345. イブメリアは歌劇場で始まります(本編)
美しい美しい夜が帳を下ろした。
濃密な黒に紫紺が滲み、あと数時間で世界の再生を祝うイブメリアが始まるという世界は、煌びやかにそこかしこの祝福の密度を上げてゆく。
やはり、グレイシアが脱走した後のクラヴィスの夜とは色相が違う。
あの夜の祝祭の彩りは欠け戻るその儚さであったが、今夜は深まるばかりの鮮やかさなのだ。
森は明るく色づき、扉に飾られたリースや街のあちこちに立てられた素晴らしい飾り木には、清廉な雪のヴェールがかけられ、冬そのものの色彩を際立たせた。
幸いにも、今年はリースを外されて起こる凄惨な事件は少なかったそうだ。
きらきらと、雲間から覗いた満月の光の筋が禁足地の森に差し込む。
楽しそうに飛び交う光に、ふっくらと色付いた庭園の真っ赤な薔薇。
窓辺にはそんな美しい森の夜の光を透かした氷柱が下がり、なみなみならぬ意気込みでこの夜に挑むネアは、とっておきのお気に入りのドレスに袖を通した。
ふぁふっと、柔らかな布地が素肌に触れる。
夜の明かりの中で着替えるドレスは、今夜初めて袖を通すものだ。
手の甲にかかるくらいの袖と細身の胴回りに大きく開いた胸元、灰紫色の薄いヴェールを重ねたような特別なドレスは、祝祭の夜にけぶる夜のふくよかさを紡いで、丁寧に織り上げた特別な布地で出来ている。
薄く薄くレースのようなそれを重ねてスカートにはたっぷりボリュームを出し、襟元と袖口には細やかな刺繍が施され、夜の結晶石がきらきらと光るのだ。
小さな花をつける雪と薔薇の模様のレースを一番上のスカート地の間に挟むことで、地模様のある透けるドレスのように見える小粋な演出は、シシィの手によるものだった。
実はこのドレスは、今年の秋告げのドレスを作って貰った際に、こんなドレスの図案もあったのだと見せて貰い、すっかり気に入ったネアが、自分で注文するかどうかを迷っていたものである。
お値段の張るものであるし、きっとこの先の入用の際にはまたその場に相応しいものを頼むだろう。
そう考えて泣く泣くあきらめたのだが、それに気付いたディノがこっそり頼んでおいてくれて、気付いたら衣装部屋にかけられていた。
(なので、これを着るのはやはり今日だわ…………!)
そんな思いで着てみたドレスは羽のように軽く、ネアは丈感で迷いに迷ってからラムネルのコートを着た。
このコートはディノが最初に持ち込んでくれた贈り物の一つで、同じ日に貰ったのがディノの指輪だったのだから、この世界で最も思い入れのあるコートでもある。
本来の色のままの首飾りをつけ、指輪はあえて付け替えの装飾のあるものではなくいつものディノの指輪のままにした。
耳飾りなどはいっさいなく、首飾りと指輪だけの、ディノから貰ったものが際立つようにしておく。
全ての装いを決めて自分を奮い立たせる為に一度弾めば、透明度の高い淡い乳白色の宝石がちゃりりと揺れる。
この誕生日に貰った首飾りは、切れてしまいそうなくらいに細いが魔術を紡いだ強靭な艶消しの淡い金色の鎖から、滴がしたたるように宝石が配置されていて、乳白色の宝石の中にも、水色から瑠璃色、ミントグリーンなど絶妙に色味を変えた石が素晴らしい。
そして、中央には透明度の高さにはっと息を飲む程に美しい滴型の灰菫色の宝石がある。
(うん。このドレスにぴったりだわ…………)
髪の毛を持ち上げて鏡を覗き込めば、首飾りの留め金のチェーンに足された、ころりとした薔薇の形の小さな宝石が見えた。
これはアルテアがくれたもので、そのお陰で髪の毛を結い上げた時にも背面から見る首筋が寂しくならない。
そしてこの首飾りは、宝石の内側が金庫になっていて、ネアの大事な宝物や武器、非常食までもがたっぷり仕舞い込まれている特別なものなのだ。
「ディノ、準備が出来ました」
「うん、とても綺麗だよ。……………ネア?」
「ディノが最初に買ったリボンを選んでくれたので、私も、ラムネルのコートにしました。他にも素敵なコートがたっぷりあるのですが、ディノが指輪をくれた日に持ってきてくれた毛皮ですから」
「……………かわいい」
歩み寄ったご主人様に見上げられそう言われてしまった魔物は、目元を染めるとすっかり恥じらってしまった。
ネアの首飾りの宝石のように、白を基調としながらも絶妙に色味を変えた装いには、目を凝らせば凝らす程に細やかで精緻な装飾が施され、儚くきらりと光るように計算し尽くされたような刺繍に縫い込まれた結晶石が、ダイヤモンドダストの事象石や、雪に映った虹の影の結晶石だったりもする。
ネアはそんな素敵な装いの婚約者にエスコートされ、夢のような普段使いの住居であるリーエンベルクの玄関まで歩いて行った。
今夜はクラヴィスの儀式などもあるので、エーダリアやヒルドは既に出かけている。
ノアもそちらに付いて行っており、ウィリアムは大聖堂の周囲をゆっくり歩いてみたいということで直接会場に、アルテアは統括の魔物として一度ヴェルリアに顔を出してからやはり会場で合流する予定だ。
(ウィリアムさんは、気を使ってくれたのかしら…………)
そう思うと申し訳ない気もしたが、今年のこのクラヴィスからイブメリアにかけての夜は、ネアの独身最後に乗る馬車なのかもしれない。
そう思うと感慨深さでいっぱいになり、持たされていた三つ編みをぽいっとして魔物を悲しませつつ、ネアはディノの腕を引っ張り出して掴まった。
「ネア……………」
「このような場合は、手を出して下さいね。…………こらっ、引っ込めようとしてはいけません。三つ編みより、手を預けてエスコートして欲しいです」
「ネアが大胆過ぎる……………」
たいそう恥じらう魔物ともだもだしていたら、カポカポと石畳に響く蹄鉄の音が聞こえてきた。
リーエンベルクの正面広場を、初めて見た時には夢のようだと思った妖精の馬の牽く馬車がやって来る。
八頭立ての素晴らしい馬車の御者台には、漆黒の燕尾服を着た黒い靄のような妖精の御者が乗っていて、騎士達が開けてくれた正門の前でぴたりと停まると、帽子を取って恭しくお辞儀をしてくれた。
本来であれば、このような馬車はリーエンベルクの玄関の目の前まで入れる造りなのだが、王宮として使われていた時代程には使用人達を抱えていない今の領主館では、ネア達が正面玄関の階段を下り、正門近くまで出て行った方が早いのだ。
(リーエンベルクの飾り木も見れるし!)
リーエンベルクの敷地内に飾られた飾り木の周囲も夕刻までは賑わっていたが、この時間になると門の中には入れなくなるので、しんと静まり返っている。
勿論このクラヴィスの夜なので、リーエンベルクの前にも領民達や観光客達がいるのだが、門の向こうからその美しい佇まいを望むばかりだ。
正面に続く並木道は、魔術の息づく世界らしく、その全てが特別なオーナメントで飾られている。
真っ直ぐにリーエンベルクに続くその素晴らしい道を歩く人々が、見ると幸せになると言われている妖精の馬車が現われたことに目を輝かせていた。
「気を付けてお上がり」
「はい。有難うございます」
このような時ばかりは恥じらわずに手を貸してくれる魔物に手を預け、ネアは、ドレスの裾を持ち上げて、下ろして貰ったタラップで馬車に乗る。
ふわりと漂うのは、林檎とスパイスの香りに、ウィームらしい澄んだ雪と森の清涼感が入り混じった、この祝祭に向ける独特の香りだ。
磨き抜かれた水晶の窓から覗くリーエンベルク前の並木道はスノードームの中の作りもののようで、満月にほんの少しだけかかった雲間からは、花びらのような優しい雪が降っている。
ぱたんと扉が閉まり走り出した馬車の中で、ネアは隣に座ったディノに微笑みかけた。
「今年は、妖精の雪馬さんの手綱が、林檎のような綺麗な深い赤色なのですね。水色がかった素敵な灰色の馬さんなので、赤い色がくっきりと鮮やかでとっても素敵だと思いませんか?」
「ネアがかわいい……………」
「…………………馬さんの手綱を見ていました?」
「ネアがいたからね」
そう微笑んだ魔物は、凄艶な美貌のその冷やかさを灰塵に帰すくらいに、無防備で幸せそうな微笑みを瞳に浮かべていた。
向かい合ったネアの膝の上にそっと三つ編みを設置するまでが、この美しい婚約者なりのお作法なのかもしれない。
けれど、この三つ編みは何だろうという目でじっと見つめると、ふっと揺らいだ魔物らしい老獪な微笑みがひらめき、視界が翳る。
「…………っ、」
いつも見る水紺色の瞳の澄明さとはまた違う、息を飲むようなその色彩の鮮やかさに、抗いようもなく深く魅入られた。
その色に溺れ吸い込まれるような美しい瞳を覗き込めば、唇にあえやかで柔らかな温もりが落ちる。
こんな時、魔物は魔物らしい酷薄なしたたかさで、満足げな男性らしさをそっと燻らせ、今度は、その艶やかさにどぎまぎしたネアの方が目元を染めてしまった。
深く深く、揺らめく微笑みはどこまでも仄暗く男性的だ。
「……………ほら、馬車が街に入るよ」
「……………まぁ、街路樹を堪能するよりも、ディノの瞳に見とれてしまいました」
そう言えば、一瞬前までの色めいた男性らしさはどこへやら、魔物はもじもじしながら、いっそうに三つ編みを押し付けてくる。
仕方なくその三つ編みを持ってやり、ネアは窓の外の煌めくようなウィームの街に視線を戻した。
「………ディノ、ほら、あそこにパンの魔物さんがいますよ」
「…………どうして道の真ん中にいるんだろうね………」
「とは言え、除雪された部分にいると馬車に轢かれてしまいますし、………………まぁ、竜さんに攫われました」
道の真ん中にある雪だまりの上をもそもそ歩いていたパンの魔物は、飛んで来た深緑色の竜にわしっと掴まれて夜空の向こうに消えていった。
そんな光景を指差している子供の肩には、小さな二枚羽の妖精が腰かけている。
インクの妖精だと思い、ネアは微笑ましいその姿に目を和ませる。
ザハは、本日はホテルとしての営業も最盛期なのだろう。
ドアマン達の真っ赤なお仕着せが美しいその前を通り過ぎ、品よくシンプルなリースを飾ったアクス商会の玄関口である高級テーラーの前を抜ける。
大聖堂の尖塔が奥の方に見え、大きな飾り木の装飾もちらりと見えた。
訳あって近付けなかった大聖堂前の飾り木も見られたので、少しだけ得した気分でさていよいよと正面に視線を向ければ、そこにはいざ花開かんとする大輪の薔薇のような、華麗な装いの歌劇場が見えてきた。
「……………こうして馬車の小窓から見るクラヴィスの歌劇場は、何て素晴らしいのでしょう……………」
歌劇場前にある噴水は、月や星の系譜の妖精達が集まり、ぼうっと光を放っていた。
水を吐き出す一番上の台座の部分には、石造りの花籠の細工が咲いてしまっていて、瑞々しい林檎を実らせていた。
人間の目から見れば凍えてしまいそうな薄物でも、妖精達は元気に飛び回っている。
今年もまた歌劇場の屋根の上には竜がいて、今年は二匹の竜が翼を重ね合わせるようにして仲良く座っていた。
(お伽噺の世界だわ……………)
この世界にどれだけ暮らしたとしても、ネアは何回だって、何千回だってそう思うだろう。
正面の屋根の縁にある柱からは零れんばかりの真紅の薔薇の花飾りを配し、正面から歌劇場を望めば、今宵の演目が不思議な魔術を満たして、歌劇場から満開の赤い蔓薔薇が咲き零れたようだ。
入り口に立ち並ぶ円柱に飾られたたっぷりとした幅のある深い青色のリボンには、小さな羽を持つ妖精達が戯れている。
からからと車輪を鳴らし、馬車が歌劇場の前に止まった。
道行く人々や歌劇場のお客達が振り返り、幸運を齎す、妖精馬の牽く馬車の姿に嬉しそうに笑顔になる。
歌劇場の入り口から、馬車寄せまでは惜しみなく雪の中を深紅のカーペットが敷かれていて、馬車の扉を開いたその正面には、お馴染みの支配人が立っていた。
「今宵も、我らが歌劇場にようこそおいで下さいました」
漆黒の燕尾服の支配人は、今年のブローチは小枝を咥えた鳩を模した雪結晶のものにしたようだ。
ネアは、祝祭の夜に浮かび上がる劇場の影に、淡い水色の瞳をした歌劇場の魔物のことを思い出したが、彼は、このイブメリアよりも愛する人との日々を偲ぶその前の土曜日に思い入れがあるのだろう。
そろそろ、アレッシオの使い魔にされてしまった歌姫を見かける頃合いかもしれない。
(宝石箱みたいだわ…………)
この美しい歌劇場をぱかりと開いたら、そこには色とりどりの宝石が詰まっていそうだ。
「街は華やかでしたでしょう?満月の傍らで雪が降り始めますと、こう、……物語のような夜ではありませんか。我々も胸が弾みます。…………さて、演目につきましては、ご説明するまでもありませんね。この素晴らしい祝祭の夜に相応しい最良の時間をお約束させていただきましょう。なお、今年もお食事はザハのものをご用意しました。…………では、ご案内させていただきます」
「ロージェの前の休憩室に、アルテアが来ている筈だ。そこまでで構わないよ」
「ええ。ウィリアム様も既にご到着ですよ。お二人に加え、あのお二方までが並び立たれますと、舞台からはロージェの内側が窺えないことに安堵してしまいますね」
柔らかな微笑みを浮かべた歌劇場の支配人は、支配人というものに相応しい饒舌さも披露したが、その声音はしっとりと沈み込むようで決して耳に障らない。
必要な言葉だけを拾い上げることが出来る、何とも整った魅惑的な声だ。
歌劇場の真っ赤な絨毯が敷かれた正面の階段を登り、夜空を描いた天井画も美しい吹き抜けのホールになったエントランスを抜けても、ネア達が衆目に晒されることはなかった。
ウィームの歌劇場は、元々は王立歌劇場である。
古くから、ウィームの王族達だけでなく、各国の主賓や人ならざる高位者達に愛されてきた場所に相応しく、上客の為の特殊な魔術の道が縦横無尽に敷かれ、誰かの視線に煩わされることなく自分の客席まで行けるのだ。
本日も異国の国旗が立っているので、その国からのお客様も来ているのだろう。
案内された休憩室は、ネア達のロージェにだけ繋がる貴賓室として設けられている。
ロージェを使う魔物に謁見したいお客との会話の場所としてもここを使うこともあり、かつては国の外交の舞台としても活躍したのだとか。
その扉を開けると、既に到着して飲み物を飲んでいた二人の魔物が居た。
(…………壮観だわ……………)
その姿は、決して目を射る黎明の光ではなく、暗い輝きで視界を奪う夜の光のような二人だ。
ウィリアムの装いは漆黒の盛装姿で、襟元に銀糸で豪奢な刺繍がある。
終焉というものの美しさを余すことなく表現するように、その髪の抜けるような白さと瞳の白金色が、くっきりと浮かび上がっていた。
隣に並ぶアルテアは、こっくりとした暗い赤紫色の天鵞絨の盛装姿で、手袋と真っ白なクラヴァットの豊かなドレープが新雪のように輝いた。
細身のパンツと膝下までの美しい漆黒のブーツといい、こちらは、色めいた悪い魔物という感じが際立つ。
ネアは、その二人の不穏だが心を奪うような美しさに息を飲み、こんな素敵な同伴者がいる己の偉大さが誇らしくなった。
「ネアらしいドレスだな。よく似合っている」
こちらに気付いたウィリアムが、すぐにドレスを褒めてくれた。
ネアはご機嫌でくるっと回ってみせ、まだご主人様を讃える言葉をいただいていない使い魔の方をちらりと見る。
「まぁ!ウィリアムさん、有難うございます。……………使い魔さんも、パイを捧げたくなりますか?」
「どこまでも食い気だな。…………コートは、もう少し長いものの方が良かったんじゃないのか?」
「むむぅ…………。着ていればそう言われると思っていましたが、脱いで腕にかけているにもかかわらずそう言われてしまうのが、お姑さんのようだと言わざるを得ません」
「…………やめろ」
ネアがそう言えば、アルテアは呆れたような目をした。
勿論、歌劇場なのでクロークがあるのだが、人外者のお客は転移で帰ってしまったりもする為、個室の場合は部屋の中にもコートをかけるスペースが用意されている。
コート用のブラシなども用意されているので、お城に人を入れないアルテアのように、自分で出来るので他者に上着や荷物を預けたくないという者達も一定数いるのだろう。
「ネア、今年の劇場内は壮観だぞ」
「ウィリアムさんは、もう中を見たのですか?」
「ああ。下見…………先にロージェの方を覗いてきたからな。ネアが喜びそうな内装だった」
「そ、それは一刻も早く踏み込まなければなりません!…………そしてアルテアさんがつまんでいるのは、まるまるサラミでは…………」
「お前が気に入っていた店のものとは、違う商品だな。ウィームの西側にある燻製屋を知っているか?あの店の新商品だ」
「…………では、これを二つ貰ってお部屋に行きます。ディノの分と私の分です。一緒に食べましょうね」
「ご主人様!」
ネアは、見事なクリスタルのお皿の上から、厳かに小さな赤色の紙に包まれたサラミを取り、連れ立ってロージェに続く扉を開けた。
そうして、重厚な森結晶と月樫の扉をウィリアムに開けて貰い、ロージェの入り口の深い青色のカーテンを開けば、そこに広がった光景の美しさにネアは呆然と立ち尽くす。
「…………………ほわ」
永らく薔薇のロージェと呼ばれる、魔物だけの特別な席である。
そこは劇場の中でも最も良い位置に配置された美しい小部屋なのだが、本日の薔薇のロージェには森が広がっていた。
(…………外に出て来てしまった…………訳じゃない…………?)
足下がふかふかとしたロイヤルブルーの絨毯なのだから、確かにロージェの中にいる筈だし、正面には、目隠しと安全の為に設けられた壁もある。
けれども天井には小ぶりだが美しい湖水水晶のシャンデリアが煌めき、雪深い森の素晴らしい枝葉の天蓋が広がっていた。
水色から菫色にかすかな黎明の光の滲む天蓋は夜明けの森を思わせ、けれども左右の壁は夜の森の中に現れた見事な薔薇の茂みを思わせる誂えになっている。
薔薇の花びらの上には雪が積もり、うっすらと雪白が色付いたような白ピンクの花は儚く健気にさえ見えた。
しゃりんと足元で光ったのは、床に積もった雪めいた、景観部分の装飾がなされたところに転がる星屑だ。
ロージェの中で過ごすネア達に邪魔にならないくらいに、切り取られた風景が侵食しているのが、不思議な物語の世界に迷い込んだようで、堪らなく心を震わせる。
「……………気に入ったかい?」
「…………はい。とっても。…………こんなに素晴らしいお部屋で、またあの素晴らしいイブメリアの舞台を見られるのですね。…………まぁ!下の座席には今年も雪が降っていますよ!」
柵ごしに下の階を見下ろし、ネアはまた目を輝かせた。
愚かな人間が転落したりしないよう、すかさずアルテアに腰を掴まれる。
天井画と大シャンデリアはそのままで、外壁の一部が崩れて向こう側に雪深い森が覗いているような装飾は、魔術の恩恵のせいで、本当にそのように見えるから凄い。
実際に壁を這う蔓薔薇の枝には青い小鳥がいるし、どこからともなくはらはらと降る雪はお客や椅子に触れる前に、幻のように光って消えるシュプリの泡のよう。
もしこれが一枚の絵であっても、ネアはその美しさに心を打たれただろう。
でもこれは実際に目の前に広がる、それもネアの住まいから徒歩圏内にあるウィームの歌劇場で、この特別な夜に大事な魔物達と薔薇のロージェに立っているのであった。
「…………ディノ、今年も私を歌劇場に連れてきてくれて、有難うございます。ウィリアムさん、アルテアさん、もしかしたら恋人さんや恋人さん候補の方がいたかもしれない大事な夜に、一緒にここで過ごしてくれて有難うございます………………。むぐ。まるサラミが美味しいでふ…………」
「お前な、食べるのか感動するのかどっちかにしろ…………」
「可愛い、袖を引っ張ってくる……………」
「ネア、ここに来るより優先したい事はなかったから、気にしないでいいからな」
「ふぁい………」
ゴーン、ゴーンと、開演の鐘が鳴った。
今夜の公演では、少女が夜の森に出かけてゆくきっかけとなる、小さな村で響く日暮れの鐘の音が開演の合図になっているようだ。
ゆるゆると照度が落ち、歌劇場の内部は青白い夜の森の暗さに包まれた。
どこからともなく木々が風に揺れる音が聞こえてきて、客席の頭上に魔術が描く木の影がざわざわと揺らめく。
四人が席に着けば、魔術仕掛けで、薔薇のシュプリのグラスがしゅわんとテーブルに並んだ。
注がれた細いグラスの中で、星屑のような泡がきらきら光る。
隣のアルテアがそつなくボトルのラベルを確認し、満月の夜の雪原で摘んだ薔薇の香りをつけた、昨年の祝祭の夜に仕込んだシュプリだと教えてくれた。
口に含めば、きりりとした冷たさが冬の夜のようで、果実と薔薇の香りは華やかだがどきりとするくらいに心を揺さぶる。
「美味しいです………!初めての風味というか、香りですね………」
「…………おや、これは戯曲の祝福だね。歌劇場でしか飲めない珍しいものだよ」
小さくそう囁き、ディノがこのシュプリが心を動かす不思議な魔術の正体を教えてくれた。
この祝福は、歌劇場や音楽堂でしか反応せず、質の悪い演目だと萎んでしまうので扱いが難しいらしい。
深い深い雪の中、夜の森を彷徨い歩いた少女が迷い込んだのは、湖畔で行われる人ならざる者達の舞踏会だ。
春の王や冬の王など、寒さに凍えて怯えきった人間の目には、あまりにも美しく恐ろしい見慣れない生き物達がいっせいに振り返る。
(それは、どんな驚きなのだろう……………)
ネアがディノに出会ったのは、ウィームの森の中であった。
見知らぬ世界で一人きりのネアは、聞き齧った知識を必死に心の中で手繰り寄せ、今思えばあまりにも無防備に一人で森に入った。
あのとき、息が止まりそうなくらいに美しい生き物が目の前に現れ、ネアはとんでもないものが出て来てしまったぞと思いながらも、それでもこの美しい生き物に魅入られたのだ。
ぱあっと舞台の方が明るくなった。
少女を迎え入れ、夜の森では王達をもてなす為の舞踏会の余興が始まろうとしていた。
水色の羽の妖精達が舞台に現れると、また観客席から歓声が上がる。
今年は、ザルツの有名な奏者が来ているのだ。
(………………いつの間に………)
ふっと息を吐き、ネアは、素晴らしい舞台があっという間に進んでしまったことに驚いた。
ディノと出会った夜のことや、初めてこのロージェで舞台を見た時のことを考えていたら、いつの間にか食事の時間になっていたようだ。
「…………ふぁ。舞台に引き込まれてしまっていたら、いつの間にかお食事のいい匂いがしてきました」
「今年も鴨があるといいね」
「鴨肉様に会えるでしょうか…………」
「その調子で、明日のドレスが着れるのか?雪白の舞踏会に行くんだろ。入らなくなるぞ」
「おのれ、この腰を見て下さい!今夜だって素敵にドレスを着こなしているではありませんか!いくらアルテアさんが、華奢でばいんな妖精さんのような体型の女性が好みでも、人間の腰肉には造形的な限界があるのです!」
「……………は?」
「うーん、アルテアはそういう好みなのか。俺は、今のネアくらいが丁度いいと思うぞ」
「ウィリアムさん…………!………ディ、ディノは、もう少し細い方がいいですか…………?」
「ネアが減らない方がいいかな…………」
二人もの味方を得たので、ネアはふんすと胸を張って、折れそうなくらいに細い腰推進会の悪い魔物を睨んだ。
ついでに、反撃の好機でもあると、座っている時くらいは緩んでいるに違いないその魔物の腰肉を掴もうとしたのだが、手を出したネアは愕然とする。
「…………つ、掴めない…………?!」
「なんだ?いい加減、そっちの情緒も育てる気になってきたのか?」
「き、筋肉の上にかぶさるお肉はどこにあるのだ。つねることは出来ても、ふんわりつまめません…………ぐぬぬ…………」
「ネアがアルテアを掴もうとする…………」
「む!ディノなら掴めますよね?!」
「……………ネア?」
ここで万象の魔物は、荒ぶる婚約者に襲いかかられ、腰肉が掴めるかどうかの試練に晒されてしまった。
ちょうどそこに料理を運んできたザハのおじさま給仕は、おやおやと目を瞠って微笑んでくれる。
そちらを見たディノが、少しだけほわりと目元を和ませ、嬉しそうにした。
このおじさま給仕は、訳あってこのような姿でいなければならないが、ネアの大事な魔物の大事な友人の一人なのだ。
「お食事をお持ちしました。鴨肉もございますよ」
「鴨肉様!………むぅ、ディノはなぜお腹を隠してしまうのでしょう。腰肉が掴めるかどうか調べなくてはなりませんので、その腰回りを差し出して下さい」
「ネアが虐待する……………」
「私は知りたいのです。…………ディノは私の味方ですよね?」
「ご主人様……………」
結局、ディノは腰回りを触られてしまい、思うように掴めなかった腰肉にすっかり荒んだ眼差しになってしまった婚約者を、おろおろしながら席に戻した。
ネアはとても不平等な世界を呪うばかりであったが、目の前にはいつの間にか、この世の楽園を表現したに違いない素敵なお料理が並んでいる。
儚い眼差しでおじさま給仕を見上げると、彼は優しく微笑みかけて頷いてくれた。
まずは、お料理の説明からだ。
「香草と黄薔薇のサラダに、ウィーム伝統のクネル入りのコンソメスープ。前菜のお皿は、冷製の雪大鷺のパテと、こちらは鯛と雪檸檬の花盛りですね。この小さな揚げ物は、オリーブとジャガイモです。辛味のあるトマトのソースでどうぞ。そしてこちらが、フォアーグフのブリュレ風、鴨肉の木苺と冬林檎のソースがけになります」
フォアーグフはこの世界のフォアグラのようなもので微かにオレンジの香りがする。
細長いお皿にチョコレートのような盛り付けのものがあると思ったところ、それは五種のバターなのだとか。
ネアは興奮のあまり椅子の上で小さく弾むと、どこから取り寄せたものか、氷河のお酒まで出してくれたはからいに笑顔になった。
魔物達には、透明な水のような強いお酒が出されていて、これはシュタルトの湖水メゾンで作られる珍しいシュプリの一つなのだとか。
熟成される樽に巨人の系譜の樽守りが少し混ざるので、ネアにはお勧め出来ないらしい。
「どれも美味しそうで、幸せな気持ちでいっぱいです。今日は、来て下さって有難うございました」
そうお礼を言ったネアに合図を出され、ディノは、もじもじしながら綺麗にラッピングされた青い包装紙の箱を差し出した。
驚いたようにふっと灰色の目を瞠った給仕には、ザハの上客としていつも細やかな気配りをして貰っているお礼だと説明する。
イブメリア限定の華やかな絵柄のリボンがかけられた箱を受け取ってくれる姿を見ながら、彼はこれがイブメリアの贈り物だと気付いてくれるだろうかと、ネアはわくわくした。
ここでしか会えないかもしれないのと、こうして親しく接している姿もウィリアムへのヒントになるかもしれないからということで、今回は薔薇のロージェで贈り物を渡そうと決めていたのだ。
「……………これは、身に余る光栄ですね。開けさせていただきたいところですが、この場に留まりますと皆様のお時間にお邪魔してしまいますので、控えの部屋で拝見させていただいても?」
「はい。お仕事中なのでご負担にならないといいのですが……………」
ネアが形ばかりはとそう言えば、おじさま給仕はそっと首を横に振った。
明かりの灯されたロージェの中のシャンデリアの光を映し、その瞳がきらりと光る。
ウィリアムの瞳がふっと揺れたような気がしたが、まだ何かの形を得てはいないようだ。
はらはらと、美しい歌劇場には魔術の雪が降る。
この歌劇場で今夜行われるその約束には、イブメリアの祝福が宿るだろう。
だからこそネアは、この場にグレアムも居てくれることが堪らなく心強かった。