表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
979/980

353. 薬の魔物を解雇します(本編)




婚姻届というものを出されてしまい、儚くなっていた魔物が息を吹き返したのはその十分後のことであった。


ぱちりと目を開いておろおろと周囲を見回した魔物は、自分が死んでいる間に婚約者に見捨てられなかったことにとても安堵したらしい。

またぺそりとしょげてしまい、ネアをぎゅうぎゅうと抱き締める。



「…………ごめんね、もう君を一人にはしないよ」

「そうですね。どうかもう、大切な日に死なないで下さいね…………」

「…………人間は書類で婚姻を結ぶのかい?」



美しい指先でネアが広げた婚姻届に触れる様は老獪な魔物らしい仕草なのに、そう尋ねる声がとてもふるふるしているので、ネアはまたくすりと微笑む。



かつてネアが、このお城に受け入れて貰った証として大好きになった長椅子にふかふかと座り直し、婚姻届をそっと指差す。



(ディノがお城にこの長椅子を出してくれた時、私が望んだから連れて来たという理由ではなくて、この長椅子がある限り、私はここにまた来てもいいのだと思えて嬉しかった…………)



だからこれは、ネアにとっての大切な長椅子なのだ。



「人間の場合、正しくは結婚式の儀式が必要なのだそうですが、私の場合はディノが王様な魔物さんなので、私より高位となるディノのお作法に準じるのだそうです」

「でも、これを書くのだね?」

「はい。これはただの登録用の紙ですが、私は人間なので、そちらの決め事としてこういうものを仕上げることで人間としての区切りとしたいのです。…………大丈夫そうでしょうか?」

「……………これが、君にとっての印になるものなら、勿論サインをするよ」

「有難うございます!でもその前に、ディノからか私からか、求婚をしないとなのですよね?」

「……………求婚は君がしてくれた」

「…………なぬ。当方、記憶にございません」

「ネアが虐待する………………」



呆然とするネアに魔物が語ったことによると、去年、慌ただしく記念日のケーキを食べた時にネアが求婚のような言葉を伝えてくれたと言うのだ。



(いや、あれは確か…………)



ネアからすれば、それは求婚ではないと返した気がするのだが、明確に撤回しなかったことでまだ言葉の魔術として生きているのだと、魔物は頑なに言い張る。


そんな事まで深刻に見極めなければならないのかと呆れる思いもあるが、こちらにいるのはネアを伴侶にしたい魔物であり、それに対するのは、可動域が蟻程度の無力な人間がいるばかり。


とは言えそれは、ディノにとってはそんな風に手放したくない大切な提案だったのかもしれない。

そう思えば、ネアは何だか、その老獪さが切り出された理由が愛おしくなった。



「…………では、私からはその時にお伝えしたので、今日はディノから求婚して貰えるのでしょうか?」



そう尋ねたネアに、ディノは水紺色の瞳をふるりと揺らして、ひどくぎこちない動作で立ち上がる。



「…………そうだね、これまで何度も君にそれを望んできたけれど、私からももう一度君に求婚しよう。君が受け入れてくれる言葉を聞きたいんだ」



その喜びを噛み締めるような言葉にはまた、この大事な魔物からの眩しく美しい愛情がほろほろと零れ落ち、ネアはその美貌に心を蕩かされて抱き締めるのだ。



(きっと、この素敵で不思議な世界でなら、ディノがいなくても私は息が出来るようになっていたとは思うけれど、ディノがいなければ私はこんな風に心を緩めて信じることは出来なかった…………)



ディノがネアに与えてくれる愛情は、理想的な紳士が素敵な膝掛けやマフラーを与えてくれて、寒いだろう温まり給えと言うようなものではない。

或いは、魅惑的な男性が、小粋に手袋を与えてくれて共に戦おうぜというようなものでもない。


毛だらけの優雅な獣が飛びついてきて、わふわふと抱き込んで大好き大好きと尻尾を振っているような、何だか笑ってしまってもう分かったからと涙を払いのけられるような不思議な温もりだ。



欲しかったものとはだいぶ違うけれど、この愛おしい嵐に巻き込まれて初めて、がっちり施錠された心の扉の向こうからネアを引っ張り出すのは、この魔物しかいないと気付いたから。




「………っ、」



なので微笑んでその言葉を待とうとしたのだが、がちがちに緊張した魔物は、立ち上がった際によろめいて長椅子にがつんと足をぶつけてしまい、またしてもしょんぼりする。


悲しげにそろりとこちらを見たので、ネアは長椅子を立ってディノの正面に立つと、とても緊張している魔物を刺激しないように、にっこり微笑んでみせた。




「………………ネア」

「はい」



ディノは、ぺそりと丸まっていた背筋を伸ばして立ち、その後何かに気付いたようにはっとすると、優雅な仕草でネアの足元に跪いてネアの目を丸くさせた。



こちらを見上げるのは、魂が押し潰されそうな程の美貌を持つ特等の魔物。

決して良きものばかりを授けるのではない、万象を司り齎すもの。



白に虹色の煌めきを乗せた真珠色の長い髪はゆったりと波打ち、それを優しく三つ編みにして片側に下ろし、ネアが初めて買ってあげたラベンダー色のリボンをきゅっとリボン結びにしている。


こちらを見上げる瞳にあるのは、誰も踏み入らない深い森の中にある泉のように澄明な、水に滲んだインク色の水紺色の瞳。

その瞳をきらきらと輝かせ、ディノは唇の端をむずむずさせて喜びを噛みしめるようにこちらを見ていた。




「……………ネア、君でなければならないんだ。…………誰のことも、君のようには愛せないし、君のように私に触れてくれるのも君しかいない。………私の伴侶になってくれるかい?」



その声音がどれだけ美しかったことか。

低く甘い声には既に答えを知っている者だけの、安堵と歓喜が静かに滲んでいる。


跪いたその足元に次々と咲いては枯れて灰になってゆく、美しい花々がふわりと香った。



(……………ああ、)



遠く、優しくなかったあの日々を思う。

ネアはやっと、本物の家族をこの手に掴むことが出来るのだ。




(やっと私に、家族が出来る。愛するものがここにいて、私という人間の半身になるのだわ…………)




目の奥がつんと熱くなり、じわりと涙が滲んだ。

伸ばされた手にそっと自分の手を重ね、訪れた人生の特別な瞬間に応えるべく、唇を開いた。



「はい。宜しくお願いしまぐふ。…………噛んだ…………」

「ネア!」



一番大切なところで噛んだ哀れな人間がさあっと青ざめるのと同時に、ぱっと笑顔になったディノがネアを抱き上げた。

ぎゅうぎゅうに抱き締めてはくるりと回したり、頬ずりをしたりしてくるのだが、大喜びの魔物に対し、残念ながら伴侶となるべき人間は、本番に弱かった己の未熟さに打ちのめされていた。



(この世は無情だった………とても残酷な世界だった…………)



「ふぎゅ、噛みました。淑女らしく優雅に艶やかに決めるつもりが、最後の音で噛みました………。悲しいです…………」

「可愛い…………」

「ディノ、ごめんなさい。最後でもごもごしてしまいました。……………まぁ!」



やっと心をこちらに戻して失態の羞恥から立ち直ったネアは、いつの間にか王座の間いっぱいに真っ白な花が咲き乱れていることに気付いた。


どこまでも、どこまでも。

そこは花畑のようになってしまい、どの花も瑞々しい花びらを広げて満開になり、ふくよかな芳香で部屋を満たしている。




「……………君が、やっと私の伴侶になってくれるのだね」

「ふふ、もう泣いてしまっているのですね?ディノ、これからもどうぞ宜しくお願いします」

「うん。…………可愛い、生きてる…………」

「ぞくりとしました…………」

「可愛い、ネアが動いた…………」

「ディノ、ご主人様はよく動く仕様なのでこのくらいで感動していてはなりませんよ?…………む!………ささ、次はこれに名前を書いて下さいね」

「…………ネアが可愛い。この書類に名前を書くのかい?」

「はい。うっかり一世一代の場面で噛んだことによる悲しみから、婚姻届の存在を忘れかけていましたが、こちらにディノの名前を書いて下さいね。お隣の欄に私の名前を書きますから」



ここでまた嬉しくなってしまったのか、その書類を手に取る為に動いたディノの周囲に、ふわりと温度のない風が立った。



(……………わ、綺麗……………)



満開の花が散り、白い花びらがはらはらと舞い散る。


けれどもまた、散った花の根元から真っ白な蕾をつけた葉っぱが伸びてきて、純白の美しい花を咲かせるのだ。



(全て真っ白だけれど、何種類もの花があるみたい。…………白い花だけを集めたお花畑のようで、なんて綺麗なのかしら………………)



どこからか取り出された水紺色の宝石のペンが、ネアが持ち込んだ婚姻届にするすると名前を記す。

その名前が持つ魔術の祝福から、記された美しい文字がしゃりしゃりっと宝石質な輝きを帯びる。


続けてネアが自分の名前を書き、少しだけ思い悩んだ。



「ディノ、ここにはやはり、今の私の名前ではなく本来の名前の全ての綴りを書くべきですか………?」

「…………いや、君がこの世界で名乗らなかったものだから、それはもうあちら側のものとしておこう。その名前を持ち込むことで、何かの天秤が傾いてしまっても困るからね」

「良かったです!私自身としてももう、この名前がこちらで育まれた私なので、ただのネアでいられてほっとしました………」




あれは、遠い遠い祝祭の日の夜のことだった。



『おいでおいで、優しい子。おいでおいで美しい子。おいでおいで君を愛する子。おいでおいで、君を守る子。おいでおいで、私の大切な娘を幸せにする子』



クリスマスの日の夜に、雪の降る庭でそうおまじないの言葉を口にしていたのは、ネアの父親だ。


あれはユーリが死んでしまった年のクリスマスのことで、悲しみに暮れる家はそれでもユーリが大好きだったツリーを飾った。


母親が泣いているのを知られたくないその僅かな時間に、ネアを連れて庭に出た父親は、そう呪文を唱えて涙の滲んだ瞳で微笑んだ。



お父さんは魔法使いかもしれないからねと微笑んだその横顔を、ネアはずっと忘れられずにいた。



そこにはなぜか、失われ立ち去ってゆく人の苦しみにも似た、不思議な愛が溢れていたから。



(私の両親は、なぜ私にあの名前をつけたのかしら……………)




だからこの世界でただのネアになった時に、ネアはどこかほっとして、この世界のフィルターを通して見ればまるで呪いにも似た一つの家族の顛末から、漸く爪先を引き上げたような不思議な安堵を覚えたのだった。




「だから、私はただのネアになれて良かったです。…………それはとても身勝手な安堵ですが、幸せになればこちらのものです!大切な家族に、守り愛してくれたからこそ、私は幸せになったのだと言えるのですから」

「君は、これからも幸せになるよ。必ず幸せにする」




そう言ってくれて微笑んだディノは、とても美しい。

耳の奥に在りし日の父親の呪文を思い出して微笑みを深め、ネアはそんな魔物の三つ編みを手に取った。



「では、ディノのことは私が幸せにしますね。やっとこの手に、幸せにしてしまってもいいものを捕まえたのですから」

「ご主人様!」

「なぜそっちに行くのだ………」



そうして、ネアの名前も記された婚姻届を見れば、それはとても不思議な感覚であった。


まだ足元はふわふわとして落ち着かない。

それは、ネアがきちんと伴侶として魔術的にも認識される為に必要な、魔物側の婚姻の儀式をよく知らないからだ。



(エーダリア様達の反応や、ノアからのふわっとした教えや、鹿角の聖女さんの話を聞いているとどんなことが控えているのかは分かるような気がするけれど…………)



何よりも胸が震えるのは、仕損じればそこで命を落とすことがあると、ネアが知っているからだろう。




「…………それとディノには、もう一つ大切なお知らせがあります」



(だからその前に、これを終えておかなければ)



そう思って切り出したのだけれど、ネア自身が思っている以上に、愛着の湧いた肩書きを捨てるのは恐ろしく感じた。

少しだけ躊躇ってしまい、けれどももう大丈夫なのだと首を振る。


その為にみんなが手助けしてくれたのだ。

だからもう、この糸を切っても全てが崩れ落ちてしまう訳ではない。



「ネア…………?」



不思議そうにこちらを見た魔物の頬に片手を当て、こつんと額を合わせる。

目元を染めて恥じらう魔物に、ネアはこれから悲しいお知らせをしなければならない。



「予め伝えておきますが、前回、無名の魔物さんとして私と歌乞いの契約をしたのを覚えていますか?」

「…………うん」

「その為にあの場で作られた正式な書類がきちんとガレンに収められましたので、差し止めにされた最初の書類を、いよいよ正式に破棄することになります」

「…………破棄…………」

「ええ。契約の魔術を調べたところ、差し止め中の契約書もまだ魔術が動いているそうですので、差し止め解除をすればまた契約が元に戻ってしまうのだとか。二重の契約も可能だったと分かったエーダリア様はたいへん興奮しておられましたが、やはりこれは破棄しておいた方がいいと、ノアとアルテアさんにも言われています」

「……………うん。それは私も聞いているよ」

「なので、魔物さんのその………儀式の前に、この契約はきちんと破棄しておきましょうね」

「…………………うん」

「私が歌乞いとしてディノを呼んだことになっているので、契約の破棄は、私から言うべきなのだそうです」

「…………………破棄するんだね」



分かってはいても悲しくてならないのか、涙目で項垂れた魔物の頬に両手を添えて頭ががくりとならないようにしてやったが、こうなると何だか、嫌がる魔物に無理やり酷いことをしているような構図に見えなくもない。


しかしながら、大雑把なネアはまぁいいかと考え、この自分の心臓にも悪い問題を手早く済ませてしまうことにした。



そこは、王座の間であり花畑にもなってしまった、不思議なところだった。

窓の外は雪深い不思議な夜の森で、万象のお城は白く青く輝いている。


聖堂にも似た高い天井には声がよく響き、ネアは覚悟を決めてその言葉を発した。



「ディノ、あなたと、薬の魔物として交わした契約については、ここで破棄します」

「……………したくない」

「こらっ!しないと、危ないかもしれないでしょう?薬の魔物は解雇しまして、無名の魔物として雇用継続しますからね!」

「……………ひどい。解雇なんて…………」

「まったくもう、歌乞いと契約の魔物であることは変わらないので、しゃんとして下さい。…………泣き過ぎなのだ」

「………………私は、解雇されてしまうのだね」

「薬の魔物なディノだけで、無名の魔物なディノはずっと私の魔物ですよ?」

「……………うん」




漸く頷いた魔物に、ネアはふうっと息を吐いた。


胸の中には慣れ親しんだ名称を失うことへの喪失感が渦巻いているが、これでもさかむけなどは躊躇いなくぴっと引き千切る派である。


手の甲で汗を拭い、男前に頷きつつ、ネアはめそめそしている魔物の肩をぽんと叩いてやった。



「これで一安心です。後はもう、ディノの伴侶になるばかりですので、晩餐までにはリーエンベルクに帰れますね!」

「………………ひどい」

「なぬ。お祝い料理は大切なものですよ?け、決して、棘子牛ともちもちチーズのパイシチューが出るからではありません…………」

「ネアが虐待する……………」




はらはらと、花びらの雨が降る。


ディノがしょぼくれたので王座の間の床一面の花々が散ったからなのだが、フラワーシャワーのようなその光景はどこか幻想的で、その美しさにネアは祝福というものにも似た煌めきを見たような気がした。



美しい美しい万象のお城は、ディノ曰く、決してこれが人外者のお城で一番壮麗なものという訳ではないらしい。

けれどもここにある色彩は、万象だけに許されたものだ。



そんな魔物の城の中で、舞い散る花びらに手を伸ばし、ネアはふつりと唇の端を持ち上げる。




「……………怖くないかい?」



そっと尋ねたのは、そんなネアをひょいと膝の上に持ち上げた魔物だ。

気遣わしげな水紺の瞳にひたりと覗き込まれ、魔物らしい鋭さと鮮やかさに頷いた。

伸ばされた指先が唇に触れ、背筋にぞくりと震えが走る。



吐息が触れる程の距離でこちらを覗き込むのは、やはり魔物という生き物に他ならなかった。


無防備で稚く、けれども気を抜けば牙を剥くこともある鋭さを、そして人間には計り知れない程の叡智を持つ生き物。



「どうして私が、ディノを怖がってしまうのでしょう?」

「……………うん。君は最初から、いつもそう言ってくれたんだ」



ふっと仄暗い微笑みを深め、ディノはネアに口付けを一つ落とした。


その口付けを福音や祝福のようだと思うのは、いつぶりだろうか。

いつからか、ネアにとってこの魔物からの口付けは、愛情以外の何物でもなくなっていたようだ。



(あ、…………)



ふつりといっそうに深く揺れた暗い微笑みは魔物らしく、満足げなしたたかさには男性的な情欲と、獲物を狩り終えた獣の満足感が滲む。



ひたひたと、ひたひたと、その侵食が深まり、ディノはふわりとネアを抱き上げる。

その途端、くらりと目眩がするような淡い薄闇を経て、二人はまた別の部屋にいた。



「君がここを選んでくれたのは、私が、自分の城をあまり好きではないと言ったからかい?」



そう尋ねる魔物に少しだけ首を傾げ、ネアは素直にその全てを明かすことにした。



「ええ。それにここなら、ディノが沢山お花を咲かせてしまっても悪い人に取られたりしませんし、…………もし私が少々まずいことになっても、周りのものを壊してしまわないでしょう?」



そう言えば、柔らかな寝台の上から見上げた美しい魔物が微かに怯むのが分かった。


ネアとて怖がらせてしまう言葉なのは分かっていたが、それでも、ここでもう一度、大事な魔物に大丈夫だよと伝えてあげたかったのだ。



「…………ディノ、私には春告げの祝福や、チケットがありますから、いなくなりませんよ?」

「………約束するよ。君を必ず守るから」

「…………っ、」




それは、不思議な不思議な時間であった。

肌に滲み透る危うい温度や艶かしさのその向こうにあるのは、どこか真摯な祈りにも似た静謐であり、見上げた天井にはずっとはらはらと花びらが舞い、虹がかかっていた。



寝台の天蓋には雪と虹とを溶かしたような淡い色の布がかかっていて、それがまるでダイヤモンドダストのようにきらきらと微かに光る。

織り模様は宝石をインクにして描いたような儚さだが、時折その布にも真っ白な薔薇が咲いては枯れていった。



くしゃりと、泣き出しそうに歪む魔物の綺麗な瞳を見ている。




(大丈夫、まだ私は生きているし、死んでしまうような感覚もない…………)



だから手を伸ばしてその体をしっかりと抱き締めれば、また一つ口付けがおでこに落とされる。

それが確かに祝福なのだと気付けば、この魔物はネアを生かし続ける為に、今日だけでどれ程の祝福をくれたのだろう。



何度も、何度も、祈るように願うように。

側にいて側にいてと触れた肌から伝わるその思いが、ひたひたと満ちてゆく。




それはほんの数時間のことだった筈なのに、まるで一晩はそこにいたかのように感じる、不思議な時間だった。


案外、時間の流れそのものが違ったのかもしれないが、目を覚ますとネアを抱き締めて眠っているディノがいて、そこで漸く、この魔物の伴侶となったのだなぁとすとんと胸の奥が落ち着いた。


今更羞恥心が蘇ってきてじたばたしたくなったが、それまではどうにか無事に伴侶になれますようにという思いの方が深かったのだ。



(…………この生き物達がとても寂しがりやなのは、こんな風に体を重ねることすら、相手によっては叶わないことだからなのかもしれない)



ぬくぬくと大事な魔物の腕の中に収まりながら、ネアは鹿角の聖女のことを考えた。

愛する人を抱いたその腕が、愛する人を殺したその夜明けに、彼女はどれだけ世界を呪っただろう。


愛する人の体を損ないながらも自身の魔術を浸透させたのに、そこまで受け入れの為の準備をしながらも叶わなかった恋は無残に死に絶えた。



(その怖さは、どの魔物さんも持っているものなのだわ。長く長く生きるその中で、決して人間を愛さないとは言えないし、伴侶にするには、その危険を犯さなければならない)



特に相手が人間の場合は、愛するものを殺さない為に、立ち去る魔物も多いと聞く。


きちんと自制し身の内のものを与えなければ、体を重ねても相手は死なないが、それをしなければ伴侶には出来ない。


歯止めが効かなくなり相手を殺すのではと、触れられずにいる内に破綻してゆく恋も多いそうだ。



(種族ごとに婚姻の作法は違うけれど、魔物は愛情で身を滅ぼし易いのだとか………)



眠る前に静かな声でそう教えてくれたディノは、それもまた、生き物達を次の世代に巡らせてゆく為の世界の理なのだろうねと寂しそうに微笑んだ。


どの生き物達にもその種族的な弱点があって、竜は力への渇望で滅びやすく、精霊はその気性の荒さで自滅し易い。

妖精と人間は集落や組織に重きをおく為にその中で戦が多く、魔物は愛するものを失って崩壊しやすい。



(私はとても身勝手な人間だから、…………それが誰であれ、ディノではなくて良かったとそう思う……………。私の大事な魔物に、悲しい思いをさせないで済んで良かった…………)




目を閉じても、瞼の裏にまでずっと、美しい真珠色と宝石のような水紺の瞳の澄明さが揺れていた。




はらはらと花びらが降る。



目を閉じて開けば、それはネアの大好きなウィームの雪に変わっていた。






「ただいま戻りました。…………っ?!」



無事にリーエンベルクに戻ってきたネアは、なかなかに頑張った身であるのに、突然飛び込んで来たノアに抱き締められ、慌てて腹筋に力を入れた。

ばたんと後ろに倒れてしまうかとひやりとしたが、幸いにもノアが支点となってくれたようだ。


ぎゅっと強く抱き締めながらも、決してネアが苦しくない程度の力加減を保ってくれているのが、ノアらしい。



「……………無事で良かった」

「…………ノア、………まぁ、泣いてしまいました…………」

「…………勿論さ、君がいなくならないことは知ってたけれどね、…………僕達はさ、一度君が死んだことを知っているんだ。…………君を取り戻せると分かってはいても、もう二度とあんな思いはしたくないよ……………」

「ノア…………。この通り、ぴんぴんしてますので、安心して下さいね?」

「うん。僕の妹はちゃんと帰って来た………」

「姉…………むぐぐ、……弟…………い、妹むぐぐ」



耐え難きを忍ぶ苦悩の面持ちで、ネアは弟にする筈だった魔物を見上げた。

おやっと眉を持ち上げて不思議そうにこちらを見たノアが、ネアの隣にいるディノの方を見る。



「シル、ネアが妹になりそうだよ?」

「……………うん。君の庇護下に入るという形にした方が安全だからと、そう話をしたからね」

「そりゃ良かった。…………それと、…………ええと、何でシルは落ち込んでるのかな?…………もう伴侶になれたんだよね?」

「………………ネアが虐待した」

「えっ?!……………僕の妹は、義弟に何をしたのかな?」



驚いたノアが腕を緩めてくれたので、ネアは部屋の中を見回すことが出来た。



(わ、…………!)



そこには、待っていてくれた大切な家族と、思いがけない人達がいる。


白と水色を基調とした内装の外客用の部屋は、大勢のお客がみんなで歓談出来るようにと作られた部屋だ。

リーエンベルクに貴婦人達が住んでいた頃は、ここがお茶会の場や、社交の為のサロンとなっていたのだろう。


ウィリアムやアルテアが会食堂に入れる程に落ち着くまでは、何かと使うことが多かった部屋でもあり、ノアの背中の向こうには、エーダリアとヒルドは勿論、ネアの姿を見て安堵にくたりと座り込んだウィリアムや、立ったままこちらを見ているアルテア、そしてグレアムまでがいる。

勿論、ネアがこの世界で最初に出会った一人でもあるグラストと、ネアの初めての友達のゼノーシュも。



けれども、そっと片手で目元を覆っていたグレアムや、喜ぶつもりで両手を握ったエーダリアが、ノアの問いかけにぎくりと固まる。


このままだと怖がらせてしまいかねないので、ネアは慌てて首を振った。



「い、いえ、私の可動域が低過ぎて、思っていたよりディノに近しい要素が定着しなかったようなのです。……………大変遺憾ながら、引き続き魔術が使えませんので、きっとそれをディノも悲しんでくれているのでしょう…………」

「ありゃ、可動域は増えなかったかぁ……」

「まぁ、失礼な!これでも奇跡が起こり、可動域は増えたのですよ!!」



そうふんすと胸を張ったネアに、ほっとしたように肩を揺らしたエーダリアが、こちらに来てくれた。



「ネア、…………その、………結婚おめでとう。何よりも、お前が無事に帰って来てくれて良かった…………。無事に可動域も増えたのだな」

「ふふ、エーダリア様まで泣いてしまっています。…………ご心配をおかけしましたが、この通り元気いっぱいですので、お祝い料理はたらふく食べられますからね?」

「はは、…………そうだな、お前らしい。すぐに準備させるが、それとも少し休むか?」

「準備は出来ております!」

「…………可動域が上がったのなら、魔術の花が咲くシュプリを用意させよう。美しいものだが、お前はこれまでずっと見られずにいたものだからな」



滲んだ涙に気付いたのか慌てて拭い、微笑んでそう言ってくれたエーダリアに、ネアはぎくりと固まった。



「……………見られません」

「…………ん?」

「…………見られないのです」

「可動域は上がったのだろう?不安がらずとも、あの花は十五もあれば…」

「九でふ」

「……………九」

「……………九。蟻は超えましたよ?」

「そ、そうか…………九…………」



その告白に、部屋の中には何とも言えない空気が広がったが、ノアはすぐに気を取り直してネアの頭にふわりと手を乗せてくれた。



「うーん、でもまぁ、蟻は超えたんだからおめでたいよね」

「ノア…………!」

「うんうん、僕の妹は偉大だなぁ。………それと、シルがなぜかまだ項垂れてるんだけど……………」



そう言われて初めて、ネアは悲しげな様子の魔物に気付き、おやっと眉を持ち上げた。


戻る前に丁寧にブラシで髪を梳かしてやり、ふっくらとした三つ編みを結った真珠色の髪の毛はつやつやと魔術の光を孕むような美しさだ。

ラベンダー色のリボンも、どこも悪くなっていない。


それなのに、確かに項垂れていた。




「ディノ……………?」



心配になってそう名前を呼べば、なぜか涙目の魔物がこちらを見る。

ふるふるとしてすっかり怯えた様子なのだが、なぜだろうとネアは首を傾げた。



「…………私は、……………普通なのかな」

「ディノ………?」

「君は、私のことを普通だと言っただろう?」

「まぁ、その事でしたか!ええ、たいそう結構な普通さでした!やはり普通が一番素敵ですよね!」

「………………普通」

「わーお、…………僕の妹が残酷過ぎる…………」

「む?今回はにゃわわしなくて済んだので、とても心に優しい普通さでしたよ?」

「あ、そっち?!」



ノアはやっとネアの発言の意図に気付いたのか、何だと肩の力を抜いたが、肝心な魔物はあまりにもしょぼくれて体が傾いでしまっているではないか。



(…………特殊な嗜好を封印すると、無防備な感じがして不安になってしまうのかしら?…………それとも、して欲しいことをちゃんと言えなかったのが悲しかったのかしら………?)



ネアが、不憫になってそっとその腕を撫でてやれば、それはそれで目元を染めてずるいと呟いている。



「普通のディノが大好きですので、専門的なところはまた今度にしましょうね?」

「……………普通」

「はい。でもそれは、とても素敵なものですよ?」

「………………頑張るからね」

「…………いえ、普通のままでいてくれれば………。そのままのディノの方が、…………そうですね、一般的で親しみが持てるので好きですよ」

「……………ネアが虐待する…………」

「わーお。すれ違ったまま、心を折りに行ったぞ…………」



ここで、めそめそしている魔物はネアの兄が引き受けてくれて、ネアはその話題の間微妙に視線を逸らしていたエーダリアに促され、他の仲間達にも無事に伴侶になれた報告をしに行った。




「アルテアさん…………ぎゃ?!」

「……………どこも欠けてないな。………ったく、心配かけやがって…………」



歩み寄ったところで立ち上がった使い魔にきつく抱き締められてしまい、ネアは闇の妖精に攫われた時にアルテアが会いに来てくれた時のことを思い出した。


その隣で、ウィリアムとグレアムが呆然としているが、この魔物は愛情深いところがあるとネアは既に知っている。



「はい。………みなさんが、知恵や力を貸して私を守ってくれたので、無事にディノの伴侶になれました。そして、ディノは人間を齧らない筈なので、どこも減ってません……………」

「………安心していい。シルハーンは、ネアを食べ…………食料的な意味では、…たりはしないからな」

「ウィリアムさんも来てくれたのですね!」

「ああ。俺の司るもの的にその前にここに来ることは避けたが、ネア達がウィームを出た後にリーエンベルクに来たんだ」

「もしかして、元々そうしてくれる予定だったのですか?」

「当たり前だろう。ネアとシルハーンにとって大切な日だからな」

「ウィリアムさん!………グ………シェダーさんも…………」



そう言えば、ウィリアムの隣にいたグレアムは、星の煌めきを湛えたような美しい瞳を涙で煌めかせ、しっかりと頷いてくれた。


なんと、エーダリアが手配し、ノアを介して呼んでくれたのだそうだ。

このような場面であるので、いて欲しかったけれどネアの一存では呼べなかった人がここにいてくれることに、嬉しくなってネアは微笑みを深める。



「おめでとう、ネア。…………シルハーンを守ってくれて有難う」

「ここに来てくれて、有難うございました。ディノのことは、これからもっと幸せにしてみせますからね!」

「………… ああ」



ここでまたグレアムは泣いてしまうモードに入り、苦笑したウィリアムがネアの頭を撫でてくれつつ、ギードについても教えてくれた。



「ギードも来られたら良かったんだがな、彼は絶望だから、自分の為にも、今日と大晦日はウィームには近付かないということだ。ネア、彼の願いを分かってやってくれ」

「…………ほぎゅ、明日も会えないのですね」

「ギード自身も会いたがっていた。だが、会ってしまうことで、もしもと考えるのが怖いんだろう。大晦日もあわいの一つだし、新年への切り替えの時間にはその場の魔術の色が反映されやすい。俺の終焉と違って、絶望は複数の意味を持たない資質だから、喜んでいるからこそ、自身の齎す要素からもネア達を守りたいんだろう」

「………それなら、ギードさんが怖くない時に、ディノと一緒に報告に行きますね!」



ネアがそう言えば、ウィリアムはグレアムと顔を見合わせて、微笑んで頷いてくれた。




「それとアルテア、いつまでネアを独り占めしているんですか?」

「むぐ、そう言われてみれば、アルテアさんの羽織ものは珍しいです。甘えたい感じであれば、ちびちびふわふわしますか?」

「……………やめろ」



ウィリアムに言われて、アルテアはネアを腕の中に閉じ込めたままであったことに気付いたのか、ぎくりとしたように手を離す。

すかさずウィリアムも抱き締めてくれ、次にはグレアムまでが、おめでとうと抱き締めてくれた。




「ヒルドさん!ただいまです」

「……………ネア様、」



次に歩み寄ったのはヒルドのところで、途方に暮れたように立ち尽くした姿に、ネアがその胸に触れれば、美しい六枚羽がきらきらと淡く光ったようにも見えた。


瑠璃色の瞳が何かを堪えるように細められ、深い深い溜め息が落とされる。



「…………あなたが、ご無事で良かった」

「むぐ?!」



胸の中に閉じ込めた不安を吐き出すようにそう呟き、ヒルドにもぎゅっと抱き締められる。



「………あなたにもしものことがあれば…………、いえ、無事に戻られたのですから、もう言う必要もない事ですね」

「ヒルドさんがとても心配してくれているのですから、必ず戻ってきますよ?」

「………ええ。私の大切な家族は、約束通りリーエンベルクに戻ってきてくれましたね…………」



もう一度ぎゅっと抱き締めてくれたヒルドに、ネアは、その肩越しにエーダリアと目を合わせて微笑んだ。


出掛ける前にヒルドからは、ネアの身を害するような困ったことがあったら、決して無理をせずにすぐにリーエンベルクに帰ってくるようにと約束させられていた。



(もし今回上手くいかなくても、何回だって成功するまで協力するから、決して焦ってはいけないって…………)



だからネアは、必ずここに戻ってくると、ヒルドに約束したのだ。




「ネア、お帰り。僕ね、ネアがちゃんと帰ってくるって信じてたよ」

「ゼノ、ここで待っていてくれて有難うございました」

「ネアは僕の友達だから、伴侶になれておめでとうって言わなきゃなんだ。グラストも心配してたよ」

「グラストさん、有難…………うございます」



そう言われてゼノーシュの隣に立った背の高い騎士を見上げると、グラストは既に男泣きでぐしぐしと片手で目元を拭っていた。

思わぬ大感動にネアはびくっとなったが、グラストは何となく娘を嫁に出す父親のような気分になってしまったらしい。



結婚のお祝いを言って、無事に戻ってきた事を喜んでくれるグラストに、ネアはもう一度お礼を言い、ゼノーシュは、ネアなら特別に娘のように考えられてしまってもいいと寛大な許可をくれた。




そこにやっと、ウィリアムやアルテア、それにグレアムにもお祝いを言われ、少し元気が出た様子のネアの伴侶がこちらにやって来た。


魔物達が普段には見せない姿で、臣下の礼のように恭しくディノにお祝いを言っていたのが驚きだったが、そこはやはり、特別な慶事だからこそ則るべき種族の作法というものがあるのだろう。




「ネア。頑張るから、どこにも行かないでくれるかい?」

「むむ。そんなに不安にならなくても、私はどこにも行きませんよ?」

「……………うん」

「ディノは、大切な私の伴侶ですからね」




そう言えば、ネアの大事な魔物は美しい瞳を煌めかせて幸せそうに微笑む。

すぐさま部屋に花が咲き乱れてしまったが、やがて自然に消えてくれるものなので、調度品などの心配はないだろう。




「明日は、そのディノの指輪に今日の日付を魔術刻印して貰いましょうね」

「……………この指輪にかい?」

「はい。ディノは私に最後の指輪をくれましたが、私はディノに新しい指輪を贈れないので、何かディノの大好きな記念になるようなものを足せたらと考えたのです。私の髪の毛の色を宝石に紡ぎ、その宝石で文字を魔術刻印出来るお店に行くつもりですが、そんな贈り物は如何でしょう?」

「……………有難う、ネア」



指輪を変えないと言い張る魔物の為にネアが考えたのは、人間の指輪の交換では珍しくない、日付などの刻印だった。

しかしそれは、削って彫る文字であるので何となくディノが悲しんでしまうような気がした。


削る以外の方法はないのかなと相談したネアに、削ったり出来ない貴重な宝飾品に文字や術式を刻印する固有魔術を持つ魔物のお店を教えてくれたのはエーダリアだ。


実はエーダリアも、そのお店で、お気に入りの魔術書に保管用の術式を入れて貰ったことがあるらしい。




すっかりご機嫌になった魔物は、いそいそと三つ編みをネアに差し出す。


これは変わらないのかと遠い目になりかけたネアだったが、でもこんな魔物と家族になったのだと考えて小さく微笑む。



「仕方がありませんね、持ってあげましょう」

「ご主人様!」

「なぬ。なぜまだご主人様なのだ」

「…………君は、私の歌乞いなのだろう?」

「それはまさか、一生続くやつなのでは…………」




きらきらとした瞳でこくりと頷いた魔物の姿に、そしてそんなネア達を見守ってくれている大事な人達の微笑みに、これからの日々を思う。



窓の向こうには美しいウィームの夜があって、部屋のこちら側にはネアの大事な家族の温もりと、変わらぬリーエンベルクの穏やかな一日があった。




(ずっと、ここで……………)




いつまででも、いつまででも。


この大事な魔物の手を離さないでいよう。

大切な家族や友人達がもう誰にも取り上げられないよう、しっかりと、美しくも恐ろしい世界を踏みしめて歩いてゆこう。




そう思い、手に持った真珠色の三つ編みに口付けを落とせば、伴侶になったばかりの魔物は、なぜかまたしてもへなへなになってしまう。




「ずるい、可愛い……………」

「なぜ、今更これで儚くなってしまうのだ。慣れて下さい!」

「叩いてきた。可愛い」

「むぐぅ!」

「ありゃ、あれ大丈夫かな…………」

「おや、あの方がお二人らしいとは思いませんか?」

「はは、かもしれないな」

「…………ひとまず、これでやっとあいつの事故に巻き込まれなくて済むな」

「どうだろう。可動域は九だから、まだまだ使い魔の君には、あの二人を守ってもらわないとかな」

「わぁ、窓の外にオーロラと虹が出てるよ。グラスト、見に行こう!」

「ゼノーシュは可愛いな」




賑やかな部屋のその中で、なぜだか一人、浮かない顔をしている人がいる。

そのことに気付いたネアは、儚げな雰囲気で斜め下を見ているエーダリアにそっと声をかけてみた。




「エーダリア様?」



すると、シャンデリアの光を集める澄んだ鳶色の瞳が、ゆっくりとこちらを見た。



ひたりと、不吉な予感が落ちる。



「………………すまないな、ネア。この婚姻届は受理出来ない………………」

「…………………なぬ」

「勿論、魔物の作法に従い、お前がディノの伴侶であることは変わらないのだが、……………その、人間の領域ではそうはならないのだ」

「ど、どういう事でしょう?書類に不備があるのなら、書き直し…」

「可動域が低過ぎる」




狼狽して取り縋ったネアに、エーダリアは声を振り絞るようにしてその一言を告げた。


部屋には凍えるような沈黙が落ち、ネアはその言葉を頭の中で繰り返して何とか飲み込むと、へにゃりと眉を下げた。




「ほわ、…………可動域」

「そうだ、可動域だ。人間の領域の中では、お前の可動域は子供のものとして認識されてしまう。可動域が低ければ本来は抵抗値も低く、魔術侵食の恐れがあるとして、婚姻は認められないのだ。…………すまない」

「……………可動域」

「…………ああ、可動域だ」




そう告げてがくりと項垂れたエーダリアによると、ネアはその後暫く怒り狂ってその部屋で暴れたのだそうだ。



頬を染めた魔物からとてもレインカルに似ていたと嬉しそうに伝えられ、ネアは、伴侶になったばかりの魔物や新しい家族に慰められつつ、世界を呪う暗い目でみんなとお祝い料理を食べることになったのだった。



(でも、これ以上はどうにもならないと言われていたのに、三つも可動域が上がったのだから…………)



もそもそとパイシチューを食べながら、ネアは密かな野望を抱く。


この世界にはまだまだ、ディノだって知らないような不思議なものが沢山あるだろう。

そのどこかにはきっと、九しかない可動域を婚姻可能な二十まで上げる秘術や禁術だって隠されているに違いない。



「…………うむ。負けません!」

「ネアが可愛い」

「そしてこれは返却します。パイ生地が落ちるといけないので、そちらにお引き取り下さいね」

「………………虐待」

「解せぬ」




未来への希望を信じてきりりと頷くと、ネアは、こちらを見てもじもじしていた魔物に差し出された三つ編みを、そっとお返ししたのだった。
















とても長いお話となりましたが、「薬の魔物の解雇理由」の本編としてのお話は本日で最後となります。


明日の大晦日のお話で一区切りとなり、今後の活動につきましてはあらためて活動報告にてお話させていただきますね。

あと一話ですが、お付き合いいただけますと幸いです。







評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 全ての表現がバランスが良くとられていて、品性があって素晴らしいです!いつまでも、この作品を続けてもらいたいです!この作品は有名になるべきです! [一言] 実写化してほしくない作品、一位です…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ