347. 雪白の舞踏会に向かいます(本編)
ネアが袖を通したのは、薄っすらと色づく氷色に白いレースを重ねた素晴らしいドレスだ。
ウエスト部分には、みっしりと刺繍の施されたミントグリーンの天鵞絨の布を当てるデザインで、このあたりはディノの趣味なのか、昨年のものに形が似ている。
ネアは何となく、ディノが大事にしているリボンの要素を、ドレスに取り入れたいのではないかなと考えていた。
背面に向けて幅広のリボンを結んだようなデザインになっており、そのリボン部分に刺された刺繍はアーヘムの手のもので、パステルカラーのような淡い色をふんだんに使い、胸を打つ情景にも似た美しさが詩的ではないか。
(朝靄の雪の庭園を表現しただなんて、何て素敵なのかしら…………)
スカート部分はすとんとしているが、くるりと回るとふわっと広がり、はっと意識を奪われる美しさだ。
すっきり広がった胸元は決して扇情的ではないが、肩口や腕をほっそり見せてくれる白いレースが上半身をぴたりと覆って胸の形もしっかりと出している。
少女らしい可憐な印象だが、動けばふわりと広がり、女性らしい優美なラインも強調してくれるドレス本来の色香も合わせ持つ素敵なドレスだ。
ネアは嬉しくなってしまい、すぐさまディノに見せに行ったところ、ネアの婚約者は、着ると虐待になるという謎の主張によりよろよろしてしまった。
「肩に掴まって下さいね。こうして上からケープのフードをかけることで、落ちないように保護しますから」
「ガウ」
「フキュフ………」
「とは言え、ぱたぱたちびふわは、そのちびこい翼でも飛べるのかもしれません………。試してみます?」
「フキュフ?!」
「ネア、アルテアが風に飛ばされてしまうといけないから、それは今度にしようか」
ひらりと、雪片が風に舞った。
窓を開けてディノに抱き上げられると、しゃりんしゃらりとディノが手に持った香炉が風に揺れ、現れた空に伸びる階段にはその煙が立ち昇る。
見上げる階段は雲間の向こうまで続き、その光景はイブメリアだけの恩寵の一つでもある。
そんな恩寵の方からまた、はらりと雪が降ってきた。
風に揺れるディノの三つ編みに結ばれたのは、ネアのドレスのリボンとお揃いのミントグリーンのリボンだ。
お揃いが大好きな魔物なのである。
「…………君と雪白の舞踏会に行くのは、三回目だね」
「ええ。ディノが初めて連れて行ってくれた時、私はあまりの綺麗さと楽しさに、胸がいっぱいになりました」
「……………うん。君が気に入ってくれたのが分かって……………嬉しかった」
そうほろりと微笑む魔物は、まだその時は、ネアがどこかに逃げていってしまうという不安を抱えていたのだろうか。
でもネアは、まだ二人の関係に思うところはあったにせよ、あの日の雪白の舞踏会の思い出にはただの幸福な記憶しか残っていない。
きらきらと光り煌めく宝石のような思い出にはいつも、空の上の舞踏会会場から見下ろすウィームと、くるりくるりと翻る色とりどりのドレスの裾が映る。
だから、そんな記憶の中の何よりも美しい婚約者の腕に手をかけ、微笑んで水紺色の瞳を見上げた。
「…………美しいものというのは、不思議なくらいにするりと心に入り込んで、その奥の柔らかい部分をくしゃくしゃにするんです。私はあの日、ディノが雪白の舞踏会に連れて行ってくれたことが、とても嬉しかったんですよ?」
「…………ネア」
「だから、これからも連れて行ってくださいね。もう素敵なドレスはたくさん持っているので、ただ、あの舞踏会でディノと踊れるだけでとても幸せですから」
「…………うん」
またほろりと微笑み、ディノは伸ばした手でネアの頬に触れると、そっと淡い口づけを落とした。
唇に触れたその温度に胸が熱くなるのは、この魔物が心から幸せそうに微笑むからだ。
嬉しい嬉しいと、心を零して微笑むその瞳の透明さに、ついついネアも心が震えてしまう。
ただし、ぱたぱたちびふわとちび犬は、肩に爪を立てないで欲しい。
かつんと、階段を踏む音がする。
ネアは羽織ったケープのフードの部分にぱたぱたちびふわとちび犬をしっかり入れて、肩に乗った二匹がうっかりつるんと落ちないようになっているのかを再確認し、ディノにも落ちないように魔術をかけて貰う。
ディノは、ネアを片手で抱き上げてもう片方の手に雪白の香炉を持つのだが、それでふらつきもせずに空の階段を登ってゆく婚約者の姿に、ネアはおかしなところで、ああ魔物なのだなと感心してしまった。
「…………見えてきました!」
「うん。下ろすけれど、私から手を離さないようにしておいで」
「はい」
こんな時にはしっかり手を取ってくれる魔物を少しだけおかしく思いつつ、ネアは目の前に広がる美しい会場を見回した。
(もしかして、ディノは、手を繋ぐこととエスコートするのとは、別物だと思っているのかしら…………?)
その疑いもあると、こつりと舞踏会の入り口の床石を踏んで立ち顔を覗き込めば、ディノはぎくりとしたように視線を彷徨わせた。
首を傾げたネアに、とても儚い魔物は小さく呟く。
「ネアが虐待する……………」
「むむぅ、頻度の高過ぎるものを禁じられようとしています…………。ディノを見ていたいので、見上げられることにはどうか慣れて下さいね」
「ずるい……………」
「フキュフ!」
「ぎゃ!ぱたぱたちびふわ、ケーキはなりません!!」
「……………ガウ」
会場の入り口近くにケーキのテーブルがあったからか、一瞬ぱたぱたちびふわが暴走しかけるという一幕があったが、幸いにもちび犬なウィリアムが尻尾を前足で押さえて捕まえてくれた。
ちび犬なウィリアムに狩られてしまったからか、はっと正気に戻ったアルテアは、その後は呆然としていたものの落ち着いてくれたようだ。
(ああ、…………やっぱり、ここは綺麗だわ…………)
雪白の舞踏会の会場は、雲の上にある。
そこには、雲の上のどこからか始まる、氷のような舞踏会の会場の床石があり、それを囲むように不思議な森が広がっているところだ。
ネアはふと、輝くような赤い実をつけるこの森の木々は、冬聖に近い種の木なのではないかと気付いた。
木々の根本は透明になっていて、この会場を乗せた雲や、眼下に広がる地上の煌めきを覗かせていた。
宝石のテーブルにはシュプリのグラスや様々な料理が並んでいるが、本日がイブメリアであることも踏まえてなのか、あまりボリュームのある料理はないようだ。
会場のあちこちに花開き、咲きほころぶのは色とりどりの花々で、今年は柔らかなラベンダー色の薔薇の茂みが一際目を引いた。
ここでも降り続ける雪は、空の道行きのときに降っていたものとは質感が変わり、さらりとした粉雪が会場の灯りを映してダイヤモンドダストのように光る。
見上げたその頭上には、大きなシャンデリアが燦然と輝いていた。
会場に着くなりばたばたしてしまったが、ケープを脱いでディノに預けたあたりで、周囲の者達が優雅にディノにお辞儀をしてくれた。
恋人達や夫婦ばかりだからか、ここでは他の参加者からの過度な接触はない。
社交に煩わされることなく、純粋に舞踏会を楽しめるのが雪白の舞踏会なのだ。
クロークめいたものもあるが、これは防具でもあるのでと、ネアが預けたケープはどこかにしまっておいてくれ、ディノは目を輝かせて会場を見ているネアの頬をそっと指先で撫でる。
微笑んで顔を上げると、こちらを見た魔物はとても幸せそうだ。
「…………ディノ、私はこの舞踏会の会場が大好きです。あの、お花がみっしり咲いているところは、木々の根元からウィームの街が見えるでしょう?…………あの角度がとても大好きで堪りません」
「もう少し近付いてみるかい?」
「はい!飲み物も近くにあるので、せっかくなら、何かを飲んでから踊りましょうか?」
「うん…………」
そう微笑んだディノの背後で、妖精の恋人達の羽がきらきらと光る。
幸福そうに煌めく羽のその向こうには、大きな灰色の翼を持つ女性が、竜種らしい男性と甘やかな雰囲気で踊っていた。
(わ、………とっても綺麗な女性だわ…………)
そう考えかけ、待たれよとネアは自分を叱咤する。
(………もしかして、男性に見える黒髪の竜さんの方が、凛々しい雰囲気の女性なのでは?………となると、あの美人さんは男性………?女性同士かしら………?)
「ネア…………?………おや、灰色孔雀だね。彼を見るのは久し振りだ」
「…………あちらが男性の方でした。ディノのお知り合いの方なのですか?」
「ギードの知り合いだった筈だよ。彼の伴侶は火の闇の竜だったかな。最も暗い闇を司る竜の一種なんだ。ただし、とても排他的で気性が荒いから伴侶や宝を持たない者には近付かない方がいい」
謎に包まれて目を瞬いたネアに、おやっとそちらを見たディノが気付いて教えてくれた。
初めましての竜種におおっとそちらを見れば、なぜか肩の上のちびふわとちび犬がぎりぎりと爪を立ててきたので、この姿だと竜は怖いのかもしれない。
ネアは男装の麗人なお友達という可能性にたいそう心惹かれたが、この世にお互いしかいないように踊る恋人達の邪魔をすることは出来なかった。
「…………踊ろうか」
「はい。宜しくお願いします」
「……………うん。………ほら、あまりこちらを見上げてはいけないよ。危ないだろう?」
「………………危ない?」
「……………うん。危ないからね」
「解せぬ」
伸ばされた手を取れば、ふわりと背中にその手の温度を感じる。
こんな美しい会場で踊れる喜びと、これは年に一度のディノと訪れる特別な舞踏会なのだという感動と。
その全てにふつりと心が緩み、ますます美しい景色が胸に染み渡る。
音楽が途切れ、そしてまた始まった。
(…………………あ、)
手を取られ、背中に手を回されてくるりくるりと踊る。
空には気の早い星が瞬き、大きな空のシャンデリアの下で、色とりどりのスカートが翻り花が開くようだ。
ステップを踏む床は分厚い氷のようだが、その下には光に滲むウィームの街が滲むように見えていた。
ネアの靴は、またディノが自身の魔術を切り出して作ってくれたものだ。
綺麗な真珠色の靴はおとぎ話の硝子の靴に似ていたが、履いてみるととてもふんわりとして柔らかく、踊っても踊っても爪先まで軽やかでターンでも足が疲れない。
ドレスの裾が翻る隙間から爪先が覗けば、きらきらとした真珠色の宝石のような靴が淡い光の尾を引いた。
(楽しい…………。楽しくて、胸がほかほかして、ディノが幸せそうなのが、とても幸せ)
見上げた先で微笑む魔物は、まるでこの雪白の舞踏会の主人のようだ。
二人で練習したふわっとターンでくるりくるりと回る度に三つ編みが煌めき、その眼差しの揺らぎに合わせて真珠色の睫毛が震える。
時々、ダンスの動きでこっちに来てしまったちびふわの尻尾がふぁさっと顔に当たりむがっとなったが、それもすぐにディノがどかしてくれた。
「…………あともう少し」
ふと、ディノはそんなことを呟いた。
その言葉に滲んだ魔物らしい独占欲と酷薄さにひやりとしつつ、それでもと手を離せなくなったのはなぜだろう。
何しろ、満足げに微笑むその表情は、決して無垢なばかりの生き物ではない艶やかさなのだ。
「もう少しで君は、どこにも行かなくなるんだね」
とても満足げに言うので微笑ましくもあったが、ふと覗き見えたその魔物らしさが、ネアは少しだけ気になった。
音楽の波間に揺蕩いそのステップの中で、ふとディノが一組の男女の方に視線を向ける。
こちらに向かって眼差しで会釈してくれたのは、折れてしまいそうな細い腰を持つ妖精の女性だ。
ディノには婉然とした微笑みを向けたものの、ネアには無関心と言ってもいい。
けれどもそれは、無作法だとか寂しいだとか言う必要もない、違う生き物だからこその冷淡さに過ぎない。
(……………そう言えば、魔物さんの伴侶となった人は、どう過ごしてゆくのだろう?)
今更そんなことが気になったが、残念ながら周囲には、明らかに魔物と人間という恋人同士や夫婦はいないようだ。
であれば、魔物の王様の場合はどんな感じになるのかなと思い描こうとしたが、残念ながらネアの想像力では、映画や物語の中で見た、横柄で我が儘な王族や貴族の男性達の、華やかで享楽的な爛れた生活のものしか知識の備えがないようだ。
(……………むぐぅ。…………でも、ディノは心の扱い方を知らなかったとしても、そちらの方面は無頓着というか、来るもの拒まずな感じもちょっとだけあるような……………)
えてして、人は手の内のもののことは蔑ろにしがちだし、飽きるということも決して珍しいことではない。
特にこんな特等の生き物であれば、周囲からそれを得ようと伸ばされる手も多いだろう。
今迄は不慣れだったとしても、得られる喜びを知ったからこその飽食に傾く可能性もないとはいえない。
「………………ディノの伴侶にはなりますが、ディノが悪いことをしたら、いなくなったりはしますよ?」
「……………え」
「魔物さんはどのような形で良しとするのかが分からないのですが、人間の夫婦では、そのようなこともあります。そこでおしまいではなく、そこから先の生活がかかる以上は、夫婦とは言え、悪い奴はぽいせざるを得ないこともあるでしょう」
ネアがあらためてその可能性を指摘したのは、魔物と人間の常識に差異があると困るからであった。
伴侶になった後にやんちゃをされ、その時に魔物とはこういうものだからと言われても困る。
言葉の魔術というものがある世界なのだから、ここは後回しにせずに、その場できちんと明確にしておかなければならないと考えたのだ。
「……………いなくなるのかい?」
「今のディノならいなくなりません。ただ、ディノがすっかり満足してしまい、いつかどうでも良くなったからと私に怖いことや悲しいことをしたら、そこは我慢などせずにぽいっと………」
「そんなことはしないよ?」
残酷で狡猾な人間から重ねて注意喚起されてしまい、魔物はふるふるしながら悲しく首を振った。
ダンスの輪ですれ違った妖精達が、おやっとそんな様子に目を瞠る。
悲しげに頭を擦り付けてくる生き物に、そちら側の肩に乗っていたぱたぱたちびふわが、慌てて反対側の肩に逃げてくる。
とは言えそちらには、ちび犬が乗っているので二匹はぎゅう詰めになってけばけばになった。
「…………せっかくこんな素敵な所に連れて来てくれているのにごめんなさい、ディノ。こんな時だからこそ言ってしまいました。魔物さんの伴侶間のご事情はよく知らないので、悪い貴族の方のお作法のように、奥様をお屋敷に残して愛妾さんと遊び耽るということも考えられましたから。私はそのようになってしまったら、そのお相手とは連れ添えませんが、ディノはそういうことはしないのですか?」
「……………しない。君ではないものはいらないよ。私は君がいいんだ……………」
悲しげにしょぼくれた魔物に、何曲目かのダンスの音楽が途切れる。
恐らく七曲は踊ったに違いなく、お口がとても飲み物を欲して来たのでさすがにもういいかなと、大事な魔物の手を引いて踊りの輪から外れたネアは、伸び上がってそんな魔物に微笑んで口付けをしてやった。
「ネア………………」
「私にはまだ知らないことが沢山あるので、何度もこうして話し合いましょうね。もし、少しばかり飽きてきたと思ったら、私はいきなり置いていかれたら悲しいので、いなくなる前に相談してくれますか?」
「……………いなくならない」
「でも、ディノも男性ですし………。その、ディノのかつての恋人さん達はなかなかに飛び抜けた美人さんでした。先程の妖精さんを見ていたら、やはりちょっと私とは違う趣の方が本来の嗜好なのではと…」
「ネアが虐待する…………」
ご主人様に疑われてしまった魔物は、ネアが嗜好であり、挨拶をしてきた妖精は知らない妖精だと弁明した。
そして、愛妾は作らず、夜の歓楽街から戻ってこなかったりもしないようだ。
「じゃあ、私は、これからもずっと安心してディノを大事に出来るのですね」
「ご主人様!」
ネアは繊細な人間のか弱さですっかり不安にさせてしまった魔物からおずおずと爪先差し出されたので、これはやむなしと踏んでやった。
こんなに酷薄な美貌の魔物は、爪先をぎゅむっと踏まれて嬉しそうに微笑んだ。
「…………君は、逃げないのかな」
「ご主人様は生き物ですので、大事にすれば逃げませんし、大事な魔物をそれはもうとても大事にします。とは言え、個別包装を好み、時には本を読むために魔物を紐で繋いで放置することもあるでしょう。今度はディノから見た私として、……………それでもいいですか?」
「……………眠っている君は眺めていられるし、紐で繋いであるのなら逃げないからね」
「ぞくりとしました……………」
「ご主人様……………」
眼下には美しいイブメリアの街がある。
雲の中に広がる森は輪郭を透明にするからこそ幻想的な清廉さが際立ち、花々の彩りが、宝石のテーブルや大きなシャンデリアに揺れる。
雪白の香炉から立ち上った香りがこの独特な空の上の舞踏会の場の香りと混ざり合い、えもいわれぬふくよかさを胸に満たした。
踊り疲れた二人は、きりりと冷えたシュプリや林檎ジュースを飲み、一口でいただけるような料理の数々に舌鼓を打った。
「………むぐ。…………こ、これは………」
「美味しいものがあったのかい?」
「はい!小さな賽子状に固めたクリームチーズなのですが、中に凍らせて砕いた花蜜が入っているようなのです。口の中の温度でとろけて、とろとろしゃりしゃりとした美味しさが堪りません!」
「可愛い、弾んでしまうんだね」
「……………なぜ爪先を下に差し込むのだ」
「体当たりの方が良かったかい………?」
「…………ディノ、念の為に窺いますが、このご褒美はずっと欲しいのですか?」
「……………うん」
そっと尋ねたネアに、魔物は澄明な目を瞠った。
なぜそんなことを問いかけるのだろうと首を傾げ、悲しげに潤ませた水紺色の瞳に、ネアはむぐぐっと眉を寄せる。
「爪先を踏むご褒美を、頭を撫でたり手を繋いだりすることに代えたりは………」
「…………しないかな」
ネアは続けて、体当たりと三つ編みなどについても代替案を提示してみたが、魔物は頑なに首を横に振り続けた。
悲しそうにこちらを見ているので、ネアは自分の甘さを痛感しつつ、現行のものは据え置きで構わないと約束してしまう。
「……………む?なぜ私は今、ご褒美はずっとそのまま運用すると約束してしまったのでしょう?」
「ネアは、これからもずっと甘えてくれるのだね」
「…………き、気付いたら約束し終わっていました………むぐぐ………」
いつか撤廃する筈のご褒美運用について、そこまでの永続的な約束をするつもりはなかったので、呆然としたままディノの方を見ると、もしかするとそんな人間の身勝手さはお見通しだったかもしれない魔物は、ひどく満足げな艶やかさでゆったりと微笑んでいる。
「ディノ、…………私に何かしました?」
「していないよ?…………それとネア、アルテアが…………アルテアが?逃げそうだから捕まえておこうか」
「……………アルテアさんが?」
指摘されて肩の方を見ると、ぱたぱたちびふわがどこかに飛び立とうとしており、その尻尾をちび犬が前足でがしりと抑え込んでいる。
「あらあら、脱走ですか?」
「フキュフ!」
「ここから森に…………?」
「フキュフ?!」
じたばたするちびふわを掴んで、そっとお腹を撫でてやると、ふにゃりとくたくたになってはしまったものの、それでもまた、ぱたぱた飛び去ってゆこうとしている。
「ディノ、アルテアさんは野生に帰りたいようなのですが、どうしましょう…………」
「野生に帰ってしまうのかい…………?」
「ガウ」
「ウィリアムさん…………?………綺麗な女性の方がいますね」
何か事情があるものか、ウィリアムなちび犬が示した先には一人の美しい女性がいた。
鮮やかな青緑の瞳の女性らしい美貌に、そちらを見たディノが小さく呟く。
「おや、宿り木の妖精だね」
「ガウ…………」
「さては、恋人さんか恋人さんだった方なのでは………」
「…………フキュフ?!」
一瞬みっとなったものの、ちびふわは必死に首を振ると、ちびこい前足をさっと他の方向に向けた。
すると、そんな宿り木の妖精の奥に竜らしき男性と連れ添う、美しい女性がいる。
ほわりと微笑みを浮かべるというよりは、その美貌にひやりとして物陰に隠れたくなるような趣の美貌だ。
「…………まぁ、あの奥にも綺麗な方がいますね」
しかし、白い角を持ち白斑の髪の美しい女性を見付けたネアがそう言えば、ディノが身に纏う雰囲気がさっと強張った。
「ディノ…………?」
「あそこにいるのは、白樺なんだ。…………ネア、ゆっくり過ごせたとは言えないけれど、そろそろ出ようか」
「はい。私はもう、ディノとたくさん踊れたので充分満足ですよ?」
「ごめんね。………あの魔物は、込み入った資質を持っているので君と接触させたくないんだ」
とは言えもう、たっぷり踊ったし、シュプリも飲んだ。
ネアは果物のたっぷり乗った美味しいケーキもいただいたところであったので、満ち足りた思いで心配そうな魔物に頷いてやる。
どこかにしまってくれていたケープを渡されて羽織ると、ふわりと抱き上げて貰ってまた地上へと戻る階段に向かう。
何人かディノが帰ってしまうことに残念そうな表情を見せた者もいたが、雪白の舞踏会の性質上、このイブメリアの夜を愛する者と過ごしている彼等からも、引き止められるようなことはなかった。
ひゅおると、風が鳴る。
会場を出ると、またそこは空の階段だ。
これもまた特殊な魔術の道なので、地上からは見えないそうだが、それでも何だか心許ない気持ちにもなってしまう。
「………アルテア、気付いてくれて助かったよ」
「フキュフ」
「もしかして、先程のものは、アルテアさんが野生に帰ろうとしていたのではなく、私達に危険を知らせようとしていてくれたのですか?」
「フキュフ!」
「ウィリアムさんもそれを分かって………ほわ、寝ています……………」
「ウィリアムが……………」
帰り道になったら気が緩んだものか、帰り道は抱っこに切り替えられネアの腕の中に収まったちび犬は、すやすやと幸せそうに眠りこけている。
よく考えてみれば、ちびふわは成体かもしれないが、こちらのちび犬はどう見ても赤ちゃんなのだ。
「ふふ、すっかり疲れてしまいましたね。…………ウィリアムさん、一緒に来てくれて有難うございました」
「…………フキュフ」
「ちびふわなアルテアさんも、危険をお知らせしてくれて有難うございます」
「フキュフ…………」
帰ってきたリーエンベルクで教えて貰ったことによると、白樺の魔物は気に入った者達を攫ってゆく怖い魔物なので、白樺の魔物に出会うと愛するものが連れて行かれるという伝承が残る土地も多いのだそうだ。
このような時だからと、魔物達はその伝承にこちらの運命が紐付くのを恐れたのだろう。
「…………ったく。また事故るところだったろうが」
「むが!鼻をつまむなどゆるすまじ!パンの魔物にしてしまいますよ?!」
「ネア、今夜はやめておこうか。また今度やるのなら、アルテアを捕まえてあげるよ」
「やめろ」
「うーん、あの姿だとすぐ眠たくなるんだな……………」
リーエンベルクに戻ってきたところで、ウィリアムとアルテアの術符の魔術は解き、二人とも無事に人型に戻った。
これから夜に向けて、ネア達には最大の行事が待ち受けている。
着替えたりしつつ暫くゆっくり過ごそうということになり、ネアはまずウィリアムにその概要を説明することから始めた。
「…………山から、橇で滑り降りるのか」
「はい。イブメリアの儀式の一つですが、こちらは教会の儀式から派生した風習ではないそうなので、やっておくことになりました。グレイシアさんの送り火で燃やした大聖堂横の飾り木から火を貰い、それを小さなランタンに入れて橇にかけて滑るんですよ」
「…………言うまでもないが、ウィームの民は、かなり危険なことをするんだな」
「ウィームにはなぜか、妙に荒ぶるお祭りが多いのです…………」
終焉の魔物はあんまりな風習に愕然としていたが、ネアはそういうものなのだと悟りの眼差しで頷いておいた。
なお、危ないからこちらでやろうと、大聖堂の送り火で火を貰いに行ってくれたウィリアムは、大きな飾り木がごんごんと燃やされるその激しさにも圧倒され、ウィームの人々が心に秘めた苛烈さを思い知ったと話していた。