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343. 幻のような邂逅でした(本編)




ウィームの真珠と呼ばれるシュタルトには、有名な岩塩坑がある。

観光地にもなっている地下の岩塩坑に下りるには、木製の巨大な滑り台があって、ネアはこの世界に来たばかりの頃にその滑り台に挑戦した事があった。


とても楽しかったので是非に何度でも挑戦する所存であったのだが、なぜか今回、お仕事滑り台の再挑戦の機会が巡ってきたのだ。



ネアはラムネルのコートを羽織り、戦闘靴を履き床をしっかりと踏みしめた。

気分は幻の秘宝を手に入れんとする冒険者なので、こんな動作にもなかなか気合が入る。



「とても珍しいお仕事なのか、先程、エーダリア様と視線で会話したディノが裏で手を回したのかは定かではありませんが、今日はかつてのノアのお城で探検して来ますね!」

「ご主人様………………」

「おや、今回のものは、歌乞いとしてのネア様に対する正式なご依頼ですよ。時間外手当も含め、正規のご対応をさせていただきます。エーダリア様?」

「………祭壇の裏にそのようなものが隠されているとは、知らなかった…………。なぜ視察の時に、あの彫像の裏を調べなかったのだろう………」

「ありゃ。これは、戻ってくるまでに時間かかりそうだ…………」



そう呟いたノアにそっと揺さぶられ、エーダリアはぴたりと動きを止めてから、そろりとこちらを見る。

我に返り自分が脱線していたと気付いたらしく、微かに恥じ入ったように目元を染めて、ネアに向き直った。



「………すまない。隠し部屋があるのは知らなかったのだ。それと、今回の任務は勿論必要なものなのだが、お前に任せた理由までを正直に伝えるのなら、かつての任務地を違う形で訪れて魔術証跡を上書きすることも、お前達の今後に関して懸念されている要素を薄める効果があるらしい」



真っ直ぐにこちらを見て、エーダリアはそう伝えてくれた。


これが正しい形であると胸を張り、ネアは魔物達の方を振り向いたが、老獪なくせにしょうもなく分かりやすい生き物達はさっと視線を逸らした。

ヒルドについては微笑みすら揺らがないので、追求する余地もなしと諦めよう。



「エーダリア様、教えてくれて有難うございます」

「お前がおかしな方向に勘ぐり、予定していた道筋から外れる危険もあるからな。任務そのものは、岩塩坑の隠し部屋にある塩の薔薇を収穫するだけだ。危険などはない筈だがそれでも慎重に行動するように」

「うんうん。あの部屋は元々劇場にするつもりだったんだ。変な仕掛けはないから安心していいよ。劇場に向いた魔術を敷いてあるから、土地の旋律からいい薔薇が育っていると思うし。…………シュタルトだと、葡萄も育つのかな……………」

「げきじょう…………隠し部屋という語感から想像される規模を超えていました…………」

「……………塩の葡萄。…………ヒルド、本日の午前の予定は…」

「変えられませんよ、エーダリア様。くれぐれも、ネア様達の任務について行くなどという、愚かなことは仰られませんよう」

「……………そ、そうだな」



早速叱られてしまい、塩の葡萄にわくわくしたエーダリアは儚い微笑みを浮かべた。

とても気の毒だが、ウィームの領主であるので是非に諦めていただこう。


「さて、そろそろ行きましょうか」

「うん。もう着るものはないかい?」

「はい。手袋も持ちましたし、非常食も持ちました!」

「え、遭難の準備はしなくていいからね?!僕の元城なんだからネアに悪さなんてしないってば!」

「遭難ではなく、道中の糖分補給の為なのです……………」




今回、ネア達がシュタルトの岩塩坑から塩の薔薇を収穫してくる任務を命じられた理由は、その薔薇が持つ特別な効能をウィームが必要とした為であった。



特定の魔物が構築した領域の中でも、居城や屋敷などには、そこが遺棄されて呪われてでもいない限りは、その魔物による祝福が満ちていることが多い。


そこに時間をかけて土地の魔術や祝福が染み込み遺跡のようになると、特定の植物がその魔術の中から芽吹くと言われていた。

なぜ種類が限られるのかと言えば、濃密な魔術から生まれる植物には、その身に稀有なる魔術を宿すだけの階位が求められる。


よって、ヴェルクレアの国内では、魔物の城の魔術からは蒲公英は咲かず、薔薇や百合の花が咲き、更に稀な例ではあるが、収穫を可能とする程の魔術が凝れば葡萄やオリーブなどの植物が育つこともある。

蒲公英の社会的な価値に合わせ魔術階位が高い国があれば、蒲公英が咲くこともあるだろう。


その中でも特に、人知れず育った植物はとても稀有な力を持つ。

だから今回は、隠し部屋の中で薔薇の花を収穫して来るようにということなのだった。



「以前の訪問でも、綺麗な塩の薔薇を見たような記憶があるのですが、人目につくところに育ったものは条件を満たさないのですよね…………?」

「知られたものは、周知のものであるという認知の魔術の影響を受けるからね。それに、その薔薇には誰かが触れたかもしれない。触れられると、そこに育った魔術は多少なりとも変質してしまうんだ」



(これが物語なら、上中下巻の壮大なストーリーで謎を解き、辿り着いた先で見付かる伝説の秘宝なのかもしれない…………)



ネア達が収穫する薔薇に求められるものは、“命に纏わる見えない祝福”という、伝承の中にしか残されていない、幻の魔術の結晶だ。



だが、幸運にも同じ屋根の下で暮らす塩の魔物の元住居に生えており、ノアはこのあたりなら人目に触れていない良質な薔薇があるよという場所まで教えてくれての、かなり恵まれた出立になる。


海竜の一件でも教えられたことだが、命にかかわる魔術は、元々ノアが得意としていた資質の一つだった。

塩の魔物が心臓を無くしてからは手放したとされていた魔術でもあるが、実際には、世界が複雑に育ってゆく過程で、ノアだけが動かせる要素ではかつてのように扱えなくなったというだけであるらしい。



(でも、言われてみればそうなのだわ…………)



そんな稀有な魔術が、本人よりも遥かに力の劣る鳥になって彷徨っていたのなら、そもそもディノ達も野放しにする筈もないのだが、古くから言い伝えられるとそういうものかなと思い込んでしまう人も多いのだとか。


勿論、その心臓に残された全ての要素を取り戻せば、ノアは立派に王族相当の魔物だ。

扱える魔術が底上げされれば、命に纏わる魔術も精度が上がることは確かである。


しかし、かつては長かった髪を切り落とし、心臓まで手放したからこそ、階位落ちして今のノアでいられることを、本人はそれなりに気に入っているらしい。

手放した心臓を穏やかな暮らしには向かない余分と言い切り、それが一人の人間に取り込まれていることを許容している。



「他にも、同じように特別なお花や果実が、様々なところに存在している可能性が高いと知って驚きました…………」

「今回はね、ノアベルトのものだから、魔術の根源である命に纏わる祝福を宿しているんだ。それぞれの司るものを宿すから、例えばウィリアムやギードの領域のものは、扱いが難しいものになるだろう」



(終焉や絶望を宿す花となると、確かに摘むのにも躊躇いそう…………)



「ディノが育ててしまった薔薇や、とてもご近所なアルテアさんのお屋敷のものでは、いけないのですね」

「そうなると、花や実を育てる他者の要素が少ないんだ。今回探す薔薇は、私達の資質から生み出されたというだけでは完成せず、より多くの存在に触れながら、それでも見付け出されずに隠されていたものとして初めて、魔術の成果を固めるからね」

「……………確かに、シュタルトの岩塩坑は観光地になっていますし、あの美しい塩の祭壇はとても有名ですものね…………」

「いつからか生まれていた理だけれど、人目に触れない場所に育まれたものが、既存の仕組みを崩す特殊な祝福を得るというものがある。ノアベルトの資質から育ち、ノアベルト自身に好意的なシュタルトで育った薔薇であれば、ウィームの管理には有用だろう」




それは人々の思いから育まれた魔術の奇跡であると、魔術史には記されている。


物語や伝承に登場しがちな困難に打ち勝つ為の最後の奇跡は、きっと秘密の場所に現れるものに違いないという人々の思いが、それに相当する品物に、後付けで祝福を与えたのがその始まりなのだそうだ。



例を挙げるなら、工房で作られたばかりの新興国の王座や王冠にも、誰も足を踏み入れたことのない遺跡にだけ咲く花にも、それ相当の魔術は宿る。

なぜならば、人々が、それはとんでもない代物に違いないと、そう在るべきものとして信じ世界を固定するからだ。



(魔術には、高位の人達でなければ読み解けないような複雑な部分もあれば、こうして人々がそう信じたからこそ生まれるものもあって、本当に色々な側面があるのだわ………)



このようなことを知ると、ネアにも、エーダリアが魔術に没頭した理由が分かるような気がした。


かつてエーダリアが置かれた過酷な環境の中で、信頼や願いが形を成すその世界だけが、唯一わくわくするような希望を小さな王子に垣間見せてくれたのかもしれない。


そうしてその知識は確かに、その王子に奇跡を齎したのだ。




「ネア、手を離さないようにね」

「はい。…………まぁ、手を繋いでくれるのですか?」

「………………ずるい」



こつりと踵を鳴らし、転移の薄闇に踏み込む前にディノが伸ばしてくれた手を掴んだだけなのだが、手を掴まれた魔物はとても弱ってしまったので、ネアは首を傾げたままシュタルトに降り立った。



湖畔に佇む町並みが美しい雪景色の中で、ネアに掴まれてしまった手ではない方の指先で口元を覆ってしまっている魔物の顔を見上げてみる。

雪混じりの風に翻る濃紺のコートに、初めてシュタルトに来た時に着ていたものだと懐かしい気持ちになった。



「…………手を繋ごうとしてくれたのですよね?」

「…………ネアが、腕に掴まるのかなと思ったんだ」

「むむ、それならば、腕を組む感じでしょうか。こうですね!」

「……………くっついてくる。かわいい」

「……………弱る一方なのはなぜなのだ」




魔物は少しだけくしゃくしゃだったが、とは言え仕事中の二人は、いそいそと岩塩坑に向かうこととした。


前回は泊りがけの仕事であったので、情報収集がてら食事などもしていたが、今回は薔薇の花を収穫したら大人しくリーエンベルクに帰らなければならない。



ネア達が持ち帰る予定の薔薇の花は、イブメリアから新年までの何かと変動の多い祝祭続きの日々において、ウィームを治めるリーエンベルクの備えにない事態が起こった際の切り札になるものである。

これから行われる各儀式の場にエーダリアや騎士達が持ち込めるように、収穫した花を加工する作業が控えているのだ。




(今年は蝕があった上に、これからのディノと私のこともあって、おまけに、すぐその翌日があわいが開いて怪物がわらわら出てくる大晦日な訳だし…………)



グレイシアの脱走を見込み、季節の後退による変質を避けてこの時期の収穫となったものの、当然のこととして、このような備えはリーエンベルクを中心とするウィームの要所には必要なものだ。




エーダリアはウィームの領主であり、斃れる訳にはいかない領地を支える魔術の要でもある。



エーダリアが戻るまでのウィームでは、ウィーム伝統の魔術主導の統治ではなく、中央から任命された領主を据え、人間中心の政治的な管理と支配が推進されていたが、それは土地に見合わぬ変化であったということで、見直しが図られ古い体制に戻された。



この国では、王都やアルビクロムのような、ネアがよく知る社会的な仕組みや組織がその生活を支えている土地もあるが、ウィームでは、政の中核を担うのは魔術の平定である。

よって、それが揺らがないように管理することが領主であるエーダリアの最も大事な仕事であり、その為の備えをする必要があるのだ。



つまり、領民達が納得するような法案を成立させたり、税制の改革を図ることは各方面の専門家に任せておき、領主であるエーダリアには、祝福の薔薇を手に入れておくことこそが望まれるのが、魔術の潤沢なウィームなのだった。



(その代わり、各地の公的機関、騎士団や自警団だけではなく、幾つものギルドや、学院や病院組織、おまけに諸侯達までを管理しているダリルさんに、あれだけの数のお弟子さん達がいるのは、必要な専門分野のエキスパートを捕まえているからでもあるんだろうな…………)



よく見てみればそこには、国の政治の中枢を知る者に聖職者や土木技術者までと、さながら領管理の手引きの目次のような顔ぶれが揃っている。

恐らく、書に記された叡智を司る者として派生したダリルだからこそ、幾許かは意図的に狙い、それだけの精鋭を集められたに違いない。




「エーダリア様の、領主としてのお仕事に直接かかわる任務は久し振りですね」

「イブメリアはウィームがその祝祭の中心となる。中央や教会組織からウィームへの客人が集まる季節だからね。彼らが食指を伸ばさないように、魔術的な力の誇示が必要な時期だと、ダリルは思っているようだ」

「………あまり厄介なお客さんが来ないといいのですが…………」



ふと、冬に力を伸ばす領地だからと今迄は疑問に思ってこなかったものの、イブメリアは教会組織が力を持つガーウィンこそが主導する祝祭ではないのだなと、ネアは不思議に思った。



(でも、ガーウィン主導にすると力をつけ過ぎてしまって、国としては少し厄介なのかもしれない…………?)



そんなことを考えながら歩いていると、懐かしいアーチ状の石門が見えてきた。

門の繊細な彫刻には、湖竜や塩の薔薇が表現されているのだと分るのが、二度目の訪問の楽しさかもしれない。



「ネア、着いたようだよ」

「……………む。あっという間でしたね。それに、今日は前より混んでいますね………」

「この前よりは賑わっているかな…………」



ネア達が岩塩坑の入り口に着くと、そこには十数人程の観光客が外まで並んでいた。


この雪混じりの風の吹く日にと思わないでもなかったが、入ってしまえば地下で遊べる施設なので頑張ってやって来たのかもしれない。

よく見れば人外者な観光客も混ざっているので、彼等については寒さなど苦ではない可能性もある。



ネアは入場券の売り場に行こうとして、前回来た時には見かけなかった一人の騎士と目が合った。

目が合うと微笑みかけてくれるので、こちらの訪問を事前に知っている人だろうか。



「リーエンベルクから参りました」

「はい、お待ちしておりました。本日はこちらからお入り下さい。滑り台で地下まで行きますと、そこに礼拝堂までの案内の者が待っておりますよ」

「滑り台を下りて、下でその方と合流すれば良いのですね」

「はい。小柄なご老人ですが、扱う魔術はシュタルト随一ですからご安心下さい」

「まぁ、お会いするのが楽しみです」



今回はエーダリアの代理で訪れる任務ということもあり、ネア達は受付の横で待っていてくれたシュタルトの騎士に付き添われ、地下に向かう滑り台への特別な割り込み通路に向かった。


入場券を販売している小屋の中には、前回も仕事だった筈のネアから入場料を徴取したご老人の姿もある。

騎士と微笑みを交わしたようなので、仲良しなのかもしれない。



(あ、またこの音楽が流れてる…………)



地精達が奏でる音楽は、この場所で聞いたことがきっかけで、ネアがこの世界で最初に気に入った音楽になっていた。

エグリアント序曲の題名に相応しく、これから何かが始まるぞという気持ちにさせてくれる、物語的で美しく華やかな曲である。



「並ばれている方達は、大丈夫でしょうか?もし割り込みに荒ぶられるようであれば、お菓子でも配ります?」

「ご安心下さい。内部の管理と見回りがあると入り口で伝達済みですから。お二人を入れていただく後方のお客様達は入場料が無料にすることになっていますので、…………それで恐らくこの行列なのかと」

「………天候ではなく」

「本来、このような天気の日は、凍った湖の方で雪竜達がスケートをするので、岩塩坑は人が少ないことが多いんですが………」



そう苦笑してみせ、いいお父さんになりそうな優しい緑色の目をした騎士は、これは素晴らしい才能だと思わせる柔和な対応で、ネア達を滑り台待ちの列に入れてくれた。


入場料無料を狙っていたのか、どこか悲しげな様子で先に滑ろうとしていた二人連れの男性達が、素晴らしい笑顔で先にどうぞと言ってくれ、ネア達はすぐに滑り台に挑むことになる。



背後では、後続のお客達の小さな歓喜の声が聞こえてくるので、騎士の見立ての通り、入場料無料を狙って来たお客も多かったようだ。




「落ちないようにするんだよ」

「むふぅ。久し振りにこの、熊の魔物さんだったソリに乗ると思えば、とてもわくわくしますね!」

「…………ずるい、可愛い」



そう言えばこんな感じだったと、滑り台の溝にはめ込まれるソリを眺め、ネア達も乗り込んだ。


深く深く地下まで続く木製の滑り台の両脇には、どこまでも続く、ちらちらと揺れる魔術の火が見えて、道中の灯りを管理する妖精達の香りが地下からの風に混ざる。

ゼラニウムとスパイスめいた甘くぴりっとした香りは、この季節にぴったりだ。




「では、押しますね」


制服姿の係員の青年はディノを見て体が強張ってしまったらしく、ここまで同行してくれた騎士がその青年と一緒にソリを押し出してくれた。



がこんと、滑り台にぴたりとはまったソリが押し出される音が響く。



いよいよ、懐かしの長距離滑り台の始まりだ。



「はい。行ってきますね」


ネアがそう言い終るや否や、ゆっくりとした滑り出しから急角度のコースに入ったソリは、激しい加速がかかりぎゅんと光の速さで地下まで真っ直ぐに滑り落ちる。

明らかに前回より早いので、押し出したのが武芸に長けた騎士であることも要因なのかもしれない。

恐らく普通の女性であれば号泣する早さだが、ネアは、笑顔で目をきらきらさせて肌に感じる風を充分に楽しんだ。


前回の教訓を生かしたものか、ディノはソリが動き出すとすぐにネアをしっかりと背後から抱き締めたので、うっかり道中で飛んでいる妖精などに手を伸ばさないように拘束していたようだ。

最初から最後までを素晴らしい早さで滑り落ち、到着地点に差し掛かってこのスピードは大丈夫なのだろうかと心配していると、下で待っていてくれた小柄な老人が、爪先できゅっとソリを止めてくれる。



「……………ほわ」

「やれやれだ。どうせ上に居たウォルドが強く押したんだろう。首がもげなくて何よりだわい」



呆れた顔で小さくそう呟いたご老人は、飛び出し防止柵を開けてソリから降りたネア達を見ると、穏やかに微笑んだ。


こっくりとした赤茶色の装いは、貴族らしい装飾もあるが動き易そうだ。

不思議な威圧感の割には少年のように小柄であるし、一本に縛った柔らかな砂色の髪には白髪が混じっているが、老いた獅子のような威厳のあるご老人だった。



「ターテイルと申します。祭壇回りの人払いは済ませてありますので、ご案内いたしましょう」

「ネアと申します。もしかして、以前のシュタルトの滞在の際にお家を貸していただいた、ターテイルさんでしょうか?」

「その節は、結構なお礼の品をいただきまして。いやはや、気を使わせてしまいましたな」


光を孕んだ琥珀のような瞳は、笑うとくしゃりと細くなる。

何だか素敵な人だなと思っていたら、このご老人がかのターテイル爺さんであったようだ。

シュタルトの人々に愛される、グラストの親族でもある御仁だった。



(歌乞いになったグラストさんは家名を捨てざるを得なかったけれど、ひいお爺さんなのだとか!かなりのご高齢と聞いていたけれど、ものすごくお元気そう……………)



慌ててネアは、もう一度丁寧にお礼を言い、ディノは、完全には他人という感じでもない絶妙な雰囲気の初対面の人なので少しだけ人見知りしている。




「さて、お時間が取れず申し訳ない、ここからは早足で移動していただいても宜しいかな?」

「はい。皆さんをお待たせしないよう急ぎますね」



祭壇のある礼拝堂は観光の見どころなのに人払いをしてくれているということで、挨拶もそこそこに現場に急ぐことになった。


ネア達が向かう祭壇がある礼拝堂は、魔術の密度が高く内部までの観光客の立ち入りは許可されていない。

ただし、その礼拝堂に続く採掘用の通路に面した鉄格子ごしにその立派な祭壇を見られるとあり、美しい祭壇を一目見ようと観光客達が並ぶこともあるらしい。


その程度であれば採取の邪魔にはならないと言いたいところだが、隠し部屋に入るところを見られてしまうと中の薔薇に影響を及ぼすかもしれないので、この措置となっている。

今回は、採掘通路添いの道を立ち入り禁止にしてしまうのではなく、ネア達の到着を受けてから、地下に配置されていた騎士達が、近くにいた観光客達は他の部屋などに誘導して一時的にその区画を無人にしてくれているのだ。


見上げる程に広大な地下道を歩き、少し後ろ髪をひかれる思いで小さな土産物屋などの並ぶ楽しい区画を通り過ぎると、これまた懐かしの採掘坑に続く門が見えてきた。

門に絡んだ薔薇が相変わらず美しく、何やら潤沢な魔術を備えた訪問者の気配を感じたのか、ふくよかな蕾がぽこんと見事に花開いた。



(この奥には地底湖があって、不思議なお魚が泳いでいたりしたっけ………)



ターテイル爺さんに誘導されてその門もくぐり、横壁に彫り込まれた採掘用の魔術陣や、立ち並ぶ彫象の横を通り抜けて歩いてゆく。


この岩塩坑には、塩の採掘の為に掘られた穴と、ノアのお城だった部分が混在している。

前回はただ圧倒されるばかりだったのだが、今回は歩きながらその交差を見ることが出来た。

やはりここは魔術が潤沢なのか、壁や天井部分から吊るされたシャンデリアなどには、カップ咲きの薔薇がたっぷりと蔓を絡ませ、淡く光を放つような美しい花を咲かせていた。


(あの薔薇は、白っぽく見えるけれど、実際には水色の薔薇なのかしら。青白い影が深くて、ところどころが水晶のように結晶化していて、とっても綺麗だわ…………)



静かな静かなその中で、どこからともなく、地底湖に落ちる滴がぴしゃんと音を立てる。




「ネア様は、シカトラームで聖女様の手帳をご覧になりましたか?」



不意に、前を歩くターテイルがそんなことを尋ねた。



はっと息を飲み、ネアは握った三つ編みの先のディノの方を見上げる。

ディノは頷き、ネアの代わりに会話を引き取ってくれた。



「……………君は、この子がそこを訪れたことを知っているのだね」

「ええ。私は、先々代のシカトラームの許可証の発行担当でしたからね。あなたがたもご存知のあの青年は、私経由で、今代の担当者にネア様の許可証の発行を早めるようにと申請をしたのです」



(……………っ!)



その言葉には、実に様々な真実が織り交ぜられていた。


この老人は、フェルフィーズが何のために動いていたのかも、そのことをネア達が知っていることも承知の上で、この会話を始めたのだ。


ぎくりと体を竦めたネアに、ディノはしっかりと手を繋いでくれる。



「……………だから、今日はここで君が待っていたのかな?」

「ええ。ダリルから、お二人が任務でシュタルトにいらっしゃると聞き、この機会を逃す手はないと、若い騎士達に無理を言いました。曾孫が世話になっているので、挨拶をしておきたいと」



そう言って振り返った老人は、ネア達を見ると、ひどく穏やかに微笑む。

そこには長命な生き物達とはまた違う、それよりは遥かに短い生涯の中で年長者となった人間の、深くあたたかな心の豊かさが窺えるようだった。



「私の目には、あなた方はマリダーシャ様と同じ運命を辿るようには見えません。…………ですがあの、私の王の記憶を持つ青年は、やっと手に入れた宝を守らんと必死なのでしょう。エーヴァルト様は竜の血を引いておられ、先祖返りの要素も強い方でした。若い竜が己の宝を守ろうとすると、それは決して合理的ではない、不器用で悲しい守り方をするものです。そんなあの方の悪い部分を、どうやらあの青年は引っ張り出してきてしまったようです」



暗い岩塩坑の中に響くのは、ひび割れたその掠れもまたぶ厚く美しい老人の声。

ネアは、彼が語ったことに目を瞠り、あまりにも穏やかな瞳の持つ力に思わず頷いてしまう。



「封じられた筈の修復の名前を呼べるということは、君は、直接の祝福を受け、唯一その呪いを免れる彼女の弟子の一人だったのだね。まだ残っているとは聞いていたが、会うのは初めてだ」

「はは、あの頃の私はまだ小僧でしたよ。幼さ故にあの場を去り難く、崩壊からの避難が間に合わずに意識を失くしたままあちこちを盥回しにされておりました。ウィーム王家の方達に保護されて治療を受けられたことで無事に目を覚まし、そこからはこの魂が死者の国に赴くまでずっと、ウィームの民です。同じような来歴を持つ友人もおりここまで永らえましたが、さすがにもう長くはないでしょう。………………この奇妙な人生の最後に、聖女様を知る一人の老いぼれとして、唯一人の王としてエーヴァルト様をお慕いした一人の騎士として、何よりもグラストの曾祖父として、ずっとあなた方にお会いしておきたいと思っておりました」



そう笑ったターテイルは、かつては王に仕える近衛騎士であったというだけの、優雅な騎士の礼を披露してくれると、きりりと背筋を伸ばして真っ直ぐにこちらを見る。


彼は、彼の大事な王の術式をその身に引き受けたフェルフィーズが、どこか悲観的な確信を抱き暗躍をしていることが心配でならなかったのだそうだ。



「目を見れば、王子からお仕えした私の王ではないことが分りましたが、それでもあの青年は、私の王の残した遺産のようなものでした。気になって少し調べてみたところ、確かにきな臭い動きもあるにはあったのです」

「ガーウィンかい?」

「ええ。教会の連中も愚かではありません。中には、あなた方の関係やウィームが潤う仕組みに目を付けた者もおりましたが、ニコラウスに釘を刺して叱っておきました」

「………………ああ、だからなのかな。今朝がたダリルから、ガーウィンを始めとする教会勢力は当面は沈黙するので心配ないと言われたよ」

「ダリルとは昔馴染みでしてね。…………かつて、マリダーシャ様の祝福をこの身から削ぎ落とし授けたことで、私は、誓約上教会に絶大な発言権を持ちます。とは言え公には動けぬ身ですし、せいぜいがこの体が動く限りではありますが、お二人が伴侶になるまでの時間は稼げましょう」



そう微笑んだターテイルの向こうに、人払いを済ませた塩の礼拝堂が見えてきた。

そこに到着すればもう、この老人は口を噤んで、ただのターテイル爺さんに戻ってしまうだろう。


だからネアは、まだ呆然としたままの頭を何とか動かしてみる。



(ターテイルさんが間に立ってくれた問題は、フェルフィーズさんが示そうとした、鹿角の聖女さんの顛末との相似性とは、また別の問題のような気がする…………?)



とは言えそれも、その運命を踏襲するという意味においては、同じところに向かわせるものだったのだろうか。



「その、……………グラストさんは、………ご存知なのですか?」



ネアは、頭の中の整理が追い付かないまま主語のない質問をしてしまったが、ターテイルはすぐさま察してくれたようだ。


「家族は、私がかつてあの方の弟子であったとは知りません。忠義を誓った王家に迷惑がかからないようにと、当時のウィーム王と私が仕えた王子には真実を告白し、その際に、この身に授かった聖女様の祝福を望まぬ形で狙われないようにと、信仰の魔物様と教会の教え子を交えて不可侵の約定を交わす手助けまでしていただきました。代々の教え子には明かされる秘密ですが、その秘密は魔術の誓約に守られておりますのでご安心を」

「………………ターテイルさんは、そんな、ご家族にも明かしてないような秘密の中で、私達に力を貸して下さったのですね。……………前回に引き続き、またしてもお世話になってしまいました…………。本当に有難うございます」



ネアは、思わぬところから現れた味方に、そうお礼を言うのが精いっぱいであった。


鹿角の聖女の崩御は、ラエタの崩壊より前のことだ。

そんな時代に生きていた人が、とても身近なグラストの曾祖父だったということがあまりにも驚きだったのである。



「お力添え出来て幸福なことです。私は、この通り来歴の弊害で体が小さく、当時はすぐに素性が割れてしまう為に騎士として長くウィーム王家に仕えることは出来ませんでした。幸い、伯爵家の妻と出会いこうして今は隠居の身ですが、愛しいウィームの為にこの老体にもまだ出来ることがあったようです。…………実は、とは言え老いぼれが口を挟むべきか否かで悩んでいたところ、懐かしい恩人の夢を見まして。私の恩人が、…………あなた様を慕っていたことを思い出したのです。…………覚えてはおられないかもしれませんが、遠い昔に一度だけ、イブメリアのリーエンベルクの前でお会いしたことがあるのですよ」



そう微笑んだターテイルに、ふつりとディノの瞳が揺れた。



「…………あまり多くのことを心には残さないが、あの日のことは覚えているよ。彼は私の大事な友人で、…………あの日は、ウィームを案内してくれたんだ」

「あの方のお蔭で、私は目を覚ますことが出来たのです。いつか恩返しをと思っている間に、あの方はウィームを去ってしまわれた。ついぞ恩は返せませんでしたが、せめてあなた様のお力になれれば幸甚です」



(あ、………………これはグレアムさんのことだ…………)



となると、夢という形でターテイルの背中を押したのは、今もウィームにいる犠牲の魔物かもしれない。

ディノから、かつてはウィーム王家に仕える魔術師として過ごしていた時期があると聞いていたので、その時にターテイルとの接点があったのだろう。



ネア達を礼拝堂の部屋まで案内すると、ターテイルはまた優雅に一礼してくれて、静かに去っていった。


グラストの曾祖父であるし、もっと話したいことが沢山ある気がして名残惜しいのだが、彼がここまでと決めた線引きが見えるような気がして、ネアは丁寧に頭を下げるに留めることにした。



今の会話は、この短い道行きの間にだけ明かされた彼の秘密。

与えてくれた善意には心から感謝し、これ以上は無遠慮に触れてはならない。

そんな気がしたのだ。



それでも、ネアは音の魔術を展開して貰い、ディノに尋ねてみた。



「…………ディノは、あの方をご存知だったのですね」

「彼のことは覚えていなかったんだ。…………あの頃の私は、あまり多くのものに興味を持てなかったから。…………でも、その時のことがこうして今に繋がるのは不思議なことだね」

「…………あの方の話だと、今回のことは、グレアムさんも手を貸してくれたのではないでしょうか?」

「うん。この前彼の家に行った時に、ガーウィンの動きを封じる伝手があると話していたよ。アルテアは、この際、不穏な動きをする者は排除してしまおうと言っていたのだけれど、ノアベルトとグレアムは反対したんだ。教会というものは形のない魔術が多く動き、人々の心が刃や毒になるから、扱いが難しいのだそうだ…………」




それは、踏み外してはいけない細い道を歩くネア達の袖を引く、運命の棘のようなもの。

そのような要素が絡むのもまた、不安定になりかけた運命が、誘蛾灯のようにちょっとした問題を呼び寄せてしまうからなのだとか。





「であれば、悪いものはここでまた一つ無力化しましたね。後はもうこのまま…………まぁ!」



ネア達がいる、水晶で造ったかのように見える塩の礼拝堂は、細部まで精緻な彫刻が施されながらも、計算された清貧さのようなものが巧みに心を鎮める、不思議な力を持つ部屋である。


そこには、生けられた花の一輪までもが塩の結晶で出来た、溜め息を吐くばかりに壮麗な塩の祭壇があり、その左側にある女性の彫像の背中に触れると、祭壇の背面にある壁がずりりっと動いて扉になるのだ。




扉が開いたその先には、ネアが呆然と立ち尽くすしかないくらいに、大きな劇場が広がっていた。


この空間配置のどこにそれだけのスペースがあるのかは分らないが、そこはやはり、魔術の叡智なのだろうか。



「……………ウィームの歌劇場に似ていますね。木製の部分には歴史のある劇場のような飴色の艶があって、深紅の天鵞絨に、この素敵な椅子のクッションまで。…………それに、イブメリアの夜の歌劇場のように、そこかしこに薔薇が咲いています……………」




広い劇場の床や柱、舞台に下りたカーテンにまで。

満開の塩の薔薇がそこかしこに咲き乱れ、けれどもその花は、氷の薔薇のように静謐であった。



ネアはすっかり見惚れてしまいそうになったものの、観光客達が足止めされていることを何とか思い出すと、せっせと薔薇を摘んで渡されていた袋にそっと詰め込む。


指先に触れる薔薇は、ぱきんと音を立てて簡単に手折れた。


出来るだけ人目に触れていないような椅子の影などの薔薇を摘んで袋をいっぱいにすると、薔薇に紛れて見事な実をつけていた葡萄の枝も一本収穫し、エーダリアへのお土産にする。




「…………………あ、」



無事に仕事を終えて隠し部屋の向こうの劇場を後にしようとしたその時、ネアが見付けたのは、塩の結晶から芽吹いたエーデリアの花であった。



ディノに頼んで丁寧に摘んで貰い、こればかりは欠けてしまわないように、そっとハンカチに包んで大切に持ち帰ることにする。




「ここはシカトラーム程古くはないけれど、ノアベルトが丁寧に土地を整えたのだろう。彼が実際に住んでいたこともあって、潤沢な魔術の基盤が残っていたようだね」

「その上で、シュタルトの皆さんに今も愛されているところですからね。このお花を持って帰ったら、きっとエーダリア様は喜ぶでしょうね……………」



かつて、ノアが、ネアだと思い込んでいたというウィーム王家に仕えた歌乞いの少女は、終ぞこの城を見ることはなかった。


薔薇の花を摘み終えて地上に戻る時にはもうターテイルの姿はなく、ネアは、薄暗い地下の採掘路で驚くばかりの秘密を明かしてくれた老人は幻だったのではないかと考えてしまった程だ。



地上ではしんしんと雪が降り積もり、ネアが訪れた地下に眠る魔物の城とはまた違う清廉さで、今も生き続けている湖畔の町を包み込んでいた。



「……………何だか今日は、あの地下の劇場で不思議な夢を見たような気持ちです。でも、ターテイルさんにお会い出来て嬉しかったので、素敵なお仕事でしたね」

「彼は、修復の魔物の最後の弟子だ。高位の魔物の崩壊に触れると、彼のように時間を止めて昏睡状態になってしまうことがある。その眠りを覚ますことが出来たのは、彼を治療したのがグレアムだったからだろう」

「……………あの方がウィームに来なければ、グラストさんはいなかったと思うと、色々なことがこの今に繋がっているようで、その不思議な偶然に胸がほかほかしてきますね。………………む?爪先が………」

「……………踏みたいかなと思って……………」

「解せぬ………………」




たくさんの薔薇を袋いっぱいに持ち帰ったネア達に、エーダリアはとても喜んでくれた。



ネアが、葡萄の小枝を差し出して大歓喜させてから、あのエーデリアの花を披露したので、危うくエーダリアが過呼吸で儚くなってしまいそうな騒ぎもあったが、すぐにヒルドが背中をばしんと叩いて正気に戻してくれた。



その日、騎士棟でグラストの姿を見かけたので、ターテイルが礼拝堂まで案内してくれたことだけを伝えておき、ネアは美味しいザハの焼き菓子セットを託して、シュタルトに送って貰った。



その焼き菓子を箱に詰めてくれたのは、かつての彼の恩人である。


そちらにはディノからお礼を言って貰ったところ、あの小さな子供がまだ元気で良かったと、在りし日のウィーム王家の魔術師は微笑んでくれたそうだ。



















本日の更新は、1.5話分の長さになってしまいました…

長いお話に付き合っていただき、有難うございました!

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