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魔物たる罪と歌乞いの告白





「時折ね、それでもと考えることはあるよ」



そう微笑んだ魔物はその睫毛の影に艶やかな翳りを揺らし、その瞳の影の向こうで何を思うのだろう。



「彼女はどこにも行かないし、私を見捨てない?…………だとしても、それは彼女の選択だ。であれば、その選択と対になった打ち捨てられたもう一方はどのようなものだろう。それは永遠に陽の目を見ないものなのか、それともいつか、こちらの選択を打ち破る棘なのか」



風に、細やかなダイヤモンドダストのような風花が混じる。

空は晴れていることもあり、一瞬雪だとは分からない程の細やかさだが、ウィームでは決して珍しい光景ではない。

この儚い雪は、風に舞いどこからともなく吹き込んできては、万象の虹白の髪を揺らす。




「だから、その選択を踏ませるつもりか?それがただの好奇心であれ、一度触れさせたその選択は最早成就そのものだ。形を捉えたいとしても、そこに顕現させる機会を与えることこそ愚かなものだな」

「…………かも知れないね。君ならそう言うだろう。だから君がその中の危ういものを潰すのかもしれない。或いはそれはノアベルトでもあるのかな?」

「さぁな。…………だとしても、本当にあいつを兄妹にするつもりか?」

「…………船の係留の際に、或いは獣の捕縛の為に、一筋の鎖では繋がらないものを何本もの鎖で固定するようなことだろうか。彼女の運命はこの世界では明確な形を持たない。とても捕らえ難いものだよ」



そう呟き、その魔物はひたりと夜闇に沈み込むような微笑みを浮かべた。




(………………っ、)




久し振りにその微笑みを見た。

それは魔物たるからこその、魔物らしい微笑みであり、恐らくは人間とは決して相容れない苛烈なもの。


もしくはそれを、人間は高慢と捉えるかもしれないし、残忍さや絶望と捉えるかもしれなかった。




「でもこの子は、それでも今暫くはこちら側を選ぶだろう。…………ほら、危ないことをしないようにと伝え、この開けられずに済んだ扉のように。であれば私は、その打ち捨てられた選択肢を条件付けし、それは有り得ないものとして運命の庭に敷き詰めればいいのだろう。これでまた一つ足場が増えたようだ」

「…………雪喰い鳥の試練か」

「懐かしいものだろう?敗北し倒れた者の固有魔術は、魔術の闘争の理において私の手の内になる。そんな雪喰い鳥の試練を応用し、乗り越えたものからはその見返りを得られるという形にしてある」



そうして敗れた対の選択を積み上げ、ゆっくりとその望みの場所へと近付く眼差しには、老獪で冷徹な魔物らしさが窺える。



「だがそれは、反対側を拾い上げれば積み上げた階段が一段下がるものだな」

「…………うん。だからこそ、私もいつも恐ろしい。…………あの子の向こう側の選択肢というのは、あの子自身の内側のものなんだ。彼女はいつも自分自身の為に選ぶ。それが自分を殺すものであったとしても、それでも彼女はそれを選ぶと決めたら決して躊躇いはしないだろう」



それはもしかしたら、シルハーンが封じ動かないようにしてある魂に刻まれた術符かもしれないし、あの人間が時折立ち止まって自分の内側をじっと覗き込む、余計なものを削ぎ落とす眼差しの静謐さかもしれない。




選択とは、結果であり可能性であり、布石でもある。

だからそうしてあの人間が積み上げ突き崩すものを気付かれないように調整することもある。

けれどもいつも、その賽子は思わぬところに転がってゆくのだ。



予め一つの運命の道筋に深い窪みが彫られているように、その周囲には、一筋の決して歪められない彼女自身の選択の輪がある。



それもまた、魔物のように残忍な人間らしい冷淡さで、だからこそその形と色は決して揺らがない。




「試練の魔術は、回答を与えておいても意味はない…………か」

「そうだね。でもこの理を使うのは今回までかな。これはやはり、悪手ではある。悪手だからこそ、同じ成果を齎すものがないにせよ、私がようやく見付けた私のものなのだから、一欠片も手放したくはないからね」



では次はまた、違う手法でそのピースを埋めるのだ。



どれだけ手を尽くしどれだけ差し出しても、それでもやはり失われてゆくことはあるだろう。



何層もの守護や祝福や、契約に誓約。

魔物の指輪や、繋ぎ石だけでなく、飾り石や髪留めやナイフや核石など。

たわいもない約束事や、品物や食べ物で得られる薄い選択を積み重ねて層にする。



「だけどやはり、修復に重なる要素は放棄しなければならないのかな。…………でもそれは、私が最初にネアと交わした誓約なんだ。…………最初の大切なものというだけではなく、一番下にあるものを取り除こうとすると、上に積み上げたものが崩れてしまわないだろうか」

「…………その可能性がないとは言えないな。俺であれ、ノアベルトやグレアムであれ、その他のどんな高位の者達であれ、この世界では誰も完璧な布陣を敷くことは出来ない」

「用意しただけのものしか動かない世界というものであればと、そう思うかい?」

「…………風もなく波もない世界か?百年程度で大方の奴等の気が触れるぞ」

「その場合は、より高位の者達から壊れてゆくのかもしれないね。そんな世界もかつてあったと言われている」

「俺はご免だな」

「おや、その世界では、世界を司るのは選択の王だったと聞いているよ」



そう言われ渋面になる。

であればその選択はどこまでも退屈で、もしくは何よりも狂ったものだったに違いない。

世界の多くの要素を女達が治めた前の世でも、それはやはり今のアルテア自身とはだいぶ違う。



「…………そうなると、歌乞いの契約自体を外す必要があるのか」

「それはそれで危ういものなんだ。ネアは、歌乞いとしてこの国に紐付いている。迷い子としてどこにも属さない彼女を明確に一つの土地に固定するには、やはり国の歌乞いである必要があるだろう」

「…………魔術の上でも、他の土地に奪われない為には国籍が必要なのは確かだな。迷い子を土地に紐付かせるには、国家の定めた上席役職を得るか、養子手続き、婚姻手続きが必要になる。この国の民と交わす必要のある養子と婚姻は論外とすれば、王家で選定する剣や盾としての特別褒賞、教会組織の聖人や教え子の認定、アルビクロムの特命技術職人の指定、ウィームでの特例魔術師保護措置………どれも、あいつにはそぐわない」

「多くの肩書きはどれも、魔術可動域が高いことを前提とした専門の技術が求められる。教会組織に預ければレイラや、その教会に祀られた他の生き物の持ち物にされてしまうし、王宮で人間の王族達に取り込ませることが、どれだけ危ういかは私もよく知っているからね。………………であれば、最も彼女自身の負担が少なく、尚且つ即座に国家に紐付けられる肩書きはここしかなかった」



当初、ネアはエーダリアの婚約者であったという。


それは王から命じられた王命でもあったが、新たな歌乞いがあのアリステルと同じ過ちを引き起こさないよう、その責任において管理しろという意味のものだ。

エーダリアが引き続きその管理責任を背負うのならば、勿論、婚約を破棄するだけの自由は与えられていた。


このウィームという土地や、エーダリア達の気質や嗜好を踏まえても、ここ以上に相応しい受皿は最初から存在しなかったのだろう。



(契約の魔物に対しての、正しい知識と敬意を持ち、その力を利用せんとする政治的な野心がなく、かといって基盤を守りきるだけの力のない土地でも意味がない。…………それに、)



それに、最もシルハーンが考慮したのは、呼び落としたネア自身の裁定に見合う土地であることだったに違いない。

彼女の嗜好に合わず彼女が望まなければ、あの人間はいとも容易く自分ごと全てを終わらせてしまいかねない。


何しろこの世界には、ネアが義理立てする家族の歴史は存在しないのだ。




「…………君が言うところの、気の触れそうな世界ではないからこそ、約束したその日まで風向きが変わり、波が揺らす。だからかな、これでもういいだろうという事にはならないね。本来ならやり方は幾らでもあるものだけれど、私の命や身を削って対価にすると、あの子は嫌がるだろうから」

「安全面での懸念はあるにせよ、待てないものではないからな。それに、あいつにとっての最優先は、伴侶を得る事でもない」

「…………かつて、何度も言われたよ。伴侶ではなくても共に居られるからと。でも私はね、それでは嫌なんだ」



共に寄り添い生きることこそが、伴侶になる事の目的だとネアは思うのだろう。

であれば、その形ばかりのものの為に、彼女の許容量を超えることをすれば、彼女は当然不快に思う筈だ。



(独占欲もあり愛情もある。けれどもそれは、どんなことも許すという屈服ではない。魔物には魔物たる資質があるように、ネアにはネアなりの変えられない資質の冷酷さがあるのだから)




だからまた、籠絡などからは程遠く、この獲物は時折牙を剥く。



そんな思いにひやりとさせられたのは、これ程までに奥まで踏み入り、そしてここまで深く捕らえたというその先でのことだった。



ネアは今、簡素ではあるが繊細な細工が美しい椅子に腰掛け、歌乞いとしての仕事用の机に片手をかけている。

深い瑠璃紺の天鵞絨のドレスは無駄な装飾もなく、伸びやかな手足には魔物から送られた指輪以外の飾り気もない。



この人間は本来、装飾品を多く身に付けることを好まない。

それが例え守護の意味合いのある首飾りや腕輪であれ、つけておかなくてもいいとなれば、どこかにしまい込んでしまうだろう。



とは言え、贈られた指輪の別の装飾を楽しんでいるし、全般において強欲と思えることはあれ、決して無欲ではない。

気に入ったものを手放さないその執着は、とても分かりやすいものでもある。


今も、手元にはシルハーンから贈られた小さな飾り木を模した置物があり、ネアは、それを仕事中も自分の手元に置いて離さなかった。

目の届くところに置いておき、それを守るという意味では、シルハーンに似ているとも言える。




「実はね、その扉を開けてお庭に出てみようと思った時間があったのです。ディノが、せっかくシェダー…………グレアムさんのお家に出かけている特別な時間に、私はそんなことも考える身勝手で酷い人間なのですよ。…………でも、そのような望みを持ってしまうのもまた、私自身なのです。あまりディノに優しい告白ではないので隠しておこうかなとも思ったのですが、それは公平ではありませんよね」



微笑んでそう告げた声音は穏やかで、けれどもどこか諦観に満ちた儚さであった。



「……………どうしてそのことを、私に言おうと思ったんだい?」

「ディノがそう問いかけるのは、そんな薄情なものであればと、ディノが私を放り出すかもしれないのに、私がそれを怖がらないように見えるが、どう思っているのかなと考えたからでしょうか?」

「……………真実というものは、とても単純だが毒でもある。その毒を差し出した君は、…………私に、それを拒ませたいと考えもするのかな?」

「……………ごめんなさい、ディノ。とても不安にさせてしまいましたよね?でも、毒があるものだからとあなたを怖がらせたい訳ではなくて、その毒を抱えた後ろめたさに耐えきれなくなったから、こんな告白をしたんです…………」



そう微笑み、細い指先がそっと万象の頬に触れる。



それは何でもない一日の、とある瞬間のことで、でもこうして積み上げてきた一枚の紙がまた厚みとなり、目的地までの階段になってゆく。




「…………後ろめたさ、かい?」



困惑した眼差しは本物だろう。


魔物らしくその後ろ手で様々な調整をしかけるシルハーンであっても、その全てを読みきれない。

だからこそ、この人間からは目を離せなくなる。



「はい。私がディノをどんなに好きでいても、私が私であるという要素は変えられません。だからもし、私の逡巡がディノを怖がらせたなら、それは私の気質のようなものなので、ディノを特別大事に思っているということとは別物だと、言わずに怯えさせてしまわないようにきちんと説明したかったのですが……………」

「…………ネア」



膝の上のものを持ち、向かい合わせの席から一度立ち上がったネアは、すとんとシルハーンの隣に座った。


寄り添い体を触れ合わせられてしまい、万象の魔物は途方に暮れて目元を染めている。



「でもやはり、そんな私だというところがあなたを不安にさせてしまいますか?それは、………………ちょっと、こんな人間と長くやってゆくのは無理だなという要因になり得るでしょうか?」

「君を手放すつもりはないよ」



ひやりとするその問いかけに、シルハーンは目を瞠り硬質な声で答えた。

逃げられてはまずいと思ったのか、素早く隣の座面からネアを膝の上に抱き上げる。



「…………良かったです。私はこれっぽっちも善人ではないのですが、ディノに関してのみ、ディノは私の私に並ぶ一番大切なものなので、もし嫌ならばと尋ねるのが私なりの誠実さでした。…………でも、そんなことを問いかけてぽいされたらとても嫌なので、私は、あの扉の前で迷った私を本当は隠しておきたかったんです…………」



怖がらせてしまえば、不安にさせてしまえば、それは手放すという結論の為の理由になる。

そう指摘するこの人間は、確かにそのようなものを齎すものは手放すと公言している人間なのであった。




「でもそれは、………君自身なのだね。だから私は、君がそう振る舞っても怖がらなくていいということなのかな……………」

「ええ。私はきっと、以前の私に比べるととても変わったと思うのです。とは言えそれは、私がディノが好きだからこそ変えられる部分で、そうではない、私の根幹たる要素だからこそ変えられないところもあるのでしょう。…………例えば、ディノが時々、私の足元にあれこれと不思議なものを置いてゆくように?」

「……………ご主人様」



朗らかな一言で婚約者を震え上がらせつつ、ネアは、テーブルの上の小鉢から手を伸ばして乾燥させた葡萄を取り、口に放り込んだ。




(…………っ、相変わらず、勘がいい)



あの時、雪喰い鳥の試練の魔術をシルハーンが敷いたその場には、アルテアもいた。

決して不自然なところなどなかった筈なのだ。

それなのにと思いながら、また一つ、干し葡萄を食べている人間を呆れて見上げた。



この人間は、小さな葡萄を乾燥させた干し葡萄が苦手らしく、果実らしさを残した大粒のものが好きだ。


硬くなりすぎて皮の部分がごつごつとしたものより皮が薄いものがいいと言いながらも、かつては奥歯で噛み締めるような安価で粗悪な干し葡萄でもあるだけで嬉しかったと笑う。



誕生日にも、ケーキがないことが多かった。

ストーブを点けることにも躊躇い、湯たんぽで凌ぐ日々もあったという。

一枚の安価なタオルを長持ちさせる為に試行錯誤し、憧れを生み出さない為に家の敷地からは出ないようにしていた休日の午後。



贈り物がしたかったと、ネアは言う。

けれども、日々の生活がやっとで他人に何かを贈る為の資金がないのは勿論、それを贈りたいだけの大切な人もいなかったので、今はとても豊かだと満足げに笑う。



『ここには、私がそう生きたいということが叶えられる尊厳があります。尊厳というものは、清貧さの中で叶えられる程に安くはないんですよ。私は、不運にも身綺麗にするには手のかかる素体でしたし、健康でもありませんでしたから…………』



そこにあるのは彼女自身の選択だから、自ら手放せないことは痛感している。

でももし、この夜に目を閉じて朝が来ても目が覚めなければと、そんな幕引きを願い続けた長い日々。



そんな記憶の欠片を覗き見たことがあり、また彼女自身もそれを秘して語らないということもなかった。



終焉と寄り添い、己の行先が無残な終焉に交差することを了承の上でなお、その淵をひたすらに歩き続けた日々の果てに、この人間はここまで辿り着いた。



決して軽い足取りではなく、その一歩ごとに選択を繰り返し、どこまでも、どこまでも。



万象がそれを望むのは、ネアが抱えていた恐怖や絶望が、自分と同じものだったからだろうか。

何を望み何を愛したのかということを明確にはしないものの、今の二人を見ていれば察せることも多い。


よく似た同じ心を抱えてはいても、ネアの資質はシルハーンの持つ不自由さとは正反対のものだ。

だからこそ、対になる相手として望んだのだとは思う。


例えば、ノアベルトは、彼女とは取捨選択が似ていると話すものの、ネアとは同じ側面だからこそ対にはならない。


それはどれだけ多くを持ち、或いはネアが時折口にする不可解で不愉快な理想の形とやらを満たした者がいたところで、そんな誰かにも務まらなかった役割だろう。



(対になっているからこそ、気付くという事もあるのだろうか……………)




「…………あら、そんなに怯えなくても、いつかの、私を殺してみようかと言ったアルテアさんに私をぽいっと投げて与えてみたような事ではないのだと、分かっていますよ?」

「…………与えてない…………」

「だとしても、私を怖がらせてどこにも行けないようにせんと企む、とても悪い魔物でした」

「……………ネア、君を怖がらせようとはしていないよ?」

「ええ。ディノがしていることが、そのような事ではないとは分かっています。ただ、そんな習性もあるのが魔物さんであると知ったからこそ、私の振る舞いでディノが迷走したら困るなと考えて、先程の告白を決めました。昨日の夜は、とても硝子戸を警戒していたでしょう?私はあそこから森に脱走して消えてしまう訳ではないので、その為に手札を割く必要はないんですよ?」

「………………うん」



そっと三つ編みを手に取ったネアに宥めるような口調でそう言われたシルハーンは、嬉しそうに唇の端を持ち上げて膝の上に抱えたネアを抱き締めた。



「ただし、もしどこかで困った事情が持ち上がっていて、私に隠れて私の大事な魔物を損なっていたりしたら、怒り狂って家出するかもしれません。その場合は書店で面白そうな本をたくさん買ってから失踪しますので、三日は帰って来ないかもですよ?」

「……………ひどい」

「やはりまだ、…………鹿角の聖女さんとの繋がりを断つ為の手札が足りないのではありませんか?」

「……………私は、君との契約を破棄したくないんだ。君をここに置いておく為には、君からその肩書きを外す訳にはいかない。…………でも、君は私の歌乞いだろう?」

「確か、私がヴェルクレアの歌乞いであるという事も、私を守る上で大事な要素なのですよね?」



そう尋ねられ、万象は悲しげに項垂れる。



「……………うん。人間達の定めた規則から身を守る為のものでもあるし、他の土地に連れ去られ、不当に縛られることも回避してくれる。……………例えば、君がカルウィに迷い込んで、その土地の住人だという魔術指定をされたとする。その後で君がカルウィの王族に傷を負わせた場合、明確に身分による支配を魔術上で制定しているあの国では、その王族は魔術の理において君を罰する権限を持ってしまうんだ。抜け道は幾らでもあるけれど、理として認識される土地の誓約は多岐に渡り、その全てを解くのは難しいことだ」

「予め安全なもので埋めておいてくれるのが、今の肩書きなのですね…………」



当初、ネアはこの職務から、とても厄介で面倒なものだという印象を受けたと話していた。

与えられた任務もたいそうなものに思えたし、強引に捕まえられて過酷な道を歩まされているようだったと。



でも実際にはそうではなく。

国としての管理権限と、役職統括としての権限のどちらをもエーダリアが握っている、たいそう恵まれた環境なのだと気付いてからは、安心して暮らしているそうだ。



歌乞いであることを辞めるのであれば、ネアはまず迷い子として国籍を取得することから始めなければならないし、そうなってくると移民局などの管轄になり、あのオズヴァルトという王子の派閥の管理となってしまう。


本来であれば、王族として上位権限を行使出来た筈の第三王子は現在継承権を放棄しており、オズヴァルトはもう、移民の処遇に介入出来なくなった。

エーダリアが王族から離れた役職としてガレンの長を務めていることとは違い、あの王子は王族の責務の一つとして移民局の管理をしていたに過ぎないのだ。



「そうなると、移民局の最高責任者は、ガーウィンの侯爵家とヴェルリアの伯爵家になるのですよね………」



その審査をどうにか乗り越えたとしても、今後ずっと、国家に属し入り組んだ組織の管理下に置かれることは変えようがない。


豊かな大国になっただけあり、この国で移民が国籍取得をするまでの手続きはかなり厳格化されている。

破れない魔術誓約で国家への不可侵などを誓わされてしまえば、国そのものの基盤が揺らいだ時に道連れにされてしまうこともあるだろう。



「だから君には、ヴェルクレアの国民として、その上でエーダリアの管轄にあるガレンに属する歌乞いの、その中でもエーダリア一人が背負う国の歌乞いでいて欲しい」

「そうなるとやはり、ディノとの契約を破棄することと並行して、他の魔物さんとの契約が必要になるのですね。…………まぁ、涙目になってしまいました」

「………………君は私のものだよ。だから、その契約も破棄したくないんだ。だから、幾つか他の認識や因果の魔術を動かしてみてはいるのだけど、…………」

「…………ディノ、無理はしてませんか?」




シルハーンは微笑んで首を横に振ったが、当然、無理はしているだろう。


けれどもそれを知れば、この残忍な人間は、それならばなくてもいいのではないかと言いかねない。


けれど、でもそれでなくてはならないのだ。

それがなければ失うものがなくとも、そこだけは譲るまい。

恐ろしいことに、ネアからは全く考慮されていない気がするが、伴侶にしたいと望むのは、男としての欲もあるだろう。




「…………困った魔物ですねぇ。では私はそんなディノの代わりに、ディノから他の魔物さんに乗り換える時の為に、脳内選考大会をしておきますね」

「ネアが虐待する…………」



あんまりな言葉をさらりと告げられ、シルハーンは呆然と固まった。

けれどもネアは、柔らかい苦笑を浮かべてそんな婚約者を振り返る。



「やはりここは、弟になるノアでしょうか。それともいっそ使い魔さんに頼んでもいいかもしれないですね。…………ディノ、私も私の大事な魔物との契約の破棄は寂しいですが、二人で積み上げてきたものは変わりませんし、それでもと思うのなら案外どうにでもなるものです。事情を分かって協力してくれる方にお願いすれば、怖いことはないとは思いませんか?ディノはもう、皆さんがディノの味方だと信じられるようになったでしょう?」



そう微笑んだ人間に、それでは足りないのだと説明するのは難しいだろう。


でもそれは魔物が魔物たるが故の罪と不自由さであり、その全てを詳らかにすることだけが彼女に対する誠実さでもない。



グレアムの借りた部屋の中でテーブルを囲み、アルテア達がその運命の風向きを変える為にと考えたことの中には、まっとうな人間であれば嫌悪感を抱くような下劣な策も幾つかあった。



あの場にいて、それをネアに知らせたいと思う魔物は、一人もいない筈だ。




「……………ネア」

「この、グレアムさんからの贈り物な懐かしの巻き角ちびふわを見ていると、ちびふわ時のアルテアさん限定で、歌乞いの契約をするのもいいかもしれませんね。ちびふわが相手なら、ディノも荒ぶらないのでは?」

「……………でも、ちびふわは、歌われても大丈夫かな……………」

「……………………私が歌っても儚くならない方でなければということを、すっかり失念していました……………」

「フキュフ………………」




本当に死ぬかもしれないので、膝の上から暗い目で見上げれば、掴まれて容赦無くひっくり返され、腹部を撫で回された。




(だが、一度だけ聴いたあの歌であれば、悪くはないか………………)



歌乞いは、歌によって魔物の契約を取り付けなくてはならない。

それもまた、とても厄介な問題だった。










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