使い魔の消えた夜 1
その日、ウィームは無事にクラヴィスの夜となった。
朝からしんしんと雪の降る一日で、真っ赤な木の実のリースに積もった雪が堪らなく美しい。
些細なことなのだ。
どこもかしこもただの日常の風景の一欠片なのだが、それでもネアは、そんな様子にも胸を弾ませる。
冬のウィームは、どこを切り取っても美しい。
降り積もる雪のその一欠片にすら魔術が凝るのだから、それは当然のことなのかもしれなかった。
そんな美しい日の朝食の少し後くらいに、送り火の魔物が失踪したという一報が、リーエンベルクにも入った。
どうにか自分で逃げられたかと、今年ばかりはネア達もほっとする。
あの手紙の通りであれば、恐らく今頃は歌劇場に立ち寄っているか、チーズを買いに行っている頃だろう。
無事に逃げおおせて貰う為にも、リーエンベルクの対応としては、騎士達の捜索担当となる一部の者にはグレイシア失踪の真実を伝えておき、的外れなところの捜索から始めることとする。
今回はグラストとゼベルとが指揮を取り、同じようにエーダリア達の意思を汲むことの出来る、アメリア達にも調整を任せたそうだ。
最終的には、イブメリア後に出現するちび狼と触れ合いたいアメリアが、ゼベルと共に、シュタルトに滞在しているグレイシアを迎えに行く予定なのだとか。
「しかし、季節が滞るとなると、それなりに厄介なのは確かだな。特に祝祭の進行には、慎重な調整が必要になる」
「グレイシアさんが脱走するのは、いつものことなのではありませんか?」
「今年はさすがにもう、逃げ出さないだろうという試算だった筈だぞ。とは言え、蝕の影響などを見越して、祝祭の再調整には備えはしていただろうが…………」
そう呟くのは、本日お誕生日の魔物である。
ひらりと風を孕んで揺れる長い漆黒のコートを着ていて、漆黒のスリーピース姿に、とろりとした白灰色のクラヴァットを締め、青灰色がかったダイヤモンドを散りばめたような素晴らしいブローチで留めていた。
歩幅に合わせて揺れるコートは、もっと暖かい季節の軽やかな生地のものに思えるのだが、近くで見るとしっとりとしたハラコ素材のような短毛の毛皮のコートなのだ。
このようにして軽やかに靡かせるとなると、どれだけ計算し尽くされた縫製で、どれだけの革を使っているものか。
「去年差し上げた手袋も、使ってくれているのですね」
気付いたネアがそう喜べば、アルテアはわざとらしく手元に視線を落とす。
ふっとゆれた瞳の色が、鮮やかな赤紫色の花のようだ。
「まぁ、たまにはな」
「アルテアさんは、衣装持ちですものね。でも、こうして時々でも使ってくれると嬉しいですし、今日のこの日に持ってきてくれたアルテアさんの優しさに、今年の贈り物を渡す勇気も出てきました!」
「…………せいぜい、期待しないでおいてやる」
誕生日会を楽しみにし過ぎて、実は昨晩からリーエンベルクに来ている魔物は、そう素直ではない言葉を返したが、ネアはさっと隣のディノの方を見てから、二人でこそこそと内緒話をすると、アルテアに視線を戻し意味深に頷いてみせた。
ディノは耳を押さえて虐待だと呟いていたが、それでもネアからのメッセージは受け取ってくれたものか、けなげにもこくりと頷いてくれた。
「おい、その顔をやめろ」
「大丈夫ですよ。私もディノも、ちゃんとアルテアさんの気持ちは分かっていますからね」
「アルテア、…………その、もう少し待っておくれ。日付が戻るとしても、今日はクラヴィスには違いないからね。そちらの儀式に出ている、エーダリア達が戻ってからにしよう」
真摯な眼差しでディノにそう言われ、アルテアは一瞬真顔になると、すっと目を細めてこちらを見た。
「……………お前は、こいつに何を言ったんだ?」
「アルテアさんは、お誕生日会が待ちきれないのに、素直ではないので上手くはしゃげないと正直に伝えておきました。………むぐ?!なぜに鼻をつまむのだ!許しません!!」
素直ではない魔物に虐められたネアは、慌ててその手をばしばし叩く。
すると今度は、それを羨ましそうに見つめる寂しげな魔物が生まれた。
「今日は、…………アルテアにも、ご褒美をあげているんだね…………」
「そんな悲しい目をして我慢しなくても、これはご褒美ではなくて、報復ですからね?」
「…………うん。でも、叩くのかい?」
「むぐぐ。どちらにせよ、ディノにとってはご褒美でした………………」
三人は今、季節が足止めされてゆっくりと後退してゆく様を見守りながら、リーエンベルクの敷地内に留意するべき変化が現れないかを調べている。
中庭を抜けてリーエンベルクの正面に聳える大きな飾り木が見えてくると、この前の夜にアルテアが披露してくれた素晴らしい歌声が思い起こされた。
(魔物さんの歌は、魂を与えるものだというけれど…………)
ディノのように、それを一緒に差し出すのも吝かではないという婚約者もいれば、アルテアのように、純然たる歌の贈り物として、その意味を取り払って聞かせてくれる懐の広い魔物もいる。
使い魔だからこそ、そこまでを許した人間の我儘に呆れながら歌ってくれたこの魔物を、今日はネアが大事にしてやらなければいけない。
そう考えふんすと胸を張ると、ネアは、不審そうにこちらを見ていた使い魔の袖をくいくいっと引っ張った。
「アルテアさん、今日はケーキも用意したので、楽しみにしていて下さいね。アルテアさんには敵いませんが、美味しくなるように頑張って作りましたから!」
「ほお、その心意気に免じて甘めに評価してやる」
「むぐる…………」
「ネア、ほら、アルテアは素直になれないのだろう?」
「……………は!そうでした。使い魔さんはそういうところがあるので、ここは微笑ましく見守り、背中をとんとんと叩いてあげるべきでしたね」
「やめろ」
「…………む。お腹を撫でた方がいいですか?」
「それは二度とやるなよ。いいな?」
渋面でそう言い含める魔物には、あらあらと微笑みかけておき、ネアは足元に落ちていた小さな毛玉をさっと避けた。
足元にいたのはこの庭園に住む茶色い土兎の一種で、時折こんな風に雪の上でごろごろして遊んでいるのだ。
土兎は自分を跨いで歩いていったのが高位の魔物だと気付き、びゃっとけばけばになると、慌てて雪を掘って土の中に戻ってゆく。
餅兎によく似ているので、うっかり季節風に乗せて渡りをさせてはいけない、リーエンベルクの庭園の宝である。
「そう言えば、王都にも素敵な飾り木があると聞いたのですが、アルテアさんは見た事はありますか?」
ふと思い出してそう尋ねたネアに、アルテアが小さく息を吐く。
ふわりと頭の上に乗せられた手に、ネアは目を瞠った。
何だか宥めるような意図を感じたのだが、なぜだろう。
「年内はウィームを出ないようにしろ。他領の思惑に振り回されていい時期じゃないだろうが」
「ええ、今は、出来るだけウィームから出ないようにと、ダリルさんやエーダリア様からも言われています。なので、アルテアさんがヴェルリアの飾り木を見たことがあるのなら、歌って踊る凄い飾り木のことを教えて貰いたかったのですが…………」
王都には、陽気に歌って踊る飾り木があるらしい。
港町でもあるヴェルリアらしく、船乗りの誰かが、未開の土地の丘の上に生えていたその島の守り神的な大きな木を切り倒し、意気揚々とヴェルリアに持ち帰ったところ、飾り木にいいのではとあれこれ装飾されてしまい、街の一番目立つところにばばんと立てられてしまった。
ところがそれが幸いしたものか、自分を切り倒した人間達を呪う気満々でいたその木は、お酒を飲んで陽気に騒ぐ人々に囲まれ飾り立てられてすっかり気を良くしてしまい、この時期には歌って踊る、なかなかに想像し難い陽気な飾り木になったそうだ。
ディノはその話をすると怖がってしまうし、エーダリア達は見なくてもいいのではないかと遠い目をする。
しかし、ネアは怖いもの見たさで一度見てみたいと考えていた。
(でも、王都は色々と面倒も多いから、あまり気軽に行けないかな…………)
よって、アルテアに話を聞いてみようとしたのだ。
「…………来年にでも連れて行ってやる。だが、見る価値があるかどうかと言うと、五分で飽きるだろうな」
「や、約束ですよ!皆さんが見る価値がないと言う程度にせよ、歌って踊る飾り木さんなんて見たことがないので、とても気になっていたんです」
「ご主人様…………」
「ディノはそういうものが苦手なのですよね。私達が飾り木を見ている間は、ムグリスになって私のポケットに隠れていましょうか」
「うん。踊る木は見なくていいかな…………」
そんな話をしていたくらいなのだから、アルテアは、その時まではネアの元を去りたいとは考えていなかったに違いない。
おまけにその日の夜には、予定通りにアルテアの誕生日会が行われた。
それはとても素敵な、楽しい楽しいお祝いの席だった筈なのである。
グレイシアが失踪したので予行練習扱いではあるものの、儀式などには参加しないネアにとって、クラヴィスの日は穏やかな一日になった。
見回りなどの仕事を終えると、まずは、アルテアにあれこれ指導されつつ、ホットサンドイッチと素敵なスープのお昼を作ってあげることにする。
これはアルテアが誕生日だからということもあるし、今夜の晩餐では、祝祭のお祝い料理以外にも負担をかけてしまう厨房に、少し休んで欲しかったこともある。
お誕生日の魔物がいると、料理人達もお昼とは言え手を抜けないだろうと思ったのだ。
午後まではアルテアが少し仕事をすると言うので、ネア達は街の中にあるお気に入りの飾り木を巡るお散歩兼、実は見回りにもなるツアーを敢行しようとしたのだが、出かけるというとアルテアが不機嫌になったのと、その頃にはウィリアムも到着したので、大人しくリーエンベルクの中で過ごすことにした。
昨晩から一度戦場に戻っているウィリアムが、疲れていたのか長椅子で居眠りをしていたからだ。
そうして、クラヴィスの夜は始まった。
ふくよかな紫色の夜闇が落ちるのは、この夜の揺蕩う祝福の彩りなのだろう。
芳しいその夜の光の美しさにうっとりと窓の外を眺め、ネアは隠しておいたケーキも取り出す。
この世界には保冷の魔術があるので、こうして予め置いておいても問題ないのだ。
「ありゃ、アルテアに手作りの必要ある?なんなら、僕が買ってきたのに」
「あら、アルテアさんは終身雇用になったので、現状は安心しての手作りケーキで大丈夫なのです。ただ、アルテアさんはお料理が上手なので、美味しくなかった時のために小さめにしておき、きちんと本格的で間違いのないケーキも用意して貰いましたからね!」
「…………一つあれば充分だな」
「なぬ。…………と言うことは、私のケーキは食べて貰えないのですか?」
「お前の方を食べないでいて、どう評価するんだ」
今年のアルテアの誕生日にネアが作ったのは、クリームチーズとフランボワーズのケーキだ。
白と赤紫色のコントラストが華やかで、我ながらなかなか上手に出来たと考えている。
アルテアは沢山の花を飾る印象ではないので、ケーキの上のクリームの花は一輪だけだ。
木苺のお酒とシロップを塗ったスポンジにはフランボワーズのムースを挟み、アクセントにホワイトチョコレートを使っているが、全体的には比較的爽やかな甘さのケーキである。
「わぁ、牡蠣がある!」
ご馳走の並んだテーブルを見てそう喜んだのはゼノーシュで、リーエンベルクの料理人たちは、この第三席の魔物が、海産物が好きなことをちゃんと知っていた。
とろりとした海老の濃厚なスープには生クリームで優美な模様が描かれ、燻製の香りの素晴らしいサーモンと香草のムースを、さくさくと焼いた小麦のビスケットでいただくもの。
薄く切って下味をつけからりと唐揚げ風に揚げた蛸は、透けるような薄い衣のお陰で赤い色が引き立ち、食べられる花びらと合わせて華やかに盛り付けられている。
ゼリー寄せや、小海老とバジルのソースの入った小さなパイ包み。
勿論、クラヴィスの晩餐であるので、エーダリアとネアが虎視眈々と狙っている鶏の香草焼きもあった。
丸々一羽を皮目をぱりっとさせて焼くのだが、毎年この鶏皮を巡っての戦争が起こるのだった。
「アルテアさん、お誕生日おめでとうございます!」
繋ぎの魔術や余分な祝福にならないよう、ネアがそう音頭を取れば、みんながグラスを持ち上げる。
なんと今日のお酒は、ノアが持ち込んでくれた珍しいシュプリなのだそうだ。
(…………泡がとっても綺麗…………)
しゅわりとはじける泡が雪の結晶に見えるのは、ウィームの土地の祝福を受けた、古くからある葡萄畑で育てられた葡萄を使うからなのだとか。
シュタルトの湖水葡萄のメゾンのものだが、戦前の葡萄の当たり年のもので、ボトルが披露された時には、珍しくアルテアも目を瞠っていた。
きりりと冷えたシュプリを口に含み、ネアは目を丸くする。
「ふぁ!…………なんて美味しいシュプリなのでしょう!!」
「いいでしょ、これ。…………うーん、やっぱ美味しいね。ほら、これから妹がお世話になる訳だから、そろそろこれくらいの賄賂は贈らないとね」
「ふふ、アルテアさん、この素敵なシュプリは、私の弟からの贈り物でしたよ」
アルテアは優雅な仕草でグラスを傾け、とても丁寧に最初の一口を飲んでいたようだ。
満足げな眼差しを見るに、このシュプリはとても気に入ったらしい。
余談だが、新代のシュプリの魔物は若干病的なくらいに働くのが大好きな魔物だそうで、今のところ、世界はまだシュプリ呼びを封じられずにいる。
ほこりが食べてしまったらしい先代のシュプリの魔物はパーティ大好きの享楽的な気質も強かったらしく、今代のシュプリの魔物は、シュプリをいつまでもシュプリと呼びたい人々にとても歓迎されているのだそうだ。
(とは言え、シュプリの最盛期はこれからだから、過労働な日々を無事に乗り越えられるかどうかは、今から薔薇の祝祭までの日々にかかっているのだとか…………)
部屋の中は、艶やかな赤紫色の薔薇に飾られていた。
けれども花の香りで濃密になり過ぎることもなく、この季節のリーエンベルクには常に清廉な雪の香りが漂う。
テーブルの上のご馳走は絵画のような彩りで、この部屋に集まった者達の顔ぶれも華やかだ。
ネアにとっては家族のような人達だが、魔物はディノにウィリアム、ノアにゼノーシュがいるし、ヒルドも古の妖精の一族のシーである。
そこに、元王子であるガレンエンガディンなウィーム領主に、その騎士までいるのだから、錚々たる顔ぶれだといっても差し支えはあるまい。
美味しいものを食べ、ネアのように契約がないエーダリアやグラスト達はお祝いの繋ぎは結べないものの、各自がそれぞれの言葉でお祝いの心を伝える。
高位の魔物の慶事は、それ自体が祝福だ。
彼等にとっては、この場に同席することそのものが、選択の祝福を得られる類い稀なる機会でもある。
だからこそ、本来は魔物自身が立ち合うことを容易に許さないのだが、エーダリアとグラストは、アルテアに気に入られているので特に問題はない。
「アルテアさんは、今年で二歳になりました」
「やめろ」
「となると、この世界の私はもうすぐに三歳になるので、年上…………?」
「ほお、その可動域でか?」
「むぐる!終身雇用のご主人様を怒らせると、ちびふわの刑ですよ!」
「怒らせるもなにも、事実だろうが」
「ネア、アルテアには後で俺が話をしておく。誕生日ではしゃいでるんだろう」
「ウィリアム…………」
そんな仲良しなやり取りをしているその向こうで、ネアは、仇敵が近くにある鶏の丸焼きに狙いを定めていることに気付いた。
しかし今日は、テーブルのこちら側にも一皿あるので、まずはあちらの鶏皮が殲滅されようとも、ネアにはネアの一羽があるのだった。
(とは言え、鶏皮戦士として、敵に先に美味しくいただかれてしまうのも悔しい気がする…………)
そう考え、ネアはおもむろに切り分け用のナイフを手に取ると、そっとアルテアに渡してみる。
眉を持ち上げてこちらを見た使い魔に、鶏皮の切り出しは任せたと厳かな顔で頷いてみせた。
「俺は、祝われる側じゃなかったのか?」
「うむ。ですので、私の鶏皮を切り分けるという光栄なお役目を授けます。今日はエーダリア様の方にも、私の方にも鶏さんがあるのですが、エーダリア様が鶏皮を食べている時に、私がまだ食べていないのは釈然としません」
「……………ったく」
ぶつぶつ言いながらも、アルテアは、昨年と同様に美味しいところを上手に切り分けてくれた。
すっと上からナイフを入れる玄人な切り方を、向こう側からエーダリアが鋭い目で観察している。
そのお皿には既に、香ばしく焼けた皮目のところのお肉が乗っかっていた。
そんな敵の動きの早さに、ネアは密かに驚嘆する。
「ここだ。いい加減に覚えろよ」
「有難うございます!…………ディノ?」
「切り分けさせてる……………」
「まぁ、羨ましくなってしまったのですね?では、この鶏皮を堪能した後は、私のお皿にあのゼリー寄せを乗せてくれますか?」
「ご主人様!」
こぽこぽと音がするのは、誰かが海老のスープをお代わりしたからだろう。
そちらを見れば、グラストが珍しく積極的に、スープを注ぎ足している。
こちらを見たゼノーシュがにっこり微笑んだので、どうやらグラストはこのスープが気に入ったようだ。
(確かに、濃厚な海老のビスクなのに、後味がさっぱりしていてしつこくないし、パンと合わせると永久運動になってしまいそうな美味しさだもの……………)
「蛸と合せてあるこのお花は、酸味があって美味しいですね。何のお花なのですか?」
「氷苺の花だな。雪深い山間部のものしか、この黄色い花をつけないが、その代わりに実はならない。花びらに苺のような香りと味があるのが特徴だ」
「まぁ!だから花びらの薄さにもかかわらず、こんなにも果物のような瑞々しさなのですね」
ウィームでは、山間の村の幾つかでこの花を特産品としており、本来はたいへん高価なものなのだが、今年は収穫量が多いのだそうだ。
ウィームより入手の難しい王都などでは、王家主催の晩餐会の特別な日にしか見られない高級食材だが、こうしてサラダに乗せると、可憐でいい差し色にもなるので人気は高い。
美味しいだけでなく、美容にもいいというところがご婦人達にも人気の秘訣だ。
「他国では、傷の治癒を高めたり、病の特効薬にもなると言われているな。前に鳥籠を張った土地の農民たちが、傷付いた兵士に食べさせているのを見た」
「そう言われてみれば、こちらに来たばかりの頃、体調を崩した後で回復が思わしくなかったとき、ダリルからこの花を食べるといいと言われ、大量に届けられたことがあった」
「ふむ。ビタミン的なものでしょうか…………」
「びたみん…………かい?」
「私の生まれ育った世界の、栄養素の名前の一つですよ。苺などにも多く含まれていて、疲労や精神的な摩耗でも体内から失われるものだと聞いています。こちらの世界ではあまりそのような名称を聞きませんが、同じような効果はありそうですね……………」
そんな会話から判明したこちらの世界の苺には、疲労回復や肌質の改善などの祝福があるらしい。
栄養素ではなく祝福の一環になるのだなと考え、ネアは、新たな知識を興味深く噛み締めた。
「鶏肉にも祝福があるのでしょうか?」
「全ての食べ物には、その素材の祝福がありますよ。ネア殿が普段集めていらっしゃるような稀有なものではありませんが、それでも良い食べ物は体を整えます。鶏肉には、飛翔の祝福がありますので、体が強靭になり、動きが軽くなる効能があるのだとか」
そう教えてくれたグラストに、ネアは目を丸くして頷いた。
こうしてこんがり美味しそうに焼かれてしまってから、飛翔の祝福があると聞くと胸が苦しくなるのはなぜだろう。
とは言え、鶏肉はとても美味しいので今後も躊躇わず貪欲にいただく所存である。
「そろそろだな」
「む。使い魔さんが、ケーキをご所望のようです。…………その、私の方のケーキでもいいですか?」
ネアがおずおずとそう尋ねると、アルテアは呆れたような面白がるような表情で、唇の片端を持ち上げて微笑んだ。
「何度も言わせるな。さっさと切れ」
「はい!」
室内は、お料理もあらかた食べ尽くされたところだ。
主賓の号令をいただき、ネアはいよいよケーキカットに入った。
今回はお花が一輪しか乗っていないことから、フランボワーズのクリームで作った薔薇が乗った部分は、アルテアのお皿に乗せられることになる。
ディノは悲しそうにその行方を見つめていたが、最近は友人を思いやる心が育ったので荒ぶることはなかった。
もしくは、試作品を作った時にお花のクリームを乗せたケーキを先に食べさせておいたからだろうか。
ネアが緊張して見守る中、アルテアはフォークの扱いも品よく、白と赤紫のクリームのケーキをぱくりと口に入れた。
「……………まぁまぁだな。悪くない」
ややあって、そんな評価を貰ったネアはびょいんと弾んだ。
笑顔でディノの方を振り返れば、ディノは、ネアが弾みながら微笑みかけてくるとすっかり弱ってしまった。
他の人達の評判はどうかなと、ネアは、傾いてずるいと呟いている魔物の影からこっそり周囲を窺い見る。
すると、目が合ったウィリアムは、にっこり微笑んでくれた。
「俺は、悪くないどころか、今迄で食べたケーキの中で一番好きだけれどな」
「うっわ、ウィリアムが腹黒いんだけど!」
「ウィリアムさん、有難うございます!」
「僕もこのケーキ好きだな。美味しいよ、ネア」
「まぁ、ゼノに褒めて貰ったら、もう百人力ですね」
「とても美味しいですよ。これなら、いつでも料理人になれますね」
「ヒルドさんにも褒めて貰いました!」
そんなヒルドから視線で促され、エーダリアもそつなく褒めてくれた。
勿論、今迄食べていた本職の料理人のものに並べる筈はないのだが、そんな風に褒めて貰えるとこちらの人間はたいそう喜ぶシステムなのだ。
「…………美味しいよ」
くしゃりとなっている間に自分だけ出遅れてしまったと思ったものか、ディノも慌ててそう褒めてくれる。
しかしながら、一度弱ってしまったのでまずは呼吸を整えてからだ。
その間にアルテアはすっかりケーキを食べ終えてしまい、ゼノーシュはいつの間にかもう一つのリーエンベルク製のケーキに移行している。
こちらはダークチョコレートとミルクチョコレートに木苺のジャムを使った古典的なケーキで、ネアが作るケーキはどんなものなのかを聞きに来てくれた上で、がらりと味を変えてくれたのが小粋な計らいだった。
上の部分はつるりとチョコレートでコーティングしてある、つやつや光る宝石のようなケーキだ。
切り分けた後に、真っ白なクリームをお皿の横に絞っていただくのだが、そのクリームには微かなお酒の風味があるような気がする。
甘さ控えめでほろ苦いチョコレートと木苺のジャムの組み合わせに、ネアはふにゅりと頬を緩めて、使い魔のお誕生日ケーキなおこぼれを満喫する。
「アルテアさん、やっぱりリーエンベルクの料理人さんは凄いですよ。ささ、こちらも食べてみて下さい!」
「おい、口に押し込むな…………!」
ああ言ってくれた手前、こちらのケーキは食べにくいかもしれないと、強引にアルテアの口にそのケーキも押し込んだネアは微笑んだ。
隣で荒ぶる婚約者の口にも、同じようにケーキを押し込む。
(そろそろかな…………)
いい頃合いだろうか。
残ったらサンドイッチにしてまた後日楽しむつもりだった鶏の丸焼きがなくなってしまったお皿を、万感の思いを込めて眺めているエーダリアに目で合図をすると、はっとしたように頷いてくれた。
「…………ケーキも無事に食べ終えたので、アルテアさんに、お誕生日の贈り物を渡してもいいですか?」
「鍋の次は何だ。またその界隈だろ」
「む。この度は、アルテアさんも無事に暫定終身雇用な魔物さんになりましたので、少し趣旨を変えてみました」
ネアがそう言えば、アルテアは片方の眉を持ち上げ少しだけ挑戦的な視線を向ける。
どんなものなのか、自分を驚かせてみろというような悪い魔物の表情だが、ネアは今回の贈り物にはかなりの自信を持っていた。
隠しておいた黒い箱をごそごそと取り出し、ふくよかな色合いの赤紫色のサテンのリボンがかかったその箱を、両手でアルテアの方に差し出す。
なかなかに大きな箱なので、アルテアは何が入っているのだろうかと疑わしげな目でこちらを見る。
「……………大鍋か」
「おのれ、お鍋から一度離れて下さい。勿論、そのようなものの方がアルテアさんは嬉しいのではとも思いましたが、ここは使い魔さんの証として、これを授与することになったので諦めて下さいね」
しゅるりとリボンを解き、黒い箱の蓋を外すと、アルテアはもう一度眉を持ち上げた。
中には明らかに中身は靴だと分かる上等なオリーブ色の箱が一つと、赤紫色の布の袋にリボンをかけた、自分で包みました感満載の袋が入っている。
アルテアはまず、外箱を椅子の上に乗せて靴の箱を取り出すと、その蓋をかぱりと開けた。
一見、上等な紙の箱に思えるその靴箱だが、蓋の内側には夜柳の結晶石を貼り付けられ、靴が収められている部分には柔らかな地竜の革を張ってある上等な保存箱である。
「……………ほお」
中に収められているのは、艶々とした革の質感も美しい黒いドレスシューズだ。
甲から爪先の部分に切り返しの線が入ったデザインで、新月の夜にだけ採掘される漆黒の夜結晶を砕いたもので革を磨き、このような硝子感のある艶を纏わせた希少な竜革で出来ている。
紐にも特殊な効果があり、呪い避けなどの魔術を二年がかりで染み込ませたかなり高価な靴紐は、ネアの密かな一押しだった。
こちらも漆黒ではあるのだが、蝋が浮かぶような微かな白い斑があり、守護の質の良さを示しているのだそうだ。
「……………靴にしたのか」
「はい。ディノと私は、お揃いの靴職人さんのところのものを履いているのですが、ここの靴はどれも、足に馴染がいい素敵なものばかりなんですよ。なので今回は、私の使い魔さんという感じをずしりと押し出した贈り物として、この靴にしてみました。なお、足の型はシシィさんが横流ししてくれました」
ネアが共犯者を明かすとアルテアはどこか遠い目をしたが、その際に、シシィには別の大口注文を入れてあるので快く応じてくれた。
尤も、シシィはアルテアに関しては、ネアが復讐の道具となることにはたいそう協力的で、今回も靴を贈りたいのだと聞くと、低い笑い声を上げてとても楽しそうにしていたくらいだ。
「ありゃ、靴か……………。ええと、ネア、魔術的な祝福と繋ぎで、靴を贈る意味って知ってる?」
「はい。束縛という意味合いがあるのですよね。すっかり懐いた使い魔さんなので、問題ないと判断しました!」
「わーお…………。知ってたか…………」
「なお、私の育った世界ではまったく逆の意味もあって、立ち去り給えという意味になってしまうところもあるのだとか。そちらの意味だと森に返してしまうので、今回は捕縛用の靴の贈り物です!」
「シルハーン、その、…………いいんですか?」
「うん。ネアから、アルテアはよく事故ってしまうので、その面も考慮したものを贈りたいと言われていてね。これは証跡を追うという意味合いもあるから、身が危うい場所に行くのであれば、この靴を履かせればいいのかなと思ったんだ」
「ありゃ、事故防止だった」
「勿論ですよ。アルテアさんと言えば事故。たいそう事故率高めな使い魔さんなので、ここはもう、事故に遭った時に探せるようなものを贈るのがいいと思ったのです」
ネアが誇らしげにそう宣言すると、ゼノーシュが小さく首を傾げた。
「そっか。アルテアが迷子にならないようにするんだね」
「はい。迷子防止靴です!」
「………………やめろ」
エーダリア曰く、その時のアルテアは、喜べばいいのか悲しめばいいのか、たいそう複雑な表情をしていたのだそうだ。
しかしながら、デザインについてはアルテアが好むようなものを日々観察して研究してあるので、ネアはかなりの自信を持ってこの贈り物を渡したのだ。
見ていれば、靴を手に持ったままの選択の魔物の視線は、満更でもないような満ち足りた色をちらりと浮かべる。
唇の端をゆったりと持ち上げた様子からして、このデザインは気に入ってくれたらしい。
「…………で、これは何だ」
そう取り出されたのは、布袋の方だ。
きっととても軽いので、怪しんでいるに違いない。
「む。そちらはおまけというか、何かもっと普段から使える物をと思って用意したのですが…………」
ネアが説明している間に、アルテアはずるりと袋の中から手編みの物体を取り出した。
「……………は?」
手に持って、とても悲しそうな目でこちらを見るので、ネアは丁寧に説明してやる。
「アルテアさんご所望のセーターは間に合わなかったので、ほかほかお家用靴下を編みました。ただ無地だと味気なかったので、爪先を顔に見立ててちびふわ靴下にしてあります」
「……………そうか、嫌がらせだな」
「まぁ!アルテアさんが喜ぶと思って、頑張って編んだのですよ。粗末にしたら呪いがかかりますからね!」
アルテアの手の中にあるちびふわ靴下は、ぬくもりのある色合いの生成り色の霧明りの毛糸で編んだ、とてもあたたかな靴下だ。
足の甲の部分には赤紫色の毛糸で目を、爪先部分は黒くして鼻先に見えるようにして、ちびふわの愛くるしい顔を表現してある匠の品である。
「良かったですね、アルテア」
「……………お前にも適応されるものだからな」
「うーん、どうかな。俺の場合はもう少し春に近くなってからの誕生日にしましたからね」
「ずるい、靴下を貰うなんて…………」
「これは可愛くて編んでいて楽しかったので、今度はディノにも、ムグリス靴下を編んであげましょうか?」
「ご主人様!」
アルテアは、とてもぎこちない動作ではあったが、ちびふわ靴下を丁寧に袋に戻し、靴と一緒に胸元に収めていたカードケースのような金庫に入れてくれたので、きっとお家で活用してくれるだろう。
裏側には、家事妖精に相談して手伝って貰い、足が滑らないような生活魔術をかけてもあるので、使い勝手の良さも保障済である。
「よーし、じゃあそろそろこれを出しても大丈夫かな!」
そう言ってノアがどすんとテーブルの上に乗せたのは、小さな見た目に似合わず、重そうな金色の結晶石の盃だった。
そしてここから、誕生日の夜の悲劇が始まったのである。