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使い魔の消えた夜 2




ノアがテーブルの上に乗せた金色の小さな盃は、リーエンベルクの会食堂のシャンデリアの灯りを受け、きらきらと輝いていた。

朝陽を浴びて煌めくダイヤモンドダストのような細やかな光が弾け、透明な金色の結晶石の盃の影がテーブルに落ちる。


覗き込んで見れば、陽炎のように揺らぐ色彩についつい引き込まれてしまいそうだ。




「おや、恩寵の盃だね」



そう言ったのはディノで、ノアはちょっぴり自慢げにしている。

となれば、かなり凄いやつに違いないと、ネアはわくわくする胸を押さえた。


本来なら伝説の地図を手に探すようなとびきりの宝物と、お誕生日会の余興で出会えるなんとも不思議な世界だ。



「そうそう。この前、シカトラームに行った後に、これを預けていたのを思い出して見付けてきたんだよね」

「……………参ったな。世に出てきたのを見たのは久し振りだな…………」

「綺麗な盃ですね。さては、美味しいお酒が出てきたりするのでしょうか?」




そう首を傾げたネアに、エーダリアも首を傾げた。

この様子を見ると、ガレンの長である彼も知らない道具であるらしい。


となると、さりげなくヒルドがエーダリアの服裾を掴んでいるのは、不用意に近付くことを止める為だろう。




「初めて見るものだが、美しいものですね」



そう呟いたグラストの目を見て、なぜかゼノーシュはこくりと頷いた。



「…………うん。グラストも使っても大丈夫みたい。この盃はね、夜の盃に似ているんだけど、お酒じゃないものもくれるから凄いんだよ」

「夜の盃の上位魔術に相当するものだな。ただし、魔術階位が低い分、夜の盃の方が酒を飲むものとしては汎用性が高い。これは、……………そうだな、お前は近付くな」

「なぬ、なぜに封じられたのでしょう……………」

「ありゃ、ネアだって参加して大丈夫だよ。だってほら、アルテアに渡す恩寵だからさ」

「だからだろうが……………」



ノアの指摘に顔色を悪くしたアルテアを見て、ネアは何となくの使い方が分った気がした。



(これは、誰かがあの盃に働きかけて、その効果を他の誰かが受け取るものなのかな……………)




「で、…………これをアルテアに使うつもりなのか?」



困ったようにそう尋ねたウィリアムに、ノアはにんまりと微笑む。

そこには銀狐になってムギムギしている生き物の気配は微塵もなく、魔物らしい老獪さがひたりと滲んだ。



「そうそう。面白そうでしょ」

「うーん、騒ぎにならなければいいんだがな……………」

「恩寵に嫌われない限りは、いいものしか出てこないよ。だからこそ、バーンチュアに使わせない為に、シカトラームに預けてたんだからさ」

「……………そのような品物だったのか」



預け入れの理由に目を瞬いたエーダリアを振り返り、ノアは青紫色の瞳をふわりと和ませた。


今日は何でもない白いシャツに黒いセーターを羽織っていて、家の中から一歩も出ないという寛いだ決意を感じさせる。

先日、虫系統の女性から食べられかけてしまい、暫くはデートの予定を入れていないのだそうだ。



(でも、ディノは、ノアが年内は出来るだけリーエンベルクにいてくれようとしていると話してくれたから、こちらが落ち着くまで、私達に寄り添おうとしてくれているのかもしれない……………)



そんな優しい塩の魔物は、もしかしたらこの不思議な盃を、エーダリアに見せてあげたかったのかもしれない。



「僕が恩寵を引き当ててあげるからさ、エーダリアも一度使ってみるといいよ。魔術において、自分を相手に知られるのはあまり好ましくないけど、何でも知っておくということはいい事だからね。その代り、これは欲しがる奴らも多いから、普段はシカトラームから出せないんだけどさ」



その理由を補完したのはウィリアムだ。



「歴史上、最も有名な秘宝の一つだな。魔術史上は万象の盃、教会組織では聖杯と呼ばれることが多い。勿論、シルハーンの系譜のものではないんだが。…………三十年程前、カルウィの南西にある国が滅びたのは、その恩寵の盃の偽物を巡る戦いだった。正直、俺はあまりいい思い出がない……………」

「ありゃ、じゃあそんなウィリアムに、シルから何かあげてみる?」



そう提案され、ディノはしぱりと瞬きをしてウィリアムの方を見てから、そうだねと柔らかく微笑んだ。

ウィリアムは、突然の展開に目を瞠って固まっている。




「よく聞く、贈与の魔術などは繋がらないものなのですか?」



そう首を傾げたネアに、ディノはその微笑みをこちらに向け、伸ばした手でそっとネアの頬を撫でた。


この魔物は、最近よくネアに触れるようになった。


思わずといった風に触れてから、我に返ってきゃっとなって恥じらうこともあるのだが、どこか、触れることに躊躇いがなくなってきたのかもしれない。

そのくせに、ネアが逃げないようにと軍服風の服に着替えてしまったりもするのだから、くるくると動く心の温度の煌めきに、ネアも目を奪われる。



「これはね、願いを叶える盃だと言い伝えられていることも多いけれど、実際には取り寄せの魔術に等しいんだ。この盃を見い出し、それを利用する機会を得た者に与えられる恩寵として取り寄せの魔術を動かすので、対価などは必要ないよ。その代り、自分の為には使えないものになっている」

「……………この盃を作った方は、優しい方だったのですね」

「…………かもしれないね。もうこの世界には存在しない者だけれど、初代の黎明の精霊の女王が、最初の信仰の魔物とグレアムと作ったものだからね」

「…………グレアムさんと?…………というか、信仰の魔物さんは、先代の方がいたのですね?」


驚いたネアに、ディノは世界が幼かった頃の信仰の魔物は、今のレイラとはまるで違う気質の魔物だったのだと教えてくれた。



今の信仰の形は、鹿角の聖女が失われた後に形を決めたものが多く、やはり鹿角の聖女を中心とした教会文化などをその資質の中心にしているのだそうだ。



「それより前の時代の信仰は、もう少し自然に寄り添う素朴なものだった。何かを願い規律を設けるようなものではなく、自然の中に存在する形のないものを敬うような、穏やかなものだったんだ。レイグルは、ゼノーシュくらいの少年の姿をした魔物で、信仰の対象となるような山や森の精霊達ととても仲が良かったよ」



人々が豊かになり自然に対抗する術を学ぶと、そのようなものへ向ける信仰が薄れていった。

レイグルは徐々に力を弱め、見事な砂小麦の畑に姿を変えてこの世界から消えてしまったと言われている。


彼の最後の証跡は、あのルドヴィーク達の暮らすランシーンの方で、だからこそあの近隣の土地には、ヴェルクレアなどとは違う形態の信仰が根強く残っているのだそうだ。



「そうそう。代替わりという形じゃなくて、古い形の者が形を変えて失われて、新しい世界に見合ったものが派生したのが、レイラだからね」

「………そのような履歴は知りませんでした。そうなりますと、今代の信仰の魔物は、鹿角の聖女あってこその派生ということなのですか?」


そう尋ねたヒルドに、ノアが首を傾げる。


「派生そのものは、それ程でもないかな。レイラは修復と同世代の魔物だし。…………でも、派生したばかりの頃のレイラは、……………うーん、ほこりを想像して貰うと分かりやすいかもだけど、その姿から周囲に育てられて自分でも育っていって、今の形に落ち着いたんだよ。修復も珍しく派生後に形を変えた魔物だから、あの頃はまだそういう魔物も多かったんだろうなぁ…………」



それは、人々の概念が固まる前の、世界の柔らかさとでもいうべきものが影響したのだろうか。



結果的には、鹿角の聖女と呼ばれた修復の魔物の崩壊によって人々がより深めた信仰が、今のレイラを育て上げ完成させたのだと言われている。

レイラが、信仰を裏切る者に対して厳しい制裁を科すようになるのは、ラエタの崩壊の直前に、そこに暮らしていた愛する者を殺された事件以降であるそうだ。



(それが、ウェルバさんをあのあわいに閉じ込めることになった事件でもあった……………)



そして、形を定めた信仰の魔物は、それからは変化なく現在の姿と資質を保っている。

唯一、ダリルに想いを寄せて微かな心の変化を遂げた時には、信仰を誘惑するのはやはり知恵だと、見識者達は訳知り顔で頷いたらしい。




「………ここに、その失われた叡智と魔術が…………」

「エーダリア様、もう少し下がりましょうか」

「ヒルド…………」



魔物達の話を聞いて我慢出来なくなったものか、よろよろと盃に近付いたエーダリアを、ヒルドが容赦なくぐいっと引っ張って後ろに下がらせる。

エーダリアは恨めしそうに振り返っていたが、苦笑したノアがヒルドと視線を交わしているので、双方過保護な保護者達という感じがした。


ネアはこっそり振り返り、いつの間にか、アルテアに襟首を掴まれていることに気付いて眉を寄せた。

そっと外してみようとしたのだが、アルテアにじろりと睨まれ眉を下げる。



「では、まずは私が、ウィリアムに恩寵を呼び寄せようか」


ノアに指名されていたディノが、そう進み出た。


取り寄せられる恩寵は、贈り手と贈る相手の関係性を踏まえ、尚且つ形のあるものとして受け取りが可能なものに限られる。


例えば、一般人同士でこの恩寵の盃を使っても身の丈に合う品物しか動かせないのが、アルテアの言うところの汎用性の低さなのだろう。

しかしそれは、不相応で手に負えない恩寵を贈られ、受け取った相手が破滅したり押し潰されないようにする為に設けられた、優しい決まり事でもあるのだ。



手を伸ばし、盃にそっと触れたディノの指先が、淡い金色の光を帯びた。

ふわりと温度のない魔術の風が揺れ、ディノの真珠色の髪がはたはたと揺れる。




「…………おや」

「……………シルハーン?」




すると、そこには一人の男性が呆然とした面持ちで立ち尽くしていた。

煙が湧き出た訳でも、他のことで視界を遮られていた訳でもないのだが、気付いたらそこに立っていたのだ。




「……………シェダー?」



灰色の瞳の美しい魔物の出現に呆然とそう呟いたのはウィリアムで、どうやら着替え途中で呼び出されてしまったらしい犠牲の魔物は、一拍動きを止めてから、まずは締めかけていたクラヴァットを手早く仕上げると、シャツをパンツの中に押し込み、白灰色のジレのボタンを留めた。



「…………シルハーン、俺をお呼びでしょうか?」


あんまりなタイミングで呼び出されたにもかかわらず、怒るでもなく狼狽するでもなく、そう柔らかな微笑みを浮かべたシェダーに、ディノは困ったような微笑みで首を傾げる。



「すまない、突然呼び落としてしまったね。恩寵の盃をウィリアムに使おうとしたら、君が出てきてしまったんだ。生き物が出てくるとは思わなかったよ…………」

「…………成る程、…………恐らく、触れたのが我々の王であるあなただったからこそ、それが可能となってしまったのでしょう」

「…………うーん、こうして俺に向けて呼び出されると、気恥ずかしいな」

「言われてみれば、確かにそうだ」


ウィリアムとシェダーは向かい合って少し照れると、シェダーはこちらを見て、まずはネアに微笑みかけてくれ、その次にエーダリア達に向かって優雅に一礼した。


「突然の訪問で、驚かせてしまった」

「いや、あなたには、部下が世話になった。このような機会でもなければ…」



すかさず、ネアの上司としてきちんと挨拶してくれようとしたエーダリアだったが、シェダーはくすりと笑うと小さく首を振った。

彼が高位の魔物である以上、正式な挨拶はやはりそれに伴う何かの繋がりを残す。

エーダリアは分った上で声を上げたのだろうが、それを遮ってくれたのだと分る眼差しで、こちらまでほんわりと笑顔になれるような穏やかな制止の微笑みを作れるのは、この魔物の才能だろう。


敵に回すと厄介な男だと、常々ノアやアルテアが話している理由が、こんなところからも垣間見える。



「それにしても、…………この盃を見るのは久し振りだな」

「今日は、アルテアの誕生日なんだ。それで、ノアベルトが持ち出して来たのだが………」

「アルテアの?…………これは、主賓を蔑ろにしてしまって申し訳ない。俺からも何か贈るべきかな?」

「いらん。道が閉じる前にさっさと帰れ」



ウィリアムの説明を聞き自分の方を見たシェダーに、アルテアはそうぞんざいに手を振る。

目の前のお皿には、いつの間にか生牡蠣が再出現しており、お酒に合わせてもう一度そちらにも戻るようだ。


「はは、確かにそれもそうだ。シルハーン、いささかお見苦しい姿ですし、そろそろ帰り道が揺らいできましたので、恐縮ですがご退席させていただいても?」

「勿論構わないよ。このような形で呼び出してしまって、迷惑をかけたね」

「いえ、このような形であれ、シルハーンにお会い出来て嬉しかったです」



そう微笑み、胸に手を当てる優雅な臣下の一礼をしてから、シェダーはふわりと姿を消した。


「ありゃ、恩寵の盃が取り寄せに使った魔術を辿って戻ったのかぁ。器用だね…………」

「だから、アルテアにも指摘されて退出を急いだのだと思うよ。でなければ、ここは外部への転移の可能な部屋まで移動する必要があるからね」


そう話しているディノとノアを眺め、ネアはどうしてここにシェダーが呼び出されてしまったのかを考える。


(ウィリアムさんはまだ、シェダーさんがどういう形でなのか、前のグレアムさんの記憶を引き継いでいることを知らないのだろうか……………)


だからこそ、唯一、他の魔物達を強制的に呼び寄せることが可能とされる、魔物の王だけの権限として、ウィリアムの為にシェダーを呼び出せたのかもしれない。


何かと秘密が多い犠牲の魔物だが、彼は、先代の犠牲の魔物の記憶を得る為に、もしくは保ってゆく為に、何か大きな対価を支払っている状態なのだそうだ。

だからこそ、その真実を他者に説明する行為は、様々な危険を孕む。

気付くということで編む成果の魔術と、知らせるということで組み立てられる贈与の魔術は、行為に至るまでの魔術的な区分が違う。

シェダーが対価を支払ってまで敷いた魔術を壊さないように、ディノは今、細心の注意を払っているらしい。


だから、もしかしたら恩寵の盃は、かつてウィリアムが自分の手で破滅に追い込んだと思っている友人こそを、ここにいるよと連れて来てくれたのだろうか。



そう考えて、あたたかな思いで微笑みを深めたネアの隣で、小さく息を吐く音が聞こえた。


「…………やっぱりか。あいつも中々に狡猾な男だな」

「…………む?アルテアさん?」

「こっちの問題だ。まぁ、早々退場する程に愚かではなかったということか。…………ウィリアム、今の訪問であいつが言った言葉を、よく考えておけよ」

「……………アルテア?」



どこか呆れた顔で指摘したアルテアに、ウィリアムは不可解そうに目を瞠る。

ディノはアルテアが何に気付いたのかを理解したのか、どこかほっとしたような目をしていた。



「ふーん、…………そういう事か。………で、次は僕が触るかな。グラストもやってみる?」

「……………私が、ですか」

「僕がグラストにあげてもいいよ?」

「うーん、ゼノーシュより、グラストの方が安全かな。ほら、成就の因果の祝福持ちだし」



そう言われて、次に盃に触れたのはグラストだった。

そこから出て来たのは、なんとゼノーシュにと思って買ったものの、渡しそびれていた綺麗な水色の鉱石で出来た手帳型金庫で、食べ物を入れることに特化したリノアールの売れ筋商品であるらしい。

衝動的に買ってしまったものの、ゼノーシュが高位の魔物であることを思い出し、グラストは、こんなものは必要ないのではと思い直してしまったのだとか。



「なんで?僕、これが貰えたらすごく嬉しいよ。毎日使う!………僕にくれるの?」

「………そうか、それなら良かった。今の状態で間に合っているのなら、かえって邪魔かなと思ったんだが………」

「グラストから貰うもので、邪魔なものなんてないよ!」



結果として、そう笑顔で弾むゼノーシュというとても尊く可愛い光景が誕生したので、ネアは、胸をほこほこさせながら、思いがけない贈り物に喜ぶクッキーモンスターを拝見した。

ゼノーシュはここに、グラストが買ってくれるクッキー缶を溜め込むのだそうだ。

とても幸せそうで、このような品物を使っても決して事故らないのが流石の二人である。



「よーし、じゃあ次は僕だ」

「ネイ、くれぐれもおかしなものを取り出しませんよう、気を付けて下さいね」

「ありゃ、ヒルド、大丈夫だって。えーと、まずはエーダリアにあげるものかな。……………うわ?!」



ノアが触れたところからしゅわりと現れたのは、なぜか鎖でぐるぐる巻きにされた一冊の本であった。

黒い瘴気めいたものを纏い、ごうごうと風の音を立てているその物体は、ネアの素人目から見ても明らかにまずい方向性の魔術書とお見受けする。


けれども、エーダリアはぱっと顔を輝かせた。


「…………黒い翼と焔。………ブレアロールの黒い扉か!」

「うっわ、待って待って。こんなつもりじゃなくてさ、もっと穏やかなやつを取り出すつもりだったんだけど…………」

「ネイ?私は、良く考えるようにと言いませんでしたか?」

「……………ごめんなさい」


ノアは早速ヒルドに叱られてしまい、そちらがわしゃわしゃになったので、ネアはその隙にそろりと盃に近付いてみた。

けれどもその途端、襟首を掴んだアルテアに引き戻される。


「むぐ?!」

「やめておけ。言っておくが、お前はあの事故を上回るぞ」

「私に可能な程度のものしか動かせないのなら、事故りようもないではありませんか。アルテアさんの為に、きっと素敵なちびふわの何かを……」

「そうだな、やめておけ」

「むぐる…………」



ネアは自分も試してみたくてじたばたしたが、今夜ばかりはそんなネアの味方がいた。

件の魔術書はひとまずどこかに収容し、次はネアだと言ってくれたノアのお陰で、ネアもこの恩寵の盃を試せることとなったのだ。



念の為にディノに後ろから捕まえていて貰い、アルテアの方を見てこくりと頷いてから盃に触れると、指先が魔術を編んだようにぺかりと光る。


(わ!…………まるで私が魔術を使えているみたい…………!)



そんな素敵な反応にすっかり気分を良くしたネアは、続けて現れたものに仰天した。

ごとんと音を立ててテーブルに現れたのは、どうにも見覚えのある瑠璃色の瓶である。



「ほお、…………いい趣味だな」

「ぎゃ!これは駄目でふ!!」

「リコステラーダの年の氷河の酒の古酒か。貰っておいてやる」

「むぐる!あげるつもりはありませんでした。なぜか、リドワーンさんが奉納してくれた、私の大事な秘蔵の氷河のお酒なのです!!」

「……………リドワーンだと?魔術の繋ぎは切ったのか?」

「も、勿論ですよ。ディノがえいやっと切ってくれて、このお酒はちびちび隠れて飲む用に保存しておいて、…………ぎゃ!開けてる!!」



ネアがこっそり隠し持っていた氷河のお酒は、うっかり贈り物として出現してしまった為にすみやかに没収されていってしまった。


何事かでむしゃくしゃした時にでも飲もうと取って置いたのにと涙目でふるふるしているネアに、ディノが可哀想にと頭を撫でてくれる。

ウィリアムだけでなく、ノアやヒルドまでも、そのような貰い物であればみんなで飲んでしまおうと謎に張り切ってしまうのはなぜだろう。



「ふぎゅ……………」

「お前には、他の当たり年の氷河の酒を持ってきてやる。それでいいだろ」

「むぐる…………。その約束を破ったら、アルテアさんは一年ちびふわの刑にします」

「やめろ」

「ネアは、そんなに氷河の酒が好きなんだな。俺も今度探してみよう。仕事柄、宝物庫や王城の放棄に立ち合うことも多いから、探そうと思えばそのようなものの入手の機会は多いんだ」

「わーお、死者の王が職権の乱用を始めたぞ…………」



きゅぽんといい音がして、ネアの大事な氷河のお酒はコルクを抜かれてしまった。

ふわりといい匂いがしてくると、いっそ諦めもついて、ネアも早くこちらのグラスにも注ぎ給えな気持ちになる。

結果として、みんなのグラスに氷河のお酒が行き渡り、たいそう恐縮しながら飲んだグラストも、あまり強くはないけど美味しいと微笑んだゼノーシュも、みんなで楽しく飲むことが出来た。


エーダリアも、甘口のお酒だがチーズと合わせると最高だと知ってしまい、また一つ贅沢になってしまったと苦笑している。


ヒルドは美味しいと微笑んではいたが、嗜好としてはもう少し辛口のお酒が好みなのだろう。

そんなヒルドに、ノアがこっちも飲もうとさっと取り出したのは、シュタルトの湖水メゾン自慢の蒸留酒だ。

澄んだ緑色の硝子の蒸留酒らしい形のボトルは、手書きのラベルといい上品で洗練された雰囲気がある。

ひたひたと揺れるお酒に、ヒルドは湖の祝福が見えますねと小さく微笑みを深めた。


「葡萄酒は有名だけど、蒸留酒は作っている量が少ないから珍しいんだよ。土地そのものの湖の祝福に加えて、夜霧の祝福のある葡萄が実った年に、お得意だけの為に作ってるものだからね」

「こっちのグラスでいいぞ」

「うわ、アルテアまで飲む気満々だ」

「僕、そのお酒初めて……………!シュタルトにあるの?」

「ノア、私もちょび飲みしたいです。このちびグラスに入れてくれれば、ディノと一緒に味見出来るので…」

「ネアが虐待する……………」

「なぜなのだ」

「ありゃ、囲まれた………………」



湖水メゾンがお得意様だけに販売してくれる、夜霧と新月の葡萄のお酒は、水のように透明な蒸留酒だ。

しかし、その透明なお酒を見ているとなぜか、ふくよかな夜の美しさが心を揺らす。

それは、晩秋の新月の夜に、霧に包まれたシュタルトの美しい葡萄畑であり、この液体の中に染みわたるそんな詩的な夜の祝福であった。


口に含めばすっきり辛口で、ふわっと霧深い夜の森のような芳醇な香りが鼻に抜ける。

一瞬、じりりっと熾火が燃え上がるように仄かな甘さが舌に残り、けれども最後に残るのはひやりとした氷を食むような辛口の爽やかさだ。


濃厚な甘さのドライフルーツや、もったり濃厚な熟成チーズと合わせると堪らなく美味しいそうで、このお酒は静かな夜に本を読みながら飲むのにも最適とされているらしい。



「……………酔ってないな」


ネアのいつも飲むお酒とは違うし、そこそこ強いものなのだろう。

ちょび飲みをして満足げに目を細めていると、そう呟いたアルテアにくいっと顎先に指をかけられ、至近距離からじっくりと瞳を覗き込まれる。


「……………むぅ。ほろ酔いかもしれませんが、酔っ払いというところには到達していません」

「お前がろくでもないことをしでかすのは、やはり巨人の領域の酒だけか……………」

「アルテアさんが死んでしまうのは、コルヘムさん辺りでしょうか」


そんな折に、ネアはウィリアムが先程の恩寵の盃に近付くのを目撃した。

ノアがディノに声をかけているので、今度はウィリアムからディノに何かを贈ろうとしているようだ。

ちょっと心配だなと思わないでもなかったが、しゃわんと光った後に盃が出してきたのは、小さな術符のようなものだった。



「……………ありゃ、それ僕が作った霧竜の擬態術符だ………………」


そう呟くノアの声に、ディノとウィリアムは顔を見合わせる。

どうやらディノは、尻尾を抱いて眠った霧竜の肌触りがなかなかに気に入っていたようだ。

ノアとネアからも期待に満ちた視線を向けられてしまい、根負けしたのか、ウィリアムは今度の休みの日になと約束の上、その術符をそっとディノに持たせていた。


(誰かの持ち物を、こうして出してきてしまうこともあるのだわ…………)


それはつまり、誰かがこの盃を使うことで自分の持ち物が失われてしまう可能性があるのだろうか。

もしくは、今回のように仲間内でしか発動しないものなのだろうか。

謎は深まったが、ネアは擬態の術符が話題に上がったいい頃合いだと判断し、そちらの騒ぎを見ていたアルテアの背中にえいやっとちびふわ符を貼り付けた。



「フキュフ?!」



ぽてんと椅子の上に落ちたちびふわは、何をするのだと赤紫色の瞳を丸くしてふるふるしている。

ネアは、けばけばになったちびふわをさっと持ち上げると、ご参加の皆様に頷きかけ、すっと立ち上がる。

今年もちびふわにしてこの儀式を執り行うと、皆には周知済なのだ。



「ではこれから、お誕生日の儀式をしますね」

「フキュフー?!」


じたばたするちびふわのおでこに口付けを落としたつもりだが、ちびふわが動くので、うっかり鼻先になってしまったがまぁ大差ないだろうと頷いたネアは、なぜかけばけばで固まったちびふわを、ぽーんと放り投げた。


三回程上に投げて優しく受け止める儀式を繰り返し、また周囲を見回してきりりと頷いてみせる。



「…………………アルテアなんて」

「無事に儀式が終了しました!」

「ありゃ、落としても良かったのに……………」

「ネア様、来年からはもう少し高く投げてみてもいいかもしれませんね」

「む、刺激が足りませんでしたかね……………」

「ヒルド……………」



ここで、ウィリアムがとても素敵な微笑みで、是非に自分も投げてみようかなと言うので、不穏な気配を察したネアは、この儀式はウィームの民のものなのだと言って、かちこちになったままの無垢なるちびふわをさっとディノに預けた。

ディノは、ちびふわを持たされてしまいたいそう困惑していたが、自分も投げるのだと理解すると、おずおずとちびふわを投げては受け取り、さすがに口付けは省略したものの、お祝いの儀式を終えてくれた。



「…………………いいか、二度とやるな」


無事に擬態が解けて人型の艶麗な魔物に戻ったアルテアは、少し乱れた髪の毛を片手で梳き直しつつ、ネアにそう言って口元を片手で覆う。

漆黒のスリーピース姿の艶やかさなので、こうして弱った様子を見せるとなかなかに色めいてくる。



「ふむ。表情を隠してしまうくらい、お祝いされたことが嬉しかったようですね…………」

「…………嬉しかったんだね」

「やめろ」



そんな一幕を挟み、少しぜいぜいしてしまったからか、アルテアは手元にあったグラスから、あれこれお酒を早いペースで飲んでいたようだ。

その後も恩寵の盃は活躍し、ディノからアルテアにたくさんのフルーツケーキを、そしてウィリアムからは、なぜか懐かしの赤い紐が贈られてしまい、一同が凍りつく場面もあった。



誕生会もそろそろ終盤かなという、クラヴィスの夜もとっぷりと更けた頃。

ネアは、本日の主賓が少しだけ無防備になっている様子に、しめしめと邪悪な微笑みを隠していた。



「………………なんだ?」


作戦を決行する時が訪れ、隣で飲んでいたアルテアの手をいそいそと持ち上げたネアに、赤紫色の瞳の魔物は微かに面白がるような眼差しでこちらを振り返る。

ネアは、真の目的に気付かれないように、その手をにぎにぎして魔物の警戒を緩めてから、ぐいっと引っ張ってテーブルの上の恩寵の盃にぴたりと触れさせた。



「……………おい」

「やりました!これできっと、アルテアさんから私宛の、パイの山が…………………。む?」

「わーお、無理矢理捥ぎ取ったぞ……………って、手帳?」


ノアのその言葉に、勝手にやっていろと視線を外していたアルテアが、勢いよく振り返る。

けれどもその時にはもう、ネアはその黒い革の表紙の上等な手帳を、ぱかりと開いてしまっていた。



「……………っ、」


手を伸ばしたアルテアが、ネアの手から毟り取るようにして手帳を回収してゆき、ネアは空っぽになった手をそのままの形にして無言でそんなアルテアを見返す。


こちらを見る選択の魔物の瞳には、絶望と懇願にも似たものが揺れていた。

けれどもそういう希望は、えてして儚く破れてしまうものなのだろう。


騒ぎに気付き、緊張感を高めて静まり返った室内で、ネアはこてんと首を傾げる。



「見てないな?」

「………………私が食べたいと話したもののリストと、私に食べさせるものが記されたカレンダーでした。使い魔さんが、たいへんよく懐いた素敵な使い魔さんであることを私に教えてくれる恩寵だったのでしょうか。それとも、お誕生日のケーキの前にも、素敵な焼き菓子が偶然を装って貰えることをお知らせしてくれる、素敵な恩寵だったのでしょうか。…………む、逃げました…………………」



ネアが全てを言い切る前に、アルテアの姿は忽然と消えてしまっていた。


後には、手帳を取り戻す為に立ち上がった際にがたんと動いた椅子がその不在を示すように残されており、テーブルの上に先程まで飲んでいたお酒の入ったグラスがぽつんと置かれていた。

呆然としたネアが周囲を見回すと、魔物達は何とも言えないような表情で口元をもぞもぞさせている。



「……………アルテアは、恥ずかしくなっちゃったのかな」


そう呟いたゼノーシュに、なぜかノアが顔を覆って俯いてしまう。

ネアは、そんなノアの震える肩を眺めながら、突然の失踪に首を傾げた。


「………………秘密の予定の焼き菓子の贈り物がばれてしまったので、計画を練り直すのかもしれませんね……………」

「いいなぁ、何の焼き菓子だったの?」

「蜂蜜風味の焼き菓子の中に、プラムが入っているみたいです!今から届くのが楽しみですね。これはもう、知ってしまった以上は、その日を忘れないように催促してもいいのでしょうか…………?」

「お前に慈悲はないのか。やめてやれ……………」

「エーダリア様?」



とは言え、せっかくのアルテアの誕生日なのだ。


その後もアルテアは戻ってくる気配はなく、お開きにする前に主賓が消えてしまったとネアはしょんぼりしたが、にんまり笑ったノアが恩寵の盃をディノに差し出し、ディノがそれに触れると、失踪した筈の使い魔はまたこの部屋に引き戻されたようだ。


ぎょっとしたように目を瞠った選択の魔物の出現に、ネアは用意していたちびふわ符を素早く貼り付け、逃げないようにちびちびふわふわさせられてしまった使い魔を、大事に両手で抱き上げる。


「捕まえました!」

「フキュフ?!」

「アルテアが戻ってきて、良かったね」

「はい。ディノとノアのお蔭で、戻ってきてくれて一安心です」

「それは、…………戻って来たと言っていいのだろうか…………」

「今夜は、お泊り出来ると聞いていたので、ちびふわにも贈り物を差し上げますね。えいっ!」



それは、脱走防止の秘策であった。

邪悪な人間の手で目の前に差し出されたイブメリア限定のフルーツケーキに、第三席の魔物の理性は吹き飛んでしまったらしい。


アルテアなちびふわは、ちびこい手でネアが紙を剥いてくれた部分を押さえて、夢中であぐあぐとフルーツケーキを頬張っている。

そしてすぐに、へべれけに酔っぱらってしまった。



「フッキュウ………………」

「アルテアが……………」

「うわ、こんな風になるんですね……………」

「僕さ、今日こそアルテアに話したいことがあったんだけど、さすがにもう、アルテアの心が死ぬかもしれないからまた今度にするよ……………。うん、僕って優しい魔物だな」

「ノアベルト、まだあの狐の正体を話してなかったのか?」

「いや、ウィリアムは簡単にそう言うけどさ、この前も言おうと思ってたところで、ネア経由でお土産のボールをくれたんだよ。……………その日はもう何も言えなくなるよね……………」

「と言うより、アルテア様はウィームにもご自宅をお持ちなのに、ご存知でないのが不思議ではありますね………」

「………………とは言え確かに今夜はもう、これ以上の負担をかけない方がいいのではないか……………?」



みんなの視線を集め、酔っ払いちびふわは幸せそうにフルーツケーキを齧っている。

ネアは、ふぐふぐ言いながら夢中で甘いものを食べる愛くるしい生き物を、そっと指先で撫でた。

何か気まずくなって失踪してしまったとはいえ、そんな風に残りの時間を一人で過ごしたら寂しいではないか。



「お誕生日おめでとうございます、アルテアさん」



そう言えば、一瞬酔いが醒めたものか、赤紫色の瞳のちびふわは、みっとなって尻尾をけばけばにした。



翌日、人型に戻された魔物は、なぜか頑なにネアを避けようとしたので、焼き菓子の予定を奪われてはならないと荒ぶったネアは、こちらを見るなりすっと転移を踏もうとした使い魔をもう一度狩り直す羽目になった。


避けられるようなことはしなかった筈なのにと、お酒で記憶も失っていない昨晩の出来事を振り返って謎を深めていたが、どこか遠い目をしたエーダリアから、どうか使い魔の心中を察してやるようにと言い含められてしまった。


なお、酔っ払いちびふわのしどけなさを目の当たりにしてしまったからか、ウィリアムからは、自分が霧竜になった日には、霧竜が酔っぱらってしまう竜のお酒を飲ませるのは禁止だと、事前にお達しがあった次第である。



恩寵の盃は、クラヴィスの翌日には再びシカトラームに戻された。


アルテアを連れ戻せたことと、シェダーを呼び落とせたことで、思っていたよりも多様な用途を成すと分かり、ノアはいい実験になったと満足そうだ。

であればと魔物達が期待する効果は、迷子になった誰かを呼び戻せるかどうかにかかっているようで、今から大きな成果を上げることを見込まれている不思議な道具は、ウィームの魔術銀行の中でその出番を待っている。






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