特別な暖炉と我が儘な冒険者
(今日はディノがおでかけだから…………)
だからネアはその夜、一人で入浴して髪を乾かした。
ディノは、グレアムの自宅に押しかけて密談して来るというノアが一人で出かけるのが色々心配だということで、今夜は珍しく一緒に出かけているのだ。
グレアムとノアの間には、かつては色々な問題があったという。
ノアがまだ心の動かし方を知らずにいた頃、大きな舞踏会でディノを傷付けた事はネアも聞いていた。
その時に誰よりも怒っていたのがグレアムで、ノアも、その時のディノの心の痛みを察する事が出来るようになってからは、その時の自分の行いを反省しているという。
(でも、ノアがそう思っていることを、シェダーさんは知らないかもしれないから…………)
そんな過去のある二人が、グレアムの、それも恐らくは人間としてひっそり暮らしている家で差し向かいになると聞き、ディノは慌ててしまったらしい。
自分一人では御せない可能性も考えたのか、なぜかまだ帰っていなかったアルテアも持って行ったので、なかなかネアの使い魔を信頼してくれているようだ。
(ウィリアムさんも、早く加われるといいのだけれど…………)
きっと、遠からずしてその日は来るだろう。
ウィリアムが喜ぶ様を思い描き、ネアは浴槽の中でむふふと微笑みを深めた。
(そうしたら、ウィリアムさんもお家に遊びに行けるのかしら………)
ネアの部屋には、浴室が二つある。
メインとなるのは、主人の部屋に用意された、男性が三人くらい入れる大きな浴槽のある浴室で、実はそこはあまり使われていない。
当然だが、主となる浴室らしくとても壮麗で綺麗なところなのだが、お湯も入浴剤もたっぷり必要なので、元王宮に住んでいるとは言え、普段使いの浴槽は相応の大きさで構わない一般人は、いささか気後れしてしまうのだ。
よって、日頃の生活でネア達が愛用しているのは、控えの浴室である。
こちらは、部屋の主人に仕える側仕えや代理妖精の部屋の浴室であり、羽のある生き物用なので決して狭くはなく、かといって入浴剤の瓶を一度で空にする程広くもない。
実はこの浴室は最近手入れされたばかりで、ネアがこの部屋に暮らし始めた頃からは少々様変わりしている。
浴室でディノが何らかのご機嫌モードに入ったことがあり、その時に浴槽から素晴らしい鉱石の薔薇が育ってしまった。
とても美しいのだが入浴には邪魔なのでと、補修業者を呼んで薔薇を削ろうとしたところ、エーダリアが半泣きで阻止してきたので、浴槽の総取り替えとなった次第だ。
元の浴槽は丁寧に外し、湖水水晶と夜結晶の台座を取り付けられた。
今は、リーエンベルクの地下にある魔術基盤などの区画で、清廉な地下水を張って、薄い氷めいた地脈の結晶石を育てる為の入れ物となっている。
この結晶石は、土地が乱れたところに持って行けば魔術の流れを新たに育てるそうで、時には成長が思わしくない花壇にも、砕いて撒かれていたりするそうだ。
そんな経緯でやって来た新しい浴槽に、ネアは体を伸ばした。
「ふぁ………………」
こちらは鉱石の薔薇は育てない生き物であるものの、気持ち良さにむふんと心を緩めて小さく声を上げる。
中央が少し括れたような形の楕円形のバスタブは雪結晶で作られた真っ白なものなのだが、溜めたお湯はアクアマリンのような透き通った水色に見える。
そこまでは特に珍しくはないものの、湯気がしゃわんとダイヤモンドダストのようにきらきらしたり、お湯の中に不思議な森の記憶が揺らげば、人ならざるもの達の住まう不思議な世界のお風呂という感じがする。
今日は入浴剤なしでそんなお湯を楽しむことにして、ネアは真っ白な浴槽の中でぐぐっと体を伸ばした。
入浴を終えた後はタオルで髪を乾かせば、ディノが置いていってくれた祝福つきのタオルは、髪の毛をあっという間に乾かし、ふんわりと整えてくれる。
「………ふぅ」
アルテアに叱られない程度の肌の手入れを済まして、まだ寝るものかと寝間着ではなくリーエンベルク屋内着に着替え、窓の外に視線を向ける。
窓の外は雪がやみ、ふくよかな祝祭の季節の夜の色がたなびいていた。
けぶるような星雲の光と、ちかちかと煌めくもう少し大きな星たち。
そして細い月と、膨らんだまま夜に微睡み蕾を閉じた真っ赤な薔薇の花が雪の庭園で眠っている。
この世界では、ネアの知る通りの季節に咲き華やぐ花々と、どんな季節にも咲く花や、なぜにそこで咲くのだという花がある。
繊細な紫色をそれぞれに揺らすセージやタイムは本来は夏の花なのだが、こちらでは冬から早春の季節にも雪セージや氷雪タイムの花が咲き乱れるのだ。
リナリアにシラー、ウィームのナナカマドは雪の加護を受けて光るような白い花を咲かせる。
白ピンク色の雪待ちカンパニュラは、新雪の系譜の守護の花なので、新年には枯れてしまうそうだ。
カタンと、水晶にエッチングの細やかな模様が飾り木を描く中扉を開け、続き間の暗い部屋からまた違う角度の庭を眺めた。
何だか寂しい筈の一人の夜だが、あまりこのような事がないので生来の一人上手は心が浮き立ち始めてしまっている。
荒ぶるわくわくをどうにか鎮めようとしたのだが、どうしてもディノがいる時には出来ないようなことをしてみたくて、こんな時間にもうずうずしてくるのはなぜだろう。
(夜のお庭に出て、冬の星空を雪と花に囲まれて見てみたい…………)
一人で表門に向いた部屋に行き、あの素晴らしいリーエンベルクの飾り木をじっくり眺めるとか、誰もいない会食堂で冬聖の小枝をつつくとか。
でもそれは、きっといけないことなのだと思うと、ほんの少しだけ心の奥がざわりと揺れる。
もう二度と一人の頃には戻りたくないから許容する、一人ではない時間というものもあって、でもそれは天秤にかけて選んだものだと、ネアだけは知っている。
この美しい世界で、本当は一人で冬の中に立ち、冴え冴えと澄み渡る美麗なるイブメリアの夜の息吹を感じてみたい。
(とは言え、そう思えるのは、今の私が一人ではないからだわ。…………誰にも言わないで愚かなことをする理由にはならない…………)
例えば、いつもとは趣向を変えてエーダリアを夜の散歩に誘えるのなら、悪くないとは思うのだ。
上手く説明出来ないものの、エーダリアはこちら側で、同じ人間でも、庇護者であるグラストは向こう側だと感じてしまう。
その線引きは何かがどうしてもどこかで違っていて、ネアは、胸の疼きをぐっと飲み込もうとして、ばたんと近くにあった長椅子のクッションに突っ伏した。
「………………むぐ」
そろりと体を起こして獣のような目で周囲を伺い、ネアは、ゆっくりと歩いて行くと庭に出る硝子戸の前に立ってみる。
ここに立って少しだけの外気分を味わい、荒ぶる冒険心を宥めようとしたのだが、運悪く、雪のやんだ美しい冬の夜の庭にはきらきら光る結晶石が落ちていたり、ぺかりと光る雪蛍がいたり、その他のよく分からないとても楽しそうなものが多過ぎた。
「す、少しだけ…………、少しだけなら…………。お庭ですし……………」
譫言のように呟き、硝子戸の留め金に手をかける。
この硝子戸の留め金は少し変わっていて、装飾のある美しい雪結晶のレバーを上げて留め金を下げることで、扉を開けるのだ。
キンと、水を張ったグラスを濡れた指で触るような音がして、留め金が外れる。
後はもう扉を開けて庭に解き放たれるだけだが、あまりにも善良過ぎるネアはそれをまだ躊躇っていた。
叱られるのは構わないが、ディノが悲しむのは嫌だ。
そう考えてぐぐっと眉を顰め、ネアはかしゃんと留め金を留め直した。
「…………そう言えば、」
そこでふと思い出したのは、飾り木のある、とある居間のことだ。
その部屋では、リーエンベルクでは珍しく暖炉に火が入っており、けれどもそれは、外には繋がらず門にはならないという安全な擬似暖炉であるらしい。
リースに使った木や葉の残りを燃やして、限定的な魔術焚き上げを行なっているのだ。
その部屋の暖炉には暖炉の妖精の特別な石が使われているそうで、時折火を入れてやらないと石が脆くなってしまうのだとか。
ここ数日の間は、安心して暖炉に火が入っている風の楽しみを得られるとヒルドに教えて貰っていたのを、ネアは今思い出した。
(ヒルドさんに安全を保障されているのだから、きっと大丈夫の筈…………)
つい先程までは会食堂へのお出かけも躊躇っていたのだが、既に比較対象が庭に一人で出ることになってしまったネアは、心が昂りびょいんと弾んだ。
「……………門にならない暖炉なので、これはもう見に行くしかありません…………!!」
とても素敵な気分でそう呟き、ネアは、念の為にと、ディノのカードにメッセージを残した。
その部屋は共用の居間扱いなので、特に危険もなく、住居棟の中でも会食堂近くのかなり最深部にあるので、一人で訪れても安心な部屋に違いない。
カードにも記しておいたしとすっかりいい気分で部屋を出ると、ネアはぱたぱたと廊下を走った。
(暖炉に火が燃えていたら、きっと素敵だわ…………)
危なくない冒険を選んだし、きちんと報告もしたのだが、なぜかいけないことをしているような不思議な思いで胸がいっぱいになる。
とは言え、このような場面ではそれもまた素敵な気分ではないかという邪悪なことも考えながら、笑顔のままその部屋に突入したネアはびしりと固まった。
「…………火が消えてる……………」
残念ながら来るのが遅かったのか、暖炉の火はすっかり消えていた。
あまりの落胆に、ネアはへなへなと座り込みそうになり、すっかり落ち込んだままその部屋の長椅子に歩み寄ると、その座面にふかりと沈んだ。
リーエンベルクの長椅子は古いものも多いが、どれもクッション性は抜群でとても座り心地がいい。
そんな優しい座り心地がまた悲しくて、ここで銀狐ならムギーと鳴いて荒れ狂うところだが、残念ながらネアは立派な淑女であった。
「ふぎゅ……………」
ただ力なく長椅子に座り崩れ、虚ろな目で火のない暖炉を眺めていた。
夜の楽しい冒険気分は萎れてしまい、何と残酷な世界だろうと、この世の悲しみを噛み締める。
「ほぇ、ネアだ」
その時のことだった。
反対側の長椅子から悲しげな声がして、いつもよりはどこか凄艶な眼差しではあるものの、なぜかくしゃりと涙目になっている見慣れたターバン頭の魔物が顔を出した。
「………ヨシュアさん?」
「……………暖炉の火なら消えてるよ。さっき、ここの家事妖精が僕の目の前で消したんだ…………」
打ち拉がれた声でそう呟き、ヨシュアはまたクッションに顔を埋める。
ネアは、仲間がいたことよりも、なぜ雲の魔物が当然のようにここにいるのかに首を傾げ、とても傷付いた様子の本人に問いかけてみた。
「どうして、リーエンベルクにいるのですか?」
そう尋ねると、再びクッションから頭が上がり、涙を溜めてきらきらと光る銀灰色の瞳がふにゃりと悲しげに歪んだ。
「イーザも来てるんだよ。ヒルドやエーダリアと約束があったんだけど、時間が合わなくてこんな夜になったんだ。そしたらイーザが、今夜のリーエンベルクは人が少なくなるらしいから、ここで見張りをしているようにって僕を置いていった…………」
「まぁ、このお部屋に?」
「うん。イーザ達は何個か隣の部屋にいるよ」
となると、イーザ達がいるのは、珍しくも会食堂という線が濃厚である。
何の打ち合わせだろうと不思議に思ったが、ヒルドはイーザとは仲がいい。
元々何らかの約束があり、その上でディノ達がリーエンベルクを空けるこの時間にあえて合わせてくれた可能性もある。
(だからいつものお客様用の部屋ではなくて、この住居棟に来てくれているのではないかしら…………?)
「………………さっきまでは、暖炉に火が燃えてたんだ。だからここにいるよって言ったのに…………」
「……………その様子では、暖炉の火がとても気に入っていたのですね?」
「……………僕がいたのに、あの妖精が火を消したんだ」
「私も、その暖炉の火を見に来たのですが、到着時にはもう消えていました……………」
二人は悲しげに顔を見合わせ、深い深い溜め息を吐いた。
今の時刻は夜であるので、ヨシュアは、夜の雲の資質を強めて本来ならもう少し酷薄な魔物らしい言動が見られても不思議はない。
しかし今は、暖炉の火が消えた悲しみからすっかりしょぼくれていた。
「このお部屋に綺麗な飾り木がなければ、私は運命の残酷さに荒れ狂っているところでした…………」
「僕は、こんな木よりも、リースや暖炉がいい…………」
「…………ふと気になったのですが、魔物さんは暖炉を嫌うのではなかったのでしょうか?」
「扉になるから暖炉は嫌いだよ。でもこれは扉になっていなかったし、ぱちぱち薪が燃えてたからね」
「……………私も、だからこそ一人でも見にこられたのです。…………そしてリースが好きなら、中庭の外扉にある薔薇のリースが、しゅわしゅわと星の光に燃えていてとても綺麗ですよ」
ネアがそう言うと、へしゃげていた雲の魔物はむくりと起き上がった。
潤ませていた瞳は強く輝き、どこか高位の魔物らしいしたたかで美しい微笑みをこちらに向ける。
「僕をそこに案内するといいよ。そうしたら、暖炉の火を消したことで恨まないでいてあげるからね」
「…………むむぅ、会食堂で打ち合わせ中のみなさんの邪魔をせず、紳士的に私をそこまで連れ出す許可を取り付けてくれたなら、一人だけ火が入った暖炉を見たヨシュアさんに八つ当たりしません」
「…………ほぇ、…………八つ当たり」
「一瞬仲間かなと思いましたが、よく考えたら、ヨシュアさんは暖炉の薪がぱちぱち燃えているのを見たのではありませんか。ずるいです……………」
「…………許可を取ってくれば、僕にリースを見せるんだね?」
「みなさんのお邪魔をせずに、穏便にですよ?」
「わかった…………」
狡猾な人間に言い包められ、雲の魔物は慄きながらすっと立ち上がると、部屋を出て行こうとしてばたんと倒れた。
「…………ふぇ」
「ヨシュアさん?」
「……………出られなくされてる」
「まぁ、…………それは何と言うか、とても管理が行き届いていますね」
「…………イーザは、もっと僕を敬うべきだと思うよ」
「ヨシュアさんのことを、誰よりも分かっているからだと思いますよ。それにこの足音は、イーザさんが来たのかもしれませんね」
ぱたぱたと足音が聞こえてきた。
部屋の入り口で倒れたままの魔物と長椅子に潰れたままのネアがそちらを見ると、慌てた様子で部屋に入ってきた二人の妖精は驚いたようだった。
「ネア様、お部屋にいらっしゃったのでは?」
「ヒルドさん…………。ディノが出かけていて自由………手持ち無沙汰でしたので、暖炉のお部屋を見に来たのです。火が消えていて意気消沈していたところで、同じく火が消えてしょんぼりのヨシュアさんと出会いました」
「おや、それは申し訳ないことをしました。夜間の管理は手がかかりますので、毎日この時間には火を落としてしまうんです。ネア様が楽しみにされていたのなら、もう少し火を残しておいたのですが………」
そう慰めて貰うネアがいる一方、儚く床に倒れたヨシュアは、仁王立ちになったイーザから叱られていた。
「ヨシュア?あなたが自ら、この部屋で待っていると約束をしたのでしょう?」
「…………暖炉の火を消すからいけないのだと思うよ。僕はネアとリースを見に行くんだから、イーザはこの誓約結界を解くべきだ」
「ネア様とリースを?」
冷ややかに問いかけそう眉を持ち上げたイーザに、怖気付いたヨシュアがすっかり怯えてしまったので、ネアが続きを説明することになった。
そちらを見れば、イーザは穏やかに微笑んで予期せぬ夜の出会いの挨拶をしてくれた。
ネアも、慌てて淑女のお作法を思い出しながら返事をする。
そうして、暖炉の火が消えてしまって落ち込んだ二人が、中庭の外扉にある薔薇のリースを見に行く冒険の為の許可を取り付ける筈だったのだと説明すれば、なぜか妖精達は、とても冷ややかな眼差しでヨシュアを見るではないか。
「…………きちんとネア様をお守り出来ますか?」
「ふぇ、怒ってる…………」
「確かに、ヨシュア様とお二人となると、いささか心配ではありますね」
「……………ネアがいるから大丈夫だよ」
「…………ヨシュア。なぜあなたは、ネア様に守っていただく前提なのですか……………」
「だって、ネアが一番強いよ。アルテアも倒せるし…………」
「それは当然のこととして、それでもげぼ……………お守りするのが、あなたの役目では?」
「ふぇぇ!睨んだ!」
「……………むぅ、私よりはヨシュアさんの方がお強いのでは…………。夜ですしね」
ここはネア一人だと止められてしまう可能性があり、保護者保護者していない保護者が必要な場面だからと、ネアは目をしぱしぱさせて、脆弱な人間のか弱さをアピールしてみる。
すると、褒められたヨシュアがとても張り切り、狙った方向からではないもののリース鑑賞の冒険の許可が下りた。
案外あっさりと許されたことに、ネアは内心首を傾げた。
「では、中庭の結界を強化しておきますので、安心してゆっくりと楽しんで来て下さい。ただし、ネア様は就寝前ですので暖かくしてゆくように」
「…………ふぁい。冒険感は死に絶えましたが、安心に包まれてリースを見て来ますね」
「おや、ディノ様がご不在の間に、一人でどんな冒険をされるおつもりだったのですか?」
隠した我が儘までを見透かすような優しい瑠璃色の瞳に微笑まれ、ネアはくすんと鼻を鳴らした。
こんな素敵な夜なのだし、一人で何か特別なことが出来たらとわくわくしてしまったことを、ヒルドは察してくれたらしい。
とは言え、察してくれたとしても賛成してくれた訳ではないようだ。
「ディノ様の伴侶になられた後ならば、今よりも自由がきくようになると思いますよ。ですが今は、少々心許ないかもしれませんが、ヨシュア様をお連れいただきますよう」
「…………ふぁい。ヨシュアさんを連れて行きます」
「僕はとても強いからね。ネアくらい簡単に守ってあげるよ」
「……………ヨシュア、くれぐれも頼みましたよ。もしもの事があれば……………」
「…………ほぇ、イーザが……………」
イーザにまた睨まれたと震え上がり、ヨシュアは、ネアの影に隠れるようにして背中にへばりついた。
出立の前に弱体化されてしまったが、ネアは、仕方なくそんな雲の魔物を目的地まで引き連れてゆくことにする。
(…………でも、ヒルドさん達は自分達も一緒に行くとは言わなかったな。もしかすると、そこは緩めて許してくれた部分なのかしら…………)
打ち合わせは、リーエンベルクの管理に及ぶ、前々から話の上がっていた霧雨の一族との今後の提携についてや、霧雨の妖精のお城に泊まれる騎士達の研修制度についてであり、特段至急のものではないらしい。
ヒルドもイーザも、誰かに寄り添い、その意向を考慮し調整することに長けた妖精達ではないか。
(二人とも、私の気持ちを汲んでくれたのかもしれない…………)
そんな妖精達の優しさについて考えつつ、ネアは、ヨシュアを引き連れてお目当てのリースが飾られている場所に来た。
「ヨシュアさん、この扉の外側のリースですよ。…………扉を開けますね」
「……………ほぇ、扉の向こう側が明るいよ」
通用口の扉を開けてその外側を見るだけなので、すっかり冒険ではなくなったが、やはりこうして美しく特別なものに近付くと心が弾む。
ネアは、消えた暖炉の火のように失われた筈のわくわくする心を抱き締め、かちゃりと扉を開けた。
「ほぇぇ…………」
そこは、雪に覆われた夜の庭園が広がっている。
噴水の水の一部は凍り、その表面に霜がおりて砂糖をまぶしたようにきらきらと光っている。
そこに宿る淡い光は、妖精達だろうか。
美しい冬の夜に溺れるように、ゆったりと煌めき飛び交っていた。
お目当てのリースは、ネアが見たことのある夕暮れ時とはまた違う魔術の光を纏い、所詮代替案という汚れた心も持っていたネアを驚かせた。
「まぁ!この時間になるとこんな風に光るのですね。ダイヤモンドダストを纏うようで、なんて素敵なのでしょう!」
「…………光っているけど、燃えてはないんだね。寒いし……………」
「…………おのれ、こんなに綺麗なのに、なぜがっかり風なのだ………!」
ネアは、思っていたよりもずっと美しい姿を見せてくれた薔薇のリースに嬉しくなってしまったのだが、残念ながら燃えているとは言えないので、ヨシュアは思い描いていたものと違かったようだ。
やっぱり暖炉がいいと、駄々を捏ね始める。
「外だから寒いし、もう飽きたかな。ほら中に入るんだよ」
「……………むぐ。もう少し我慢して下さいね。私は、絶賛こちらのリースを堪能中なのです」
「僕がもういいんだから、帰るんだよ!やっぱりあの部屋に戻って、暖炉に火を入れさせようよ…………ぎゃあ!叩いた!!」
ころりとしたフォルムの赤い薔薇と淡いピンク色の薔薇で作られたリースは、それだけでも充分に美しいのに、しゅわりきらきらと煌めいている。
夜の中でその煌めきを帯びると、青白く燃える時よりもくっきりと薔薇らしさが際立ち、ネアはとても満ち足りた気分でリースを鑑賞していたのだ。
折しも、はらはらと雪が降り始め、その雪片がリースの煌めきを映して、えもいわれぬ美しさを見せ初めていた時でもあった。
「むぐる!」
外に出てリースを一瞥しただけな我が儘なヨシュアに、今すぐ中に入ろうとぐいぐい袖を引っ張られて引き摺られ、ネアは怒り狂った。
せっかくの素敵な気分を台無しにされて暴れる人間と、泣き出した魔物といういささか混乱しかけた現場に戻って来たのは、ディノとノアだ。
「…………ずるい。ネアが、ヨシュアにご褒美をあげてる…………」
「え、これって、何が起こってこうなったのさ…………」
「ふえええ!ネアが虐めるよ。僕は暖炉がいいんだ!」
「私とて、本当は暖炉に火が入っているのが見たかったのです!少しは見たくせに、やっと素敵なものに出会えた私の気分を台無しにするなんて、ゆるすまじですよ!」
「暖炉がいいんだ………………ふぇ」
「わ、私だって暖炉を諦めたのに、……………ふぎゅ」
「ご主人様……………」
「…………ええと、これはもう、僕が火の入った暖炉を用意すればいいのかな?」
かくして、先程の部屋に戻ったネア達の前で、特別にもう一度暖炉に火が入れられた。
火を消したばかりの暖炉には赤々と火が踊り、ぱちぱちと音を立て、噛り付きでご満悦の魔物と人間を生み出す。
ノアが魔術で管理してくれることを条件に、ヒルドもこの我が儘を許してくれた。
「暖炉の火が見たかったのだね」
「……………はい。こうして気分が落ち着くと、少し反省してきました。私がお部屋を出たせいで、ディノ達の帰宅時間を早めてはいませんか?」
そう問いかけると、大事な魔物は大丈夫だよと微笑んでくれた。
だから、一人上手の人間のどうしても封じ込められない一つの欲求は、まだ少しだけ秘密にしておこう。
やっぱりあの扉を開けなくて良かったと微笑んだネアだったが、部屋に帰ると魔物がとても硝子戸を警戒していたので、実は全部見られていたのかもしれない。
なお、ヨシュアは暖炉から離れなくなってしまい、イーザに引き摺られて漸く帰って行ったそうだ。
また来ると話していたと、ヒルドは少しだけ遠い目をしていた。