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348. 橇の勝負は真剣です(本編)




「…………兄上、どうしてここにいらっしゃるのですか?」



イブメリアの総仕上げに、ウィームの人々は自前の橇で山の斜面を荒々しく滑り降りる。

そんな習わしがあり、今年も訪れたここはアルバンの山だ。



夜の光に照らされた雪に覆われた山は青白く浮かび上がり、イブメリアの祝祭の魔術を蓄えた雪が冴え冴えと輝く。

雲間から覗く月光と星空に、夜空を切り裂くように飛んでゆく竜の影。


遠くでぺかぺかと光るのは雪蛍か、或いはこの夜を楽しむ妖精だろうか。

雪は降り止んでいたが、積もったばかりの細やかな雪には、光の加減でイブメリアの祝福がきらきらと光っている。


この橇遊びは、送り火で燃やされた飾り木の火を貰って行うという趣きが強く、近隣にその火を配るような教会がない土地では、火を貰えるところまで出掛けて行くことも多い。


よって、送り火の魔物本人がその火を灯すウィームの大聖堂があるリーエンベルク近郊の山や斜面は、領民達でたいへん賑わい、あまりの橇渋滞に衝突事故が起こったり、橇に轢かれてしまう人もいるそうだ。


なのでネア達は、こちらで人混みを避けて橇遊びをするようになっていた。



しかし、送り火のランタンも揃えてみんなで転移でやって来たアルバンの山には、ネア達のよく知る先客がいたようだ。


どこかしたり顔で立っていた兄の姿にがくりと項垂れたエーダリアと、またしてもイブメリアの夜に、色めいた話題もないまま弟と橇遊びに来てしまった第一王子に頭を押さえたヒルドを見ながら、ネアはいそいそと自分の橇にランタンを設置した。




(…………可愛い。星の絵柄のものがあるなんて知らなかったわ…………)



飾っているランタンには、しゅわしゅわと光っているところの星の絵が彫り込まれている。

すっかりお気に入りなので、大切に橇にかけた。


このランタンは、ウィームの領民達に無償で配られるものだ。

大聖堂横の飾り木の送り火の炎を貰い、貰ったランタンに火を入れて橇にかけて滑るのだが、ランタンの火を消さずに橇滑りを終えると、次のイブメリアまでは家族が元気に過ごせると言われている。



今年も色々な事件から生還したネアとしては、欠かせない大切な願掛け行事の一つなので、遅ればせながらも漸くイブメリアの夜の儀式に参加させて貰うこととなった。



(でも、正しくはもう、イブメリアという祝祭は終わってしまっているのだわ……………)



そう思うと、少しだけ寂しくも感じる。


大聖堂での夜の儀式の終了と共に、イブメリアという祝祭は無事に幕を閉じた。

イブメリアは、日付の変更まで続く祝祭ではないのだ。


いつもなら、イブメリアの夜は大聖堂の夜のミサでその瞬間に立ち合い、舎弟なグレイシアの晴れ姿も見に行くところだが、現在のネアには教会周りの土地を避けなければいけない理由がある。


世界が再生した日でもあるイブメリアだが、よりにもよって鹿角の聖女の崩壊に纏わる要素もある祝祭である以上は、迂闊に教会へ行くわけにはいかず、楽しみにしていたイブメリアらしいお出かけだが今年は不参加となった。



(でもその代わりに、今年はアルテアさんがくれた教会で、綺麗なイブメリアの飾り木を見られたのだ!)



本来なら、分かってはいるけれどと今頃はしゅんとしていた筈のイブメリア大好きっ子のネアだが、使い魔からの素敵な贈り物により朗らかな気持ちでここに立っている。


おまけに、ヒルドとノアが人数分のものを持って来てくれたランタンから、ネアは気に入った柄を選べたのだが、そこに滅多に貰えない星柄が混ざっていたことで、素敵な贈り物がまた増えたようなたいへん満ち足りた気持ちになった直後だ。


当たりくじを引くようにしていいものを貰ったという気分は、イブメリアらしい華やかさで胸をほこほこさせ、お気に入りのランタンを吊り下げながら、ネアはご機嫌で微笑みを深めていた。


恐らく、好きなランタンをと並べてくれた時の表情から察するに、儀式に参加出来ないネアの為に、ヒルドとノアはこの特別なランタンを探し出して貰ってきてくれたのだろう。


そんな優しさも嬉しくてうっかりクリスマスソングなどを口ずさみたい気分だが、こんな夜に惨事を引き起こさないようにと、ネアは自分を戒める。



「…………いや、まさかあんな風に木を燃やすとは思わなかったな……………」



うきうきしている人間の隣で、そう呟きながら、予想外にナチュラルテイストな白木の橇にランタンを吊り下げているのは、イブメリアの夜の橇遊びに初めて参加する終焉の魔物だ。



「ウィリアムさんは、初めて大聖堂の送り火を見たのですか?」

「この、ランタンで火を貰うところは見たことがあるんだ。けれど、最初のあの状態はしっかり見たことがなかったからな………。ウィームは火は嫌厭するかと思っていたが、火事かと思う激しさだった………」

「これは昔からある風習だからこそ、ウィームにとっては親密な火の姿でもあるみたいなんです。統一戦争を知って火に悲しい思い出を抱えた方達は、送り火や焚き上げの儀式で、火への恐怖感を克服されてきたのだとか」



火というものは生活に不可欠なものだ。

また魔術においても重要な要素であるからと、人々は祝祭での火の要素を決して抑えなかったそうだ。

或いは、それを禁忌とされてしまうことで、また一つウィームから大切なものが失われてしまうことにこそ、抵抗したのかもしれない。



フェルフィーズとエルトは、どんな思いでその送り火を見たのだろう。


ネアはそんなことが少しだけ心配になったが、ダリルが、フェルフィーズの状態を知る者はウィーム中央にも何人かいると話してくれたので、ターテイルのように、その時代を知りフェルフィーズ達の抱えたものを優しく受け止められる人達が、彼等をそっと見守ってやっているのかもしれない。



「ウィリアムさんの橇は、飾らない雰囲気がとても難敵感を出してくる橇ですね」

「はは、そうかな。初参加だから、あまり上手くはないと思うぞ」



そう笑ってはいたが、このウィリアムの橇の飾らなさは、かなりの強者の予感がしてならない。

今宵の戦いは、番狂わせが起きそうだ。



(それにしても、みんなの意気込みが………)



ネアは心臓が止まってしまうので優勝争いには参加しないが、男達には譲れない戦いがあるのだろう。


昨年の雪辱戦に挑むアルテアは如何にも人外者のものらしい漆黒の橇で、グラストと参加するゼノーシュの橇は、可愛らしい手彫りの彫刻がある貴族が好むような美麗な橇だ。


ノアは結晶石から削り出したような青紫色の橇で、エーダリアが魔術で作り出したきらきらと光る水色の湖水水晶のような美しい橇を牽いている。

既にスタート地点で待っていたヴェンツェル王子の橇は、昨年とは形を少し変えたようだが、相変わらず物語に出てくるような黄金の橇だった。


これからの年に一度の勝負を控えた男達は皆戦士の目をしていたが、唯一ヒルドだけは、今年も審判なので涼しい顔をしていた。



「エーダリア、ヴェンツェルが我が儘を言ってすまない。今年も、どうしてもエーダリアと過ごしたかったようだ」

「……………ドリー、私は、勝負事で弟に負けたままでは落ち着かないからだと、そう言っておいただろう」



契約の子供が申し訳ないと、律儀に深いお辞儀をしてくれたドリーによると、ヴェンツェル王子はこの橇遊びをかなり楽しみにしており、秋口から練習に余念がなかったらしい。


あまりの本気度にネアは慄いたが、兄弟という視点では微笑ましいことなのかもしれない。



「…………すまない。ウィリアム、今夜は兄上も一緒でもいいだろうか?」

「ああ、構わないぞ」



エーダリアはまず、ヴェンツェル王子との交流のないウィリアムにそう頭を下げて断りを入れており、ウィリアムは朗らかに笑って首を振っていた。



ここは決して排他領域ではないので、魔物達は事前に軽微な擬態をしていることが幸いし、ウィリアムは砂色の髪に青い瞳の擬態をしていた。


とは言えヴェンツェルも、ドリーからその正体は聞いているだろう。

エーダリアに続いて頭を下げたドリーに気にしなくていいと苦笑したウィリアムは、どこか休暇を過ごす騎士のようにも見える。


造作はそのままなのだが、こんな風に色彩を変えるだけでも第二席の魔物らしい美貌がするりと存在感を薄めるのは、人々に紛れられるという終焉の資質故なのだとか。


そんなウィリアムは、漆黒のコート姿が軍人めいた凛々しさを引き出し、なかなかに素敵ではないか。

襟元に毛皮のあるふくよかな漆黒のコート姿のアルテアは、ウィリアムと同じ黒いコートを着ていても、夜の向こうから現れる橇の魔物といってもいいくらいの凄艶さだった。


人ならざるものらしい美貌と言えばディノやノアもそうなのだが、こちらはほんわりしているので、橇遊びをしてみようと思った魔物かなくらいの柔和さである。



「ドリー様、ランタンをお持ちだということは、ヴェンツェル様は大聖堂の方にもいらっしゃったのですか?」

「それはエルゼが並んだそうだ。王宮を抜け出す際にも、エルゼに手伝わせたらしい」

「…………ヴェンツェル様、エルゼ達にも予定がありますよ。個人的な楽しみの為に、彼等に不必要な仕事を増やしませんように」

「今夜は特に予定はないと話していたぞ」

「仕事上での予定という意味です。この時期はただでさえ忙しい上に、代理妖精としての業務にはそれなりの準備が必要なものも多いのですから、主人であるあなたが邪魔をしては元も子もない」



かつての代理妖精に叱られている兄を不憫そうに見つつ、エーダリアも自分の橇にランタンを吊るしていた。

そんなエーダリアは、宿り木の絵が彫られたランタンを貰ったようで、いつの間にかランタンを設置済みなウィリアムとアルテアは、それぞれ薔薇の絵の彫られたランタンを貰っていた。



「今年は、ノアが恋人さんに呪われていなくて良かったですね」

「去年は驚いたよね。まさか、雪崩の精霊に襲われるとは思わなかった…………」

「去年はお前のせいで散々な目に遭ったからな。今年は、やっとまっとうに滑れそうだ」

「ありゃ、それって負けた言い訳なのかな?雪崩があってもなくても、勝負は勝負だよ」

「ほお?お前は俺よりも遅かったんじゃなかったか?」

「そりゃ僕は優勝争いよりも大事なことがあったからね。ネア、今年のアルテアは、負けたらちびふわになってくれるらしいよ」

「なぬ?!」

「おい、ふざけるな!」

「ぱたぱたちびふわの飛行実験に、巻き毛のもじゃもじゃちびふわも気になります!」

「お前はいい加減にしろよ?タルトがなくなってもいいんだな?」

「…………む、むぐるる」



タルトを人質に取られたネアは絶望の中で沈黙せざるを得なく、悲しみにくれる姉をノアが慰めてくれた。



「大丈夫だよ、ネア。僕かエーダリアがアルテアに勝てばいいんだからさ。多分勝てるんじゃないかな」

「ノアを応援します!」

「アルテアを負かせばいいんだな?」

「ウィリアムさん!」

「お前は慣れないことはやめておけ」

「はは、橇自体は初めてではないので、頑張ってみますよ。撃滅戦じゃないのが残念ですね」

「…………ほわ、本物の戦いになりそうでした……………」

「ネアの耳が可愛い…………」



橇の戦いに皆が士気を上げる中、ネアの魔物は、もふもふの耳当てをつけたご主人様に頬を染めている。

魔術で保温するので本来なら必要ないものだが、毎年この橇遊びでは、耳元でぎゅんと唸る風の音が怖かったので、ネアは今年からもふもふの耳当てを試験導入することにした。




「では、私は麓におりますので」

「はい。ヒルドさんが持ってきたくれたランタンで滑りますね」

「ええ、お怪我などないよう、気を付けて楽しんで下さい」



そう微笑んだヒルドは、さくさくと雪を踏んで歩いてくると、そっとネアの頬を両手で包んで頭のてっぺんに口付けを落としてくれた。


目を瞬いたネアに、今は大事な時期ですからねと優しく微笑み、ふわりと転移で麓に下りる。



「おい、あれはいいのか?」

「うーん、良くないような気がするが、何とも言えませんね…………」

「…………妖精の祝福は、あった方がいいのは確かだよ………」

「わーお、油断も隙もないなぁ…………」

「ヒルド……………」



そう頭を抱えたエーダリアに、同僚であるグラストや、かつての主人であったヴェンツェル王子も、いささか呆然としているようだ。

ドリーだけは、愛する者を守る為に手を抜かないのがヒルドらしいとにっこり微笑んでいる。



ネアは、雪の日に気を付けて遊んでくるのよと母親に頭を撫でられたことを思い出し、少しだけ心をもしゃもしゃさせてしまった。




「さて、合図の音で開始にしよう」



そう微笑んだノアに、ネアは何て豪華なレースだろうと一同を見回した。

この国の第一王子と伝説の竜を始め、世界規模の高位者達の集いである。

そんな彼等が真剣に橇遊びに挑むのだから、何だか幸せな夜だと言えるのではないだろうか。



「グラストは、僕がいるから安心していいよ」

「はは、ゼノーシュがいれば安心して滑れるな」

「うん。僕がグラストを守る!」



そんな微笑ましいやり取りを見てからこちらを振り返ったディノは、何やら真剣な目でネアを見た。



冬山の中でこちらを見る魔物は、水紺色の瞳を、擬態した青灰色の髪がどこか硬質な美貌へと彩っている。



「…………君は、私が守る………よ」

「まぁ!ディノが守ってくれるのですね?頼もしい魔物がいるので、安心して滑れます」

「ご主人様!」



そう言われて嬉しそうに恥じらう魔物がネアの後ろに座り、ネアはその足の間に収まる形で出発の準備が整った。

背後からしっかりと抱き締められるようにしてあるので、ぽーんと投げ出される心配はない。


それでも、あまりの勢いに全身に力を入れ過ぎてしまい、筋肉痛になるのがこの橇遊びだ。




「…………ここから麓まで、真っ直ぐに滑るのか……………。あらためて不安になったんだが、普通の領民達もこんなことをするのか?」

「アルバンの山程険しくはないが、それなりに険しい山でも滑っているようだ。ここより険しいところで言えば、シュタルトでは、急斜面を滑り降り、有名な渓谷を飛び抜けて凍った湖に着地する者もいると聞いている」

「…………やれやれ、人間は凄いことをするな…………」



エーダリアの説明にウィリアムは若干引き気味だったが、それを始めたのがターテイル爺さんであり、現在もなお記録の更新中と知ったネアも愕然とした。


なお、そのシュタルトの次点は湖水葡萄のメゾンで働く女性従業員で、普段は可憐な少女だが、橇を操るとその猛々しさはシュタルトで並ぶ者はいないらしい。

騎士達も敵わないその技量に惚れ込み、昨年はとうとう、渓谷の精霊からも求婚があったそうだ。


とは言え、彼女はまだ昨年成人したばかりで結婚など考えておらず、求婚者はこれで五人目なので今後の苛烈な競争が予想されている。




(どきどきしてきた…………!)




魔術仕掛けのスタートの合図は、五秒前からカウントダウンを始める。

ノアが魔術で作ってくれた、しゅぽんしゅぽんと光を打ち上げる雪の燭台を見つめ、ネアはいざ死地に征かんと深呼吸をした。



一つ二つと光が上がり、みんなが息を詰めて真剣に見守る中、最後のカウントダウンが終わる。



ばぁんと合図の音が鳴り響き、全ての橇が一斉にスタートした。




「ぎゃ!」



ネア達の前を、雪煙を上げて物凄い勢いで橇が滑ってゆく。


そもそも雪の上を滑るだけのものである筈の橇がなぜ雪煙を上げるのかと、あまりの速さに目を丸くしているネアの視界の中で、光の速さで見えなくなったのは、先頭に躍り出たエーダリアの橇だ。


誰が続いたのか気になったが、すぐさま、ネア達の橇も急斜面から木々が生い茂るところに差し掛かったのでそれどころではなくなってしまう。



びゅおおおと、耳当てをしていても風を切り滑る橇の勢いはそのまま肌に伝わってきた。

相変わらず、このまま谷底に落ちてばらばらになるのではないかというスピードで雪の上を走り、ネアは全身に力を入れて橇の中で踏ん張ってしまう。



そこには、祝祭で貰った美しい細工のあるランタンの火を消さないようにという繊細さは微塵もなく、生きるか死ぬかの極限の走行としか言えない、荒々しさに満ちた時間があるばかり。




「ぎゃ!くまさん!!くまさんがいます!」

「大丈夫だよ、ネア。そこは飛び越えられるところだからね」

「く、くまさんが!みぎゃ?!」



ネアは進行方向にあたるところに、おやっと首を傾げて雪の上に座り込んだ愛くるしいキャラメル色の子熊を見つけて心臓が止まりそうになったが、無垢なもふもふに突っ込んでいった橇がばいんと斜面から空中に投げ出された瞬間には、今度はその心臓が口から飛び出しそうになった。



空を飛ぶのはとても素敵なことであるが、急斜面から放り出される形で浮遊力ゼロの乗り物で体験したいものではない。


目を閉じることも出来ぬまま、放物線を描きながら子熊の頭上を飛び越えてゆき、ネア達はまた、森の入り口である雪面にずばんどかんと着地する。




「むぎゃん!」

「ネア、大丈夫かい?」

「だ、大丈夫でふ。でもお尻が…………ぎゃ!」


耳元で心配そうに尋ねてくれたディノに答える間も無く、今度は木々の間をすり抜けてゆくような林間コースに突入する。

背後から体に回されているディノの腕にぎゅっと掴まったネアを乗せたまま、橇は恐ろしいスピードで木々の中に突き進んで行った



物凄い勢いで背後に流れてゆく景色の中には、しゃわりと光る結晶石のようなものや見たこともない花などもあった気がしたが、その全ては一瞬で通り過ぎてゆく。



大きな木が真正面にあってまた心臓を吐き出しそうになったが、ディノは巧みな操縦でその木をするんと避けてくれた。


その頃にはもう、ネアはぜいぜいするあまり、目も暗く据わっていたに違いない。

一刻も早く、五体満足の内に麓に着いてくれ給えと、会ったこともない橇遊びの神に祈るばかりだ。




(でも、残すは直線だけだった筈だから…………)




「また少し飛び上がるよ」

「……………むぐ?!……………みぎゃふ?!」



どうやら、昨年とは少しだけコースが違ったようだ。

もう怖い箇所は終わった筈だと安心しかけたところで、最後の大ジャンプが待っていた。




「…………か、川でふ!」



滑り台の要領でしゅばんと空中に飛び出した橇の上からネアが見たのは、凍ることなくさらさらと光の粒子を纏い流れている清廉な小川だ。


こんな真冬に橇ごと川に落ちたら大惨事なので、ネアは恐怖にかちこちに固まったが、永遠にも思える滞空時間を経て、橇はまた、ばすんと雪原に着地してくれた。



(……………こ、怖かった!!!)



もはや、鹿角の聖女周りのあれこれより、こちらの方が余程命を危険に晒しているとしか思えなかったが、これでも一応は家内安全を願う為の儀式でもあるのだ。


どんな試練も乗り越えてみせると両手を握り締めたネアは、橇が失速したことに気付いて首を傾げる。



「止まりました…………」

「ネア、着いたよ」

「お、終わったのですか?」

「うん。ほら、みんなもいるだろう?」

「……………ふぇっく」



険しい山から橇でひたすらに真っ直ぐ滑り降りる、悪夢のような試練は今年も無事に終わったようだ。



なだらかな雪原に橇が無事に止まったことを確認し、ネアはそろりと自分の顔に手で触れる。



「ふぎゅ、私のお顔はどこも無くなっていませんか?」

「なくなっていないよ。かわいい…………」「今年こそ、鼻くらいは千切れ飛んでいったに違いないと思っていたのですが…………」

「ご主人様はなくならない…………」



恐ろしい懸念を知り、慌ててディノはご主人様を抱き締めてくれて、ネアもそんな魔物と抱き合い、二人は共に生還を祝った。


そんな感動の場面の向こうでは、激戦を終えた男達が悲喜こもごもその結果を噛み締めている。




「うーん、最後のところで思ったより速さが出なかったか。あの木は何だったんだろうな………」

「……………雪崩しの精霊に遭遇しなければ…………!」

「…………不甲斐ない結果だ。来年も参加しなければならないな」

「ヴェンツェル…………」




そちらの結果はどうなったのだろうと気になり、ネアは橇を降りると、差し出された魔物の三つ編みを持ってそちらにもそもそと近付いて行った。



どれだけ荒々しいレースだったのかは、死力を尽くして滑り込んだらしいそれぞれの橇がかなり離れた位置に止まっていることでも伝わってくる。



(何となくだけど、ウィリアムさんが一位で、エーダリア様が二位かな………。アルテアさんが一言も発していないのがちょっと心配だけど………)




まずはこちらに一番近いところに橇のあったノアに歩み寄ると、振り返った塩の魔物は得意げに微笑んだ。



「ネア褒めて!アルテアを抜かしたよ」

「まぁ!自慢の弟です!ノアは何位だったのですか?」

「わーお、また弟にしようとするぞ。僕は三位かな。ウィリアムが一位だけど、………木を切り倒したから審議はあってもいいと思う」

「む、…………木を………」



そんなやり取りが聞こえたのか、ノアの隣にある橇を降りながらウィリアムが微笑む。


「あれは祟りものだったからな。残しておくと、後から滑ってくるネア達も危ないだろう?」



聞けば、ウィリアムは、走行中の進路方向に大きな古木の祟りものが現れたので、橇の上から剣でばっさりやってしまったようだ。

あの速度の中でそんなことが出来る事自体異常に思えてしまうが、この世界は飛行する竜に乗って戦う人もいるのであった。



「…………ほわ、だから道中に大きな木が転がっていたのですね」


「僕達もね頑張ったけど、鹿がいたんだよ」

「まぁ、ゼノ達の方には鹿さんが邪魔しに行ったのですね」



また少し離れた位置から、少しだけご立腹気味にそう主張したゼノーシュは、ネアの言葉に頬を膨らませたままこくりと頷いた。

一緒に橇から降りたグラストが、苦笑してその頭をくしゃりと撫でる。

ゼノーシュがかぶっている帽子は、イブメリアの贈り物だった帽子だろう。



(アルテアさんが静か過ぎるような………)


ここでネアは、ウィリアムとノアの斜め後ろにいる、漆黒の橇の乗り手がとても気になったのでそちらに近付いてみた。

こちらの魔物は、降りた橇に寄りかかるようにして立っているが、とてもとても遠い目で夜空を見上げている。



ネアはディノと顔を見合わせると、少し声を張って尋ねてみた。




「アルテアさんは何位だったのですか?……………む、死んでいます」

「アルテアが………………」



がくりと項垂れたアルテアに途方に暮れていたネアに、くすりと笑いを滲ませた声でウィリアムが教えてくれる。



「ノアベルトの後だった筈だから、アルテアは四位だったんじゃないか?」

「まぁ、それでこんなにしょんぼり………。でも、今回は事故らなかったのですよね?」

「………………去年も事故ってはいなかっただろうが」

「たいそう不貞腐れた使い魔さんがいます………。とても悲しかったようなので、お腹を撫でて差し上げましょうか?」

「やめろ……………」



こちらの魔物は暫く一人にして欲しそうだったので、ネアは、アルテアの橇に足をかけて伸び上がってそんな使い魔の頭をよしよしと撫でてやり、勝者を祝うべくもう一度ウィリアムの方に向かった。


ノアは、少し離れた位置のエーダリアとヒルドの所で、楽しそうに順位の話をしているようだ。

エーダリアはさかんに悔しがっているが、ヴェンツェルもかなり落ち込んでいるようで、項垂れているところをドリーに背中を叩かれている。



「ネアは、怖くなかったか?」

「くまさんの試練と、びゅんとなるのが怖かったのですが、これで何とか家内安全が約束されました…………。ウィリアムさんは、やっぱり一位でしたね!」

「ネアはそう思ってくれていたのか?」

「この素朴な感じの橇は、さらりと優勝を捥ぎ取る人の橇という感じがしたのです」

「はは、ネアが応援してくれたから勝てたのかな」



そう笑うウィリアムが、ネアの頭の上にぽふんと手を置き、それを見たディノが、そっとネアの手に三つ編みを押し付けた時のことだった。




ぐおんと、物凄い轟音が辺りに響いた。




驚いてそちらを見たネアの目に映ったのは、青白い炎と大きな氷が凝ったような不思議な生き物だ。


ぶわりと空気が渦巻くようにして大きな翼が広げられ、その塊が見る間に形を成して見上げる程に大きく膨らむと、深い湖のような青い体の中で瞳だけが爛々と金色に輝いている生き物が現れた。




「凝りの竜か………このような土地では珍しいな」

「出現の予兆はなかったようだが、どうして顕現してしまったのかな…………」



目を細めてその生き物を一瞥したウィリアムに、ディノもどこか不思議そうに首を傾げる。



「ほお、ウィームの山にも凝りの竜がいるのか」

「ヴェンツェル、観察していないで下がるんだ!」

「このようなところに出現するのは妙だな。…………雪嵐と雪崩……、複数属性から成る凝りの竜は珍しいのではないか。…ヒルド?」

「なぜあなたは、近付くんですか………!」



ヴェンツェルは慌てたドリーに、エーダリアは呆れ顔のヒルドに叱られて連れ戻されているのを見て、ネアはやっぱりこの二人は兄弟なのだなとほっこりする。


凝りの竜は災厄のようなものだと聞いていたことがあるので、きっと今回もあまり良くないものなのは間違いないが、前回の凝りの竜をくしゃりとやってくれたウィリアムがすらりと剣を抜いたので、これはもう安心して見守ることに専念出来そうだ。



(イブメリアが終わった後だから、ウィリアムさんも万全な状態だし…………)


おまけにこれだけの魔物達がいるのだから、ウィリアムが一人で苦戦してしまうこともあるまい。


そう考えたところで、ネアは、あまり万全ではない魔物が一人いたことに思い至る。

撃滅は、同じく剣を抜いたヒルドとウィリアムにひとまず託し、慌てたネア達はすっかり弱っていた筈なアルテアのところまで後退した。



「アルテアさん、ご担当の事故が起きましたよ。生き返って下さい!」

「やめろ。俺は関係ないだろうが」

「引き続き弱っているようであれば、ディノの後ろに隠れていて下さいね。襲ってきたら私がきりんさんで、…………むむ!もしやあれは、私の憧れのとげとげした氷の竜さんなのでは…………」

「ネアが変な竜に浮気する……………」

「おい、おかしな余分を増やすなよ?」



そんな事を呑気に話していたら、凝りの竜はちっとも怖がらない獲物達に我慢がならなくなったらしい。


がおーと吠えると、大きな青い翼を広げてより空高く飛び上がり、その体の周囲に氷の槍のようなものを無数に出現させる。


アルテアは橇に手を触れ、それをしゅわりと消すと、代わりにどこからか白い杖をくるりと取り出した。


とは言え既にウィリアムが剣を構えているので、初撃で滅ぼされてしまいそうだ。



しかし、そんな凝りの竜は、思いがけない行動に出た。


上空からそのまま攻撃をしかけるのかと思っていたが、突然だしんと地面に飛び降りると、強靭な尻尾をぶんと振り回したのだ。




「…………っ!」




まだレースが終わったばかりで、それぞれの橇の近くに各自が立っていたことから、ネア達は分散してしまっていた。


その結果、橇を止めた最も山側に近い位置にいたヴェンツェル達だけが、振り回された尻尾が直撃する位置に立っていたのだ。

橇は既に魔術を解いて消してしまったようで、盾にするものもない。



(ぶつかる!!)



そう思って思わず目を瞑りそうになったところで、ふわりと魔物の腕の中に抱え込まれる。



「ネア、ドリーがいるから心配ないよ」

「あいつがいて、当たるはずもないだろうが」

「…………ふ、吹き飛ばされてしまっていません?」



ぞっとして息を詰めたネアだったが、そう言われて怖々と視線を戻せば、大人の男性が何とか二人でひと抱えに出来るくらいもの太さがある氷の尻尾の一撃は、ヴェンツェルの隣にいたドリーが、あっさりと片腕で受け止めているではないか。


ドリーはそのまま尻尾をわしりと掴んでしまい、凝りの竜は、そんな拘束を何とか引き剥がそうと大きく翼を振るった。


途端に周囲には雪嵐が巻き起こり、ネアは慌ててディノにへばりついたが、すかさず杖を地面に突いたアルテアが不可視の防壁を立ち上げてくれたようで、その雪や風がネア達に届くことはない。


見れば、エーダリア達はノアが、グラストのことはゼノーシュが難なく守っている。



「…………やれやれ、呆気なかったな」



退屈したような声でアルテアがそう言うのは、ウィリアムが剣を構えたからだろう。



刹那、ざっと白銀の筋が閃き、ごとりと重たい音が響く。

凝りの竜は、たった一撃で、容赦なく首を落とされていた。



「ほわ、……………一撃でした…………」

「終わったようだね。それにしても、このようなところに凝りの竜が現れるのは珍しい。何か、核となるようなものが落ちていたのかな?」

「ま、まさか、アルテアさんの事故率を維持する為に…………?」

「やめろ。何でだよ」

「むぎゅ!頬っぺたを摘むなど許すまじ!」



悪い魔物に虐められたネアが、そのような辱めは許してなるものかとその手をばしばしと叩けば、なぜか隣にいた婚約者は悲しげに項垂れてしまう。



「アルテアにご褒美をあげるなんて…………」

「これは頬っぺたを守る為の戦いなのです!ご褒美に見えてもご褒美ではないんですよ?」

「ずるい…………」



しょぼくれた魔物は、悲しげに爪先を差し出してきてしまい、ネアはまたしてもそんな婚約者の爪先をぎゅむっと踏んでやることになる。




なお、凝りの竜の残骸は、雪の資質が強くその場で浄化すると山の雪に影響が出そうだということで、少し離れた人気のない土地に持って行き、ドリーが魔術の火で焼いてしまうことになった。


凝りの竜には災厄の質があるので、実際に襲われた者は浄化に立ち会うことが好ましい。

ヴェンツェルも一度そちらに行く事になり、どうもこの凝りの竜の成り立ちが気になるというアルテアと、万が一疫病などが隠されているとまずいと作業に立ち合ってくれることになったウィリアムも、少しだけこの場を離れることになった。




「でも、誰も怪我をしなくて良かったですね。………なぜ現れたのかも、きちんと分かればいいのですが……………」

「凝りの竜は、強力な呪物に引き摺られて派生することもある。このように魔術が潤沢な土地だと、小さなことが要因でも派生が整い兼ねないんだ。アルテアが同行したのは、そのようなものを、ヴェンツェル達が持っていないかどうかを調べる為でもあるのだろう」




アルバンの山には、再び静けさが戻ってきた。



ネアは橇のところまで戻ると、大事なランタンを無事に回収し、その作業の際にぶんぶんと飛び回りたかってきた生き物を片手でばしんと払い落とす。



雪の上に落ちて儚くなったのは、こわこわの青いタオルハンカチのようなものだ。



また一匹見事な雷鳥を退治したので、今年の冬も引き続き、アルバンの山にあるリーエンベルク御用達の牧場からは、美味しいバターやチーズが届けられるに違いない。






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