344. それはとても大切な書類です(本編)
ウィームの大聖堂に送り火の魔物が戻ったという一報が届いた日、ネアは、ウィームにあるスープ専門店を訪れ、憧れの人と再会を果たしていた。
「おやおや、新商品を頼んでくれたのかい?」
ネアにそう微笑みかけてくれたのは、行きつけのスープ専門店の奥さんだ。
柔らかな灰茶色の髪を綺麗に結い上げ、いつも楽しそうに瞳を煌めかせている魅力的な女性である。
「はい。アレクシスさんのお勧めにしました」
「梨とチーズのでしょ。それとっても美味しかったわよ」
ちょうどお会計中のご婦人がそう声をかけてくれたので、ネアは期待に打ち震えてスプーンを手に取った。
隣の魔物はなぜか、ネアの向かいの席に向かって小さく威嚇している。
(お手紙をくれたのは、アレクシスさん?それとも、奥さんなのかしら…………?)
実は今日は、新メニューのお知らせを手紙で貰い、お店に来たのだ。
お店の中はなかなかに盛況で、奥さんも忙しそうにテーブルを行き来している。
この呼び方をするとそれなりの年齢に思えてしまうが、実際にその容姿をよく見ればまだ年若い女性にも見える。
とは言えグラストよりも年上なので、既にご主人を老衰で亡くし、お孫さんまでいるこの女性は奥さんと呼ばれても何の不思議はない。
魔術の可動域が高い人は成長が遅いことがあり、このようにとても年若く見えたりもする。
(成り立ちの変化で子供姿になったウェルバさんのこともあるし、そう考えると、もはや年齢とは何なのだろう…………)
この世界で過ごしてゆく内に、漸くその境地に辿り着いたとも言える。
数え年である程度まで頑張った後、年齢を数えてゆくことをあっさり放棄するウィームの民の気持ちが、とうとうネアにも分かるようになってきた。
刃物などを鍛錬する工房にいる眼光鋭いご老人に年齢を聞けば、玉鋼の祝福を持つが故に老成した未成年だったりするのがこの世界の不思議である。
年頃の少年達は、可動域が高くても成長が早くなるその系譜の燻し銀の男らしさを求めて、金属加工などの職に一度は憧れるそうだ。
かこんと、目の前に薄い朝露の結晶石のお皿が置かれた。
ネアはこれは何だろうと目を瞠り、期待の眼差しで、ジャムのようなものを出してくれた人を見上げる。
ネアの向かいの席で、さらりと揺れたのは白灰色の髪だ。
グレアムの髪色に似ているが、微かに菫色かかっている多色持ちの髪である。
かつて、ネアの瞳の色を見て、私の兄の髪の色によく似ているわと微笑んだのが、このスープ専門店の奥さんであった。
「それはな、この薔薇のジャムを入れて食べると美味しいんだ。エーデリアとの交配で品種改良された白薔薇で、夜の虹の祝福を受けている」
「………ほわわ…………エーデリアはとても凄い花なのでは…………」
「濃厚で香りのいいチーズのスープだろう?だけど新鮮な牛乳を飲むようなさらりとした舌触りもある。冬の祝祭の時期にしか作れない特別な蜜チーズだから、年内しか販売出来ないんだ」
「ぎゃ!毎日通います!寧ろ、舎弟をもう一度どこかに脱走させます!!」
「はは、その季節にしか味わえないものも大切だぞ。また来年も出すからまた来てくれ」
「…………ね、年内いっぱい………。このお店の時間を止めてしまえば………」
「となると、特等の魔物による時間の魔術の解除は厄介だなぁ………」
そう微笑んだのは、このスープ専門店の奥さんの兄である、アレクシスというはぐれ魔術師の男性だ。
今日はお休みで街に繰り出している奥さんの息子夫婦も含め、家族経営のお店なのだった。
このアレクシスは、滅多にお店には出てこないし、そもそもウィームに帰って来ていることが少ないのだが、実はネアは、こちらの男性とは初対面ではない。
一時期こちらのお店の山羊のチーズのスープにどハマりし、足繁く通う中で一度ご挨拶したことがある。
その前の来店の時に、ネアのお皿の周囲に出現したスプーンの魔物が、ウォルターのスープ皿にスープの精を派生させたこともあり、珍しく帰国して厨房に立っていたアレクシスからその時のお礼を言われ、少しだけお喋りをした。
スープの精は、駆除されてしまうとスープの呪いになるのだ。
ネアがお皿の中のスープの精を滅ぼさず、その理を知るウォルターのお皿に導き直してくれたことは、このお店にとっても幸いであったらしい。
(アレクシスさんは、出会ったばかりの頃のウィリアムさんのような雰囲気で、どこか微笑み方にシェダー………グレアムさんみたいなところもある。でも、言動や笑い方の柔らかさは、アフタンさんに似ているような…………)
ディノが記憶を無くし、その記憶がない状態を自ら維持してしまった戻り時の事件の時には、このお店にあった魔術通信板を使い、果ての薔薇の扱い方について教えを請うたこともある。
つまりのところ、ネアからすれば、あまり会う機会のない恩人でもあるのだった。
(そして、このスープ専門店のレシピの全てを考えた、スープの神でもある!)
それは何ものにも代え難い恩寵なので、今はこうして久し振りの再会を喜びつつ、向かいの席に座った彼から限定スープの美味しい食べ方を教えて貰っていた。
なのでネアは早速、小さな陶器のスプーンでスープの中にジャムを入れてみた。
(…………こ、これは!)
確かに、ジャムを合わせて食べるとスープの味ががらりと変わり、甘酸っぱい薔薇のジャムはこのスープにとてもよく合うではないか。
スープの中には、食べ応えのあるサルシッチャと、追熟する前の梨を賽子状に切ったものが入っていて、塩味と仄かな甘酸っぱさのバランスがとても素晴らしい。
「アレクシスさんは、またすぐに旅に出てしまうのでしょうか?」
「今回は少しだけ実家でゆっくりするつもりなんだ。年明けの安息日までウィームの暮らしを満喫して、その後は暫く南方にある島国に行く予定かな」
「と言うことは、次の限定スープは、常夏な感じな食材が入ってくるのですね…………」
「と思うだろう?その島は永久凍土に閉ざされていて、氷と月の獣達が支配していると聞く。真っ白な毛皮と巻き角を持つ、ウィーミアという幻の獣がいるそうだ」
「……………そこはかとなく、初代ちびふわの仲間の気配を感じました。ウィーミアは悪い獣なのですか?」
「善悪というのも、人間の物差しだからな。ただ、ウィーミアはとても獰猛で、爵位を持つ魔物も食い殺すらしい。とは言え、心を預けた相手にだけは子狐のように愛らしくなるので、もしウィーミアが心を開いたら、砂糖を食べさせてしまうと恋に落ちるそうだ」
「……………よく似た生き物を知っていますが、魔物さんの擬態なので、深く考えないようにします」
「それは、ウィーミアの擬態なのかもしれないぞ。…………で、食材として狙っているのは、その島にある氷の酒の泉なんだが、木で出来たものを一晩漬け込むと、その表面に氷の砂糖が結晶化して採れるらしい。ウィーミアの大好物だ」
「ウィーミアの…………」
ネアは、フッキュウと鳴く白いちびちびもふもふした生き物については深追いしないことにして、そんな幻の島に旅をするアレクシスを尊敬の眼差しで見つめた。
こちらを見る瞳は、濡れたような黒紫色をしている。
どきりとするようなその鮮やかさは人間の持つ色彩の領域を軽やかに超えているのだが、彼は生粋の人間なのだという。
今の髪色は、彼の元々の髪色を擬態で残しており、実際には、髪と爪に血までが白から白紫色なのだそうだ。
身に持つ魔術や色彩がそこまで特殊なのに、その全てが魔術の研鑽によるものという、ウィーム随一の傑物である。
元は魔術師ではなく料理人だったが、料理の領域で組み上げる術式の研究を進め、珍しい食材などを追いかけている内に、知らず知らず特等の魔術師になっていただけでなく、あまり類を見ない白持ちの魔術師にまでなってしまった。
「…………因みに、ウィーミアは食べませんよね?」
「ウィーミアは食べないな。うちは雪狐の精を子供の頃飼ってたから、愛玩動物系はどうも……………」
「……………とても安心しました」
苦笑したアレクシスを見て胸を撫で下ろし、ネアは、荒ぶる魔物からとうとう手首に巻きつけられた三つ編みを外して丁寧にお返しした。
「……………ネアが浮気する」
「まぁ、アレクシスさんは恩人さんで、この素晴らしいスープのレシピを生み出した方なのですよ。しかも、レシピ目当ての悪い魔物さんにも負けない、格好いい魔術師さんです」
「……………こんな人間なんて…………」
「はは、落ち込んでしまうとスープが不味くなる。これはクリームグヤーシュだから、熱い内に食べた方がいい」
「………………こんな人間なんて」
そう言いながらも、ふるふるしながらスプーンを手にしたディノも、このお店のスープは大好きなのだった。
今回頼んだクリームグヤーシュは、ビーフストロガノフ風のお料理で、薄切りの牛肉が柔らかく煮込まれてたっぷり入っている。
それを、バターたっぷりで焼いた柔らかなバゲットのようなパンでいただくのだが、パンの代わりに、追加料金を払ってシュニッツェルに出来るのも心憎い。
もそもそとスープを飲み、ディノは嬉しそうに目元を染めかけてから、慌ててまた威嚇する魔物に戻った。
アレクシスが、そろそろ誕生日だなと微笑んでネアの頭を撫でてくれたのを見て、シャーっと威嚇鳴きしている。
「ほらほら、ムグリスの威嚇になってしまっていますよ。私が貰ったのは、お得意様なら貰えるスープ特別優待券ですので、ディノと一緒のお出かけで使いましょうね?」
「……………浮気」
「まぁ、ディノだってお誕生日の後にこのお店に来たら、一杯無料にして貰ったでしょう?」
「………………うん」
「アレクシスさんは、スープ愛好家には平等に優しい方なのです。となれば、私達は、アレクシスさんがお店にいる時にだけ飲める特別なスープを、有り難く堪能し尽くすばかりではありませんか。それとも、苦手な味でした?」
「………………これは美味しいと思うよ」
「それは良かった。これは、雪葡萄と祝祭の魔術に育てられた水で作った酒で、風味を出しているんだ。そこに、成就の魔術の祝福で味を整えてある」
「…………魔術で」
万象の魔物を呆然とさせ、アレクシスは頷いた。
つまり、こんな風に魔術そのものにも味わいや香りがあることを利用して料理を突き詰めてしまった結果、彼は特等の魔術師になったのだ。
なお、食材と料理以外の事にはほぼ無関心で、妹さんは早く結婚して欲しいと切に願っているらしい。
また、たいそう器用なくせに、スープ以外の料理はからきし出来ない。
どんな料理もスープにしてしまうのだ。
「このスープを飲めば、まぁ家内安全は間違いないが、ターテイル爺さんの一喝があったにせよ、クラヴィスには教会には近付かない方がいいな。世界の再生を祝す日の前夜祭も今じゃめでたいものでしかないが、本来は、再生が完了する夜明け前の一番暗い時間ってことだろう?教会は復活と終焉の場だから、そんな資質が強化されそうだ」
そしてそんなスープ職人は、ふっと気遣わしげな目をして、ひやりとする程に魔術師らしいそんなことを言ってくれた。
はっと眼差しを揺らしたディノに頷き、味がなぁと続けて微笑む。
素敵なスープを作る為に世界を知るというのがこちらの男性の持論で、ダリルが呆れるくらいの情報通でもあるのだ。
「アレクシスさんが、こちらの事情をどこまで知っているのかという慄きはさておき、味覚で魔術を振り分けるので、皆さんが気付かないようなことにも気付いてしまうのですね…………」
「クラヴィスの夜はイブメリアの前夜とあってどこもかしこも華やかだが、その祝祭の風味は妙に重く暗い味わいがする。バベルクレアの夜に花火を上げるのは、案外、最も暗い日に向けて夜を明るくしたかったからかもしれないな」
「……………だから、このスープなのかい?」
「成就の魔術の祝福は、何しろ風味がいい。香辛料として加工するのは難儀だが、祝福という体裁を整えるものには実は出来ることが多いんだ。これから結婚するっていう常連さんにはこれくらいのお祝いをしとかなきゃだ。…………なぁ?」
「ふふ、そうですよ。お二人が来るようになってから、お二人が飲んでいたものが美味しそうだと言って来て下さるお客様も増えて。何より、ネア様を真似てじっくりと味わって飲んで下さる方が増えたのが一番嬉しかったかしらねぇ」
可憐な水色のスカートエプロンを翻し、お水を注ぎ足しに来てくれたお店の奥さんが、微笑んでそう教えてくれる。
ネアの真似をしてスープを飲みに来る人達は、男性客が多いらしい。
この前は氷竜の騎士が来ていたそうで、彼はいつも山羊のチーズのスープを飲んでゆくのだとか。
「それとほら、エーダリア様がお忍びで来てくれるのが、私はとっても嬉しかったわ。ウィームの民として、あの方がこのスープは美味しいって言ってくれたら、それはもう幸せですもの」
ネアが大絶賛した際のその詳細な説明から、エーダリアは、このお店のスープには特殊どころか成立不可能な錬成に近い魔術が、風味づけや味の調整に入れられていることを知った。
以降、時折ノアやヒルドとお忍びで訪れては、新作のスープを目を輝かせて飲んでいるらしい。
「……………ははは」
逆に虚ろに笑ったアレクシスは、そんなエーダリアを警戒していて、領主が店に来ると厨房から出てこなくなってしまう。
一度、遭遇した際にエーダリアに捕まってしまい、アレクシス曰く解体されかけた記憶が蘇ったそうだ。
数多くの魔術師達からその才を羨まれ、その叡智を紐解きたいあまりに暴走した誰かから解体されかけたことがある彼は、気質は料理人のまま。
魔術師を本能的に不得手としている部分がある。
ネアはお祝いの特別なスープにお礼を言い、アレクシスは微笑んで首を振った。
スープを愛する者にはどこまでも慈悲深いのが、このアレクシスなのだ。
「成就の魔術が、スープに入れる粉になるのだね……………」
ディノは、そんなアレクシスが苦手だった。
美味しいグヤーシュを出してくれるので嫌いではないのだが、魔術というものを何でも料理にしてしまう彼が不可解で怖いのだという。
きりんを怖がるような本気の恐怖は感じないが、ボラボラや紙容器の精と同じような目で見ているので、そちらと同じ区分に振り分けているようだ。
ノアもちょっと怖いと言っていたので、時として人間の食に対する飽くなき好奇心は、高位の魔物達ですら脅かしてしまうのかもしれない。
「言われてみると、確かに不思議ですよね。そのうち、ディノの魔術な何かの粉入りのスープも出来てしまうのかも?」
「ご主人様………………」
「資質的に、どうしても加工や摂取が許されないものも世界には幾つかある。それはちょっと、俺でも無理そうだなぁ。なぜだか、決まっているってものも多い。ほら、歌乞いの魔物の恩寵が一度きりというようなもんだろう」
「むむ。そうなると、スープになる魔物さんと、スープにならない魔物さんが……………」
ネアがそう言い、アレクシスは神妙な顔で頷いた。
ディノはすっかり怯えてしまっており、ネアにぴったりくっついた上で、若干後方に体をずらしている。
スープが大好きな幼気な魔物を気に入っているアレクシスは、そんなディノに小さな一口ゼリーを追加でサービスしてくれていた。
「この世の全ての魔術を紐解かないと、おちおちスープも作れないのさ」
「……………ほわ」
「スープ…………………」
とても凄いのか逆に呆れた方がいいのか分らない決め台詞を残し、アレクシスは厨房に戻って行った。
彼が厨房に立つ日には必ず新しいメニューが生まれるので、そんな日を狙ってこのお店を訪れる者も多い。
魔術師達や他の料理人達は勿論のこと、ザハの料理人やアクス商会の面々だけではなく、リーエンベルクの料理人も後学の為にと足を運ぶこともある。
この店でハツ爺さんの目撃情報が出てくるのも、アレクシスが厨房に立つ日に限られる。
(でも良く考えたら、そんなアレクシスさんのレシピを再現出来る妹さんも凄いのだと思う……………)
ふと、シュタルトの岩塩坑の中で会った、鹿角の聖女の最後の弟子を思った。
誰もが知る聖人として生き残り、世界に教会組織の基盤を作り信仰を広めた弟子達は、その身に残った修復の魔物の祝福を世界のあちこちに残し、信仰の要としている。
しかしそれは、あまりにも誰もが知るものだからこそ分け広められ、砂粒よりも儚い小さな欠片になってしまい、残された奇跡にはいささか物足りないとされてきた。
だからこそ、ターテイルという隠された弟子がその祝福を削ぎ落として授けたガーウィンの大聖堂は、既存の偶像崇拝の中でも最高の祝福を持つ信仰の星があり、国内外から信仰の使徒達が集う最大規模の教会となっているのだ。
(統一戦争の時に、いち早くヴェルクレアに付いたガーウィンが、教会組織の最高建築の一つとしてウィームの大聖堂とその周辺の街並みの保護を訴えたのも、そのような繋がりがあったからなのかしら…………)
ガーウィンの大聖堂に祭られる信仰の星は、その他の権威ある教会に残される鹿角の聖女の欠片とは違い、星の形をした結晶石ではなく、一輪の純白の百合の形をした結晶石であった。
それだけのものを齎したターテイルが、教皇に相当するニコラウスに発言権を持つのは当然のこととして、そんな人材がウィームにひっそり眠っているのも凄い。
このスープ屋の兄妹しかり、夏至祭の踊りで神格化されてしまいそうな、サムフェルにも入れる凄腕魔術師なハツ爺さんしかり、この領土の底力はかなりのものなのだろう。
何しろ、成就の魔術をスパイスにして、スープに入れて万象の魔物に出してくれるお店もあるのだから。
「ディノ、貰ったゼリーは美味しかったですか?」
「………君は良かったのかい?」
「アレクシスさんが、ディノにと思ったものであれば、きっとディノに良いものなのでしょう。私はほら、素敵な薬草シロップのかかったヨーグルトがスープセットについていますからね。今夜もたくさんローストビーフ様をいただくと思えば、この薬草シロップは欠かせません!」
「弾んでる…………可愛い…………」
本来であれば、二度目のバベルクレアの本日は、お昼からローストビーフがいただけた筈なのだ。
とは言え、このアレクシスがお店に出る予定だと知り、ネアは、本日のお昼はこちらで食べると決めていた。
(スープ屋さんから、お知らせが来たから………………)
収穫祭の後に届いたそれは、お店からの新メニューのお知らせの何の変哲もない手紙であったが、ネアはなぜだか必ず行くべきだとそう思ったのだ。
アレクシスが店にいる日が毎日ではないのと、昨日は仕事の関係で足を運べなかったので、このバベルクレアの日のお昼になってしまったものの、やはりここに来て良かったと思う。
「……………………ふむ」
「ネア………………?」
「邪悪な人間めに、今日の美味しいスープが素敵な栄養になりました。このヨーグルトは、ふわまるの祝福を得た土地の草を食べた牛さんの牛乳から作られているんですよ!」
「ふわまる………………」
「ふわまるが下り立った土地の草花は、とても素敵な祝福具合なのだそうです。だから、リーエンベルクの庭園も今年は冬のお花が綺麗なのでしょうね」
このヨーグルトは、立地的に麓に下りるのが間に合わないだろうということでエーダリア達が足を運び、無事にふわまるの祝福が齎された、アルバンの山間で育った牛の牛乳で作られたものだ。
そんなふわまるの話も出たのだが、ふわまるはその属性も含め不明な点が多く、まだ正式名称が決まっておらず、ふわまる(仮)にて各種報告書が作成されているらしい。
仮の名称でいいのだろうかとも思ったが、そもそも世界の叡智たる人ならざる者達を、人間が完全に管理するのは難しいということなのだとか。
それはつまり、魔術誓約となる正式な書面ですら、仮という状態の名もなきものが記せるということなのだ。
(…………そういうことなのだ)
そう考えてヨーグルトを持ち上げてみせたネアに、厨房のカウンター越しにアレクシスがばちんとウィンクをしてくれた。
そんなやり取りを見てしまったものか、隣の魔物が荒ぶり出し、一生懸命にネアに話しかけてご主人様の視線を引き戻そうとする。
「あんな人間なんて…………」
「ディノ、今のは、素敵なスープを有難うございましたの合図でしたので、荒ぶる必要はないんですよ?」
「……………人間は、伴侶を決める前に、その相手でいいのか迷ってしまう病があるのだろう?」
「またどこからか、そういう妙な知識を得てきてしまいましたね……………」
「君は、私の婚約者なのに………………。ネアは、あの魔術師が良くなってしまったのかい?」
「ふふ、困った魔物ですねぇ…………!」
ネアは、あまりにも悲しげにしょんぼりと尋ねたディノに何だか微笑ましくなってしまって、一度立ち上がってから、大事な魔物の頭を丁寧に撫でてやった。
目元を染めておろおろしているディノの三つ編みを手に取り、まずはおしぼりで男前に口周りを綺麗に拭いてから、その三つ編みにそっと口付けを落す。
「ネア………………」
へなへなになった魔物に微笑みかけ、荒ぶって暴走しないように、しっかりと言い含めた。
「いいですか?私の婚約者はディノだけですし、私が伴侶にと思うのも、ディノだけです。なので私が心変わりするかどうかという問題に関しては、ディノが怖がるようなことは何もありませんからね?」
「……………虐待」
「なぜなのだ………………」
その後ネアは、へなへなになったディノを連れてお店を出ると、きりりと冷たい冬の風が吹くウィームの街に出た。
先程のアレクシスの忠告をしっかりと胸に刻み、大聖堂側の道は歩かないようにする。
大通りを避けても、街のあちこちに美しい飾り木があって、ネアはその美しさにほうっと頬を緩めた。
「ディノ、この小さな水路沿いの道は、水仙の花が沢山咲いていますね。…………むむ。なぜに雪の中にチューリップまで……………」
「おや、春の系譜の花なのに珍しいね」
ディノも不思議そうに見ていたところ、通りすがりのご婦人が、ご近所のチューリップ愛好家のご夫婦が、かけられたチューリップの呪いを活用して、イブメリアまでの間だけここに咲かせているのだと教えてくれた。
歩いた跡にチューリップが咲いてしまう呪いなので、その呪いを解く前に楽しもうではないかと、毎朝この水路沿いを散歩しているのだそうだ。
春の系譜が強いチューリップは夕方には萎れてしまうので、通りすがりの人々は、午後になると好きなだけ刈り取ってお土産にしていいのだとか。
「むふぅ!だから先程のご婦人も鎌を持っていたのですね。誰かと交戦中なのだとばかり思っていました……………」
「戦うのにも鎌を使うのだね………………」
「見て下さい、ディノ。素敵なチューリップをたっぷりいただいたので、皆さんにもお裾分けしてから、残ったものはお部屋に飾りましょうね」
「弾んでる…………かわいい」
「冬の祝祭のイブメリアにチューリップというのも、おつなものです」
(うん。エーダリア様の部屋に行くのにいい口実が出来たかも知れない)
そう考えてにんまりし、ネアは雪をかぶった美しいチューリップの色に目を細めた。
清廉な白に様々な色彩の楽しさが映え、祝祭の季節の贈り物という感じが何だか嬉しくなる。
艶やかなリボンやリース、そして色鮮やかな煌めきの揺れる飾り木を鑑賞しながら街を歩き、冬の系譜の生き物達や、雪映えのリーエンベルクを鑑賞する恋人達の姿も見える並木道を、二人でゆっくり歩いて帰った。
(あら…………)
門の所でリーナが外出するのを見かけたので、婚約者に会いに行くという彼には、可愛らしいピンク色のチューリップを一本お裾分けした。
まずは、ローナに似合いそうな色を選ばせて、似合うと思って選んだと必ず言うようにと指導してから渡したので、きっとあの少女も喜んでくれるだろう。
騎士棟の前を通れば、仕事から一時的にリーエンベルクに帰ってきていた、ゼノーシュとグラストにも出会う。
「ゼノ、街でチューリップを貰ったのですが、いりますか?」
「僕は食べれないからいいや。………グラストもいいって。アメリアが好きだよ」
「じゃあ、アメリアさんに持って行くようにしますね」
そう言えば、グラストが他の騎士に、アメリアの部屋にチューリップを届けてくれるように頼んでくれた。
ネアは残りのチューリップを、会食堂と厨房用に振り分け、ディノには、リーエンベルクに滞在中のアルテアの部屋へのお届けを頼むことにした。
「………………私が持って行くのかい?」
「ええ。この後は、ノアとのお茶の約束があるので、二人で手分けしましょう。私はエーダリア様の執務室に届けてきますので、その後で合流してお部屋のチューリップを飾れば、少しお部屋でのんびりと体を温めてからお茶に行けますから。…………実は、貰える筈の焼き菓子がまだなので、私が訪ねるとアルテアさんが焦ってしまいそうなのです。なので、ここは私の婚約者に、使い魔さんへのお届け物を頼んでもいいですか?」
「ご主人様!」
そうお願いしたところ魔物はたいそう張り切り、狡猾な人間はまんまとエーダリアの執務室に一人で行くことが出来た。
ネアはいそいそとエーダリアの執務室に突撃し、部下からのあんまりな申し出に唖然としたエーダリアにまずは事実確認をして貰い、狙い通りの成果を捥ぎ取って笑顔になる。
念の為にネアは、エーダリア経由でノアにもその運用に問題がないかどうか調べて貰うことにした。
(ディノには、まだ秘密なのだ……………)
全部が上手く行ったら、あのスープ屋さんにお礼に行こう。
そんなことを、見えない程に薄い魔術結界の膜で覆い、割れてしまったり変質してしまったりしないよう、それぞれの所有者に紐付けも終わった塩の薔薇を並べながら考える。
今日のバベルクレアの儀式に参加する者から仕上げを終えていたが、非番や休暇で明日からの任務になる者の分も含めるとかなりの数になる。
こうしてネアもお手伝いして、やっと全員分が揃ったのだ。
これから新年の安息日までの間、リーエンベルクの席次のある騎士達と、領内の主要な拠点の騎士団の責任者達は、この塩の薔薇の結晶飾りを胸に差して任務にあたる。
何か想定外の事件が起きた場合は、この塩の薔薇にある祝福が、既存の魔術の侵食や災いを食い止める一手になるのだ。
もし今回使うことがないとしても、劣化しないように補強魔術をかけたことで、今代の塩の魔物が存命の間はずっとその効果は続く。
銀狐と仲良しの騎士達はその薔薇を身に着けることを喜んでいたし、ノアも何やら誇らしそうであるのがいい。
エーダリアの薔薇とヒルドの薔薇にはそれぞれ、エーデリアの花と葡萄の小枝が添えられ、グラストの薔薇には、ゼノーシュが自分部屋で頑張って育てた薔薇が添えられている。
そのあたりにまた、魔物達の密やかな思い入れがあるのだろう。
「何を書いているんだい?」
「チューリップを届けた際に、エーダリア様からお話があって、…………この書類を、先程ヒルドさんが届けてくれました。以前提出した雇用契約の書類に不備があったので、小さな問題が足枷にならないよう先に直しておくことになったんですよ。…………これは、その書類が間違っていたことを私が責任をもって訂正しますということを証明する宣誓の書類なのですが、…………ディノ、ここには、私の名前を書くだけでいいのでしょうか?」
「………………うん、君の名前を書くだけで問題ないよ。これは、リーエンベルクとの魔術誓約書だろう?修正する書類そのものには、訂正署名をいれないのかな」
「雇用契約書そのものは、まだ差し戻しの体裁が整っていないそうなんです。こちらを一度ガレンに持ち込み、その上で差し戻し書類が出てくるので、戻ってきた書類を訂正する時には一緒にいて下さいね」
そう言えば、ディノはこくりと頷いてくれた。
水紺色の瞳は、魔物らしく鋭く書面をなぞっている。
ネアは、秘密の贈り物がばれてしまうのではないかと不安になったが、そこはさすが、王宮での無茶な要望を決済する書類仕事に手慣れたヒルドらしく、ディノにも、書面に記された情報以上のものは読み解けなかったようだ。
「………………このようなものは、魔術の契約になるんだ。既存のものを破棄してしまうと、既に組み上げていた契約や誓約がなかったことになってしまう。エーダリアは、この対応で構わないと話していたのかい?」
「ええ。領主のお仕事やガレンのお仕事では、裁定が難しい問題も多いのだとか。ですので、虚偽の報告でさえなければ、間違っている報告がされてしまっても、或いは、仮定の名称や、名称や報告書の情報が空欄になっているものがあっても、そのままで良いのだそうです。むむ、…………この術印の縛りというものは何でしょう……………?」
「これは、エーダリアが最後に記すものだよ。この術印の縛りで、書類が改竄されないように封じるのだろう」
美しい指先が、大事そうにその書類に記された文字に触れる。
そこには、ネアが、薬の魔物の歌乞いとして、この国と契約を交わしている旨が記されていた。