グレアム
初めてその姿を見かけたのは、いつだっただろう。
ばたばたと吹きすさぶ雪交じりの風の中、ただ無心に美しい瞳で人々が暮らす街を眺めていた横顔には、彼自身が認識していないような切切たる憧れが見えた。
「寒くありませんか?」
思わずそう尋ねてしまい、振り返った瞳がふつりと揺れる。
そう尋ねられたことが嬉しかったのだけれど、それを理解出来ていない無垢な困惑に、どうにかしてその傷深い心に触れようと、微笑んで頷いた。
穏やかな声は決して空虚でも平坦でもなく、万象を司る魔物の王は、ただ静かな声で寒くはないよと律儀に返事をしてくれた。
彼はいつも、夜明けの空とも明るい夜空とも思える澄明な紺色の瞳を無防備に揺らして、世界の雑多な営みや複雑怪奇な人々の愛憎劇を眺めていた。
どんな美しいものも、どんな稀なるものも容易く手に入ってしまうその手のひらには、そんな彼が慈しむべき優しいものは何一つとして残らない。
享楽や饗宴、狂乱に慟哭。
執着に妄執、崇拝や情景も。
その足下を通り過ぎてゆく鮮やかで激しい思いの全てには、想像がつかないくらいの高貴な者達が自身の証跡を残した。
勿論、シルハーンを望まない者達もいる。
けれどもそれは、彼と近しいからこそその無尽蔵さを知り、己の矜持や安定の為に万象を望むことを放棄した者が多く、或いは彼を知らないからこそ望まない者達ばかりであった。
その声音一つで彼は殆どを調整したし、その眼差し一つで容易く殺した。
けれどもその歩みの全ては、目隠しをされて暗い道を歩かされる幼子の絶望にも似て、どこへも行けないその恐怖の中で、彼の微笑みは一切の温度を欠いてゆく美しい花のように思えたのだ。
ずっと昔。
このウィームの街を共に歩いたことがある。
シルハーンに寄り添うのであればこのような土地ではないかと思い、この辺りの土地の統括の役目に名乗り出てみた。
土地に満ちた潤沢な魔術のお蔭で、人間達は人ならざる者達の存在に慣れていたし、その中には最高位に近しい者達も巧妙に紛れ込んでいる。
それは例えば、アルテアやアイザックなどだけでなく、他にも様々な魔物やそれ以外の高位の生き物達がこの国を愛し、そこに根付いてきた。
ここならばと思い、様々な調査の為にとまずは自分がその暮らしに馴染めば、美しくあたたかなその国を自然と深く愛するようになった。
けれどもやはり、市井に紛れ込む技量を持った器用な彼等と、そんなことを出来もしない無垢な万象の王はやはり違うらしい。
グレアムの敬愛する王は、どうかこの人だけはとその幸福を願う人は、擬態をした上でも不安そうに瞳を揺らし、所在なく人々が行き交う街の中に立ち尽くしているばかり。
それは、国や国民達が幸福であるからこそいっそうに無残で、彼を絶望させる光景に他ならなかった。
そんな、かつては彼に安らぎを与えなかった街の中を今、彼は彼の愛する歌乞いと歩いている。
「ディノ、これはホットワインの屋台です。ホットワインは飲んだことはありますか?」
「……………良く分らないけれど、あると思うよ」
「ではその時に、なかなか悪くないだとか、美味しかっただとか、飲んだ感想を持ちました?」
「………………覚えていないかな」
「では、私が一杯買って分けてあげますので、一口飲んでみて美味しかったら、ディノの分も買いましょうか?このカップの大きさで出てきてしまうので、買ってから美味しくなかったら悲しいですものね」
「……………悲しい、と思うのかな」
不思議そうに首を傾げたシルハーンの姿にはらはらしたが、青みがかった灰色の、ウィームの霧の日の夜空のような髪色をした少女は、見ようによっては冷淡にも見える表情を変えずに唇の端だけを器用に持ち上げた。
ともすればその可動域で幼い子供に見える少女だが、眼差しにはひどく老成した諦観が過ぎることもある。
あれは、終焉を知る者の眼差しだろう。
「美味しくもない飲み物をカップ一杯も押しつけられて、あなたの責任でどうにかし給えと言われたら悲しいと思いますよ。ましてや、こんな風に皆さんが楽しそうに過ごしている中で、なぜ自分の手の中には美味しくない飲み物があるのだろうと、きっとむしゃくしゃしてくるに違いません」
「……………でも、その、……………飲み物や食べ物を分け合うのは、親しい者だけでのことだと聞いているよ」
「……………その問題を失念していました。私のカップから一口飲むのは、ディノも嫌ですよね。であれば………」
そうではないのだと、もどかしい思いで胸が苦しくなる。
この関係で同じカップから飲み物を飲んでいいのかどうか、シルハーンは知らないのだ。
かつてそのような振る舞いを万象に教えた者もいたが、包丁の魔物であったその男は、親しい振る舞いの全ては、愛するものと分かち合う高度な恩寵であるとも教え込んでしまった。
彼との会話の中から、市井の暮らしの気安さやあたたかさを知ればと好ましく見守っていたが、そんな教えの中の包丁の魔物らしい冗談やほのめかしには気付かず、シルハーンはただ、であれば自分には得られないような特別なものであると理解したようだ。
なぜ、自分にはそのようなものはなく、なぜ人々はそういうものを容易く手に入れられるのだろうと、落胆したまま帰ってきたシルハーンの姿に胸が潰れそうになったあの日。
「……………………ネア、」
「ディノ……………?」
何かを言おうとして口ごもったシルハーンに、勘のいい少女はふっと微笑みを深める。
まずは少しここで待つようにと言い含めて、所在なさげなシルハーンをその場に残すと、すぐに一杯のホットワインを買って戻ってきた。
持って来られたものよりも、シルハーンは、彼女が戻って来たことが嬉しいようだ。
安堵に緩んだ眼差しは寄る辺なく、けれども、魔物らしく整えられた凄艶な面立ちは、残念ながらその拙さを隠してしまう。
(気付いてくれないだろうか……………)
その苦しみや孤独に。
或いは慟哭にも似た願いに。
グレアムが、狂乱のその中で滅ぼされ形もなくなる中で見上げた万象の王は、淡く微笑んだまま、目眩がする程に深く絶望していた。
泣いているのだと分かった。
シルハーンがシルハーンなりに泣いているのだと分かったのは、誰よりもグレアムが彼の側にいたからだ。
あの方が一人になる。
もう消えてしまいたいけれど、でもあの方が一人になる。
そう考えると自分の愚かさに息が止まりそうになって、声なき声で咽び泣いた。
それは、エヴァレインを愛し、その喪失にずたずたにされた心とはまた別の、グレアムの心の別の部屋に残された執着や愛が上げる悲鳴だったのだろう。
(このまま、あの方を一人にしておけるものか…………。俺は、あの方を一人になど出来るものか…………!)
だからグレアムは、もし自分が望まぬ死を迎えた時にはと遺しておいた、あの魔術を使ったのだ。
それは、とある国の守護の形で敷き、組み上げた、大国の安寧の一つを丸ごと贄にする強大な犠牲の魔術である。
グレアム自身だけが支払う対価でも補えないその錬成を可能とする為に、一体どれだけの人々の運命が犠牲となったのだろう。
だがそれでも。
それでも知ったことかと思うのは、やはりグレアムが魔物という生き物だからなのかもしれない。
そこまでの覚悟を決めてこの世界から去ったが、けれどもやはり、その術式を起動することには躊躇いがあった。
なぜならば、新しく派生し直したその誰かは、確かに新代の犠牲の魔物としての自我を持ち合わせていたのだから。
もはやグレアムではない彼がその全てを差し出し、前歴の誰かにこの命を譲ることを受け入れられる者はどれだけいるだろう。
(だからこそ、あえて蝋燭にされるまでに魂を一度歪めた。蝋燭としてこの世界のどこかにその心を残しておけば、入れ替えの魔術を行い易いと思ったからだ…………)
燭台の塔が在る場所の時間軸は、こちらの表側の時間軸からはだいぶ外れた場所にある。
かつての計算では、時間の運行に五年ほどの時差があるようで、つまりはその時間差こそが重複する運命の分岐点となる。
このグレアムの意思がどこかに残っていれば、新しく派生した犠牲の魔物もこちらの執念に引き摺られやすい。
それに、蝋燭に成り果てて失われる程の妄執でもあるまい。
グレアムは、願い事を司る魔物でもあるのだ。
視線の先では、シルハーンがあの少女と会話をしていた。
顔を覗き込まれて微かに狼狽し、けれどもやはりその心の動きは表には出ない。
「さては、誰かと飲み物を分け合いっこしたことがありませんね?」
「そういうことはしないかな…………」
「では、もし嫌でなければこれを一口飲んでみて下さい。ディノが最初の一口なので、気にならないでしょう?美味しければそれはディノにあげますし、もし気に入らなければ私が貰います。その際、私が同じカップから飲むのが気になるのなら、お店で新しい紙のカップを貰ってきますからね」
「………………君が嫌でなければ、私は気にならないよ」
「まぁ、ではこれからも一緒に分け合いっこが出来ますね?」
「君は、……………私と飲み物を分けるのは、嫌ではないのかい?」
おずおずとそう尋ねたシルハーンに、少女は目を瞠ってから、ひどく優しい微笑みを浮かべた。
そんな表情をすれば、静謐と言ってもよかった端正だが冷やかな面立ちがふわりとほころび、微笑み一つでこちらの全てを受け入れられたような秘めやかさに襲われる。
それは勿論、この少女をこよなく愛するシルハーンにとってもそうだったのだろう。
「まぁ、どうして私がディノとの分け合いっこを嫌がるのでしょう?ディノは私の契約の魔物ですし、こんな風に綺麗なツリー…………飾り木のある街の屋台で、あたたかくて美味しいものを一緒に楽しみたいと思うくらいには、大切な同僚ですよ?」
「………………同僚」
それは悲しかったのか、シルハーンは微かに項垂れた。
けれどもそこには、であればどうやってこの少女の心を捕まえようかという魔物らしい企みも見える。
「ささ、飲んでみて下さいね。これが気に入らなくても、他にも色々なものがあるので、ディノが気に入るものを探しましょう。今日はお休みなので、時間は幾らでもありますから」
目を輝かせてそのホットワインを一口飲み、シルハーンは幸せそうに目元を染めた。
勿論そのホットワインが口に合ったのだろうし、それ以上に彼女の言葉が嬉しかったのだろう。
そんな風に寄り添い、彼に何でもない屋台の温かな飲み物を与えようとした者は、今迄誰もいなかったのだ。
グレアムですら、王が飲んでみたいと思うお気に入りの飲み物を探す手伝いなど、したことはない。
伴侶や話し相手になるような友人をと画策はしたものの、それはやはり、どれだけ幼くとも無垢でも、万象の王に相応しいものをと選ばれていたからだ。
「……………美味しい」
「ふふ、良かったです。ディノが美味しいと思うものなら、きっと私も大好きになるに違いありません。私の分も買ってきますので、ここで待っていて下さいね。…………あら、一緒に来ますか?」
「……………うん」
自分が買って貰ったホットワインを両手で持ち、シルハーンはどこかくすぐったそうに唇の端を持ち上げて、青灰色の髪の少女の後を歩く。
彼女は自分の分の飲み物を手際よく注文すると、イブメリアの季節に良く売られている甘いパンを買って、それもシルハーンに分け与えていた。
初めて食べるものなのだろう。
困惑した様子でそれを受け取り、また今度は食べ方を教えられている。
そちらは気に入ったが、次に与えられた辛いソーセージは好きではなかったらしい。
「これも、……………おいし…」
「………………ディノ、美味しくない場合や、食べた後に悲しい気持ちになる場合、それは苦手な食べ物ですからね?そのようなものはもういらないと言っていいんですよ?」
「でも、…………君は食べるのだろう?」
「私と同じでなくても、一緒にいられないということにはならないんですよ。それに私も、このソーセージは思ったよりも辛かったので、次はなしでしょうか。また別の、ディノと二人で美味しく食べられるものを探したいので、次はあちらの香草のものにしてみますね…………」
「ご主人様!」
きっとあの少女は、食べ物を分かち合うことのその意味を知らないのだ。
シルハーンも勿論、彼女が正式な意味を知らずにふるまっていることくらい、知っているのだと思う。
それでもなお、彼女がそうして知らずに自分と分け合う行為が、あなたが大切だと声なき声で謳うのが幸せなのだと思う。
その途中、小さな妖精の一匹が外での飲食に慣れないシルハーンの動作のおぼつかなさに気付いたものか、狙いを定めて襲いかかろうとしていた。
勿論シルハーン自身もすぐに気付き、近付けば排除してしまうような術式の盾を構築している。
「私の魔物を狙うなど、千年早いですね」
けれども、それよりも先に動いたのはあの少女だった。
あまりにも可動域の低い不自由な身でありながらも、その手にはシルハーンが贈った指輪がある。
そんな手を素早く振るい、シルハーンに近付こうとした妖精をはたき落とすと、呆然としているシルハーンの前でその妖精を掴み取り、遠くの茂みに投げ捨ててしまった。
「愚かな妖精ですね。私のものを狙うなんて」
「……………ネア、手を見せてご覧。怪我をしてないかい?!」
「あのような儚い生き物ごときで怪我などしません。それよりも、ディノは怖くありませんでしたか?」
「……………私が?」
その驚きは隠しようもなく表に出てしまい、万象の王は困惑したように目を瞬いた。
すると少女は、はぐれたり襲われたりすると困るので、自分のコートのベルトに掴まっているようにとシルハーンに言うのだ。
「虐められたら言うのですよ。契約上の関係とは言え、あなたは私の魔物です。あなたを損なうものがいれば、私が滅ぼしますからね」
「………………ネア」
そう呟いたシルハーンの瞳が、透明に透明に揺れる。
嬉しそうに微笑み、どんな手練手管や贈り物よりも、その微笑みの無防備さで目の前の少女の心を変えてゆくとも知らずに。
同じ領域に紐付き、共に生きるものだと、そう認められることはどれだけの安堵だろう。
誰一人、それこそグレアムですら、シルハーンにそんなことは言わなかった。
私とあなたは違う生き物だと言いながらも、あの人間の少女は、シルハーンを自分と同じもののように隣に置いている。
シルハーンが、どのような手段で彼女をどこから見付けてきたのかは知らない。
もう少し早くこちらに戻るつもりだったのだが、新代の犠牲の魔物の躊躇いが長く、あの術式を動かしてグレアムが戻ったのはごく最近のことであった。
支払う魔術の対価を確認し定着させ、その為の生活基盤を整えてさぁそろそろかと考えたその頃に、シルハーンがこのウィームを丁寧に調べていることに気付いた。
何かの準備を整えているのだと、その目を見ればすぐに分かった。
であればと、その目的を見届けるつもりだったものの、その頃はまだカルウィでの統括も盤石ではなかったし、拠点をウィームに移し替える為の手間もかかり、全てが落ち着いた頃にはもう、シルハーンの隣にはネアがいた。
一日、また一日と、シルハーンが彼女と過ごす日々が重ねられてゆく。
その間にはネアが思い詰めたように一人でザハに来た日もあったし、二人が楽しそうにお茶をしに来た事もあった。
イブメリアの歌劇場で、大切な友人の一人であったウィリアムと、驚くべきことにアルテアまでを伴って二人が過ごしていたこともある。
そんなネアの皿に、彼女の大好物である鴨肉をこっそり増やしてやりながら、その微笑みがシルハーンやウィリアムを満たす光景を、この上なく幸せな気持ちで見守る。
(その為の犠牲だった……………)
その為の願いであり、満願成就のその日も近付いてくる。
今代の犠牲の魔物が自分にこの命を譲り渡したのは、やはりシルハーンの幸福を万全の状態で見届けたいからだ。
犠牲を強いられ、差し出すのが自分自身でも、それでもと願うのがこの犠牲というものの愚かでおかしな欲求なのだろう。
またある日のこと。
「その会を発足するにあたり、是非にあなたに会長を任せたいのです」
真っ直ぐにこちらを見て、そう申し出てくれたのはイーザだ。
あまりにも突拍子もない提案に目を瞠り、けれどもまずは、彼が何故そう思ったのかを聞いてみようと考えた。
「どのような形であれ、あの方への思いや執着を取りまとめる組織が必要です。我々が持つような欲求は、控えめに下僕としての地位を願い出るくらいのもので、あまり表に出てそれを執拗に請うようなものではありませんが、…………昨今は、その身を投げ出し傅くこと自体は望まないような、いい加減な覚悟を持つ下僕も多い。………であれば、いつか誰かが己の抑制を外れ、あの方達を損なうことがあるかもしれない。そしてその時にまた、我々自身も歯止めが効かなくなる可能性が、果たしてないと言えるでしょうか」
粛清に歯止めが効かなくなれば、それは彼等の為と言いながらも自己満足になる。
過ぎたる干渉は必ず、正しいものも歪めてしまうだろう。
「…………あなたであればと私が思うのは、あなたが、どちらか片方ではない、あのお二方の幸せを影ながら見守る方だからです。そしてその存在を明かせず、とは言えかなりの労力と時間を彼等に割ける方だからです。…………私は、ネア様に幸福でいて欲しい。だからこそ、ネア様だけへの想いに偏らずお二人の幸福を願える方に、是非に我々の上に立っていただきたいのです」
真っ直ぐにこちらを見た霧雨のシーに動かされたのは、グレアムが抱いた思いのその真実を、対価に触れずに誰かと分かち合いたいという衝動だったのかもしれない。
けれども、そんな思いから参加した見守る会の活動は、その後のグレアムの日々をがらりと変えてしまった。
会の活動の細やかな規則までが整った後でも、特別な時間がなくても、休日には会合もある。
個人的に親しくなったのは、イーザの他に、ミカやベージ、リドワーン、ワイアートなどまで。
同じ魔物であればニエークも所属はしているが、老獪な魔物のひと柱として、彼の真意はまた別のところにある。
ネアへの執着はその本来の目的のついでに向けた好奇心が、うっかり彼の足を絡め取ったものに過ぎない。
(とは言え最近は、かなりのめり込んではいたな。…………しかし、オルガ曰く、自身の当初の目的もきちんと思い出したようだと聞いている…………)
ニエークは本来、ウィーム王家最後の血を引くウィーム領主でもなく、ネアでもなく、ウィームと呼ばれる土地そのものをこの上なく慈しむ魔物だ。
雪を司る彼は、この冬の系譜に愛された美しい土地だけを古くから守護してきた。
そんなウィームの土地を損なわないかどうか、また、ウィームに住むようになった万象の王の伴侶に相応しいかどうか、ネアを見極める為に気軽な気持ちで入会したのだとは思う。
そのような目的があっての参加であったが、幸いにもグレアムは古くから彼がどのような魔物であるかを知っていたし、ニエークと同じような動機で各会に属しているアイザックもまた、性質を熟知した雪の魔物の扱いを誤ることはなかった。
はらはらと雪の降る明るい夜。
ウィームの街はイブメリアの飾り付けに華やぎ、グレアムの簡素な部屋にはいささか多すぎるお客が来ていた。
カチャカチャと食器の触れ合う音に、テーブルの上のオレンジの皮をさくりとナイフで切る音。
買い置きの茶菓子などは特になく、紅茶だけかと呟く男がいたのでオレンジを剥くことにしたのだが、シルハーンが目を瞬いて嬉しそうにこちらを見ているので満更でもなくなった。
「先日の橋の崩落事故は、ニエークの仕業ですよ。彼も、いよいよと警戒を深めウィームの手入れを始めました。ガーウィンからの地脈を一度断つことで、擬似的に教会側との魔術の繋ぎを断つ儀式として成り立たせたのでしょう」
「やっぱりそれが目的かぁ。………ガーウィンも、ヴェルリアも、それ相応の土地の維持に必要なだけの、加護と知恵は持ち合わせている。特にあの王と宰相あたりはさ、ウィームの豊かさに無関心であれ、こっちがどんな様子なのかを気付きもしない程の能無しじゃないからね。…………ただ、アルビクロムはそういうものは興味がないかな。ガゼットや海竜の周りで暗躍してるのも、ヴェルクレアの王とその側近かなぁ………。まだ状況証拠だけどね」
「やれやれだな。ガーウィンは、神官どもを掃除してやっただけじゃ足りなかったらしいな」
「…………であれば、彼等の興味を他所に向けたらいいのではないかな。私にはよく分からないことだが、ガーウィンは祀り上げるものを与えておけば、満足するのではないかい?」
そんな会話をしながら、グレアムは不思議な幸福感に包まれる。
不思議な気分だ。
この部屋で静かに暮らしてゆくことを、気に入っていた。
通勤路で友人と落ち合い、いつものザハに通う。
時折ザハの裏手にある階段から通じる駅舎から列車に乗り、城に戻ることもあるが、カルウィでの統括の仕事もあるので、せいぜい月の三分の一くらいに過ぎなかった。
(慎ましい生活が好きだ。…………いや、ここに来て、好きだと知ることが出来た)
朝食のパンと一杯の珈琲や紅茶と、バターの香り。
オレンジや林檎に、その他の市場で買って来た新鮮な果物達。
パンは時折葡萄パンになり、ブリオッシュや紅茶のパンにもなる。
山羊のチーズや瓶で貰った蜂蜜に、料理長が持たせてくれたジャムなど。
職場の仲間に貰ったマフラーに続き、この前は会の者達から手袋も貰った。
ミカからは、真夜中に火を灯すと天井に美しい星空を広げる蝋燭を。
イーザ達からは、休日の朝に霧雨の音に浸れる霧雨の結晶石のオルゴールを。
そんな日常が堪らなく愉快で、心地よく、それはシルハーンのこれからを見届ける為に対価を支払った願いとはまた別の、その先で手に入れた幸福だ。
「グレアム、………くれるのかい?」
「ええ。このオレンジは甘いですよ。市場の西側にあるチーズ屋でなぜか売っているのですが、とても味がいい」
「有難う」
「ほお、それなら今度オレンジのタルトにするか」
「その前にさ、ネアが楽しみにしてる蜂蜜の焼き菓子だっけ?あれ忘れない方がいいよ。凄い期待してるから」
けれどもここには、シルハーンがいて。
まさかこんな風に共に過ごすとは思わなかった、アルテアやノアベルトまでがいて。
(特にアルテアとノアベルトとは、まさかこのように過ごすことになるとは思わなかった…………)
そのどちらも、グレアムとはある程度の因縁があるのだが、二人はもうそんなことを気にかけている様子はなく、グレアムも気にしていなかった。
「あ、それとグレアムさ、ちびふわの術式を分けて欲しいんだよね。あの、巻き角のあるやつ。ネアがまた会いたいって話してるんだけど、さすがに合成獣の擬態魔術は僕にも厄介でさ」
「アルテアがなるのかな………」
「やめろ。俺は手を貸さないぞ」
「じゃあ、ウィリアムでいいや。ネアがシルとの間に挟んで一緒に寝たいらしいから」
「何でお前は平然としてるんだ。やめさせろよ」
あれは、夜明け前のひどく暗い夜のことだった。
とある国の守護の魔術の基盤の上に立ち、星座版のような魔術の星々の煌めきの上で自分の首に手をかけた。
滴り落ちる血が鮮やかな術式の輪を閉じ、新代の犠牲の魔物を贄にした錬成を立ち上げ織り上げてゆく。
この血と、今の自分と、この国の全体に張り巡らせた守護に抱かれた、ロクマリアの命運。
そして、姿を隠して無力な人間の姿となり、決してその秘密を自ら明かしてはならず、死ぬまで一年の三分の一をそのように過ごすこと。
自分がここにいることを自ら知らせ、意図的に知らしめないこと。
支払う犠牲は決して少なくはない。
シルハーンにはもう、二度とかつてのように会えないかもしれない。
それでもやはり、あの方が幸せになるのを見届けたい。
ウィリアムが少しでもあの日の絶望を癒してくれたか、歯を食いしばって絶望に満ちた目で自分の友人を蝋燭に変えたギードが、今はどのように暮らしているのか。
そんな、この手が届かなかった先をこの目で見たい。
どれだけを失い、この世界にはもう胸が張り裂けそうなくらいに愛おしい妻がいなくても。
ああそうだ。
彼女がいなくても、自分は生きてはいける。
シルハーンが幸福になるのを見たいとそう願った思いは、グレアムの最初の願いだったのだから。
「グレアム。ウィームと違って、カルウィは新しい年を祝う祝祭が多いそうだから、新年は君も忙しいだろう。難しいとは思うのだけど、大晦日は忙しいかな…………?」
そう尋ねたシルハーンに、微笑んで首を振る。
「…………宜しいのですか?」
「うん。君も来てくれれば、ネアも喜ぶ筈だ。先程ね、留守を任せるエーダリアとヒルドにも了解を得ているよ。…………それに、ウィリアムやギードも喜ぶだろう」
「であれば、喜んで伺わせていただきます。とは言え、滞在出来るのは日付が変わった直後くらいまででしょうから、それでも宜しければ」
そう言えば、シルハーンはふわりと微笑んだ。
まさかその眼差しが自分に向けられることがあるとは思ってはいなかったので、息が止まりそうになる。
「……………うん。………私も、君が来てくれると、…………嬉しいんだ」
この不思議な幸福は、どこから来たのだろう。
震える胸を押さえて、静かに微笑み目を閉じる。
これからも、ずっとずっとこの先も。
願いのままに、この方が幸福でありますようにと強く強く、そう願った。