第三章《はじまり》:a night with a hazy moon
(――ねぇ、ほんとはね)
(私、怖いんだ。)
(このまま私の存在が、なかったことにされちゃうんじゃないかって)
(私なんて、最初からいなかったって、そんなの)
(いや、だ。)
(嫌だよ、)
(消えたくないよ、ちぃちゃん……!)
* * *
月の満ち欠けをいくつも遡った、それは遠い昔の話。遥かな過去の、けれど確かなある日の話。
少女は小さな町に住んでいた。視界の端には常に山野の深緑が映る閑かな場所で、古びた神社と学校と寂れた工場、後は簡素な住宅が立ち並ぶだけである。そんな辺鄙な所にも関わらず、少女の家族は一族代々そこに住み着いていたのだった。その地の名を、上水流という。
黒沼千瀬は一族の例に漏れず、この町で生まれこの町で育った。少女はまだ小学生であったが、上水流町内で彼女に知らない場所は無い。
それは場所でなくとも同じことで、例えば誰の家がどこにあり、住人は何人居るか、といったことは全て把握していた。
それはけして少女が特別だったわけではない。上水流という町では、あの家には何人子供がいて誰それはもう時期何歳の誕生日を迎えるだとか、この家とあの家は親戚だ、などという情報が住人間で筒抜けていたのである。――小さい町だった。本当に、小さかったのだ。
その日も千瀬は祖父母の自宅で剣術の稽古に勤しんでいた。千瀬は稽古に熱心だったが、合間を見計らって家を抜け出し、祖父母宅のすぐ裏の家へ向かうことが当時の日課に成りつつあった。
それは少女にとって、生まれて初めての秘め事。行き先を問われて誤魔化すためについた小さな嘘も、千瀬には初めての経験だったのだ。
当時そこには『七見』という表札を掲げた家が立っていた。住人は二人、この家に住む若い夫婦のみである。……それが、上水流町における七見家の見解であった。
千瀬は足音を忍ばせてその家に入ってゆく。それは列記とした不法侵入なのだが、それを咎めるものはいない。(誰にも気付かれていなかったのだ。)
七見家の敷地は広く、家の影に隠れた庭の一部に小さな木製の小屋が建てられていた。小屋の裏手にまわり込むと、そこには子供一人どうにか通れそうな出窓がある。
幼い彼女は小さな体を十分に使って、軽々と窓に向かって飛び上がった。器用に桟に掴まりバランスをとってから、遠慮がちに三度のノック。これが、彼女達の秘密の合図だった。
「ちぃちゃん、」
窓の向こうから聞こえた声は硝子越しでくぐもっていたが、千瀬は表情を綻ばせる。
待っててね。中からもう一度小さな声がして、同時にカチリ、という開錠の音。
「ツキハさん、今日はね、桜とお団子持ってきたんだよ。お花見しよう?」
「おはなみ?」
「うん」
迎え入れてくれた年上の少女に笑いかけ、千瀬は小さな窓からするりと小屋のなかに侵入した。
――黒沼 千瀬、七歳の春。
まだ少女は、彼女の犯す罪を知らない。
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