346. イブメリアの夜に歌います(本編)
和やかで美味しい時間が終わり、後半の舞台が始まった。
照明が変わり、ぱっと華やかになるその舞台では春の王の恋の歌が始まる。
一人ぼっちだった少女の物語は終幕の恋の結実に向け、会場に降っていた雪はいつの間にか薔薇の花びらに変わりつつあった。
(ああ、世界が色づいてゆく…………)
そんな心の動きは、確かに人々にとっては春のその色彩こそなのかもしれないが、ネアはいつだって、目を閉じればこの美しいウィームのイブメリアの情景が浮かぶのだ。
今年の薔薇は清廉な白薔薇がふっと恋に色付いたような白ピンク色で、貴色に近しい色相の薔薇としてかなり高価なものであるのは間違いない。
そんな薔薇を惜しげもなくふんだんに使い、人々は少女の恋の行く末に息をひそめて見入るのだ。
所詮人の心は移ろいやすいものだと冬の中に去ってゆく冬の王も、今年は友人の恋の成就に祝福を贈り、まだまだ続く冬の間には皆で雪の舞踏会を開こうと、寂しいばかりではない柔らかな台詞を増やしている。
その代わり、貧しい人間の少女が春の王の指輪を贈られることを妬んだ人間の貴族が出て来たが、その男性は目敏く気付いた秋の王にくしゃりとやられて早々に退場した。
舞台の中央にある大きな飾り木が一際艶やかに煌めいた。
音楽は波打つように奏でられ、その旋律の渦の中で幸せな歌声が重なり合う。
物語とはかくあるべきと微笑み合う恋人達に、少女の手には春の王に贈られた指輪が光った。
わぁっと歌劇場を歓声が包む。
この幸福で無垢な喜びの瞬間にこそ、イブメリアの清廉な魔術が成就するのだろうか。
最も潤沢な祝祭の魔術が固まるのは、イブメリアの朝のミサの後だと言われている。
しかし、そこには教会としての魔術も重なってしまうので、ネア達はこの夜にこそと考えたのだ。
会場には薔薇の花びらが雨のように降り注ぎ、人々は手元のグラスを掲げて微笑み合う。
ゴーンと、どこかで日付が変わったことを伝える真夜中の鐘が鳴り響いた。
「イブメリアの夜に!」
「イブメリアの聖なる夜に!」
こちらの世界のお作法ではグラスをぶつけ合うことはしないので、人々はそっとグラスを合わせて持ち上げ、微笑みを交わす。
グラスを合わせるという表現がこのお作法であることを知らず、ネアは最初の挑戦の時には周囲を抜かりなく見回さなければいけなかった。
しゃりんと、細長いグラスの中のシュプリが水晶の鈴のような祝福の音を立てた。
合せて持ち上げたその音が、この世界では乾杯の響きなのだ。
(最初の年は、この音を聞いて、どこかでグラスをぶつけているのかなって思ったっけ…………)
グラスの中の最後の一口を口に含み、そのきりりとした冷たさと美味しさに頬を緩めた。
先程よりも美味しく感じるのは、歌劇場のようなところでしか飲めない祝福を篭めた、特別なシュプリだからだろうか。
歌劇場はいつまでも華やぎ、舞台の余韻に浸る人々は楽しげにお喋りをしていた。
はらはらと降りしきる花の雨が、艶やかなウィームらしいロイヤルブルーの幕に映え、あちこちに小さな祝福の煌めきがダイヤモンドダストのように輝いた。
ネアはそうっと隣の魔物の横顔を覗き見ようとして、じーっとこちらを見ていた魔物と目が合ってしまう。
とてもぞくりとしたが、今夜ばかりはそれを追求している時間はない。
「ディノ、イブメリアの贈り物があるのですが、……………もう少しだけここで待っていて下さいね」
「………………ネア?」
微笑んでそう言ったネアに、魔物は不思議そうに首を傾げる。
はらりと揺れた真珠色の三つ編みが、この夢のような美しい歌劇場の背景にとても良く似合った。
これからとても邪悪な人間に謀られてしまう無垢な生き物を、ネアは万感の思いを込めて見上げ、微笑む。
「少し、環境を整えてから渡す必要がある、特別な贈り物なのです。実はその為に今日、この歌劇場の支配人さんと歌劇の魔物さんには、それぞれご了承をいただいておきました。使い魔さんとウィリアムさんも、エーダリア様達やノアも、みんなが協力してくれたんですよ」
隣室には、恐らくまだザハに帰らずに、どうなるのかを見届けるまで控えてくれている給仕姿の魔物もいるのだろう。
(……………だから、成功させなくては…………)
困惑に目を瞬き周囲を見回したディノが逃げないように、まずは三つ編みを握って捕獲しておき、ネアは、隣のアルテアを振り返って凛々しく頷きかける。
「そろそろ、良さそうでしょうか?」
「ああ、日付が切り替わって、祝祭の祝福が定着したからな。……………真夜中の織り、歌劇場の祝福と固有魔術、………ウィリアムの鳥籠の準備も万全だな?」
「ええ。……………まぁ、鳥籠というのもいささか、過度かなとも思いますけれどね」
「……………言っておくが、こいつのものはお前の齎す終焉よりもタチが悪いぞ……………?」
「むぐる………………。ディノは、可愛いと言ってくれるのです……………」
「どうだかな。くれぐれも殺すなよ?」
「……………大事なディノを滅ぼしたりはしません………………」
「ネア…………?」
これから何が起こるのだろうと困惑するディノに、最初にネアは、スカートを摘まんで優雅な淑女のお辞儀をした。
その指にはディノから送られた指輪が煌めき、そっと指先で触れた首飾りは、最初の誕生日に貰った宝ものだ。
はらりはらりと降る薔薇の花びらに、また少しだけ雪が混ざった。
この方がウィームらしくて素敵だと思い、ネアは少しだけ緊張を深めた胸を、片手でそっと押さえてから深呼吸する。
(……………あの日とは違う。………………あの夜とは違うけれど、大事なものをこの手に得たいというその願いは変わらないのだ………)
でも、ここにいる魔物は、もはや何でもいい何かではなくて、手に負えないからと他の誰かに託そうだなんて考えられなくなった。
とある日にふと、ディノでなければ駄目だとそう決めてしまっただけで、ネアはいつの間にかもう寂しくなくなった。
自分を愛するものを愛している。
それは今生のこの日々の中、どれだけ幸福なおとぎ話だろう。
「ディノ。この前ディノは、私に、とっても素敵な歌を歌ってくれましたよね?」
「……………うん。…………もう一度歌って欲しいのかい?」
ぽぽっと目元を染めてもじもじした魔物に、ネアはまた微笑んで首を振った。
歌って欲しいというお願いは、魔物にとってはあまりにも刺激が強いのか、頼もうとするとディノはよれよれになってしまう。
「いいえ。…………今夜は、ディノへのお返しに、私が歌おうと思っているのです」
そう言えば、ディノは水紺の澄明な瞳を瞠って静かにネアを見返した。
何も言わずに固まっているので嬉しくなかったかなと首を傾げると、びゃっとなって、ふるふるしながら涙目になる。
そこでなぜか魔物は、自分の三つ編みをそっと取り上げると、そこにネアが出がけに結んでやったラベンダー色のリボンに視線を落した。
「……………君が、…………歌を贈ってくれるのかい?」
「はい。大事で大好きな魔物の為に、心を込めて歌いますね」
ネアはどれも同じなのかと思っていたが、ディノに教えて貰ったことによると、魂や心を捧げる歌にはそれ相応のお作法が厳密に決まっているらしい。
歌声ではあっても、鼻歌のようなものは相手に聴かせることを意図していないので魔術の結びが皆無、もしくは希薄であり、詠唱や子守歌、商用の歌声などはまた別の意図をその魔術に乗せるものとして、歌い手が意図しない限りは心を捧げることにはならないと言う。
誰かに捧げる為に歌うその歌声だからこそ、旋律に限りない愛情と執着を篭めるのだ。
(だからこそ、歌乞いはその魔物に歌を捧げる。それは単純な嗜好であるのと同時に、その魂や心を捧げるのと同じ行為で、その魔術が結び合うからこそ、一般的な歌乞い達はその契約の中で命を擦り減らしてゆくのだわ……………)
ディノやゼノーシュのように、歌乞いの命を削らない魔物は、本来なら自分の取り分になるその恩寵を、一度受け取ってからもう一度こちらに戻してくれる優しい魔物だ。
その為に編み直す魔術の仕組みはとても複雑で、何よりも魔物という生き物が、自分だけの恩寵を食い潰さずに野放しにするという行為は、独占欲の強い彼等にとって身を切るような最大限の譲歩でもある。
(ほんのひと時の全てを完全に自分のものにしてしまい、二度と誰の手にも渡さないようにするのか、それとも、受け取ったものを循環させながら、いつかその人が他の誰かにも心を差し出す怖さを堪えて、もっと長い時間を共にと思ってくれるのか……………)
こんな無垢で臆病な生き物が、そうして緩めてもう少し長く側にと望んでくれたから、ネアの寿命は何度の観測を経ても減る兆候はない。
寧ろ、狩りなどで収拾した祝福のせいか、如実に伸びていっているとエーダリアは教えてくれた。
もう一度周囲を見回し、ウィリアムが、ネア達だけを鳥籠で覆ってくれていることも含めて最終確認をして頷いた。
アルテアの手に持たれているのは、たいへん遺憾ながらディノが精製したとびきりの傷薬なので、万が一ネアの歌声でディノが弱ってしまった場合は、あの薬で応急処置をするつもりなのだろう。
そんなものや、周囲から隔絶する為の鳥籠が必要だという厳しい現実にはむしゃくしゃするが、今はただ、正面で宝石のような瞳をきらきらさせてこちらを見ている魔物の為に歌おう。
(私は私で、この世界でただのネアになったけれど、それでも私は私でしかないのだから)
この世界で育まれ削ぎ落とされた、ただのネアの、この世界の歌でもいいとは思う。
でもきっと、ネアをこの奇妙で美しい世界に呼び落としてくれた魔物の為に、ディノが見付けてくれたネアとしての歌を歌うべきなのだ。
すぅっと息を吸い、ネアは歌い始めた。
大好きな大好きな優しい曲で、ふくよかで切実な、でも心が弾むような愛情を伝える歌だ。
優しくて美しい歌だからこそ、ネアはずっとこの歌を誰かに歌いたかった。
でも歌う人は誰もいないまま、やがて聴くこともやめてしまった懐かしい歌。
鳥籠の魔術が敷かれていても周囲はそのまま花びらと雪の降るイブメリアの歌劇場で、盛装姿のウィリアムとアルテアが、それぞれネアとディノの近くに立っている。
そんな場所で美しいドレスを着て歌えば、ロージェではなく在りし日の母親のようにあの舞台の上で歌っているような気がした。
あの喝采の向こうにいた母親の姿を見たのは、たくさんの人が亡くなった事故の日が最後だった。
教会に向かう黒塗りの車の葬列は、それから何度もネアの人生に現れ、弟を、父と母を、そして母のお腹の中にいた小さな小さな弟を奪った。
あの日、母が外の素敵なレストランで食事をしようと言い出したのは、あんなに浮かれていて家電の電源を消し忘れたのは、その日の夜に素敵な報告を控えていたからだったのだと、ネアはそんな残酷な真実を死亡診断書で知らされたのだ。
そんな、幾重にも重なり、もろもろと指先から溢れた幸福を思う。
(私も歌が歌えたら良かったのにと、何度も何度も思った。でも歌えなくて良かったのだわ。そういうものを表現出来る人間に生まれたら、私はあの世界で満足してしまっていたかもしれない。私が私だからこそ、私はディノに出会えて、この世界に来られたのだから………………)
この世界には、家族がいる。
夢だった竜は飼えないけれど、同じ屋根の下に色々な人がいてくれて、弟によく似た色彩を身に持つノアが兄弟になるのは、何て不思議な巡り合わせだろうか。
もう飢えず、そして夜明け前の発作に一人きりで顔を顰め冷や汗をかくこともない。
この先に困難や悲しみが待ち受けているのだとしても、砂を噛み、這いずるようにして生きたあの日々は終わった。
その全ては、目の前にいるこの美しい魔物がネアに与えてくれたものだ。
ふつりと、歌声が途切れた。
歌い終えてしまうとどっと緊張が戻ってきて、最後の結びの声が震えそうになったが、ディノがずっと幸せそうに目に涙を溜めてこちらを見ているので、声がひっくり返ってしまうこともなかった。
この歌声が届くのは、ディノだけなのだ。
そう思うとなぜか、不思議な満足感と幸福感に包まれる。
「………………ディノ、…………その、どこか…………………体調が悪かったり、具合が悪かったりはしませんか?」
「……………………しない。ネアが、………………かわいい?」
「む、なぜに疑問形なのでしょう……………」
「ネアが、…………可愛くて、胸が苦しい。……………ネアが、……………」
「ぎゃ!泣いた!!」
感極まって胸がいっぱいになってしまったのか、ディノはほろりと涙を零した。
慌てたネアが、涙が落ちてしまわないように駆け寄ったが、なぜかアルテアが悩ましげに息を吐き襟元を緩めながら頷いてくれたので、万が一がないよう予めきちんと手を打ってくれたようだ。
(と言うか、アルテアさんが、なぜかへろへろになってる………?!まさか、ウィリアムさんの鳥籠の展開がちょっと雑で音漏れしてたんじゃ…………)
「ディ、ディノ、まだ続きがあるので、どうか泣かないで下さいね……………」
「ネアが、歌ってくれた…………………」
「ほら、…………足元がふらふらですので、まずは一度座りましょうか。…………まさか、喜びの動悸と恐怖の動悸の区別がつかないだけで、歌声で弱ってしまってはいませんよね……………?」
その可能性にぞっとしながら尋ねると、ディノはどこも弱っていないと慌てて保証してくれた。
なぜだか三つ編みをしっかりと握り締め、ネアに促されるままに椅子に腰を下すと、またじわりと涙ぐんでいる。
「ネアがかわいい……………可愛い」
「………………ディノ、私の歌はお気に召しましたか?」
「また歌ってくれるのかい?」
「ふふ、ディノの健康に害がなければ、また歌いますよ。…………そう言ってくれるということは、この歌を聞いて、私とあらためて歌乞いの魔物として契約してもいいなと思ってくれたりします?」
そう尋ねたネアに、ディノはその瞳を揺らして、はっとする程に艶やかに微笑んだ。
(なんて悲しげに微笑むのかしら…………)
ぱきぱきと音がして慌てて椅子を見ると、織り柄が白い鉱石の花を咲かせてしまっている。
「…………………君は、私の大事な歌乞いだよ。…………私のただ一つの恩寵だ。…………どんな顛末であれ、私は何度だって君と契約しよう」
そう微笑んだディノは例えようもなく美しく、悲しげに淡く微笑んだ。
「言質を取りました!!」
その直後、儚い雰囲気を打ち壊す勢いでネアがそう声を上げると、さっと契約書を持ったアルテアが現われる。
突然のことに涙目のディノが驚いたように顔を上げ、鳥籠を解除したばかりのウィリアムも、気遣うようにネア達の隣に並んでくれた。
「うーん、鳥籠も揺らすとは思わなかったな…………。アルテア、もしかして少し開きましたか?」
「…………………何のことだ」
「……………むぐる。盗み聞き……………?」
「気のせいだろ。ほら、さっさと契約を固めろ」
「はい。……………さて、ディノ。ここに、こ狡い人間の為の重複契約書がありますので、一緒に私のサインを見届けて下さいね。私の書くことが、今後のディノの契約内容にもなります。事前にノアとアルテアさんにも目を通して貰っていますが、問題があれば教えて下さい」
「…………ネア?これは…………」
「既存の法として成り立っているものだし、念の為に空の書類でアクスの法務部でも確認させた。問題はないそうだ」
「まぁ、いつの間にかそちらでも確認してくれていたのですね!アルテアさん、有難うございます」
ネアがアルテアから受け取り、いそいそとテーブルの上に広げた書類を見て、ディノは小さく息を飲んだようだ。
湖水水晶と夜結晶の細工で作られた優美なテーブルは、ご主人様に歌って貰った万象の魔物の喜びに触れてしまったからか、一部が青みがかった白色に再結晶化してしまっている。
既に結晶化したものを変質させて形を結ぶことはたいへん珍しいそうで、アルテアは、このまま歌劇場に残してゆくのは惜しいなと呟いていた。
「………………ネア、これは、……………歌乞いの雇用契約書ではないのかい?君のものは、既に一度結んだ筈だろう?」
途方に暮れたように尋ねられ、狡猾な人間はにやりと笑うのだ。
ここまで強欲なネアが、大事な魔物の大事なものを手放すことなどありえないのだと、ディノはこれから知ることになるだろう。
ぺらりとテーブルの上に置かれた書類は、羊皮紙のようなものが、部分的に青や菫色がかった雲母のように、薄く淡く結晶化しているものと言えばいいだろうか。
その部分に触れるとしゃりりっと音がするが、破れてしまったり割れてしまうようなものではなく、何なら丸めても大丈夫だ。
「ディノ、ここの表記をよく見て下さいね。この書類は、提出済の書類に不備があった場合の差し替え修正期間中、その書類で締結されていた魔術が失われないようにする為の代理誓約の書類なのです。ディノが昨日話していたように、結び終えた契約を一度反故にしてから結び直すのはとても危ないので、ガレンでは、最初の契約に間違いや問題があって一時的に契約書が差し戻される間、書類改定期間中の契約を維持する為の契約をすることが可能なのだとか。でもそれは、元の書類に不備があった場合のみの適応なのですが、ディノはその、…………薬の魔物として私と契約してくれたでしょう?」
「…………………………うん」
「エーダリア様はとても優秀な魔術師さんでもありますので、そこはやはり、薬の魔物ではないだろうと、その契約書の名称は仮の名称であるという状態にして、厳密にはどのような魔物であるか不明なのだという曖昧な契約書を作ってくれていたのです。私は、ふわまるのお話でそんな運用が可能だと知ったので、エーダリア様に急ぎ確認を取り、今回は、法の抜け道的二重契約を可能とさせていただくことにしました」
「………………二重契約、になるのかい……………?」
「ええ。最初のディノとの契約を示した、正規の歌乞い契約書はこの後で差し戻しとなります。その書類が保留状態になる間は、こちらの契約書が、魔術的な、そして法的な効力を持つものとして稼働しますからね。厳密には、最初のものはまだ破棄されてはいないので、一時的に二重契約になります。最初の契約を破棄した後は、この仮契約書で契約を繋いだまま、また新しい契約書を作り直せば、ディノと私の歌乞いの契約は一度も途切れないままですので、………ディノ?!」
わしっと抱き締められ、もみくちゃにされたネアは目を丸くした。
危うくテーブルの上の契約書が吹き飛びそうになったが、そこはすかさずウィリアムがはしっと押さえてくれていた。
髪の毛がくしゃくしゃになりそうで慄いたネアだが、腕の中で強張って震える魔物の体を感じて胸が熱くなった。
これは、その気紛れ一つで国すら滅ぼす恐ろしいものなのに、何て繊細で傷付きやすい生き物なのだろう。
「……………………ネア」
「まぁ、………………ふふ、すっかり大泣きではないですか。ですが、ゆっくりしている時間は我々にはありません!歌劇場に満ちた物語の幸せな完成の祝福と、みなさんが喜んで迎え入れたイブメリアの祝福がしっかりとしている間に、急いでこの契約書を仕上げますよ!」
「ご主人様!」
こんな素敵な瞬間なのにと急かされてしまい、嬉しそうにびゃっと飛び上がった魔物は、ネアが、エーダリアがこの忙しい時期に大急ぎで手配してくれた書類に厳かにサインをするのを、隣でしっかりと見守ってくれた。
使うのは祝祭のインクだ。
イブメリアに作られた限定のインクを使い、これでもかと祝祭の成就の魔術を補填する。
「まず、ディノと私がもう一度しっかりと歌乞いの約束をすることで、この契約書の記入が可能になります。…………そして、今回のディノは、無名…………名称調査中の魔物ということになっていますからね。これは、エーダリア様に人間側の魔術を、そしてノアとアルテアさんには魔物さんの魔術の動きを調べて貰い、最も危険のない名称にしました。とは言え仮のものだからこその運用なので、新しい本契約の書類を作る時には、何かいいものを選びましょうね」
「無名のものでも、契約が成り立つのだね……………」
「そこは、名もなき素敵なものに出会うかもれないという、人間の強欲さが制定しておいてくれた抜け道魔術なのです。契約に際して真名を明かさない方もいるそうですし、正しい名前を調べられなかったことで駄目にしたくない契約もあるのでしょう。……………ディノ、これでいいですか?」
「……………うん。……………ここに記されたように、私はずっと……………君の魔物だよ」
「……………ふふ。…………これでディノはずっと、歌乞いな私の大事な契約の魔物です」
魔物が生涯に得られる歌乞いとの契約は、一度だけだ。
歌乞いというものがその生涯に得られる唯一の恩寵である限り、その魔術の理において、ディノは一度ネアとの契約を手放してしまうと、もう二度と歌乞いを得ることは出来ない。
それは、ネア達のような書面による契約書がなくとも、この歌乞いこそをと思った上でその人間を手放してしまった場合も、もう二度とそのような恩寵を得られることはないと言われていた。
(だからディノは、鹿角の聖女さんの運命を踏襲してしまう懸念があるとなった時、あんなにも契約の破棄を嫌がったのだわ。一度結んでしまった契約や誓約の破棄は案外簡単だけど、魔術で細やかに結ばれたその全てを壊さないように一部分だけを書き換えるのは、とても難しいそうだから………………)
恩寵というものはとても気紛れで、手放した要素のものが、であれば不要なのだろうと、その要素ごと手の中から失われることがある。
ディノはずっと、ネアとの歌乞いの契約を破棄することに怯えていたのだろう。
(でもそれは、私などよりもずっと頭のいい魔物さん達が選んだ、“仕方のないこと”なのだと思ってた。…………そのどちらも選べるのだとヒントをくれたアレクシスさんがいなければ、ディノと私は、歌乞いの恩寵を永劫に失うところだったのだわ……………)
「これは、私からディノへのイブメリアの贈り物です。この祝祭の為の祝祭の贈り物になることで、いっそうに魔術の繋がりが強固になるので、もう手放す必要はないですからね?」
「……………………うん。君は、ずっと私の歌乞いなのだね」
「はい。ディノを万象としてきちんと書いてしまうと、前の世界の履歴のあれこれと繋がることが危ういと聞きました。なので今回は、あえての無名なのです」
「……………でも、君は私の歌乞いなんだ」
「はい」
そう頷いたネアに、ディノはほろりと微笑みを浮かべる。
しゅわしゅわしゃらりと空気に喜びが生み出す祝福の煌めきが光り、歌劇場は細やかで美しい光の煌めきに包まれた。
また零れそうになった美しい涙に、ネアは書き上がった魔術契約書を掲げて見せる。
「ディノはこれでずっと、歌乞いである私の契約の魔物ですからね?」
「ご主人様!」
ここはもう少し婚約者っぽく喜んでいただきたい場面ではあったが、ネアはもう一度抱きついてきて大喜びの魔物の背中をよしよしと撫でてやった。
「お帰りの前に、乾杯してゆかれますか?」
そこに、扉が開いて、また新しいシュプリの瓶を持ったザハのおじさま執事が現われる。
やはり待っていてくれたらしく、その瞳には薄らと涙の気配まであった。
その手に持たれている瓶は、深緑色の宝石のような瓶だ。
「ディータの百年ものか…………!」
「アルテアさんのその反応を見るに、素敵なお酒だと判断しました。ディノ、お言葉に甘えて乾杯しませんか?ディノが、歌乞いの魔物のままだと決まった日の記念のお祝いです」
そう言われた魔物は嬉しそうに微笑んだので、ぽぽんと咲いてしまった絨毯の花は見ないことにして、ネア達は、何と氷河のお酒の樽で作られる夜明けの虹の祝福のあるシュプリをいただくことになった。
氷河のお酒の系譜のものらしく、氷水のようにきりりと冷えていてそれでいて香り高い。
辛口のシュプリだが、鼻孔を抜ける甘酸っぱい香りが新鮮な果物をナイフで切ったばかりのもののようで、何ともいえない瑞々しさがあった。
「…………なんて美味しいんでしょう!…………せっかくなので、業務規定に反しないのであれば、一杯だけご一緒しませんか?」
「おや、宜しいのですか?」
「勿論です。こんな素敵な準備をしていただいたのですから、一緒にお祝したいと思ってしまうのですが、…………ディノ、どうでしょう?」
「…………………一緒に飲もうか」
「………………ええ。喜んでご一緒させていただきます」
微笑んで頷いたその姿に、ディノの瞳がまたきらきらと揺れる。
ネアは、何かを考え込んでいる様子のウィリアムをつつき、ディノが無事に契約を維持出来たことを、いずれギードにも伝えてあげたいと話せば、その白金色の瞳がふっと柔らかくなる。
「外では、夜空に虹がかかった上にオーロラも出ていると、人々が喜んでおられましたよ」
「まぁ。ディノでしょうか?」
「……………………だろうな」
「…………アルテアさんがぐったり気味なのは、なぜなのでしょう……………」
「さあな」
「………………アルテアなんて……………」
「やれやれ、摘まみ出しておけば良かったな………」
なぜかちょっぴり威嚇気味なディノを宥め、ネア達は美しい歌劇場で美味しいお祝いのシュプリを飲んだ。
帰りは四人で馬車に乗り、大聖堂回りは相変わらず避けつつも、遠目にそんな大聖堂の大きな飾り木も見られるコースを取って貰い、ゆっくりとリーエンベルクに帰った。
空にはふっくらとした満月が登り、そこには不思議な艶めきを覚える夜の虹がかかる。
青白い炎のようなオーロラまで揺れていて、人々は家を出て夜空を見上げ、素敵な笑顔を浮かべているようだ。
リーエンベルクに戻るとすっかり安心してしまったのか、ディノの歩いた跡には鉱石の花が咲いた。
雪結晶より白い、それも微かに虹色がかった素晴らしい花が咲いたので、ネアは、家事妖精達にエーダリアが泣いてしまうのでどうか捨ててしまわないで欲しいとお願いしておく。
綺麗な薔薇と百合、水仙やアネモネ、紫陽花など目についた種類のものは全て一輪ずつネアも摘んでおき、この日の記念に部屋に飾ることにした。
ネアが触れるとしゃりしゃりと細やかに光るので、それがまた嬉しくて花束にした鉱石の煌めきは、大事に部屋に持って帰ることにする。
今ある花瓶では何だかそぐわない気がするので、この花の為の花瓶を買って部屋に飾れるようにしよう。
「ということで、これが繋ぎの契約書です!エーダリア様、どうぞ宜しくお願いいたします」
「……………ああ。私の押印だけで承認出来るようにしてあるので、この場で受理してしまおう。国としての承認は、兄上が既に済ませてくれている。…………書類不備なので、あくまでも内密に早々にと、兄上の周りの代理妖精達も回付を急いでくれたようだ」
「では、その方達も含め、ヴェンツェル様にはあらためてお礼をするようにしますね。…………エーダリア様……………?」
「……………その、…………足元の花なのだが、どこかでブナの葉を見かけたと聞いたのだ。どのあたりで芽吹いたか、記憶にないだろうか」
「…………………エーダリア様」
「わーお、そっちが気になって気もそぞろだ………………」
ヒルドに叱られながら、エーダリアは書類の差し戻し期間を補う契約書を、すぐさま受理して魔術締結してくれた。
特別な誓約の魔術を煮詰めて錬成した、濃紺色に細やかな成就の金色の粒子が見えるペンで記されたエーダリアのサインと共に、ふわりと用紙全体の文字が暗い水灰色に輝き、じゅわりと金色の文字になって魔術が結ばれる。
きっちり魔術が締め直されその結びが定着したことまでを確認し、ノアとアルテアも顔を見合わせて頷いた。
「……………触ってもいいのかな」
「…………今のディノが触って、お花が咲いてしまったりしません?」
「…………見るだけにするよ。大事なものだからね」
「ガレンで写しを取って渡すので、その写しはそちらで保管しておいてくれ。魔術的な要素はないが、契約内容の確認の為にも渡すようにしている。………………ネア?」
「写しのものなど、ありましたっけ……………?」
こてんと首を傾げたネアに、エーダリアの視線はついついディノに動いてしまった。
ゆっくりと振り返ったご主人様に、契約書の写しを隠し持って祀り上げていた魔物は、宝物部屋に祭壇があることを告白する羽目になったのだった。
イブメリアになったばかりの美しい夜。
ネアは、この世界で二度目の歌乞いの契約を交わした。
幸いにも、無名の魔物と契約を交わした歌乞いは、ネアが初めてではないそうだ。
ディノが咲かせた花は、状態固定の魔術をかけなかったものは、淡雪のように消えてしまったらしい。
そのことに気付いた時にまだ残っていた小さな花で、ネアは可憐なキーホルダーも作ってもらい、大満足で宝箱に仕舞い込んだ。
この花にはディノの魔術による祝福が強いので、出来るだけリーエンベルクからは出さないようにしなければならないが、屋内で使うものにつけたりして楽しもうと思う。
ネアはこの花の絵を入れた小さな記念グッズを作り、グレアムとギードにもあげようと企んでいる。
ディノを大事に思う二人が喜んでくれるその微笑みが見えるようで、今から楽しみでならなかった。




