りだったのかと、少し心配する。大輔は寝るときは無音無灯じゃなきゃダメなので泊まるときは気を使わなきゃならない。
「ちょっと寒くて」
この部屋は本当に寒い。もう雪が降り始めてもおかしくないというのにまだ暖房を出していない。毛布と羽毛布団で重装備するも、十二月の冷気は容赦なく肌を突き刺す。
「嘘吐いてるだろ」
大輔はあっさり、そう返して来た。完全な嘘と言うわけじゃないんだけど、どうやら通じないらしい。
布の擦れる音と人が動く気配。真っ暗な部屋の中でよく見えないけど、あいつが起き上がって布団に座ったのがわかる。
「あのな、受験シーズン目前の夜中に突然やってきて泊まっていく奴が、眠れないでいるってのは何かありましたって言ってるようなもんじゃないか。少なくとも俺はそう思う」
図星。なんか悔しいから返事をしない。
「こら、狸寝入りもやめろ」
無視する。ついでに布団を頭まで被って、大輔がいる反対側を向く。
「あー、ったく」
苛立たしげな声が布団の中まで聞こえるが、何も言わない。
今、あいつの顔を見たら話したくなってしまうから。
そして、きっと何も言わずに聞いてくれるから。
優しさに甘えたい自分と葛藤する。
そうやって無防備になっているときだった。大輔に抱きつかれた。
「んっ」
抱きつかれたと言うよりは、取り押さえられたと言うべきか。悲鳴をあげるも布団を頭まで被っていたのが仇となってまともな声が出ない。
「話をするときはちゃんと相手の目を見ろよ?」
「んんっん」
「よーしよーし、わかったか」
抗議の言葉を勝手に肯定と解釈して、やっと解放してくれた。
「あー、もういい加減にしろよ」
文句を言いながら身体を起こした俺の眼を、不意に大輔が覗く。
その近さに驚くよりも、奴の真っ直ぐな眼に俺は釘付けになった。
「話したくないなら話さなくていいけどさ、少しは俺に甘えろよ」
大輔の言葉と一緒に吐かれる生暖かい息が俺の顔をくすぐる。微かに煙草の匂いもする。俺が少し苦手なその香りは、だけど今は、妙に大輔の存在を強く感じさせて思わず眼が潤んでしまった。
そんなとこを見せたくなくて慌てて顔をそむける。
「強情」
そう小さく呟く大輔の声。多分、ちょっと拗ねた顔をしているのだろう。顔をそむけてるせいで確認できないけど。
でも、わかる。こいつは「泣き虫だな」といって俺の頭を撫でてくる。
「泣き虫だな」
そういってごつごつした手で髪をくしゃくしゃにした。こいつだって泣き虫なくせに。
それを振り払うかのように背を向ける。でもきっとばれている、照れ隠しだってこと。
わかる、大輔が何をするか。
そう、そして――大輔は俺のことを抱きしめる。
後ろから羽交い絞めにされる格好で、強く、きつく、痛いほどに。
「あんま強がるなよ、お前は周りが思ってるほどタフじゃないってこと、俺は知ってるから」
大輔の言葉と一緒に吐き出される息が、首筋をくすぐる。
そして大輔の言葉は優しかった。
涙がこぼれた。
とても、とても暖かいその場所で俺は少しだけ素直になる。
何の言葉もなくただゆっくりと時間が流れる。お互いの鼓動を感じるほど近く、溶け合ってしまいそうなほどきつく。
大輔の手は大きくて安心できた。俺がここにいるってことを教えてくれる。
大輔は俺が泣き止むまで、ずっと抱きしめてくれた。
チカチカと繰り返し点滅して蛍光灯が点く。
普段は客室として使われているはずの六畳間が俺の眼にはっきりと映る。
端に寄せた卓袱台以外、これといった家具がない寒々とした部屋。中央に並ぶ二組の寝具だけが人の生活を物語っているに過ぎない。
俺は毛布に包まって、二組の寝具のうちの一つに座っていた。
「落ち着いたか?」
壁際の蛍光灯のスイッチの傍らに立つ大輔が俺に声を掛ける。
「……うん」
少し恥ずかしくって顔を見ずに答える。
「駄目だろ、目を見て話せって言ったじゃん」
「……うん」
今度は伏し目がちに、でもちゃんと見て答える。
「よしよし、じゃあご褒美をあげよう」
そういってあいつは部屋を出て行った。
手持ち無沙汰の俺はカーテンを開け、ガラス戸から外を見る。
庭にあるはずの常緑樹も、もう亡くなってしまった犬のモカの小屋も、ただ塗りつぶされた黒の向こう側だった。ただシンとした静けさを伴う冷気だけが感じられた。
どのくらいそうしていたのだろうか、ガラス戸にお盆を抱えて戻ってきた大輔が映った。お盆の上にはマグカップが二つ。
「お待たせ」
そういって渡されたマグカップには湯気の立つ白い液体。
「ホットミルク?」
「ああ、飲んでみ」
自分の分のマグカップを抱えて俺の横に大輔が座る。
「俺、猫舌だから」
「そうだったな、わりぃ」
二人で並んで庭のほうを見つめる。
「さっき、この向こうに何を見てたんだ?」
唐突に大輔が俺に質問してきた。
「庭、見えないかなって」
マグカップを両の手のひらで持ち、答える。
「モカの小屋とかさ、昔はよく二人で散歩に行ったなって。庭の木もさ、クリスマスツリーの飾り付けしたり」
そう、続ける。思ってみればこの庭は俺の思い出がたくさんあるのだった。
「そういや、今年は飾りもつけてないな」
ホットミルクを啜りながら大輔が呟く。
「仕方ないよ、おじさんもおばさんもイギリスだし。家事こなすだけで手一杯でしょ」
まぁ、だからこそこんなに唐突に押しかける事ができたんだけど、と小さな声で付け足す。
「随分、俺たちも変わっちまったしな」
なんとなく、という以上の意味もない言葉を投げやりにいう大輔の横顔を見る。少し拗ねたような顔。
「でも、俺らの関係は変わってない。少なくとも俺はそう思う」
そして大輔節が続いて、ちょっと笑ってしまった。「少なくとも俺はそう思う」、そういうのは口癖みたいなもんだ、って弁解してるけど、恥ずかしい言葉をいったときに続けていってしまうのは長い付き合いから気づいている。
やはりちょっと照れた顔をしながら、ホットミルクを飲むよう促された。
気付けば随分と時間が経っていた。
おそるおそるカップに口をつける。
「……おいしい」
人肌より少し温かいミルクは、とても甘く、でも僅かにお酒のツンとした味もして、とても不思議だった。
「温めた牛乳に砂糖一杯とブランデーを数滴。体が温まるだろ?」
何よりとても暖かった。
「さ、それ飲んだら寝るぞ」
大輔がとても暖かった。
どうしようもなく話したくなった。
今なら甘えられると思った。
「だ、大輔……」
それでも声は尻すぼみになってしまって。俺はそのさきをいえないでいた。
「どうした、由紀?」
とても低くて柔らかい大輔の声。心地よい。
なぜだか涙が流れて、それを見られるのが悔しいのか、それとも覚悟を決めるためか両の拳を握る。
「友達が死んじゃったんだ」
事実はあっさりといえた。
声に出して驚いた。その言葉の軽さに。人一人の死を伝える言葉はこんなに簡単に終わってしまう。
「そうか」
大輔はそういうだけだった。
それだけで十分だった。
軽々しい同情も、慰めの言葉も突っぱねてしまう俺を気遣ってることはわかりきっているから。
だからこそ俺は自分の気持ちを話せた。単に悲しいというには複雑で、でも空っぽな自分の気持ちを。
ゆっくりと、矛盾しててもいい、自分に正直な気持ちを。
大輔は何もいわずに聞いてくれた。
涙も言葉も出尽くして、ただ沈黙だけが流れる時間。とても安心できる心地よい時間。
「――きだ」
不意にポツリと大輔がいう。
ガラス戸に寄って顔を貼り付けるようにして外を見る。
何事かと思って、恐る恐る近寄ると今度ははっきりと聞こえた。
「由紀、雪だ、雪が降ってる」
その言葉に反応して俺も外を見る。
黒い夜に白いものがフワリと。一つ、また一つ。
最初は数えられるほどだった白は徐々に数を増し、シンシンと音も立てずに視界を埋めてゆく。
「初雪だな」
「うん」
ただ俺たちは馬鹿みたいに二人並んでずっと雪を眺めていた。
2.ガラスケースの向こう――由紀
たまたま買い物に来たアウトレットモール。普段はこんなとこに来ない。
ただ、姉貴の「受験も一息ついたんでしょ、息抜きついでに荷物持ちしなさい」という言葉で無理矢理連れてこられた。ちなみに俺の「終わったのはまだセンターだけ」という言葉は無視された。
一月としてはとても暖かい日だった。通学用のダッフルコートを脱いでベンチに腰掛ける。
姉貴は気に入った服が高くて買おうかどうか迷ってる、という状態がかれこれ二十分は続いてる。あの状態になるとしばらく動かないだろう。と判断して店から抜け出してきた。
女物の店に入るにはまだ抵抗がある。せめて姉貴じゃなくて彼女と一緒だったら、とか妄想する。でも、そんな妄想もしっくりこなくてアウトレットの中を散歩することにした。
まるで外国みたいな明るい色のタイルが敷き詰められた地面、凡人には計り知れない奇妙なモニュメント、平日の昼間ということもあってか客の数は疎らで、中央にある噴水広場で小さな子どもが何人かはしゃぎ、その子たちの母親であろう何人かのおばさんと呼ぶには早い女性がベンチに腰掛けている。
ぽかぽか陽気な穏やかな時間だった。俺が今、受験戦争の真っ只中ということさえ忘れてしまいそうだった。
三週間後には第一志望の前期試験が、更にその一週間後には発表が、滑り止めや後期のことまで考えると遊ぶ余裕なんてそうはないはずだった。
大輔と同じ大学行けたらいいな、と思う。
高校は別々になってしまった。それでも仲は良いままだった。
でも、ふとしたときに感じる『普段過ごす場所』の違いを寂しく思うこともあった。授業の違い、学食の有無、通学路にあるファーストフード、違う場所で俺じゃない誰かに見せてる俺の知らない顔。
同じ大学に入れたらいいな、と再び思う。第一志望の大学の別の学部を受けると聞いたから。
そんなことを考えながら散策してると、ある一つの店に気を引かれた。
看板は何やらよくわからない筆記体で書いてあるがようはライター――ジッポの専門店だった。
俺は煙草を吸わないし、むしろ嫌いだけどジッポはなぜか好きだった、というか格好いいと思っていた。大輔は煙草を吸うが、俺が嫌いだといったら俺の前では吸わなくなった。実はそれが寂しかったりもした。
開けっ放しのドアから中に入る。入って右側がレジで正面と左側の壁面にはガラスケースが並んでいた。中央にはやはりショーケースがあった。
大して広くもない店内をゆっくりと歩く。こうやってたくさんのジッポを眺めるのは初めてかもしれない。
高いもの、安いもの、シンプルなもの、豪華なもの、よくわからないデザインのもの、アニメ絵が描いてあるもの、たくさんのものがあった。
大輔が合格したらあげようかな、と考える。安いものなら俺の小遣いでも買えそうだった。
そして大輔の誕生日が近いことを思い出す。
誕生日プレゼントってことでもいいかな、それに大学合格の前祝も兼ねてってことで、と心の中で呟き納得する。クリスマス前にも突然押しかけて迷惑かけたし、とさらに理由づけて。
そうと決まれば今度は眺めるんじゃなく探す。あいつが喜びそうなデザイン、シンプルなやつ、お財布の事情も含めて、これは高い、これは派手、これは俺が気に入らない、と品定めする。
ぐるぐると回り、目ぼしいものをようやく見つける。
黒チタンでコーティングされた鈍く輝くジッポ。
シンプルであいつが好きそうだった。
値段は予算を少しオーバーしてたけど、お年玉――いらないといったけど叔父夫婦に押付けられた――という臨時収入があったし、姉貴に荷物持ちのバイト代を請求する予定なので十分、何とかなる額だった。
だから、それに決めた。
そのジッポを使って俺の前で煙草を吸って欲しかった。
3.紙切れの向こう――大輔
全て嫌になってベッドに体を投げ出す。
パソコンのディスプレイをかち割りたい衝動に駆られたが理性で押さえ込む。
数字がなかった。
ただそれだけ。
それだけのことに俺の人格すべて否定されたような気になる。
「くそっ」
ベッドを拳で叩く。手ごたえのない感触に余計腹が立つ。
ただ大学に落ちただけ。滑り止め含めて全部。
イライラする。ムシャクシャする。どうしようもなく情けなくて、泣き出しそうになる。
由紀は既に第一志望校を合格していた。俺も同じ大学の別の学部も受けたが、当然不合格だった。それは仕方ない、そもそも高校レベルで学力が違いすぎる。
でも自分のレベルに合わせて選んだところも全部、落ちた。
あいつがこの前持ってきた入学許可証が羨ましい。いや、妬ましいといって差し支えない黒い感情に自己嫌悪を隠せない。
たった紙切れ一枚で由紀は俺の手が届かない場所にいってしまったような気がする。
でもそんなことを正直にいったら、あいつはとても悲しそうな――泣き出しそうな顔になって「そんなことない」っていうだろう。
わかるから、あいつにこんなこという訳にはいかなかった。
どこにもぶつけようがない感情を俺はどこにぶつけれないいのか。
ベッドから起き上がり、机に置いてある煙草とジッポをとる。
いつからだろうか、俺が煙草を吸い始めたのは。そんな考えがふと過ぎり、でも答えはもう思い出せなかった。
煙草を咥え、吸おうとする。ジッポの蓋をあけ火を点ける……点かない、点かない、点かない。
カチっ、カチっ、と耳障りな音をたてるだけのジッポに心底ムカついた。
「馬鹿にすんなっ」
何に向かって叫んだのか、思いっきりジッポを床に叩きつける。
そして、手から離れてから気付いた。
このジッポは由紀からのプレゼントだったということに。
ガンっ、という鈍い音。
勢いが止まらず、床の上を転げて壁にぶつかる。少し回転してゆっくりと止まる。
ただ、ぼんやりと見つめていた。
まるで、自分から由紀との関係をぶち壊した感覚に襲われた。
泣いた。何かが切れたように泣いた。床にへたり込んで、しゃくり上げて泣いた。
4.携帯の向こう――大輔
「じゃあ、またね」
いつもの別れの言葉。顔は逆光でよく見えないが、かすかに笑っているようだ。
ドアが完全に閉まってから俺は深い溜息を吐いた。
やっとあいつが帰った。大学に入ってからも俺と由紀は仲が良いままだ。だけど俺は一方的に負い目を感じていた。
ジッポはフリントを交換したら問題なく使えた。床に投げて壊れたとかそういうこともなかった。
ただ床にはジッポをぶつけた跡が僅かに残り、俺はあのときの奇妙な妄想に取り付かれたままだった。
由紀は今、週に一回のペースでうちに遊びに来る。遊ぶといっても大したことはしない。適当に喋るだけだ。
浪人生活を送っている俺には丁度いい息抜きだが、由紀は大学へ進学して授業に、サークルに、バイトにと忙しい生活を送っているらしい。
もしかしたら俺も送っているかもしれなかった生活。複雑な感情を抱かざるを得ない。
そして、由紀が帰ってホッとしてる自分がおかしくて笑う。
あいつが話す事は新しい生活についての感想や愚痴が大半だ。その話を聞くたび、俺はお互いの生活の違いを実感する。そんな事に由紀は気付いていないのだろうが。
高校生活が終わって一ヶ月あまり、俺は俺とあいつの生活の違いを実感せずにはいられなかった。
部屋に戻る。引き出しに入れてある煙草を出し、ポケットに入れっぱなしの例のジッポで火を点ける。嫌煙派の由紀が来ている間だけ、俺は煙草を吸わない。
心地よい香りが体中を満たし、紫煙が部屋に広がる。
そんな様子を冷めた目で見てる自分自身がいた。
その晩、由紀からメールがあった。
《今度の土曜、映画見に行かない?》
少しだけイライラする。大学でできた新しい友達と見に行けばいいのに、と考えてしまった自分が嫌いだ。
《何を?》
なるべく短く返信をした。長く書けば、自分の汚い感情が言葉に表れてしまいそうだった。返ってきた答えはよく知らないものだったが、それでも簡単に待ち合わせ場所と時間を決めた。
由紀の無邪気に喜んでいるさまがメールから伝わってきて、切ない。
なんで俺は由紀と会うことを素直に楽しめないのだろう。
俺は由紀の友達だ。そう必死に言い聞かせてる。おかしい。でも痛感していた。
俺は由紀を――嫌いになりかけてる。
5.曲がり角の向こう――由紀
空は青い。でもところどころにかかる嫌な色をした雲がそれを台無しにしてる。
駅のホーム、次の電車が来るまであと八分。
待ち合わせの時間までギリギリといったところ。こんな日に寝坊した自分を恨めしく思う。
最近、大輔は元気がない。
ずっとそう感じてる。やはり浪人生活で家に閉じこもってるからじゃないか、と思う。
だからこそ映画に誘ってみた。気晴らしになればいいと思った。
電車が来るまであと五分。
でもそれ以上に近くにいたかった。
時々、俺はどうしようもない不安に駆られる。大輔は俺のこと友達だと思ってないんじゃないかって。
十二月、俺がボロボロのとき支えてくれた、あの繋がりを感じなくなった。
一緒にいるときも、大輔はぼぉーっとしてることが多い。
だからこそ、俺は喋り続ける。新しい生活のこと、希望や不安、愚痴、全部。俺が今、どんな状況にいるか知っていて欲しいから。
大輔の知らない俺を作りたくないから。
それでもやっぱり不安な時は、あいつの机の上にある黒光りするジッポを見て安心することにしている。俺がプレゼントしたものを使ってくれている、という事実が俺を支えてくれる。
まだ俺の前で使ってくれたことはないけど。
やっと電車が来た。慌てて駆け込む。そんな必要はないけど、そうしたほうが早く着く気がするから。
車両の中は、席は全部埋まってるくらい、という土曜にしては空いているほうだった。吊り広告をなんとなく見ては時間を潰す。MP3プレーヤーから流れるラブソングなんか耳に入らない。
ようやく目的の駅に着く。
混んでるエスカレーターをわき目に階段をダッシュする。
改札から出ると、眩しいくらいのいい天気。たった数駅離れてるだけで、雲がこんなに違うのかと驚く。
何かのイベントをやってるらしく、着ぐるみのクマが子どもに風船を配ってる様子が微笑ましい。
待ち合わせ場所の映画館は駅から徒歩五分といったところ。走れば間に合う時間だった。
遅刻なんかしたくなかった。
6.紫煙の向こう――大輔
いつもと変わらない午前、一向に進まない問題集を前に煙草を吸っていた。
開け放しの窓から入って来る五月の風は微かに若葉の香りを漂わせ、紫煙と灰とを撒き散らす。灰皿には山のように吸殻が積まれている。
待ち合わせは午後二時に映画館前。一時に出れば十分、間に合う。
そんな油断だった。
心地よい風とカーテンの衣擦れの音が子守唄のように聞こえた。問題集を閉じ枕代わりにする。
人がたてる物音はダメなのに、自然が鳴らす音は好きだった。まだ早いけど、明日にでも風鈴をつけようと思い、俺はまどろんでいった。
突然、携帯が鳴る。
その音に驚かされて、ばっちり目が覚めてしまった。
慌てて時計を見ると三時過ぎ。明らかに待ち合わせの時間を過ぎている。
電話は由紀からだろう思い、ディスプレイを見ると違った。あいつと俺の共通の知り合いからだった。最近では滅多に会わない友人からの連絡に戸惑いを覚えながらも通話ボタンを押す。
「大輔っ、由紀が、由紀が、車に撥ねられてっ…」
何を言っているのかよくわからなかった。耳には入っていたが頭がそれを聞こうとしていなかった。
数日後、俺は昏睡状態の由紀と対面した。
全身をくまなく消毒され清潔すぎる部屋へと入る。ガラス越しに見る由紀は生命維持装置と言うのだろうか、何本もの管が鼻や口や服の下に伸びていた。その姿は人の形をした置物のようで、由紀の横にある機械の画面に映る数字だけがあいつが生きていることを主張しているようだった。
「由紀……」
そっと名前を呼んでみる。当然、返事はない。
あいつの手は暖かいのだろうか。ふとそんな考えが頭を過ぎる。あいつの手を握りたいと思った。けれど目の前のガラスがそれを邪魔する。ガラスに顔を押し付け食い入るように由紀を見つめる。まるでそうしていれば由紀が意識を取り戻すかのように、ただずっとそうしていた。祈るような気持ちでそうしていた。
どのくらい、そうしていたのだろう。随分と時間が経っていることに気が付く。また明日来るよ、と心の中で呟いて俺は部屋を後にした。
病院の廊下に由紀の母親がいた。おそらくほとんど寝ていないのだろう。その顔はやつれていた。由紀の容態を聞くと小さく叫ぶように答えた。
「大輔君、お医者様は由紀はもう助からないだろうって、よくてもこのまま昏睡状態だって」
由紀の母は今にも泣き崩れそうで、俺は何も言えなかった。
その夜、由紀の死を知らせる電話があった。覚悟していたからだろうか、それとも俺が冷たいからだろうか、泣けなかった。
葬式は驚くほど人が少なかった。数少ない人も焼香を済ますと帰ってしまう。人が全て作り物に見える。なぜかおかしい。思わず笑いそうになるのを堪える。
何人か中学の時の顔見知りがいたが、皆、着慣れないスーツを着て浮いていた。おそらく俺もそうなのだろう。向こうも俺に気付き、当り障りのない会話する。
――「いい人だったのにね」「こんなに早く死ぬなんて親不孝だよ」「もっとたくさん喋っておけば良かった」「なんで、あんなにいい人が死んじゃったの」「畜生、もっと遊んどくんだった」――
思わず耳を塞ぎたくなる。あいつは聖人君子なんかじゃなかった。そして死んだからといってこう言われて喜ぶような奴じゃないことくらい、わかってやってもいいと思った。
去年の暮れにあいつのクラスメイトが自殺した。
クリスマスの少し前の季節だった。
「みんなさ、あの人の事、口々に『いい人だった』って言ってた。でもあの人のこと大して知らない人がどうしてそんなこと言えるんだろうね。それになんでそんなに簡単に過去形に出来るのかな」
あの暗い庭を眺めて、由紀は俺に語った。
その時は意味などろくにわからなかった。ただ聞いているだけだった。
今ならわかる。人は薄情だ。俺も由紀を過去として受け止め始めている。
自分でも驚くほど冷静だった。柩に入った由紀の姿を見ても涙は出なかった。悲しいというより、ただ虚ろだった。焼香を済ませ、神妙な面持ちを保って退席をする。
途中、由紀の母親に呼び止められた。形見として何か貰って欲しいと言う。後日、貸したままになっている小説を取りにいくことを言って家路に着いた。
恐らく由紀の母は、俺と待ち合わせのために由紀が映画館に行ったことは知っているのだろう。けれど何もいわなかった。
そして俺も何も伝えられなかった。
帰りの夜道、空は澄んで普段なら見えない小さな星まで肉眼で確認できた。街路樹として植えられている桜はその花をとうに散らし、瑞々しく力強い葉を風に揺らしている。
この道は俺と由紀、二人でよく通った道だった。小学校、中学校の通学路でもあったし、駅に出るのにも便利なので会うときは必ずと言っていいほど利用していた。由紀が泊まりに来た夜にはコンビニへ二人して夜食や缶ビールを買いに行った。
もう戻れない過去の回想に胸が締め付けられる。逃げるように走って自宅へと向かった。
部屋に入り、呼吸を整える。落ち着いたところで煙草を吸う。何とはなしにいつも持ち歩いているジッポをまじまじと見る。掌に馴染む、程よい大きさと重さの金属製のライター。あいつから俺へのプレゼント。
十八の誕生日、俺は受験真っ只中だというのに珍しく風邪で寝込んでいた。
喉が渇いて目が覚め、台所で水を飲んでいるときドアチャイムがなった。突然の来訪者を訝しげに思いながらもドアを開けると由紀が立っていた。
「ハッピーバースデイ、大輔」
静かに言って手にしていた包みを俺に押し付けた。
「早く風邪治せよ」
俺が何も言えないうちにあいつは走っていった。
「ほんとはお前に煙草を吸うための道具なんてやるつもりなかったんだけどさ、店で見たらカッコよくて。思わず衝動買いをね」
包みから出てきた思わぬプレゼントを喜ぶと同時に驚いた俺は後日遊びに来たあいつに聞いた。
ジッポは高校生の小遣いで買うには高いし、何より嫌煙派の由紀は自分が吸わないだけでなく俺にも吸って欲しくないようだったので尚更だった。
この部屋で俺は椅子に座り、あいつは俺のベッドに腰掛けていた。そして悔しそうに笑いながらあいつは答えたのだ。俺の記憶に間違いがなければ、あいつは笑いながらこう続けた。
「形見だと思って大切に使ってくれよ」
冗談だったのだろう。だが現実になってしまった。
気が付くと煙草は根元近くまで燃えていた。いつになく不味い。
短くなった煙草を灰皿に押し付ける。不味いと思いながらもさらにもう一本取り出し火を点ける。紫煙が部屋を包んでいく。
不意に涙が溢れてきた。ポロポロ、ぽろぽろとまらない。しゃっくりのような嗚咽が喉から漏れる。やはりとまらない。
泣くのは久し振りだと思いながらベッドに腰掛けた。俺にはあいつとの思い出が多すぎる。記憶の断片が頭を過ぎる。ガキの頃から一緒にいて弱虫だったあいつ。別々の高校に行くことを決めてからも一緒に勉強して、お互い第一志望の学校に合格したときは二人で喜びを分かち合った。初めて酒を飲んだときも、大学に落ちて落ち込んでいるときもあいつは俺のそばにいた。
涙に次いで、深い後悔と罪悪感が込み上げる。
「畜生、畜生っ」
声が震えていた。
俺がもし昼寝なんてしなければ、もし駅で待ち合わせをしてたら――。悔やんでも悔やみきれない。
だけど、由紀は死んでしまった。もう、そこには「もし」なんて言葉は意味を持たなかった。
そして気付いた。
なんで気付かなかったのだろう。
少しばっかり悪い自分の境遇ばかり気にしてて、大切なことを忘れていた。
俺はこんなにもあいつがいなくて寂しいのだと。
俺はこんなにもあいつが好きだったのだと。
眼を閉じれば、いや開けていてもあいつの顔が浮かぶ。けど笑っているのか、悲しんでいるのか、怒っているのか、表情はわからない。その顔は紫煙の向こうにあってぼやけていた。
7.空と雲の向こう――大輔
由紀の死から一年近くが過ぎ、俺は志望大学の最後の発表を見るためパソコンに向かっていた。
これに落ちていたらまた浪人生活を送るはめになる。
緊張はしていたが自信はあった。しかし油断はできない。はやる気持ちを抑えクリックをする。たくさんの数字が羅列されるなか、自分の受験番号を探す。見つけたとき、思わず深い溜息を吐いてしまった。
これで俺は今春からはれて大学生になれる。親に連絡するか友人に知らせるか迷ったあと、俺はあることを思いつき手早く身支度を整えた。
電車とバスを使って二時間。
由紀が眠る墓は小高い山の上にあった。
平日の昼間のためか俺以外の人影は無い。何回かは来ていたが場所を覚えていなくて探すのに手間取る。
やっと見つけた墓は花も線香もなく寂しいものだった。
霊園の人がやっているのだろうか、きれいに掃除されているのが救いである。
突発的に来たものだから当然、俺も何も持ってきてはいなかった。これから買いに行くとしても山を降りて霊園の入り口までいかなくてはならない。
ポケットに手を入れるとちょうどいいものがあった。
潰れてグシャグシャになった箱の中に残された最後の一本。俺は好きで、あいつは嫌いだった煙草。その最後の一本にあいつから貰ったジッポで火を点け、一息吸う。
線香代わりに煙草を墓前に供え、由紀に大学合格を報告した。
馬鹿らしいかもしれない。由紀はもう死んでいるのだから。でも、それでも俺は由紀に最初に知って欲しかった。
「ああ、少なくとも俺はそう思うよ」
小さく呟く。
風に撒かれ紫煙は静かな墓地と、手を伸ばせば届きそうな空に広がってゆく。
紫煙の向こうは俺を見下ろす青い空。
その空と雲の向こうに由紀の笑顔が見えた気がした。