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乗り合いのお客と森の足湯




遠く汽笛のような音が聞こえた。

ネアは夢かなと思って顔を上げたが、まだ寝てもいないのに夢だというのも不思議な話だ。



時刻はまだ夕方前で、ネアは婚約者な魔物と自室でとある難解な作業に没頭しているところだった。

あえやかな漆黒の縄を手に、ネアは周囲を見回し眉を顰める。




「…………ディノ、今の音が聞こえました?」

「…………ここではない場所からだ。恐らく、地下にあるあわいの駅舎のあたりからだろう」

「むむ、…………と言うことは、船ではなくて、列車が来ているのですか?」

「……………呼ばれているのかな」

「呼ばれている…………?」




そう首を傾げたネアに、こんこんとノックが聞こえた。

一瞬ぎくりとしてしまったものの、扉を開ければノアがいて、少しだけ真剣な顔をしている。



「えーっと、今の汽笛が聞こえたかな。あわいの恩寵みたいなんだけど、…………ええと、ごめん」

「…………ノア?」



扉の前でそうしょぼくれたのは、塩の魔物だ。

ネアは、落ち込んでしまう要素はどこだろうとそんなノアを観察したが、刺されてしまった様子もないし、狐の時にずたぼろにしてしまったヒルドの室内履きを持っている訳でもない。



首を傾げたネアに、ノアは微かに背中を丸めたまま、青紫色の瞳をふるりと震わせた。



「ほら、今アルテアが拗ねてるからさ、ネアに取ってきてあげようと思ったんだけど、こっちが来たかな」

「…………なぬ。と言うことは、この列車はノアの呼び出しなのですか…………?」

「…………あわいの列車も来てしまうんだね」



ディノは、あんまりにも無尽蔵な呼び出しに、悲しげに窓の外を見ている。

どうやらここからは見えないものの、近くにあわいの列車が来ているらしく、その魔術の気配のようなものがディノ達には目に見えているようだ。




「と言うか、まだ恩寵の盃はリーエンベルクにあるのですね」

「そうそう。今夜の内に戻しに行く予定だったんだけど、僕が来訪予約出来た時間が遅くてね…………」



その間に、ノアはネアの為に、ちょっと素直になれない使い魔を呼び出してくれようとしたらしい。



「まぁ、それでアルテアさんを?」

「うん。ほら、目を合わせてくれないってネアが落ち込んでたからね。もう一度呼び寄せて僕が捕縛しておけば、ゆっくり腹を割って話せるかなと思ったんだけど…………」

「…………その、大変申し上げ難いことなのですが、そんなアルテアさんなら、先程狩ってきたばかりでお部屋にいたのですが…………」

「えっ、アルテアを捕まえたの?って言うか、狩ってきたの?!」

「……………諸事情により、解放に時間がかかっていまして…………。先程からディノと頑張っていたのですが…………」



言い難い事情をおずおずと説明すると、ノアはひょいっと部屋の中を覗き、さっと青ざめると視線を戻した。



「……………わーお。僕は何も見なかった」

「……………是非に忘れて下さい。私はただ、転移で逃げ出そうとした使い魔さんを、ていっと狩っただけのつもりだったのですが…………栞の魔物さんの祝福が、……………ふぎゅ」

「ふざけるな。お前は最初から縄を手に持ってただろうが」



黙っていられなくなったのか、部屋の中からそんな声が聞こえてきて、ネアは眉を寄せた。

無垢な瞳で顔を上げ、弟になる筈の魔物にふるふると首を振ったネアは、己の無実を主張する。



「誤解です!私は、投げ縄のつもりで、輪っかを作っただけだったのですから。それを引っ掛けて、ぐいっと引っ張ったところまでは覚えているのですが…………」

「……………ええと、縄が切れないってことかな?」

「刃物が通りません。さすが師匠がくれたにゃわわなのです……………」

「……………………………わーお」



とは言え、現在のリーエンベルクの地下には、ノアが恩寵の盃で呼んでくれた列車が来ているらしい。

さてそれはどうするかと言えば、恩寵のものである以上は、今のネアに必要なものが、そのどこかにあるのは間違いないのであった。


ノアが落ち込んでいたのは、あまり特別な行動を起こさない方が良いとされる時期に、捨て置けない恩寵の列車を呼び出してしまったからなのだ。



(恩寵はとても気紛れなもので、受け取らないと、その恩恵そのものを必要がないものとして取り上げてしまう事がある…………)



だから、こうなってしまった以上はもう、ネア達はその列車に乗ってちょっとした冒険に出かける必要があるのだった。




「よし、アルテアはこのまま置いていって、僕達はひとまず列車に乗ろうか。今ならゼノーシュ達もいるし、ダリルも来てるから、僕も安心してここを空けられるからさ」

「はい!コートを持って来ますね」

「おい、ふざけるな!!こっちが先だろうが。それと、お前は余計なところに出かけるな!」

「……………む?長椅子から謎の声がします」



残酷な人間はそうとぼけてみせると、誰もいない筈の長椅子を拝み、お供え物のフルーツケーキをそっとテーブルの上に置いてから、ラムネルのコートを取って来た。

出立の時間を逃してはならないと、慌てて戦闘靴を履き、戸口で待っていてくれるノアの手を取る。


一緒に立っていたディノは、とても悲しい目で長椅子の方を見ていた。



「……………アルテアは、あのままなのかい?」

「…………むむ、きっとお疲れなので、あのまま少しだけ休ませてあげましょうね」

「ふざけるな!この縄をどうにかしろ!」

「……………置いてゆくのだね……」

「しかし、あの状態の使い魔さんを持ち運ぶのは、ちょっと………………」



ネアはそう言ったのだが、ディノは一人ぼっちで置いていかれてしまいそうなアルテアが不憫で仕方なかったらしい。




がたんごとんと列車が走る。



その座席の一つには、もはや達観しかけた遠い目をしているアルテアが、まだ上半身を縛られたまま座っていた。

結局、アルテアを置いてゆけなかったディノが、ここまで持って来てしまったのだ。



「…………凄いものだな、系譜の魔術の癒着があって強化されてしまっている。………これは、終焉の系譜の武器があればいいんだが……………」



そう言いながら、アルテアの縄を外してくれているのは、ネア達より先に列車に乗っていた灰色の髪の男性である。

夢見るような瞳は途方に暮れたように翳り、ネアはとても恐縮して使い魔の惨状を委ねていた。



今回は、リーエンベルクの地下に位置する穴熊の駅舎からではなく、ネア達がこのあわいの列車に乗ったのは、恩寵の盃が繋げた不思議な通路の先にあった臨時駅舎であった。



(位置的には、リーエンベルクの外側のあたりとノアは言っていたけど、そんなところにも駅があったのだわ…………)



エーダリア達には晩餐までには帰ると話しておいたが、果たして大丈夫だろうかと心配していたところ、この列車には何とも親切に行き先表示があるではないか。


その行き先案内板を見れば、この列車は四つの駅の間を行き来する片道半刻の特別運行の列車であり、優雅なボックス席のある一等車両だけの一両編成だった。



「リーエンベルクから、昔のバベルクレアの夜のウィームの夜空を経由して、大聖堂の影絵に停車します。その後は、リーエンベルクの大浴場のお手本となった、真夜中の結晶石の森の中にある、雪明かりの浴場に行くのですよ!」



ネアは、とても遠い目をしているアルテアにうきうきしながらそう教えてあげたのだが、残念ながら現在の選択の魔物は、自分はここにはおりませんという感じで存在しているらしい。


なんと、この列車を時折通勤列車にしてしまっているというシェダーに、偶然にもこの姿を見られたのがとても堪えているようだ。



「……………終焉の系譜となると、ウィリアムさんから貰った小さなナイフがあるのですが、それはどうでしょう?」

「……………ウィリアムが君にナイフを?」



ネアがそう言うと、なぜかシェダーはさっとディノの方を見る。

アルテアとノアはとても不可解で静かな目をしていたが、こちらの二人は、ネアがそのナイフを持っている事を知っていた筈だ。



(そっか、影の国でも使っていたのだけれど、シェダーさんはいなくなってしまった後のことだったのだわ……………)



「ウィリアムから、ネアに何か武器となるものを与えておきたいと相談を受けたんだよ。この子の靴にはヒルドが頑強な死の舞踏を紡いでくれたけれど、そこに上乗せしてある終焉の祝福は死の舞踏を管理する為の要素が強いからね」

「…………ご存知の上であれば宜しいのですが」

「武器という性質上、ウィリアムが自分を切り出したことが気にかかるのかい?」

「…………ええ。魂を削り与え、身に付けさせるのは少し」



そう苦笑したシェダーに、まだ少し遠い目をしたままのノアが、終焉の魔物が作る武器はその全てが終焉の欠片、つまりウィリアム自身の魂や命から形成されたものだから心配しているのだとネアにも教えてくれた。



「形は違えど、魔物の指輪と材料と作り方が変わらないからね。だから僕は、今でも複雑だ」

「……………こ、この指輪には、ディノの魂や命が入っているのですか?!」

「えっ、そこから?!」



ぎょっとしたネアにノアも驚いてしまい、二人で揃ってディノの方を見ると、こちらを見返した水紺色の瞳に困惑したような色を浮かべ、ディノは首を傾げる。



「ネア、指輪は、君に私の魔術を馴染ませる為のものだと、説明しただろう?」

「もっとふわっと、魂を込めて作りました的なやつだと思っていたのです!け、削られてしまって、ディノはどこか痛かったり不自由があったりはしないのですか?もしそれなら、…」

「あっ、ネア外さないで!」

「ネアが虐待する……………」

「ほわ?!ディノ、泣いてはいけません!!」



星屑のようにちかちかと土地の祝福が結晶化して光り瞬くトンネルの中を走りながら、若干混乱の様相を見せた車内で、シェダーが慌てて、魔物の指輪とはどれもがそのようなものであり、それを贈るのは喜びや誇りなので決して外してはいけないと教えてくれた。



幸い、そんなてんやわんやがあっても、このトンネルは、通過に十分くらいかかるらしい。

どこかの時代のクラヴィスの日に繋がるくらいなので、とても特別なトンネルなのだろう。



「…………貰ったばかりの頃は、時々すぽんと抜けたので、手を洗う時や入浴の時には毎回外していましたよ?」

「……………シルハーン、説明なさらなかったんですか?」

「ありゃ、それめちゃくちゃ危ないやつだ………。外したまま十日経つと、それまでの浸透が無効化されるからね」

「…………ディノから一度回収されたこともありますよね?…………ぎゃ、泣いた!!」



無神経な人間に古傷を容赦なく抉られてしまい、繊細な魔物はめそめそ泣きながらネアにへばりついてその肩口に顔を埋めてしまった。



「…………もう二度としないよ。だから君も、もう二度と咎竜などを狩らないでおくれ」

「…………正直に告白すると、純白さんに攫われた時も一匹滅ぼしているので、これからは気を付けますね」



そう言ってやり、ネアは丁寧にディノの頭を撫でた。

シェダーからも、例えネアがディノの伴侶になった後でも、種族的な固有魔術の中で、魔術の理に属したものは、魔術の弊害が現れるととても厄介なのだと言い含められる。



「あの時は、ヒルドも果ての薔薇のところに行こうとするし、大変だったよね」

「ふふ、ノアがいてくれなければ、乗り越えられなかった怖い事件でした」

「……………待て。こいつは、そんな頃からリーエンベルクに出入りしてたのか?!」

「………………ありゃ、言ってなかったっけ?」

「ところで、ネア。そろそろ、ウィリアムのナイフを借りていいか?アルテアの縄を解いてやろう」

「………………ふぁい」



ウィリアムから貰ったナイフは、やはりとても有能であった。

アルテアを拘束した黒い縄はすぐさまぶつりと切れてくれて、ネアと目が合った筈なのにぷいっと目を逸らして姿を消そうとしたアルテアを漸く自由の身にする。



「……………くそ、その縄は何製なんだ…………」

「俺が調べたところ、選択の系譜の魔術のようだが………。それで君と相性が悪かったのでは?」

「……………そう言えば、師匠から貰った紐………縄?………には、端っこに生産者の刻印があるのですよ。ほら、この………ファンシーな矢印のような印です」

「ふぁんしー…………?」



切られた縄の端を拾い上げたネアの手元を覗き込み、シェダーは小さく微笑んだ。

どうやらこの印を知っているらしい。


「ああ、ボラボラ製だな。彼等はとても器用なんだ。選択の系譜の存在だし、それなら魔術の癒着も頷ける」

「……………アルテアさん、死なないで下さい」

「黙れ。……………その縄を二度と俺の目の前に出すな…………」



自分を拘束していた縄がボラボラ製だと知ってしまい、アルテアはもはや完全に窓の方に体を向けてしまった。


ネアは慌てて傷心の使い魔をがくがくと揺さぶり、そろそろトンネルを抜ける頃合いだと、さり気なくそんなアルテアと窓との間の席に移動しようとした。

ディノが荷物のように運んでしまった為、荷下ろしに際して、うっかりアルテアが一番素敵な席を占領してしまっているのだ。



「ネアが逃げた…………」

「ディノ、このような場合は、眺めのいいところに差し掛かる前に、ご主人様を進行方向を向いた座席の窓際に配置して下さい」

「窓際がいいのだね」

「はい。なお、その席に既に他のお客様がいる場合は、そちらの方に優先権がありますからね。ただし、使い魔さんの場合は、総じて私の持ち物なのでこうして隙間から押し入ります」

「アルテアを押すなんて…………」

「膝の上に座って押しのけるな。口で言え、口で」

「むむ。ついで私とディノの間にアルテアさんを配置し、決して逃げないようにぎゅうぎゅう押さえ込むつもりでもあったのですが…………」



ネアが警戒したままそう言えば、こちらを見たアルテアは小さく溜息を吐いた。

縛られていたせいで上着によってしまった皺を、丁寧に指先で直している。

ネアはふと、さっそくあげた靴を履いていることに気付いて内心にんまりした。



「…………今夜は逃げないと、約束させたんじゃなかったのか?」

「しかしながら、使い魔さんは狡猾な魔物さんですので、私との約束をぽいっとする術も持ち合わせている筈です」

「だろうな」

「先程のようにそっぽを向かれて森に帰られてしまったら、私はきっとむしゃくしゃして、二度とそんな冷たい魔物さんなど呼ぶものかと思うに違いないので、これでも私は、何よりも私が捻くれないように頑張っているんですよ……………」



がたんごとんと列車が揺れる。

ネアの言葉の後には小さな沈黙が落ち、ディノはなぜかアルテアの膝の上にそっと三つ編みを置いてみたようだ。


こちらを見たアルテアは、そんなネアの健気さに打たれたものか、とても驚いた顔をしている。



「……………お前はまさか、これだけ契約を重ねておいても、そんな理由で破棄するつもりなのか?」

「わざと目を合わせないようにして失踪せんとする、とてもこの契約を破棄したい風な意地悪な魔物さんに言われましても…………」

「あー、こりゃアルテアが悪いね。僕の妹は、自ら荊を掻き分けるような犠牲精神は持ち合わせてないから。っていうか、そんなの持たなくていいから」

「姉です…………」



渋面で言い返しているネアに、アルテアはぼすんと頭の上に片手を乗せてきた。

首がぐきっとなりそうで唸りそうになってしまったが、拗ねていた使い魔が漸く甘えて来ていると思い、ネアは健気にも我慢することにした。



「……………ったく。あの程度のことで不貞腐れるな。それと、縄はやめろ、縄は」

「羞恥のあまり顔を合わせられなくなると、アルテアさんのような方は、思ったより戻り時が分からなくなるから危険なのだとノアから聞いたのです。私自身までむしゃくしゃしてしまい、関係が拗れる前に、何としても狩るしかありませんでした」

「うわ、ネア、それ本人に言っちゃう?!」

「………………ほお、こいつに妙な知恵をつけたのはお前か」




ふっと、トンネルの暗闇が晴れた。




「わ、花火です!!」



窓の外の景色は無音だ。

それは窓を閉じているからというよりも、この景色の中を横切ってゆく列車が、この時代に属していないものだからという気がした。



けれどもそこは、次々と花火の打ち上がる素晴らしいバベルクレアの夜のウィームで、ネアは、すっかり調停中の使い魔問題は投げ出してしまい、窓に張り付いてその美しい光景をうっとりと眺める。



「……………は!ディノとアルテアさんの視界を遮ってしまいました。…………ほら、なんて美しいのでしょう!ディノ、お誕生日の木馬さんを思い出しますね」

「……………うん。…………思い出すね」



思い出すという言葉を、ディノはとても大切そうに口にした。

こうして共に過ごしてきた時間があるということを反芻すると嬉しくなってしまうのだと、前に教えて貰った事がある。



「…………あの花火に使われている魔術は、特徴的だな。統一戦争より百年程前の頃の流行りだ。…………何だ?」


振り返ってアルテアを見上げると、膝の上に置かれた三つ編みをそっとディノの方に返そうとしていた使い魔は、鮮やかな瞳をこちらに向ける。



「いえ、…………むむぅ」

「契約の際に、この契約の破棄はなしだと話しただろう。この前歌ってやった時といい、お前は安易に俺を遠ざけられると思い過ぎだぞ。あの程度で揺さぶられるのはそのせいだろうが」

「………………ほら、こうして懐いている時にはぐいぐい来てくれるのですよ」

「成る程な。これなら安心か………。歌いまでしたのなら………」

「それなのに、むぐ?!頬っぺたを引っ張るとは、何という辱め。ゆるすまじ…………」



心配そうにこちらを見てくれていたシェダーに、アルテアの生態を説明していたネアは、時折発現する頬っぺたを引っ張る使い魔の許されざる行為に荒ぶり、慌てて座り位置を替えたディノの膝の上に封印された。



その間にも列車は素晴らしいウィームの祝祭の夜の中を、円を描くようにしてゆっくりと走り、大聖堂前の見事な飾り木や、今とはあちこちが様相を変える古き良き時代のウィームの夜景を楽しませてくれた。



しんしんと降り続ける雪の中で打ち上がる花火に、この空の上から見ると宝石箱をひっくり返したようなウィームの街はいつまででも見ていられそうな美しさだ。



「…………アルテアさん、………ダリルさんが報告されていた事は、問題はないのですか?」

「………ダリルが?…………ああ、フェルフィーズとかいう人間のことか?」



先程、可愛らしい派生したての青い小鳥妖精を連れてリーエンベルクを訪れたダリルは、漸く本人確認も取れたからと、ウィームに住む一人の魔術師の来歴を伝えに来てくれた。



ネアが、振り返ってアルテアを見たのは、アルテアが言及したこのバベルクレアが、そんなフェルフィーズが身に宿す亡霊とも言える、ウィーム王の治めた時代だったからだ。


亡霊のようなものとは言え、そこにかつての親しかった人の面影があるのなら、アルテアはネアとの契約など打ち切って、そちらに行きたいとは思わないのだろうか。



「私には、専門的な説明も多くてあまり飲み込めない部分もありましたが、つまりはその、…………あの方は、魔術的にはエーヴァルトさんでもあると言うことなのですよね?」

「そんな訳があるか。エーヴァルトという人間そのものは喪われたものだ。だからこそ、エヴナは自死した。どんな形であれエーヴァルト自身が残っていれば、竜は一度見付けた自分の宝を決して見逃さない」

「……………まぁ、違うのですか?」



困惑して目を瞠ったネアに、ノアが手を伸ばして頭を撫でてくれた。



「そっかぁ。それでネアは、アルテアが、大人気なくわざとらしくて冷たい態度を取ったことにいっそうに落ち込んだのかぁ…………」

「…………まだ、来週に、偶然を装って届けて貰える筈の焼き菓子が貰えていません…………」

「やめろ。あの手帳のことは思い出すな」

「むぐぅ」



ここで、すっかり美しい夜景も堪能したのでと、フェルフィーズの状態について、ノアが分かりやすく説明してくれた。



「僕は、あの王は大嫌いだって先に言っておくけどね。………エーヴァルトは、自分が死んだ後にウィームがどうなるのかを案じて、次の代の自分の魂を持つ者が死んだ後に、その体が自分の写しとして一時的に機能するような復刻の魔術をしかけてあったんだ。それは、彼が残した自分の写しが、空っぽの体に上書きされて動く人造使い魔のようなものだと思えばいい」

「……………そんなことが出来るのですね…………」

「エーヴァルトが使役していたのが、エーデリアの花だった事もあるかな。今の彼も、明かしてないだけで使えると思うよ。その人造使い魔の仕組みは、ウィリアムが魂を刈り取りに来たら、すぐに見付かって破壊されるのは目に見えている。つまり、それまでのものだって分っていただろうけどね」



エーヴァルト王が残した仕掛けは幾つかの場所にあり、更には幾つかの発動の条件があったのだろうという事だった。

その中の一つに、フェルフィーズは偶然触れ、何某かの理由で、その魔術がフェルフィーズが存命の内に発動してしまったのが、今の彼の状態なのだ。



「あの男は、その術に触れた時には死にかけていた筈だ。限りなく終焉に近しい状態でそれに触れ、体が空いたという誤認識の上で魔術が動いたんだろ。とは言え、あいつが残した魔術は時間が経てば剥離するものだ。いい加減展開させたものが壊れてもいい時期だが、どこかでその魔術をわざわざ自分の身の内に取り込んだな」

「それは、…………もう、あの方は元には戻れないということなのですか?」

「うーん、説明が難しいけれど、彼は彼で、あの王が残した魔術に絡み合って生きている彼自身なんだよね。死にかけたところをその魔術を上書きされて生かされ、どんな要因か、その後も上書きされた魔術を手放したくない理由が出来た。だから、特等の魔術師だったエーヴァルトの知識が残っている内に、それを自分で定着させたってところかな」

「理由は大方、あの養子の兄弟だろう。そこに始まり、あの子竜でますます手放せなくなったんだろうが、あの男も馬鹿ではなさそうだからな。妙なものを残し続けて魂が歪む前に、どこかで折り合いをつけるだろうよ」



フェルフィーズの兄は、公にはされていないが、実の兄弟ではなく、彼の両親が引き取って養子にした子供なのだそうだ。


その当時のウィームではあまり好まれなかったヴェルリア人を思わせる赤い髪の子供だったが、一家が狂乱した火の精霊に襲われるという事件に巻き込まれた時に、一緒に巻き込まれた他の商隊の下働きだったその奴隷の少年が、体を張ってフェルフィーズを助けたのだとか。



彼は、かつてエーヴァルトの親友であった、ヴェルリアの王の魂を持つ人間なのだという。

火に纏わる大きな事件のそこに、かつて喪った友の影を見た事が、フェルフィーズの変化の切っ掛けかもしれない。



「まぁ、発動が悪くて呪いに近しくなった魔術だけど、呪いの類は成就というものに弱いからね。エルトを手に入れた段階から、彼がどうこうしようとも、どんどん崩れていくと思うよ」

「でも、あの方はとても優秀な魔術師さんなのですよね?その、ノアの……………」

「うん。エーヴァルトの上書きでかなり使えるようになって、その間に僕の心臓を取り込んでいるからね。でも、あの鳥からは既に他人に渡したくないような要素は取り出してあるし、残りは彼が死んだ後に取り返せるものだから当分は貸しでいいや。…………ほら、あれはあれで、エーダリアを守るのには役立つ人間だから、残せる限りはエーヴァルトの知恵も悪くないと思わないかい?」



そう、したたかに微笑んだ魔物は、フェルフィーズが自分の心臓を取り込んだことを知っており、その上で、一つの罠、もしくはウィームの防壁として機能させる為にあれこれ手を打ってあったらしい。


当初は、ヴェルリアの王族達とぶつけるつもりだったのだが、エーダリアを気に入ってからは、フェルフィーズとエーヴァルト双方のエーダリアへの思い入れを利用し、エーダリアの守り手の一人として許容したのだという。




「そのことを、エーダリア様達は知らなかったのですね……………」

「まぁね。素材としては希少だし、場合によっては僕の守りたいものの為に使い潰すつもりで、誰にも言ってなかったからね。とは言え、アルテアなんかは早々に把握してた筈だよ」

「…………ふむ。そしてあの方は、どうあれエーダリア様が大好きなのですね」

「そうそう。放っておいてもエーヴァルトの知恵を駆使してエーダリアを守るから、まぁ、使えると思わない?時々、こっちの事情を知らずに絡んでくると面倒だけどさ」

「ふふ。シカトラームは、行けて嬉しかったので迷惑ではなかったですよ?」

「でもそれ、あいつが絡まなくても、ネアには自然に解放された権利だからね」



がこんがこんと音を立てて走る列車は、停車駅になるウィームの大聖堂の影絵に入ったようだ。



誰もいない、暗く、それでも荘厳で美しい大聖堂の威容に、ネアはその天蓋を見上げる。


婚約期間の終了までは魔術の繋ぎを警戒して近付けないので、何だか久し振りに見たような気がして、あらためてその美しさに感動した。



「この後の温泉は、足湯のようなものなのですよね?」



列車の扉が開いているので、殷々と響くその声に感動しながら、ネアは、そうシェダーに尋ねてみた。


彼は、己の前歴を引き受け背負ったフェルフィーズに何を思ったのか、それまではネア達の会話を静かに聞いていたようだ。




「…………ああ。今はもう失われてしまった場所だが、こうしてあわいの駅に残されている。その温泉に感動した当時のウィーム王が、リーエンベルクにも同じような大浴場を作ったんだ」

「ああ、あの浴場はいい。今でも時折現れているぞ」

「ディノと私は、あの浴場で昔のグレアムさんに会ったことがあるんですよ」



シェダーは、前歴の自分がという言葉を言わなかった。



だからネア達も、誰もそれは遠い過去の別の誰かのものだとは言わない。

フェルフィーズの話が呼び水になったように、それはとても自然なことに思えたのだ。



「また君も入りにくればいい。統括としての領域がカルウィにあるのだとしても、かつてあの王宮の建造に立ち合った君ならばと、エーダリア達も許すと思うよ」

「………………シルハーン」



小さく瞬きをして、シェダーはきらきらと光を集める灰色の瞳を揺らした。



「ただし、浴室着は持っておいで。ネアが、驚いてしまうからね」

「…………………ええ」



扉が閉じて、再び列車が動き出した。

ディノは小さく微笑んで、ウィリアムやギードもここにいれば良かったねと呟く。



「うーん、ウィリアムはまだ気付いてないんじゃないかな。ちょっと危ないかもよ」

「あいつの場合、そういうところが妙に鈍いからな」

「いずれ、気付くと思うよ。彼もね…………」




窓の外はいつの間にかまた、雪が降り出していた。



暗い夜の森を走った列車は、やがて森が開けた美しい冬の広場の前で停車する。

からからっと音を立てて掲示板のようなものが魔術仕掛けの絡繰りで動き、折り返しの発車時刻は半刻後であることが表示されていた。




「足湯です!」


ぱっと笑顔になって立ち上がったネアに、腕を引っ張られてディノが目元を染める。

やれやれと立ち上がったアルテアに、張り切って浸かるよと微笑むノアがぐいんと伸びをした。



夜を紡いだ色硝子のような木々に囲まれ、森は、魔法で宝石に変えられたような美しさだった。



ふかふかに積もった雪に足跡を残し、森の中の泉のような美しいエメラルドグリーンの温泉に向かう。



ほこほこと、温かそうな湯気が立ち、ネアは三つ編みを引っ張って魔物を振り返った。



「ディノ、素敵なところですね!」

「ネアがかわいい…………」

「あ、思い出した。…………ここって、泉の乙女が、森の賢者に恋をしていた時に出来たやつだ」

「ああ。トトラという森の賢者がいて…」

「トトラさんの為に作られたものなのですか?!」



ここでまた一つ、何だか嬉しい偶然が発覚し、ネアは唇の端を持ち上げる。


この足湯は、泉の乙女が、愛する森の賢者の為に、森の生き物や近隣の人々の憩いの場になるように作ったものであるという。

当時のトトラはまだ小さかったので、人型の生き物にとっては足湯サイズなのだった。



だからだろうか。

誰が用意したものか、人型の生き物の為には苦労せずお湯に足が浸けられるようにと、ベンチが用意されている。


不思議にもその上にだけは雪は積もっておらず、魔術に守られた座面は汚れ一つなく置かれたクッションもふんわりしていた。



靴と靴下を脱ぎ、たぷんと、音を立てて足をお湯につければ、沸き上がる湯気のいい香りとお湯の気持ち良さに、ネアはうっとりと顔を緩める。



「…………むふぅ。いい匂いですね。この匂いは、まさにリーエンベルクの大浴場のお湯の匂いです」

「湯にかけられている祝福も、良く似ているね。あの浴場のシャンデリアの装飾は、この森から集められたもので細工されていたらしい」

「……………だからあんな風に、細かい葉っぱの細工があったのですね!」



この森の浴場の天蓋は、結晶化した周囲を囲む木々の枝葉であり、その上に積もっている雪の明るさであった。


空の上には月が出ているのか、それともこの森の不思議な夜の光なのか、天蓋の雪や周囲の雪がぼんやり光り、お湯をぼうっと明るく浮かび上がらせている。



「…………悪くないな。この列車が不定期なのが惜しい」

「月に何度かは出ている筈だ。リーエンベルクの南門の外側の街路樹横と、ザハの裏手にある公園側に下りる階段が駅だから、悪さをしないのであれば使うといい」

「…………ほお、あの階段であれば近いな」

「ありゃ、リーエンベルクの近くに、あわいの駅が多過ぎるんだけど…………」

「良き場所であれば、有事の際の避難経路にもなる。…………そう思っていたのだが」




使われなかったなと儚く微笑み、シェダーはお湯に足先を浸けたまま、不思議な夜の森の天蓋を見上げた。

白灰色の髪が揺れ、こんな夜に相応しく清廉に煌めく。



「……………グレアム、君が残しておいたものについても、いつか話しておくれ。厄介な制約や対価が多いのだろう。それでもここに居る私達は、少なくとも君がここにいることを知っているのだから」



ディノのその静かな声に、夢見るような瞳の犠牲の魔物は酷く穏やかに微笑んだ。



「誰かが、この俺に気付くことは、決してないのだと思っていました。…………なぜだか、最初に気付いたのは、あまり面識のなかった筈の霧雨の妖精王でしたけれどね。………今は彼も、良い友人です」

「そうだったのだね。…………グレアム、気付いてやれなくてすまない。真っ先に、私が君を見付けるべきだったのに」

「……………………シルハーン。……………いえ、これは俺の身勝手さで始めたようなものでしたから」



その名前を呼ぶ声に、一瞬、泣きそうにその綺麗な瞳を震わせて。



穏やかな声で語るシェダーの物語を聞きながら、ネアは、お湯に浸かった爪先だけではなく、その言葉の温度に温められた胸を押さえる。



ここはどこでもないどこかだから。

そして、ここに居るのはその魔術の誓約に触れない条件を揃えた者達だから。

だから今夜だけはと、穏やかに語るシェダーの微笑みは、どこまでも静謐で優しい。




「でも、ネアはよく気付いたものだな」

「大浴場で出会ったグレアムさんとシェダーさんが、同じ目でディノを見ていたからそう思ったんです。私とディノも記憶を失うという事故には遭遇していますが、自分事でも、ディノを見ていても、…………やはり知っているというだけでは、同じ心の形にはならないのだと身に染みましたから」

「そりゃ僕も、絶対に記憶を失くさないようにしないとだ。アルテアも気を付けた方がいいよ」

「……………そう言えば、アルテアさんは事故り易いので………」

「お前に言えたことか?」

「むぐる………………」




それは、まさしく恩寵とも言うべき不思議な時間であった。


この森の中で、こんな風にみんなで素足をお湯に浸けて話すことが、そうそうあるとは思えない。



シェダーの秘密を意図的に知らしめる行為は、その魔術の構築を崩してしまうのだという。

魔術で約束された対価の支払いの為には、今後もやはり、気安く彼だと言う訳にはいかないようだ。



(でも、それでもという思いで、この人はこの場所に戻ってきた……………)



それは、伴侶を失い狂乱してもなお、その未練が尽きなかった、大事な主君と友人達への思いなのだとネアは思う。


狂乱が鎮まりまっさらになったその先で、この魔物は新しい自分を得ることよりも、多くの制約を身に引き受けた上で、もう一度この場所に戻って来ることの方をと望んでくれたのだ。




「ふふ。今夜のこの列車の恩寵は、みんなで色々なお喋りをして足湯に浸かることでしたね。とっても幸せなので、ノアには感謝しかありません!」

「うん、僕も未来の妹に喜んで貰えて良かったよ」

「姉ですよ!」

「うーん、譲らないなぁ…………」




ほこほこと上がる湯気にネア達はすっかり寛いでしまい、列車から、そろそろ動きますよというベルを鳴らされ、ここから歩いて帰るというシェダーに手を振り、慌てて車内に戻ったのであった。



なお、シェダーのお城は、この森のあわいから地上に戻ったところの近くにあるのだそうだ。


あまりお城には帰らないという彼がこの列車に乗っていたのも、たいへん頼もしい恩寵の盃の采配なのかもしれない。
















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