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風が奏でる癒し唄
作:鮎坂カズヤ



第二部プロローグ : 最悪の始まり


 
 なぜだ?
 なぜこうなった?
 なぜこんなことになってしまったのだ?

 この世の中で最も愚劣な行為。――それを、私は今からしようとしている。
 なぜだ? なぜこうなった?
 なぜこの罪を自ら背負おうとしているのだ?

 ……愚問だな。わかっているんだ、本当は。
 こうする以外に私の選んだ答えは成し得ないということも。
 私の進もうとしている道はこういう道なのだということも。
 そしていずれは破滅するだろうということも、――全てわかっている。

 それでもそう思わずにはいられないのは、まだ染まりきれていないからだろう。
 狂気の答えを受け入れられず、良心が何度も問いかけるのだ。
 ――本当にこのままでいいのか、と。
 ――それを果たしてしまったらもう後戻りはできない、と。
 何度も何度も、私の心にそう問いかけるのだ。 

『ウ、ウァ……』

 目の前にいる少女の口から漏れる獣のような呻き声。
 思考することを放棄したかのような虚ろにまどろんだ瞳。
 焦点の定まらないその白い瞳を見据えながら、思う。

 ――どうか教えてくれないか? 私の選んだ道は、果たしてこれでよかったのか?



  ◆ ◆ ◆



やなぎさん、日高家の過去旅行からの帰還の確認が取れました」
 
 薄暗い部屋の中でいくつかのモニターと報告書を見つめる長髪の男性。柳と呼ばれたその人物は振り返ることもなく、どうでもいいことだとでも言いたげに返事を返す。

「何か不祥事は起きてないだろうね。まぁ単なる一般家庭だし、どうにでも処理できるけど」
「家族の方には問題はありません。……ただ」
「なに?」
「監視役である『俯瞰ふかんの眼』が帰還していません。何らかの事故でそのまま過去に残ってしまったようです」

 部下らしき男のその言葉にようやく柳は振り返った。
 ギョロっとした大きな瞳。少し面長な顔立ち。ヒョロっとした細身の身体には、身に付けた白衣がよく似合っていた。

「事故ぉ? どういうこと?」
「その家族からの報告によりますと、到着ゲートが開いたその瞬間にはどこかに消えていなくなっていたそうです。……故障、でしょうか?」
「その『俯瞰ふかんの眼』のシリアルナンバーは?」
「W7918Aです。あ、末尾A番機ということは……」
「初期モデルだね。いくら一般家庭につける『俯瞰ふかんの眼』といってもあんな旧式を出すことはないでしょ。相手がお得意さんやスポンサーの方々だったら、とんでもないクレームが起こっているところだよ」
「……申し訳ありません」
「いい機会だね。この際、初期モデルは全て廃棄しようよ。同じような事態が起こらないとも限らないしね」
「はい、すぐに処分しておきます。……あ、それともう一つ」
「なに、また不祥事?」
「いえ、柳さん宛てに手紙が届いています。仙堂さんから」
「仙堂さんだって! ……珍しいことがあるもんだね」

 手紙を受け取り、部下が部屋を出て行くのを確認してから柳は手紙の封を開ける。
 普通ならこんな簡素な手紙にもロックをかけて本人以外には読めないようにするものだが、仙堂と呼ばれた差出人はそれをしなかった。ただテ−プでとめてあるだけの、ごく簡単な封。

「あの人らしいと言えばあの人らしいけど。せめて音声認識くらいの封はしてほしいよね」

 テープを剥がし、封を開く。中にあったのは一枚の白い便箋。なんの模様も愛嬌もないその便箋に記されていたのは、たった一行の文だった。


 『例の存在を確認、捕獲した』


「――なんだって!?」

 思わず立ち上がってしまうほど、柳の身体を衝撃が走った。
 今にも飛び出してしまいそうなほど瞳が大きく開かれる。柳の持つ手紙がクシャクシャと悲鳴をあげる音が響く。
 手紙に記されたたった一行の文が、彼の頭の中に何度も響き渡る。

「例の存在……、例の存在……!」

 やがて、彼の顔は歪んだ。
 歓喜の表情と呼んでしまうにはあまりに醜悪な表情。醜く吊り上った口角からは抑えようとしても抑えきない笑い声が漏れ出てくる。
 柳以外には誰もいない薄暗い部屋の中、『管制塔』と呼ばれる時間旅行を運営する機関の中枢部で、白衣を着た男が狂ったように身悶えしていた。

「本当に居たって言うのか! あんなおとぎ話でしかあり得ないと思われていた存在が、本当に居たって言うのか! く、くくく、ヒャハハハハッ!」 

 狂ったように笑い続け、歓喜の咆哮をあげながら、柳はすぐに出かけるための支度を整える。白衣を脱ぎ黒いスーツを着込んだ彼は、髪の色から靴先まで見事なまでに黒一色に染まっていた。

「ありがたいですよ、仙堂さん! こんな儲け話を持ってきてくれるなんてね!」

 部屋から出た彼の目に光が差し込む。眩しそうに細められた瞳の奥で欲望の炎が渦巻いていることなど、彼と通りすがった職員の誰もが気付きはしなかった。
 長い渡り廊下を歩きながら、柳は一人呟く。

「さぁ、拝みに行きましょうか。例の存在――フライングマンって奴を」



  ◆ ◆ ◆



 彼女は何も答えなかった。
 彼女は何も見ていなかった。
 彼女は何も考えていなかった。

 ……そうか、君はその答えを選んだのか。
 絶対孤独に終止符を打つためにその答えを選んだのか。
 それもいいだろう。その方がこちらにも都合がいい。

 さぁ、始めよう。
 この世で一番愚劣な行為を始めるとしよう。

 私はここから歩き始める。狂気の道を歩き始める。
 私はもう揺るがない。
 常識にも、良心の声にも、破滅の未来にも。
 私はもう何者にも染まらない。――君のように。

 『染まることのない白』を身にまとう少女。
 絶対孤独の果てに、思考を放棄した少女。
 君に感謝と敬意と、そして誓いを立てよう。
 私の願いと君の願い。そのどちらをも叶えることを。

 そして私は、その少女を――フライングマンを、殺した。

  







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