352. 婚約期間最後の日になります(本編)
ゴーンゴーンと、大聖堂の方から重たく澄み渡る鐘の音が聞こえる。
その日は朝からめまぐるしい天気ではあったものの、事件や事故などはなく穏やかな夜明けと共に始まった。
雪雲りの青みがかった灰色の空からは、はらはらと雪が降り続けている。
夜明け前から夜明けにかけて一度晴れ間が覗いたのだが、灰色の雲の隙間から鮮やかな青空が覗いたのは一時間程のことだった。
雪の降り方も様々だ。
詩的なはらはらと細やかな雪が降ったり、ざあっと雪嵐のような風混じりの雪が降った時間もある。
そして朝食の時間の今はまた、細やかで優しい雪を降らせて会食堂の窓からの景色を彩っていた。
「おはようございます」
今日はみんなの集まりが早いなと思いながら部屋に来ると、なぜかこちらを見てほっとしたような顔をするではないか。
おまけに、目が合うとエーダリアは、慌てたように無心で卵を食べ始めた。
とろとろスクランブルエッグは確かに美味しいが、一心不乱に食べるものではない。
ネアはこてんと首を傾げた。
「おはよ、ネア。僕はもうお兄ちゃんかな」
「……………ノアはまだ弟ではありません…………」
その問いかけでそういう事かと頷き、そう言えば昨晩夜遅くにディノがもしゃもしゃしていたが、眠かったので毛布で丸め込んで黙らせてしまったことを、ネアは思い出した。
(あれはまさか……………)
そろりと振り返れば、今朝は何だか捨てられた子犬のようだった魔物は儚く目を伏せた。
「ディノ、もしかして……………」
「ネアは、冷たかった………………」
「まぁ、特に深く考えず、すっかりさっぱり認識していませんでした。…………ディノ?」
「ネアが虐待する…………」
「ご、ごめんなさい…………。ほ、ほら、美味しそうな朝食ですよ?」
「ひどい…………」
めそめそするディノの手をそっと掴んで、ネアはいつもの席に座った。
窓の外の庭では、淡い水色の冬薔薇が咲いたようだ。
雪の中のその姿は心がほどけるような美しさで、テーブルの上にも先日に咲いたその薔薇が生けられていた。
(…………綺麗)
悲しげな魔物の姿に朝食の席は何とも言えない雰囲気になり、なぜか今日もきっちり参加しているアルテアまで、呆れたような目でこちらを見ている。
「…………ディノ、その、…………、今日は一緒に街歩きをするのですよね?」
「……………うん」
「え?!ちょ、ちょっと待って!大事な日だからもっと特別そうなことして!」
「…………と、特別そうなこと?」
「こっちを見ないでくれ、私はそういうことは不得手なんだ……………」
ネアに縋るような視線を向けられたエーダリアは、狼狽えたように両手を上げて首を振り、あなたの立場では、それもそれで問題ですからねとヒルドが溜め息を吐いている。
「ディノ、ウィームの街をお散歩して、ディノのお城に行くこと以外に、何かしたいことはありますか?」
「…………私の城に行くのかい?」
「はい。せっかくの記念日ですので、どうせなら、ディノがあまり帰らないお城こそを、その記念の場所にしましょう!」
「……………うん」
それは嬉しかったのか、目元を染めてもじもじした魔物は、ネアの膝の上にそっと三つ編みを置いて行った。
その三つ編みには、やはりというか、間違いなくと言うべきか、最初に贈ったものの一つであるラベンダー色のリボンが結ばれている。
今朝、このリボンを持ってもそもそとやって来た時はまだ、ネアはこの魔物が落ち込んでいることに気付かなかった。
(……………そうか。日付が変わったところで、いよいよ約束の日ですねと言っただけじゃ駄目だったんだ…………)
ネアはそれで充分だと考えていたが、みんなの反応を見るに、ネアのふるまいでは足りないらしい。
どうしたものかなと考え、ネアは予定している任務の幾つかを考え直しつつ、だから薔薇の花が飾られているのかもしれない朝食のお皿に視線を落とした。
ネアの大好きなボロニアソーセージは、中にチーズや赤ピーマンなど色々なものが入っているので、薄く切ってくるりと巻いてお皿に盛り付ければ華やかさを添えてくれる。
卵用の入れ物に立てられ、中がとろとろ半熟になっている卵は、小さなスプーンですくうと香草の香りが口いっぱいに広がった。
手元で、粉チーズやシュタルトの薔薇塩をかけて食べるので、自分の好きな味にできる。
焼きたてのパンと、こちらに来てから今もなお大好きなホイップバターに、香辛料の辛さのある赤いバター。
今日はオリーブと檸檬のバターもあって、ついついパンが進んでしまう。
華やかそうに見えるが、体と心に優しい普段通りの朝食こそが、リーエンベルクの料理人達の気遣いなのだろう。
「…………そして、アルテアさんからとても凝視されていますが、隠していた悪さを告白したいのでしょうか?」
「そんな訳ないだろ。………日付が変わったことで、成就の魔術が動き出す筈だ。その影響がないか見ていたが、…………可動域が低すぎて反応が薄いな」
「……………それは、私への宣戦布告でしょうか?」
「なんでだよ」
「そうそう、それなんだよね………。僕にもあんまり見えないけど、その分、良くない兆候もなさそうだから…………うーん、まぁ、大丈夫かな……………」
「むぐる…………」
「誕生日の時にもさしたる変化はなかったが、あの時はまだ、こちらの魔術への浸透が良くはなっていたが…………」
「…………まぁ、謎の身体検査の理由が漸く明かされました…………!」
ネアがそう喜べば、エーダリアが珍しく呆れたような顔でこちらを見る。
食べ方の配分を間違えたのか、卵料理がもうなくなってしまったので、残されたサラダを食べていた。
今日の朝食の卵料理は、ネアとヒルドはとろとろ茹で卵を頼んでいるが、エーダリアはスクランブルエッグ、ディノとアルテアはスフレオムレツだ。
「いや、寧ろそんな事があって、なぜお前は理由を尋ねないのだ…………」
「アルテアさんだけなら警戒しますが、ゼノがいたので健康診断かなと思いました」
「うわ、ゼノーシュの信頼度高っ!」
「うむ。ゼノはとても頼りになる、信頼と愛くるしさのお友達です」
「……………頼りに…………」
その言葉に反応した魔物は、ボロニアソーセージを一枚ネアに献上することで、婚約者からの信頼を勝ち取った。
ネアは代わりに、彩り鮮やかな酢漬け野菜を一つお裾分けして魔物にお返しした。
「まぁ!ディノは、頼りになる、優しい婚約者ですね」
「ご主人様!」
「…………僕さ、違う意味で不安になってきた。大丈夫かな…………ええと、作法的に?」
「……………にゃ、にゃわわ?」
「えっ、そっち?!」
「…………大丈夫です。私には、ウィリアムさんとアルテアさんとの、研鑽の日々があるのですから」
「おや、そのお二方と練習をされていたのですか?ご用命いただければ、私がお教えしましたものを」
「ヒルド………………」
穏やかな朝食の時間が過ぎてゆき、あたたかな紅茶をみんなで飲んで、それぞれの時間に向けて部屋を出た。
エーダリアは、ザルツの伯爵が引き起こした事件の後始末について、ダリルとの調整があるようだ。
ヒルドは、グラストとのリーエンベルクの警備についての打ち合わせ、更には勝手に一年の締めくくりの挨拶に来てしまった諸侯の一人の相手をするのだとか。
ノアはヒルドについてゆくようで、アルテアはひとまずリーエンベルクを出て仕事の打ち合わせでアクス商会に出向くそうだ。
門のところでは、仕事帰りのグラストとゼノーシュに出会う。
本日は調伏の仕事があり、夜明け前にリーエンベルクを出ていたらしい。
雪景色の中で、ゼノーシュの檸檬色の瞳が鮮やかに煌めく。
グラストと手を繋いでいるからか、頬が微かに上気してるのが、何とも可愛らしかった。
「おはよう、ネア。…………まだ婚約者なんだね」
「おはようございます、ゼノ。お仕事の帰りだなんて、今日は忙しかったのですね………?」
「うん。街の外れの川の近くで、大きな魚が出たんだよ。精霊かなと思ったけど、本の中から逃げ出しただけの術式だったんだ」
「まぁ、お魚姿で逃げ出したのですねぇ」
「グラストがね、剣で倒したの。………でも、そうしたら、貴族の女の人が笑いかけてハンカチを渡してた…………」
「ゼノ!お、お顔が…………。クッキーいります?」
「いる…………。今日は出かけるの?」
「はい。ディノとウィームの街のお散歩です」
「お労しい………………」
「なぬ………………」
ゼノーシュの反応を受け、ネアは困惑の面持ちで眉をぎりぎりと寄せていた。
これはやはり、サプライズ的なことをするべきだと、暗に言われているのだろうか。
(つまりこれは、突然宝物の地図が出てきたり、食べ物の中から指輪が出てきたりする的な…………いや、指輪はもうあげているし…………)
実はこの約束の日にあたり、ネアは大切な魔物に意思確認をしていた。
元々、ディノには、ネアの髪の毛から紡いだ宝石と頑張って育てた石を贈って、好きなように指輪にして貰っている。
とは言え正式に伴侶となるのであれば、あらためて結婚指環的なものが欲しいだろうかと考えて提案してみたのだが、ネアの婚約者は最初に貰ったものを外すのを嫌がりしゃーっと威嚇してしまうくらいに動揺してしまった。
なのでネアは、次の手を考えなければならなかったのだ。
「………ディノ、今日は手を繋いで下さいね」
「…………ずるい」
「ずるいの使い方が相変わらず行方不明ですね。今日は私達の約束の日なので、特別に手を繋ぐ運用が適用されます」
「……………そうなのかい?」
「はい。手を出してくれますか?」
「…………うん」
そろりと出された恥じらう手を、ネアはむんずと掴んでしまい、くしゃくしゃの魔物を率いて二人はいざウィームの散策に出かけた。
(…………雪が綺麗だわ)
二人がリーエンベルクを出て正面の並木道を歩き始めると、ちょうど街の向こうの空が少しだけ雲間から陽光の筋を覗かせ、その光を受けた雪がきらきらはらはらと降り続けている。
先程の晴れ間で一度表面が溶けたのか、お砂糖のようにざらりとした雪の表面にもその空の向こうから差し込む陽光の細やかな光がちらちらと揺らぎ、その上を毛玉のような妖精達がきゃあっと駆け抜けてゆく。
並木道の木々は今日も、オーナメントを外しても煌めく飾り木のようだ。
白緑の美しい葉の上にウィームの祝福深い雪が積もり、枝葉の裏側に隠れた妖精達がぽわぽわと輝いている。
そんな木の上からじーっとこちらを見ている灰茶色のムグリスがいたが、ネア達が食べられないと悟るやしゃっと飛んで行ってしまった。
「私がこの世界に来たばかりの頃、何度かこの道を駆け抜けて脱走し、転職先になる魔物さんを探したりしていました」
歩きながらそう言ったネアに、手を繋いだ魔物がぴっと飛び上がる。
ネアとしてはそんなこともあったねという気持ちで話し出したのだが、この魔物にとってはまだ受け流さない出来事だったようだ。
「…………うん。君は、私を………誰かに渡そうとしていた…………」
「ぎゃ!泣いてしまいそうなら、この話題はおしまいです!!今はもう、誰かがディノを取ろうとしたら滅ぼす気概ですので、安心して下さいね」
「ネア………!」
「だからこそ、もし他の方が良くなったら…」
「虐待する……………」
「む、……………むぅ。通りすがりのどなたかにまで無言で首を横に振られてしまいましたので、この話題はなしです。ディノは、ずっと私の大事な魔物でいて下さいね」
「私は、決して君を手放したりはしないから、君も、二度と逃げようとしてはいけないよ?」
「ぞくりとしました…………」
ネアはここで一度振り返り、先程通りすがりでネアの発言を窘めてくれて人を振り返った。
一瞬、どこかで会ったことがあるような気がしたので、グレアムかと思ってしまったが、茶色い髪の青年だったし、上手く言えないもののグレアムという感じではなかった。
ただの親切な通りすがりの人だったのだろう。
「最初のお仕事は、グリムドールの鎖の捜索でしたね。…………確かその頃に、私は私の姿が変わってしまったことに気付いてしまい、仮面の魔物さんの仕業かとハラハラしてしまいました」
「…………この世界に君を呼び落とすには、色々と制約があったんだ。…………ずっと前の世界で私のような者がそれを成したことがあったようなのだけれど、その場合は死者の魂を呼び落としたから、君の場合とは違った………」
「まぁ、そんな前例があったのですね?そのお話は初めて聞きました」
「…………あまり、話したくなかったんだ。…………君が、元の世界に未練があるといけなかったから」
小さく微笑んでそう呟いたディノの横顔は、とても整っていて美しかった。
けれどもこんな魔物がどこか取り留めのない冷めた美貌を湛える時は、その心がとても震えている時なのだ。
(つまり、その時に呼び落とされた人は、私の生まれた世界の人だったということかしら?…………それとも、その出来事について触れて、帰れるのかどうかを尋ねられるのが嫌だったのかしら…………?)
どちらであれ、心配のないことだったのに。
そう考えて何だか微笑ましくなる。
だからネアは、爪先立って伸び上がり、そんな魔物の頬にそっと触れた。
「私は、………ずっとじたばたしているばかりでした。ちくちくしたセーターに溢れた息が上手くできない怖い世界で、唯一何とか立て籠もれるあのお家で、辛うじて生き延びていただけでした。…………けれど、この世界でやっと、伸びやかに息が出来る場所があると知ったのです」
「……………ネア」
「だから、あの世界の私の未練は、失った家族ばかりです。すっかりこちらが気に入ってしまったので、例えディノがいなくても、私はこの世界を手放さないでしょう」
「………ひどい」
「む!今のは、それだけこの世界が気に入ったという例え話ですからね?」
慌ててそう訂正したものの、魔物は少しだけ不安になってしまったのか、繋いだ手と三つ編みとを入れ替えようとしてきたので、ネアは厳しく首を横に振って、それは婚約期間終了の日のお作法としてはなしだと説明しなければならなかった。
「…………だから、前の世界には未練がありません」
「うん。…………良かった」
「それにこの体は、多少、配色や造作は変わっているもののそこまで元の私から逸脱していませんし、不具合もなくてとても素敵です!」
「………あまり変えたくなかったのだけど、君が健やかで自由でいられるのが望ましかったし、可動域の問題での外見の年齢の制限もあった。…………何よりも、こちらに呼び落とすには、一度魂と肉体を切り離して、こちらで肉体を練り直さないといけなかったんだ」
「難しい制約があれこれあった中、私のことも考えてくれたのですね?」
繋いだ手をぎゅっとすると、ディノは嬉しそうにもじもじした。
髪色と瞳の色は元のネアとは違うが、これはディノがネアに抱いたイメージによる色合いなのだそうだ。
「それに、君の元の瞳の色合いは、森の系譜や海の系譜、それに夏の系譜の者が好むからね。それは危ういから避けたんだ」
「まぁ、ディノの好きな色というだけではなかったのですね…………」
「ネアが可愛い色にしたよ」
「…………私が……………」
「可愛い…………」
二人は色々なことを話しながら、ウィームの街に入ると、あちこちをゆっくり歩いた。
スープの専門店では、アレクシスがちょうどいてくれて、試作品のスープを飲ませてくれる。
「エーデリアと薔薇のスープだ。クリームチーズのスープだからな、エーデリアの微かな甘さと酸味が合うだろう?」
「ふぁ、エーデリアはかなり貴重なお花の筈が、こんなにふんだんにスープに投入されています」
「…………たくさんあったんだね…………」
「今日はこれだな。成就の系譜の雫も入ってるぞ」
「………何だかとんでもないスープの試飲ですが、スープは正義なのでただ幸福なばかりでした」
「真理だな」
その言葉に厳かに頷き、アレクシスはにっこり微笑むとネアの頭を撫でてくれた。
実はこちらのはぐれ魔術師は、まだ慣れない世界で寄る辺なかったネアが、初対面で少しばかりときめいたことのある特別な人だったりするのだが、妹さんの子供達の年齢を考えて、まず間違いなく妻帯済みの方だろうと諦めた過去がある。
(人間だったから、転職先にも選べなかったし……………)
何よりも、家族でこうしてお店をやっているというその満たされた輪は、あの頃のネアには、敷居の高過ぎる煌びやかな外の国のようにも思え、容易には近づけなかった。
「それと、ウィームの思い出を巡るにしても、今日も大聖堂には近付かない方がいいぞ。大切な日なんだろう?」
「むむむ、アレクシスさんには色々とお見通しなのですね………」
「そんな仲良く歩いてればな。………おお、久し振りだな、ネイア」
そこでお店に来たのは、かつて、ワンと鳴く呪いの任務で関わったことのある、お肉屋さんの息子さんであった。
アレクシスの知り合いなのかと驚いて振り返ったネアは、なぜか彼を敵認識しており、しゃーっと威嚇し始めてしまった婚約者を鎮めるべく、慌てて試飲のお礼を言ってお店を出た。
その後は、博物館通りの方を歩き、そこでは通り抜けた公園でバンルとエイミンハーヌに出会ったので少しだけお喋りした。
更には、そんなエイミンハーヌとの忘年会でウィームに来ていたイーザと、イーザについて来てしまっていたヨシュアにも出会えてしまう。
「ほぇ、ネアだ。イーザが昨日から……ふぇ?!」
「ヨシュア?」
「く、口を塞いでくるよ…………」
「まぁ、なぜ私の後ろに隠れてしまうのでしょう。今の感じから見るに、イーザさんがあまり誰かに言って欲しくないことを言おうとしませんでしたか?」
「………ほぇ、した」
「あらあら、ではそれは言ってはいけませんよ」
「…………そうなのかい?」
「そういうものです。それと、明日は美味しいエシュカルが飲めますよ」
「エシュカル………………」
別れ際にそんな情報を伝えられてしまい、ヨシュアはイーザに明日もウィームに泊まると宣言しているようだ。
イーザは考え込む様子を見せてから、頷いていたので、無事にヨシュアも、エシュカルを飲ませて貰えるらしい。
ただし、もこもこの毛皮の帽子と毛皮のコートでも震えており、ウィームの冬は寒くて辛そうでもある。
(魔物さんだけど、気温調整とかはしないのかな………)
また少し歩いて、シカトラームがあり、傘祭りの際に訪れる封印庫の前を歩き、街外れからぐるりと回ってリノアールでちょっとした買い物をした。
それを不思議そうに見つめるディノには、初めてのリノアールで買って貰ったものだからと伝え、謎めいた微笑みを浮かべておく。
(このフィンベリアを、ディノのお城に飾っておこう……………)
ネアが買ったのは比較的新しいフィンベリアで、今から十年ほど前のイブメリアの飾り木のあるリーエンベルクのものは、今のリーエンベルクに近い光景なので、この約束の日に大切な魔物のお城に飾るには相応しいものの気がしたのだ。
次に訪れたのは、ダリルダレンの書庫であった。
ここは領民達にとっての図書館にあたる所でもあるので、その蔵書の全てをダリルが管理している訳ではなく、入ってすぐの区画には領雇用の公務職員である司書たちが管理する一般棟がある。
特に資格なく貸し出しが許可され、こちらの本は夜中に誰かが本から出てきたりもしない。
ダリルダレンの書架と呼ばれるのは、その区分を明確にする為の名称で、大聖堂のような建物の本館となるダリルの領域に入るには、ドーナツ状にその周囲を囲む一般棟の図書館を出て、中庭の外回廊を通る。
螺旋階段を登るようにゆっくりと知識を深めてその叡智の最奥に近付いてゆくのが、書の魔術の作法であり、この建物の作りはその形を正しく現している。
派生したてのダリルの面倒を見たという女性が、創建に携わったのだとか。
そんなダリルのいる本館の扉を開けて、ひょいっと顔を出してみると、今日は、艶やかだがどこか円熟した美しさを際立たせる琥珀色のドレスを着ていた。
「おや、こんなところにいていいのかい?」
「ダリルさん、お邪魔してます。………まぁ、ララさんは今日も元気ですね」
「ピュイ!」
「…………っ、こら!そこに乗るな!!崩れる………ララ!!」
「この通り、エメルが教育係兼護衛だね」
「お久し振りのエメルさんですが、…………何というか、可愛い小鳥さんなララさんと仲良しで素敵な雰囲気です」
「…………エメルと?………水竜には、うちの子はやれないねぇ。それとウォルター、何であんたは萎びてるんだい…………」
「…………コートの塊かと思っていましたが、儚くなったウォルターさんでした………」
「久し振りだな、ネア……………」
「お久し振りです、ネア様。坊ちゃんは今、ララに嫌われて蹴られたことで、落ち込んでいらっしゃいます」
「ガヴィレークさん!…………そして、ウォルターさんはララさんには嫌われてしまっているのですね…………」
「言わないでくれ。まだお互いを知れていないだけだ…………」
そんなネアの一言でウォルターはまた儚くなってしまったので、積み重なった本の山の影から青い小鳥にじっと覗かれてしまい、怯えていた魔物を連れてダリルの書庫を出た。
「…………ここに来るといつも、咎竜めの事件の時に、たくさん助言を貰った時のことを思い出すのです。あの時に初めて、ダリルさんと沢山お喋りしました」
「…………私も、あの時はここに来たんだよ。…………咎竜の時は、ノアベルトがいてくれて良かった……」
「ふふ、狐さんの姿でしたけどね」
「…………アルテアは、いつ知ってしまうのかな…………」
「最近の様子を見てると、長引いてしまいそうですね。何年も先のことかもしれません………」
「…………知ってしまったら悲しいかな……」
「きっととても悲しいので、アルテアさんが気付いてしまうより、ノアから話せるといいのですが…………」
そんなアルテアがいるかもしれないアクス商会の前を歩いていると、ベージと、長身の彼より更に背の高い男性に遭遇した。
漆黒の髪はくるくるとした巻き毛で、はっとするほどに光を集めるふくよかな水色の瞳は、シュタルトの湖のようだ。
「まぁ、ベージさんです!」
「ご無沙汰しております、ネア様。………その、疫病祭りの際には結構な縄をいただきまして」
「……………にゃわ?」
「ベージ、ネア様を困らせないように」
「…………っ、申し訳ありません!つい…………」
「にゃわ……………わ」
「ワイアート、君がこのようなところにいるのは珍しいね。あまりウィームの民と関わると、一族が煩いのではないかい?」
「ご無沙汰しております、万象の君。今日は、このベージと共に、一族の女達の為にカップケーキを買い出しにきているんですよ。氷竜もそうだと聞いていますが、我らが雪竜の女達も、すっかりそれが気に入ってしまいまして」
そう微笑んだ黒髪の男性は、夜闇で閃く刃物のような美貌を持つ男性だったが、その表情を見ていると、不思議とドリーを思い出した。
別れた後にディノから、あれは雪竜の王族だと教えて貰い、ネアは目を丸くした。
雪竜はジゼルを見たことがあるが、だからこそ、ネアが出かけてゆく場所ではジゼルが雪竜の代表として出席してしまっており、他の王族を見たことはなかった。
(………宝石みたいに綺麗な水色の瞳だったけれど、あれは擬態なのかな……………)
ワイアートと呼ばれた彼は、昨年あたりに認定されたばかりの、雪竜に珍しく現れた祝いの子供で、まだ年若い雪竜であるらしい。
立派な大人に見えたのだが、既に四百年は生きているそうなので、かなりの歳上のようだ。
「………さて、たくさんお散歩もしましたので、ディノのお城に連れて行って下さい」
「………………大胆過ぎる………」
「む?…………そこで、私はディノに言わなければいけないことがありますし、人間用の書類も見て欲しいのがありますから」
「……………書類」
「婚約期間が終わると、必要になるものなんですよ。魔術的な拘束はないようで、あくまでも人間の組織の登録用のものなのだそうです」
繋いだ手を離し、ディノはふわりとネアを持ち上げてくれた。
「…………君は最初、持ち上げると暴れたんだ」
「…………むぅ。まだ仲良しではなかったので、捕獲されてしまうようで、むしゃくしゃしたのです………。私の気質からすると、あの当時の私の言動を変えることは出来ませんが、でも、あんな風に嫌がるとディノは悲しかったですよね……………」
「暴れるとすごく可愛かった…………」
「解せぬ」
拒絶されるようで悲しかっただろうと思ってそう言ったのだが、ディノはなぜか目元を染めて恥じらうではないか。
ネアは、これは変態という棚のとても特殊な生物であったことを思い出し、遠い目で転移の薄闇から降り立った素晴らしい万象のお城を眺める。
視線を落として、ディノから貰った指輪を見つめた。
不思議な感慨を覚え、ネアは自分を持ち上げている魔物を見上げる。
「…………ネア?」
どこか色めいた艶やかな眼差しには、男性らしいしたたかさが滲んだが、ネアにごつんと頭突きされると目元を染めてささっと視線を彷徨わせる。
「ディノ、前に二人でのんびりした、王様のお部屋に連れて行って下さい。このフィンベリアを設置します!」
「それを、置くのかい?」
「はい。…………今日の記念に」
「記念に…………」
記念品の大好きな魔物は、それが嬉しかったようだ。
ディノが歩いた跡にはぱきぱきと真珠色の鉱石の花が育ち、遠ざかると、さらさらと崩れて灰になる。
万象の魔物の城は、見渡す限りどこまでもがディノの色をしていた。
壮麗なお城のその全てを、とろりとした半透明の真珠色の鉱石で覆ったような色調は、決して眩しすぎず、ほの淡くきらきらと細やかに光る。
そんな中でも、ディノがいることが多かったのは、がらんとした王座の間と、ディノが自室としていた寝室のある部屋だ。
ネアが初めて来た時にはどこまでも続く夜の雪原だった窓からの景色は、以前にディノが作り変えてくれて、胸を震わすような美しさの雪の森になった。
(ここからの景色は、前に薔薇の祝祭で見せて貰ったものに似てるわ…………)
そう思えば、今日、ウィームのあちこちを歩いて回った記憶と合わせ、この世界に来てからの日々をいっそうに鮮やかに思い出した。
「その、…………ここでかい?長椅子しかないから…………」
「はい!ここで、書類にディノのサインをいただきます!」
「………………書類」
「まぁ、なぜ、しょんぼりしてしまったのでしょう……………」
「書類なんて……………」
まずは、王座の間にということで、ネアは以前にもここで二人でのんびりお茶をする為に設置された、立派な長椅子のセットにふかふかと腰を下ろした。
調度品などはあまりないのだが、最初に来た時の豪奢な椅子が一脚あるばかりだった空虚さから、今は少し温かみのある空間となっている。
まずは、長椅子の前にある優美なテーブルの上に、買って来たフィンベリアを設置し、なぜかぺそりと項垂れてしまった魔物の横顔をそっと見上げた。
隣に座って項垂れている魔物は、睫毛の影までが美しく、覗き込めばひやりとするような深さに引き摺り込まれそうな危うさもあるのだが、今は悲しげに瞳を揺らしている。
その無垢さはお散歩に連れて行って貰えなかった大型犬のようで、くすりと微笑んだネアは、そんな魔物の頭をよしよしと撫でてやった。
「ネアが冷たい…………。書類なんて………」
「ディノ、この書類は、とても大切なものなのですよ?人間には、婚姻届というものがあって、……………死にました」
婚約者として過ごす最後の日、ネアはまず、自分のお城で死んでしまった魔物を生き返らせるという困難に立ち向かい、それを克服しなければいけないようだ。
長椅子に伸びてしまいすっかり儚くなった
婚約者を見下ろし、身勝手な人間は、これほどの儚さとなるともう手に余るので、魔物が丈夫になるよう三年くらい婚約期間を伸ばした方がいいのではと、少しばかり考えてしまう。
「……………ディノ、生き返ってサインをして下さい。ディノ、…………ええと、………にゃわしてみます?…………それとも、飛び込みをしてあげましょうか?…………我々は、夜のお祝い料理までに帰らなければいけませんので、目を覚まして、円滑に本日の任務を果たして下さい。おのれ、蘇るのだ!!」
動かなくなった魔物を揺さぶり、そう懇願するネアの悲しい声が、美しい万象の城に響いていた。