王子様はおとといいらしてくださいませ
いつもと変わらぬ昼下がりの城下町。いつも待ち合わせをする喫茶店で、ハーブティを飲みながら、彼はサラリと私に告げた。
「ロシェ、僕と結婚してくれないか?」
付き合い始めて二年になるから、そろそろかなとは思っていた。だからそれほど驚いたりもせず、私は彼を見つめて小さく頷く。
「うん」
彼はホッとしたように笑顔をほころばせて、テーブル越しに私の手を握った。
「よかった。じゃあ明日、僕の家族に会ってくれる?」
「いいよ」
「朝、迎えに行くから一緒に王宮へ行こう」
はい? 何しに王宮へ? ていうか、私ごときが気軽に行ってもいい場所じゃないと思うんだけど。
首を傾げる私に顔を近づけて、彼がコソコソと耳打ちする。
「まだ誰にも内緒だよ。実は僕ね、この国の王子なんだ」
はい——っ!?
「王子!?」
思わず手を振りほどいて立ち上がった私を、彼は周りを見回しながらなだめる。
「声が大きいよ。とりあえず落ち着いて」
落ち着けるかっての!
けれどさすがに、チラチラと送られる視線が気になって、私は渋々座り直した。
「驚かせてごめんね」
まったく悪びれた様子もなくニコニコと笑う彼を、私はまじまじと見つめる。
「からかってるの?」
「大真面目だよ」
「なんで今まで黙ってたのよ」
「いやー、言い出せなくて」
どこか穴が開いて空気が漏れてるんじゃないかと思える、ぽや〜んとしたこの男が王子?
確かに素材は悪くないのよ。金髪碧眼、シャープなあごのライン、スラリと長い足に、しなやかな手指。
だけど中身が、惚れた欲目を上乗せしても残念なのよ。
どこかズレてるのは、外国人だからだと思っていた。彼は隣国クランベールから、勉強がてら働きに来ていると私を謀っていたのだ。
だって! こんなぽややんとした緊張感も威厳もない男が王子だなんて、直接言われた今でさえ信じられない。
まぁ、ぽややんとしてるからこそ、これまで一度もケンカした事ないし。穏和で優しくて、それが彼のいいところだとは思うけど。
でもやっぱり、このぽややん男が王子だなんて!
あまりに縁がなさ過ぎて王子様の顔なんて覚えてないけど、こんなぽややんとした顔はいなかったと思う。たぶん。
いやいや、もしかして王子とはいえ、王位継承権なんかないに等しい末っ子かもしれない。王子様が何人いたかも覚えてないけど、何人かいたはず。
末っ子だから自由に王宮の外をうろついて、ぽややんとしてるんだ。そうに違いない。勝手に結論づけたものの、恐る恐る尋ねてみる。
「あなたのお兄さんって何人いたっけ?」
「弟と妹はいるけど兄はいないよ。僕は長子だから」
目の前が真っ暗になった気がした。という事は……。
「太子殿下!?」
再びガタリと大きな音を立てて立ち上がった私に、店中の視線が集まった。
彼はまたしてもオロオロと私をなだめる。
「だから声が大きいって」
終わった。この国終わった。こんなぽややんとした男が次期国王とは。冗談にしても笑えない。
私が絶望にめまいを感じているというのに、彼は全く気にもとめず、ポケットからいそいそと小さな細長い箱を取り出した。それを私の目の前で開けて、得意げに中身を見せつける。
「これは代々王妃に受け継がれる首飾りだよ。母さんから預かってきたんだ。これを君に」
銀の鎖の先には、小指の先ほどもある大粒の赤い宝石をいくつも繋げて、ピノワール王家の紋章である葡萄をかたどった飾りがぶら下がっている。
王家の紋章を装飾品などに勝手に使用することは禁じられているので、これは本物なのだろう。そしてそれは彼が本当に王子だということを物語っている。
「明日これをつけて一緒に王宮に行こう」
いやいやいやいや、こんな立派なものに釣り合う服を持ってないし。それ以前に、こんな王家の財宝——。
「受け取れません!」
「どうしたの? 急に敬語なんて」
食いつくところはそこか! やっぱりズレている。
私は深々と頭を下げて、差し出された首飾りの箱をズイと押し戻した。
「これまでの非礼は平にご容赦ください。そして私との縁はすべてなかったことに」
頭を下げたまましばらく待ったが、彼の反応がない。不審に思いつつ顔を上げると、悲しげに見つめる青い瞳と視線がぶつかった。
「わけが分からないよ。さっきは結婚に同意してくれたじゃないか」
さっきまで恋人だった男が、突然雲の上の人になってしまった、この状況の方がわけがわからない。
「状況が変わったんです。あなたのぶっ飛び告白のせいで。あなたが王族だと知っていたら付き合うこともなかったはずです。住んでる世界が違いすぎるもの」
「じゃあ、僕が王族じゃなくなればいいんだね」
こら待て。ニコニコしながら何を言う。王族やめてどうやって生きていくつもりなのか。
だいたい王子様が働いたことなんてあるわけない。実際に彼が働いている現場を見たことがないし。
という事は、私がひとりで働いて彼を養う事になる。五体満足な働き盛りの男を養うなんて理不尽すぎる。そう思った私は思わず怒鳴っていた。
「できもしないこと言わないで!」
彼は途方に暮れたようにため息をつく。
「いったいどうすればいいんだ。僕が嫌いになったわけじゃないんだよね?」
「あなたのことは好きです。でも王子様とは結婚できません。あなたが王族をやめて生きていけないのと同じように、私も王宮では生きていけないんです」
だって想像すらできないもの。小さなハーブ園を営む両親の元に生まれ、ハーブを売る店で働きながら調香師の勉強をしているような庶民の私には。
自分があまりにもちっぽけな存在に思えて、私は自然と俯いた。
「納得できない」
いつになく不快感を露わにした彼の低い声に、私は顔を上げた途端に硬直する。
目が据わっている。もしかして怒ってる? 初めて見た。
「僕のことを嫌いになったのなら諦めもつくけど、好きなのに王子はダメって意味が分からない」
「だから! 住む世界が違いすぎるんだって言ったじゃないですか!」
「そんなに違うと思わないけど?」
庶民の暮らしをナメてんのか! 二年前には自分で扉を開けることもしなかったくせに。
「扉は勝手に開くものだと思っていた」
いけしゃあしゃあと、そうのたまったのはどなたでしたっけ?
クランベールは科学技術が発展した国だから、そんな扉しかないのかと思ってたけど、王子様だったからなんだ。今までまんまと騙されてた。
「とにかく、あなたと結婚はできません。これ以上しつこく食い下がるのなら、私は全力で逃げさせて頂きます」
「わかった」
そう言って彼は席を立った。
ようやく諦めてくれたのかとホッとした瞬間、彼は不愉快そうに私を見据えたままで誰かの名前を呼ぶ。
「ボヌマール」
「ここに」
いつの間に来たのか、あるいはいつからいたのか、彼の後ろから初老の男性が現れた。まるで空気か影のようにまったく気配を感じない。
彼はその男性に淡々と命令する。
「今すぐに国境と各交通機関に通達を。彼女が国外に脱出しないように」
「御意」
軽く頭を下げて、初老の男性は店を出て行った。
男性を見送った後、彼は不敵の笑みを浮かべて私を見下ろす。こんな顔も初めて見た。追い詰められると開き直るタイプなのかしら?
「君は意見を曲げるつもりがないみたいだし、僕も諦めるつもりはない。君が全力で逃げるなら、僕は国家権力を総動員して君を捕まえることにするよ」
「はあぁ!?」
それって職権乱用じゃない!? ていうか、私情のために国家権力総動員って、独裁者!?
ぽややん男の豹変ぶりに返す言葉を見失っていると、彼は勝手に勝負の条件を提示した。
「明日、日の出から日没までの間、君が見事に逃げ切ることができたなら、僕も潔く諦めよう」
「いいぞーっ、王子様!」
突然、隣の席にいた男がおもしろそうに声をかけた。周りを見回すと店中の人が、客も店員もそろってこちらに注目している。
何度も大声でわめいていたから、興味を引いてしまったらしい。
誰にも内緒って、意味ないじゃん。
彼は呑気にニコニコしながら、みんなに手を振っている。国民に笑顔で手を振る仕草は、さすがに板についてると思うわ。
そんなことを考えている隙に、周りではあらぬ方向に話が盛り上がっていた。
「よーし。この勝負どっちが勝つか賭けないか?」
「オレは殿下に二百セパ」
「私も王子様に五十セパ」
「私はお嬢さんに」
「おい、ちゃんと集計しろ」
当事者たちをよそに、賭けは異様な盛り上がりを見せ、あれよあれよという間に店の外まで波及していく。
抜き差しならない状況に、勝負自体を断ることができなくなった。
彼が国家権力を総動員するなら、軍や警察、国の機関はすべて私の敵。どう考えても圧倒的に私の不利。
がっくりと項垂れる私の肩を、ふくよかな女性がポンポンと叩いた。
「そんなに気落ちすることないわよ。国家権力はあなたの敵でも、権力と無関係な国民の方が多いんだから。あなたの味方はたくさんいるわ。変装の得意な人知ってるから紹介するわよ」
こうして私と彼の国を挙げた大掛かりな追いかけっこは幕を開けた。
ハーブ園の脇にある小屋の窓から、山の向こうに沈む夕日をこっそりと見つめる。
やがて日が沈んだのを確認すると、私は思わず両手の拳を握りしめた。
「よし! 逃げ切った」
小屋の外に出て、自由をかみしめるように大きく背伸びをする。途端に逃げ切った喜びよりも、一抹の寂しさを感じた。ホッと息をついた時、耳慣れた呑気な声が聞こえてきた。
「あーあ、負けちゃった」
小屋の影からひょっこり現れた彼が、ニコニコ笑いながらこちらにやって来る。言葉とは裏腹に、あまり残念そうには見えない。
「いつからそこにいたの?」
「今来たとこ」
「ウソ」
待ち合わせで私が待たせた時に、どれだけ待っていても彼は同じ事を言った。
「どうして捕まえなかったの? せっかく追い詰めたのに」
彼は苦笑しながら白状する。
「やっぱり、君の嫌がることはしたくないんだよ。一日考えて、少し分かった気がする。君にとっての僕は、王子でも魔物でも関係ないって思えるほどの魅力はないんだろうなって。それは僕に問題があるって事だから、僕の気持ちだけ君に押しつけるわけにはいかないよ」
そう言って彼は、私に右手を差し出した。
「二年間付き合ってくれてありがとう。この先も君と一緒にいられたら嬉しかったけど、潔く諦めるよ。約束だしね」
私は差し出された彼の手を見つめて項垂れる。この手を握り返してしまったら、彼は本当に手の届かない雲の上の人になってしまう。
こんなに近くで顔を見ることも、こんな風に言葉を交わすこともできなくなる。
どうして最後になってこんな風に優しくなるの?
豹変した意地悪王子のままだったら、笑ってこの手を握り返すことができたのに。
見つめていた彼の手が、ぼやけて滲む。俯く足元にポタポタと涙がこぼれた。
「……どうして王子様なのよ……」
言っても仕方のないことが口をついて出る。
「ごめん」
彼はつぶやいて、空振りに終わった手を下ろした。
徐々に薄暗くなっていくハーブ園の片隅に、ふたりしてしばらく立ち尽くす。
「あらあら、ダメねぇ。女の子を泣かせるなんて」
突然聞こえた女性の声に、私は慌てて涙を拭いながら顔を上げた。先ほど彼が現れた小屋の影から、貴族と思われる身なりのいい女性が顔を覗かせている。
追いかけっこの見物人かしら? それにしては彼に対してなれなれしすぎるような……。
女性はつかつかと彼に歩み寄り、背中をバシッと叩いた。
「しっかりしなさいよ」
王子様に対していきなり何を!?
私が内心うろたえていると、彼は女性を横目で見ながら小さくため息をつく。
「母さん……」
はぁ!? てことは、王妃様!?
声も出ないほど動揺している私をよそに、ふたりは言い争いを始めた。
「ようやく重い腰を上げたかと思ったら、詰めが甘いわねぇ」
「ロシェがイヤだって言ってるんだから無理強いはできないよ」
「あなたが頼りないからでしょう」
「言わないでくれる? 痛いほど自覚してるんだから」
こうやって見ていると、普通の親子にしか見えないけど、王妃様と王子様なのよねぇ。
私を完全に蚊帳の外に置いて、ふたりの言い争いは次第に過熱していく。待っていてもいつ収まるのか見当もつかないので、私は間に割って入った。
「あ、あの……王妃様?」
途端に王妃様はこちらを向いて、取り繕うようにニコニコ笑う。
「あら、ごめんなさい。うちのバカ息子がいつもお世話になってます」
「いえ、とんでもない。こちらこそお世話になっております」
私が恐縮して頭を下げていると、王妃様の横で彼がふてくされたようにつぶやいた。
「バカは余計だよ」
「好きな女の子ひとり幸せにできなくて泣かせてるような男はバカっていうのよ」
「……何しに来たの? 見守るだけって言ってなかったっけ?」
「ロシェさんとお話してみたかったの」
ニッコリと笑顔を向けられ、私は恐縮しながら首をすくめる。
「光栄です」
すっかり畏縮している私を見て、王妃様はコロコロと笑った。
「そんなにかしこまらなくても大丈夫よ。あなたのためらう気持ちはよく分かるわ。私も昔はそうだったから」
「え?」
いやいや、ためらいの度合いが違うと思うんですが?
「私、表向きは公爵家からの輿入れって事になってるけど、元々はあなたと同じ町娘なのよ」
はいーっ!? こんなに物腰優雅な貴婦人が!?
確かに親子のやり取りは随分と砕けてたし、親子そろって突然のぶっ飛び告白は血のなせる技なのかもしれないけど。
「昔は色々と身分だの出自だのにこだわる人が多かったから、そうするしかなかったの。でも今は時代が変わったから、そんな事気にする必要ないわ。この子だって町娘の私の血を引いてるんだもの。あなたが気後れするほど高貴じゃないのよ」
そう言って王妃様は、笑いながら彼の腕をパンパン叩いた。
「それにね、確かに町の暮らしとは色々と勝手が違うけど、王宮の暮らしもそれほど悪くはないわよ」
それは王妃様や王様が、そうなるように仕向けてきたからでしょう? だってさっき、昔は色々こだわる人が多かったっておっしゃってた。
変わったのは時代のせいだけじゃなくて、王妃様が努力して変えてきたから。そんな王妃様はかっこいいと思う。
私は何か努力する前に逃げようとしていた。彼の気持ちを無視して、自分の気持ちだけ押しつけようとしていたのは私も同じ。
私はどうしたいの? このまま彼と別々の人生を歩んで、本当に後悔しない?
ぽややんとして緊張感はないけど、いつも優しい彼が今でもこんなに好きなのに。
俯いて黙り込んだ私を気遣うように、彼が王妃様を促した。
「ほら母さん、もう帰ろう。往生際が悪いよ。ロシェが困ってるだろう?」
そして私にも声をかける。
「ロシェ、ごめんね。君の事話したら、母さんが気に入っちゃったみたいでね。家まで送るよ」
その声に顔を上げると、いつもと変わらぬ優しい笑顔で私を見つめる彼と目が合った。やっぱり好き。ちゃんと伝えなきゃ。
「私、王宮の決まりや行儀作法なんか全然知らない。それどころか一般の行儀作法も怪しいと思う。だから王子様のあなたをささえるどころか、恥をかかせることしかできないかもしれない。でも、あなたが王子様だと知る前は、あなたとずっと一緒にいられたら幸せだろうなと思ってた。そして今でも、ずっと一緒にいたいって気持ちを捨てられないの」
逃げ切った時寂しく感じたのは、この先も彼と一緒にいられる口実を失ったから。
「本当は捕まえて欲しかったのかも。あなたに捕まって嫌々王宮に上がった町娘なら、無知でも不作法でも仕方ないって許してもらえそうだと甘えてたの。たぶん」
「ロシェ……」
呆気にとられたようにつぶやく彼の横で、王妃様が勝ち誇ったように言う。
「ほらご覧なさい。あなたがあっさり諦めたりするから。だから詰めが甘いって言ったのよ」
もう逃げられない。だって心は捕まっているから。だから今度は私が捕まえる。
「全力で逃げておいて今さらだけど、私あなたと……」
「待って」
私の言葉を遮って、彼が一歩前に踏み出した。
「もう一度、僕から言わせて。ロシェ、僕の妃として一緒に王宮に来て欲しい」
差し出された手を、私は今度こそ笑顔で握り返す。
「はい」
「よかった。やっと捕まえた」
彼は嬉しそうに笑いながら、私を思いきり抱きしめた。
引き出しの奥から出てきた写真を眺めて、私は思わず目を細める。あの追いかけっこが終わった後、彼に捕獲されているように見えた私をおもしろがって、町の人が写したものだ。
そこには夕闇迫るハーブ園で、私を抱きしめながら嬉しそうに笑う彼がいる。
追いかけっこの間、私は国中のあちこちで、たくさんの人たちに助けてもらった。
みんな国家権力と小娘の勝負を楽しんでいるようだった。
そして、もしも私が勝負に負けて王子と結婚し、いずれ王妃になったとしても、それはそれで歓迎すると言う。
庶民な王妃なら庶民の暮らしや気持ちが分かるからということらしい。
「なつかしい写真だね」
穏やかな声と共に、あの時と同じあたたかい腕が、背中から私を抱きしめた。
私は肩越しに彼を振り返り、互いに笑みを交わす。
「王宮の暮らしは、今でもイヤ?」
「そうね。やっぱり勝手が違いすぎるもの。でも今は、それほど悪くもないかな?」
雲の上のことと関心を示していなかった王室が、あの追いかけっこと、祭りのように盛大な結婚式を通して、案外国民たちに愛されていることを知った。
勝手の違いすぎる王宮内でも、傍らには緊張感のないぽややんとした彼がいる。
普段はぽややんとしているけど、案外仕事をしていることもわかった。
彼は私のこめかみに口づけて、耳元で囁く。
「明日、ヴォルネが町の女の子と追いかけっこをするらしいよ」
彼の弟王子も付き合っている町の女の子に求婚して断られたらしい。町の人たちがまた盛り上がっている様子が目に浮かぶ。
国を挙げての追いかけっこが、そのうち王室の婚姻儀礼になってしまうのではないかという気がする。
「捕まえることができるといいわね」
それはもちろん、彼女の心を。
今度は私が、王妃様の代わりに彼女とお話してみよう。
私は思わずクスリと笑った。
(完)