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聖域の作法と赤い実のリース



イブメリアまであと僅かとなったその日、一人の魔物が失踪予告をリーエンベルクに持ち込んだ。



わふわふとした黒い立派な狼は、仲良しの銀狐に一通の手紙を、ご主人様宛に渡して欲しいと頼んだのそうだ。

銀狐姿ながらも、何だか怪しい手紙だと思ったノアは、勿論その手紙を人型になってばりっと開けてしまい、事態が発覚したのである。



「よりによって、失踪宣言か…………」

「失踪宣言をされるとは思ってもいませんでした…………」



複雑そうな顔で呟いたエーダリアに、ネアも深刻な面持ちで頷く。

手紙は送り火の魔物のグレイシアからのもので、ただの我が儘狼の便りという訳でもないのが悩ましいところであった。



「こう、…………上手く言えないが、やはり魔物なのだな」

「はっきり言うと、何も考えてなさそうでも、色々考えてた?」

「ノアベルト……………」



ずばっと言われてしまい困り果てるエーダリアに、ノアはくすりと微笑みを深める。

けれど、テーブルの上に置かれた白い封筒に視線を戻すと、どこか鋭い眼差しになった。



「…………とは言え、これはある程度歓迎すべきことなのかもしれません。彼がこのように思考する材料があることを、我々は知らなかった訳ですから……………」



そう微笑んだヒルドが、華奢なカップを取り上げて紅茶を飲む。


エーダリアとヒルドは他の執務や打ち合わせの合間に来てくれたのだが、合せてお茶の時間を取ってしまおうと、イブメリアの時期に良く見かけるスパイスをきかせたフルーツケーキも食べている。

ケーキが甘く薫り高いので、あえて紅茶はきりっとした苦味のあるシンプルな味わいのものだ。


カチャリと触れ合うカップと受け皿の音に、誰かが息を吐く音。

ほこほことした部屋の中は穏やかで、窓の外は相変わらず雪が降り続いている。

テーブルの上に飾られた冬聖の小枝から、ほろりと小さな祝福の煌めきが落ちた。


この時期に出される食器は繊細で美しい絵付けがあるものが多く、フルーツケーキを乗せた小皿は彩りの美しいインスの実と柊が鮮やかで、まるで白いお皿にリースを配したような楽しさがある。



「ノアベルト、グレイシアは他にも何か話していたかい?」

「僕がそもそも話せるとは思ってないみたいだから、手紙をネアに渡すようにというだけかな。それに脱走することを先に告白する訳だし、この時期は監視も厳しいからね。少しそわそわしてたように思うよ」

「………………勿論、私がネアの婚約者であることは、この土地の魔物達は知っているだろう。だが、どの段階で指輪を贈り終えるかも含め、そろそろだと思ったのは彼自身なのか、或いは、…………何かや誰かの意志に動かされたものか、気になる部分が多いのも確かだ」

「……………婚約期間については、エシュカルのお店で話していたことに始まり、その後も外で話さないということもないので、その結果ご存知の方もいるとは思うのですが………………」



ネアがそう言うと、エーダリアも頷く。



思っていたよりも流麗な文字で、手紙にはこう記されていた。



“今年はネアの大切な約束の日があるから、あまり起こるべくして起こることを変えない方がいいと思う。今迄は教会から逃げているので、今年も少しだけ逃げようと思う。シュタルトにいい屋敷があって、そこで何日かのんびりしたら帰ってくる。多分、最初の日には歌劇場や、チーズの店には行くかもしれない”



「……………信仰の系譜や教会の領域にはさ、託宣や予言の魔術を持つ者も多いからね。そんな誰かと話をしたのかもしれないけど、脱走前に会いに行くと周囲が警戒しそうだからなぁ…………」

「確かに、その時の為に逃走すると話しているものを、こちらの動きで阻害するのは好ましくありませんね…………」

「であれば、グレイシアが逃げ出した後に話をしてみよう」

「そもそもの疑問なのだが、…………この手紙で送り火の魔物が指しているのは、婚約期間のことであれば、その………………終了と新たな関係性への移行に際して起こる問題には、意味のある動きなのだろうか」

「……………確かに、世界の運行を変えずにいるということは、大きな変化の前には有用であると思うよ」



なぜならばネア達は、そもそも厳密な日数などの約束を交わした訳ではない。

二年後という括りになっているのであれば、昨年までは含まれていたグレイシア脱走のその期間などを含み、例年通りの期間を挟むのが適切だという考え方もある。


そのようなこともあるので、例えば、指輪が馴染んだらという約束をすれば問題なかったのだが、あの頃のネアにとっては明確な猶予期間というものは必要であった。



ひたりと、澄明な滴が心の深い場所に落ちてゆく。


ひたりひたりと、落ちて集まったその滴が小さな泉のようになり、ネアは心の中のその泉をそっと覗き込む。



(何か怖いものは見えないだろうか。何か、不穏なものは潜んでいないだろうか)



そう考えて覗き込んではみたけれど、今のところ喪失や破たんの影はないようだ。

そうなれば、皆が案じてくれて協力的で素敵なことだと思うべきなのか、こんなに不安がられるのも怖いではないかと言うべきなのか、ここもまた悩ましいラインではある。




ふうっと息を吐き、フォークで切ったフルーツケーキを口に入れる。

中の果物の多さで少しほろほろとしたくらいの、素朴な美味しさにほっとした。




「……………ネア、怖くなってしまったかい?」



やはり、これだけ長く共にいるのだから、微かに纏う緊張や不安にも気付いてくれるのだろう。



そう尋ねるディノの声はとても静謐だったが、ネアは、寧ろ不安そうな魔物が可哀想になり、指先を伸ばしてそのおでこをすりすりと撫でてやった。


思いがけないご褒美に、魔物は目元を染めて少しだけ椅子の上で後ずさってしまったが、小さくずるいと呟くだけで幸い儚くなってしまうことはない。



「心配してくれたのですね?…………でも、私はもう怖いことはないので、これはもう、皆さんが過保護に応援してくれているのだと思うことにしましょうか。と言うか、その日は…………あらためてプロポーズ…………というか、求婚してくれて、私がお受けすればいいのですか?それとも、自然に伴侶状態になるものなのでしょうか?先ほどのエーダリア様のとても困った様子の言葉を聞いて、今更ですが不思議になってしまいました」



しかし、ネアがそんなことを尋ねると、ディノは澄明な水紺色の瞳を瞠り、がたたっと椅子ごとよろめいた。


こてんと首を傾げてそちらを見たネアに、何かを堪えるように、ふるふるしながら視線をあちこちに彷徨わせる。



口元をもぞもぞさせ、目元を染めた姿はどこか嗜虐心をそそる。

なぜこの魔物は、時々虐められた乙女のようになってしまうのだろう。



「……………今の指輪は、まだ浸透を目的としたものだったから、内側が少し足りなくなっている筈だ。……………どこも欠けていない最後の指輪を贈ろうとは、思っているよ。……………それと、」

「それと?」

「それと、…………………」

「ディノ?………………ほわ、逃げた……………」



それ以上は上手く説明出来なかったらしく、ネアの婚約者はびゃっと逃げ出してゆくと、窓際のカーテンに包まって隠れてしまった。


後には、なぜここにきてまだこの恥じらい方なのだろうと、若干憮然とした面持ちのネアが残される。

部屋の空気も何とも言えない感じになってしまったので、ここは年長者らしくスマートに受け答えして欲しかったのだが、如何せん、これがネアの婚約者なのだ。




「……………ええと、…………うーんと、それはさ、後で僕が教えてあげるから、それまで待ってくれるかい?」



困ったように柔らかく微笑んでそう言ったノアに、ネアは渋面のまま頷いた。



これでもそれなりに人生経験は積んでいるので、例えば初夜的なあれこれがあるのなら、あまりにもみんなにその日にということが知られているのは気恥ずかしいなとか、とは言え結婚式の夜の新郎新婦みたいなものだからまぁいいかとか、ネアですら、ある程度のことは想像がつくのである。


それを今更、経験豊富過ぎるというかご長寿であれこれ手当たり次第でもあった艶麗な生き物に恥じらわれても、なぜなのだという思いしかない。



(……………となるとやはり、その手の一般的な行為ではなくて、他に何かとんでもないことをするのかしら?)



とは言え、ネアの婚約者は、男女の色事的なものにはさして動じないくせに、手を繋ぐことには恥じらう、謎の多い魔物だ。

ネアとは、どこかで価値観が違うのかもしれず、推測が難しい。




「…………ふと考えたのだが、…………今回の送り火の魔物の対応は、そのまま聖域の作法でもあるのだな。彼等は、懸念や不安を解消することを目的として、祈りの為に奉仕する。そう考えると、信仰の系譜としては自然な振る舞いなのかもしれない…………」



暫くしてディノがぽそぽそとカーテンの中から戻ってくると、エーダリアがそんなことを言った。



魔術の難しいことは理解が及ばないネアでも、言われたことは何となくわかるような気がする。


信仰というものには特にその言動に特徴があって、ある程度の手順を踏むということを尊ぶその嗜好からすると、グレイシアが今回の施策を考えたことも頷けるのではないだろうか。




ぐわんと、クラヴィスの日の大聖堂で見かけた、天井や梁から鎖で吊るされて回されている香炉の煙を思い出す。


香炉が揺れる音と煙の軌跡、そしてあの独特の香りまで。




また何か、心に触れるものがある。

あの日のどこかで、ネアが気付くべき事があるような気がするのだが、それは何だろう。




(……………最初の邂逅でその場にいたのは、信仰の魔物のレイラさん。教皇にあたる教え子の人は、私に、これから精進するようにと言ってくれて、あの黄色い妖精たちが不埒な冗談を言って笑っていた。…………香炉が揺れていた日は、儀式に参加する為にあの場所を訪れたのだった。あそこから落とされたのはガゼットで、そこにはウィリアムさんがいたっけ……………)




教会の中にある香炉は、魔術の浸透を助けるものの弊害として、空間の繋ぎを揺らすものだ。


あの時のあの国は、鳥籠の中だった。


なぜガゼットだったのかは謎だが、ネアの持つ終焉の子供の要素がそちらに繋がったものか、ディノの持つ要素や以前に見かけた人だからと繋がったのか、たまたまあの場所からそこに繋がっただけなのか。




(信仰の領域から終焉に繋がる?…………ううん、そんな事はない筈だわ。ウィリアムさんから信仰の系譜と関係があるという話は聞いていないもの……………)



むぐぐっと眉を寄せれば、そっと頬を指の背で撫でられた。

顔を上げれば、ネアの大切な魔物がこちらを見ている。




「ネア……………」

「…………私はなぜか、あのシカトラームで鹿角の聖女さんの手帳を見た日から、信仰の魔物さんだとか、こちらに来て最初の年のこの季節に訪れた大聖堂のことをよく考えるのです。何かが繋がりそうで繋がらなくて、自分の勘の悪さにもやもやしてしまって……………」



その言葉に、こつりと音がした。

そちらを見れば、ノアが組んでいた手を解いて、テーブルに置いた音だろうか。

冬聖の枝の煌めき越しにその指先を何ともなしに眺め、ネアはぎくりとした。



必死に思い返しているその日に、ネアは、冬聖の葉によく似た柊の葉を香炉にくべたことを思い出したのだ。



「…………ディノ、私が作って貰った印章が、鳩と柊とリボンなのは知っていますよね?」

「うん。君のその印が選ばれる時には、私もきちんと調べているよ。印章はね、自身の名を記すサインのようなものだから、元よりその身に持つ特徴や要素であれば、他の誰かのものとは繋がらない。君の場合、鳩はその瞳の色に羽の色を、そしてリボンはそのような装いをする私と契約しているから、問題ないからね。柊についても、聞けばこの国では国家の歌乞いは…………………」



ここで言葉を切り、ディノははっとしたように小さく息を飲む。

同時に、エーダリアとヒルド、そして、ノアも何かに気付いたようだった。




「クラヴィスの儀式では、香炉に柊の葉をくべる。柊の葉は聖なるもの、もしくは良きものやその祝福と守護を現すからだ」

「ネア様の印章に、問題なく柊の絵を組み込めたのは、ネア様が国の歌乞いだからでもあります。ヴェルクレアではということではないのですが、主にガーウィンの者達の中では、国家の歌乞いは聖人という認識を受けますから……………」

「……………わーお、繋がったぞ。そうなると、ネアはその儀式で、偶然とは言え、認識の魔術の理で信仰の系譜からその向こう側に属する承認をしているってことだね。…………勿論、気付いていたらレイラが泣いて詫びに来る筈だから、レイラも気付かないくらいの細い線だろうけど」



(……………認識の魔術で、信仰の系譜と…………?)



「…………でもそれなら、最初から分かりきっていたことなのではないですか?…………その、聖人という名称は、すっかり失念していましたしあまりしっくりきませんが、私の正式な肩書きのことですし、クラヴィスの儀式も公の場でのことでしょう?」

「いや、そうでもないのだ。ヴェルクレアで国の歌乞いを聖人として讃えるのは、教会組織とガーウィンだけの文化でな。これは、お前の前の歌乞いのアリステルから施行されたものだ。…………彼女は、鹿角の聖女の再来と言われていた。だからこそ、その称号を与えることで、より強く、教会組織に組み込もうとしたのだろう」



とは言え、個人にそのようなたいそうな称号を与えるとなると、他領や王家が黙ってはいないだろう。


なので教会側は、かつて鹿角の聖女自身も歌乞いの魔物であったことを利用し、国家の顔となる歌乞いは全て、その形を模す代行者としての聖人であると宣言した。


つまりネアは、アリステルのおこぼれでいつの間にかひっそりと、二代目の聖人歌乞いなのである。



「それはあくまでもガーウィン側の建前ですから、国家としては正式に認められた称号ではありません。ヴェルクレアとしては、アリステル様のことがありましたので、ネア様を聖人として公認することはないでしょう」



ヒルドはすかさずそう言ってくれた。

ネアが、そのような称号を疎ましく思うことが分かっているのだ。



「そのままでは、認知の魔術が閉じるには弱いものだ。だから私達は、その輪が閉じ、繋がりが生じていることを認識していなかった。…………けれども、…………私達は偶然にも、それ以外の要素で幾重にもその輪を閉じてしまっている。…………それが、君がシカトラームに招かれた理由だったのか………」




苦しげに低く呟き、ディノは深く息を吐いた。



(…………それは、とてもまずいことなのかしら?)




ネアにはまだ飲み込めない。


困惑したまま瞳を見開き、ディノの真珠色の爪が美しい繊細な指先が、悩ましげにその額に触れるのをただ見ていた。




「ディノ、…………私達は、どうやってその輪を閉じてしまったのですか?」

「……………ああ、ごめんね。きちんと説明するよ」



はっとしたように微笑み、ディノはネアの頭を優しく撫でてくれる。

それでもまだ、水紺色の瞳は苦しげなままだ。


と言うより、なぜか怯えているように思えた。



「教会側の認識で、君は聖人となる。そこに、印章を使って柊を君の象徴であることを示したとしても、まだ問題となる認識の魔術には弱い。………けれども私は今、薬の魔物として君と契約しているだろう?………修復の魔物の歌乞いは、かつて薬師だった。そして彼女は、その人間と出会った当初は、自分の司るものを明かしておらず、薬の魔物として契約していたそうだ。…………その二人は婚約者でもあった。………分かるかい?あまりにも符号が多過ぎるんだ」



ひたりと、またどこかに雫が落ちた。


今度の雫は大きく水面を震わせ、表面張力でふちに盛り上がっていた泉の水が、ざあっと溢れる。




ネアはその言葉でようやく理解したことを、もう一度この震える心に書き留め直す為に、あえて言葉にしてみた。




「……………教会側の言い分では、国の歌乞いは鹿角の聖女さんの代行者……………。つまり、…………この輪というものは、私が聖人相当になってしまうという程度ですらなく、…………私とディノを、鹿角の聖女さんとその婚約者の方に重ねてしまう輪なのですね……………?」



呆然と見上げた先で、ディノがゆっくりと頷いた。



部屋の中はしんと静まり返る。




(それは、…………とても悪いこと?)




そう尋ねてしまいたかったが、口が上手く動かなかった。

なぜかまだ、ネアはこれが決定的に悪い事だとは思えずにいるのだ。




「…………いや、………うーん、でもそこまで悲観することじゃないよね」



途方に暮れて胸が苦しくなりかけたその時、待ち侘びていた否定の言葉をくれたのは、ノアだった。


表情はいつもより遥かに厳しいが、それでもネアと目が合うと微笑みかけてくれる。




「シルだって、これが命取りになる符号だとは思ってないでしょ?…………マリ………おっと、この名前は封じられていたんだった。………修復の魔物とその婚約者の運命を辿らされているのだとしても、その流れは幾らでも変えられる。僕達の方が模倣されるべき相手より高位だから、その運命に引き摺られるってことはない訳だものね」

「…………勿論、このことでネアを失うようなことにはならないよ」

「じゃあさ、気にかけているのは、よく聞く運命の修正力ってやつ?」

「…………万象というものだけではなく、高位の魔物というものは特に、既存の資質を司るからこそ、…………伴侶を失い易い存在であるということは、初めから知っていたよ。形のないものを退けるのは面倒なことだけれど、それに対してもある程度の手は打ってきたつもりだ。…………ただ今回は、私達が見落としていたことに気付き、それにかかわる者がどこかにいるようだから、そのことが気懸りだと考えていたんだ……………」



そこまで語って貰って、やっとネアも腑に落ちた。




(その暗躍のようなものは、今のところ私達を助けてくれている…………)



けれどもいつその矛先がこちらを向くのかまでは、未知数だと言ってもいい。



きっと今は、これからのことを決め、育ててゆくのにとても大切な時期なのだろう。

そこに、不安要因は望ましくない。

だからこそディノは、こんな風に苦しく強張った顔をしているのだろう。



(ふむ………………)



「…………ディノ、もしもその誰かさんが、私とディノを鹿角の聖女さんの道筋に落とし込んでしまったら、私はどうなってしまうのでしょうか?」



優しくそう問いかけると、魔物は小さく溜息を吐き悲しげに瞬きする。



「そのような事にはならないよ。それに、有り得ないことだという前提で、その道を辿らされたとしても、君には春告げの舞踏会の祝福がある。私にも、君が貰ってきてくれた最初の春告げの舞踏会の祝福の、取り戻しの魔術があるのだから、二度同じ事が起きても問題ないくらいだ」

「…………ふむ。やっぱりそれは有効な対処法なのですね?であれば、ディノがそんな風に落ち込んでしまう程のことではないのではありませんか?」

「……………ネア」

「知る事の出来た不安要因は取り除き、やれやれ助かったと思っておきましょう。そこに備えておくのならば、私は、何をすればいいですか?」



微笑んでそう言えば、魔物はくしゃりと項垂れた。

驚いて両手で頭を持ち上げてやると、水紺色の瞳に涙を溜めて震えている。




「……………まぁ、」

「……………君は、…………このようなことがあっても、………私とのことは煩わしくならないのだね?」

「……………もしかして、今回のことは善意のお知らせではなくて、私にディノとのことを考え直させようとしている嫌がらせに思えてしまいましたか?」

「………………善意だと思うけれど、それでも人間の成すことだから、私には分からなくても、人間はそう思ってしまうのかなと考えたんだ…………」

「…………それで、こんなにも深刻そうにしてしまったのですね。であれば、私はこれっぽっちのことで、私の宝物を取り上げられるような軟弱な人間ではありません。ディノは、安心して怖いことは私にも相談して下さいね」

「……………こんな事があってもかい?」



まだ悲しそうな魔物を見ていると、ネアは何だか微笑ましくなってしまった。

既に顔の見えない誰かの目的はある程度察せたのですっきりしたし、指摘された不安に対しても対抗策がある。


だから、時折訪れる破滅的な予感は皆無だったのだと、この大雑把な人間はすっかり安心してしまっているのだ。



「終わり良ければ全て良しなのです!それにこちらの戦力的にも、邪魔立てするものがあれば片っ端から滅ぼしてゆけばいいだけなので、ちっとも怖くないですよ?今回の件で裏側にいる方も、今のところはとても頼もしい親切な人という感じですが、心配ならこっそり闇に葬ってしまえばいいのですから」

「ご主人様……………」

「わーお、ネアがやっぱり過激だった…………」



ノアが呆れたようにそう言い、やっと安心してくしゃくしゃになったディノは、ご主人様にへばりついてめそめそ泣きだした。


こんな風にみんなが不安を煽るので、ネアが面倒になって自分を捨てるかもしれないと、不安で堪らなかったのだと言う。



(私は、この魔物の中でどれだけの鬼畜設定なのだ…………)



最初の頃ならいざ知らず、今はもう信用して欲しいと溜息を吐き、ネアはふと、魔物を抱き締めてやりながら、考え込む様子のエーダリアに気付いた。




「エーダリア様?」

「…………いや、気になることがあったのだが、…………ディノ、今回の件で裏側で動いている者は、人間だと思うのだろうか?」



その問いかけに、ネアをぎゅうぎゅうと抱き締めていた魔物は、もそもそと顔を上げる。

目元は赤いし涙目なので、何だか幼気な感じがしてならないし、これはこれで息を飲むほど凄艶な破壊力の美貌だ。



「…………魔物は、自身がそれぞれ己の資質の王でもある。運命であれ、誰かのものを踏襲させるという認識がないんだ。…………だから、今回のことは気付けばとても単純であるのに、ここまで気付かずに来てしまった。運命や在り方を代行させるという概念自体が、私達にはない、人間だけの独特な視点だからね」



そういうものなのかと、ネアは驚いた。


確かにと呟いたヒルドにとっても、自分がこの輪の存在に気付かずにいたのは、誰かの代行者となるという発想が、かなり人間独自のものだからだと教えられる。



「妖精にはまだ、内側からの侵食の能力や代理妖精という役職がありますから、他の種族よりは理解が早いでしょう。それでも、生まれながらの資質や属性を他者に変えられるということは、やはり人間独自の概念ではありますね」



魔物だけでなく、妖精も竜も精霊も。

彼等は生まれながらにして、属性や資質を変化させることが殆どない存在だ。


だからこそ、その変化を強制的に可能とする悪意の代表として、かつて大陸で恐れられた仮面の魔物が人外者達からも不安視され、世界的な共同戦線が秘密裏に敷かれていたのも頷ける。




けれども、人外者達からそう聞いて、なぜかエーダリアはほっとしたようだ。




「…………そうか。私は、…………今回のことはダリルの思惑の内なのではないかと懸念していたが、違ったようだ。少しだけほっとした」

「…………むむ。何というか、やりそうな方ですものね……………」

「ああ…………。その場合、お前達をこのように悩ませたことを、どう謝罪させようかと考えたら胃が痛くてだな…………」

「ありゃ、変なところで悩むなぁ…………」

「それは悩むだろう。もしあれが首謀者だった場合、悪びれもせずに、気付かない方が悪いと笑うぞ?そうなった時のことを考えると……………」




そう暗い顔で遠くを見たエーダリアに、ノアとヒルドは、顔を見合わせて苦笑している。

ネア的に要約すれば、エーダリアが可愛いと思っているに違いなく、いつの間にかここもしっかりと家族の輪に馴染んできた。




「じゃあ、後は教えてもらった懸案事項の対策を考えるくらいかな。……………ネア?」




ほっとしたようにほにゃりと微笑んでそう言ったノアは、驚愕の眼差しで窓の外を見たネアを見てしまい、首を傾げた。



ネアが真っ青な顔でがたんと立ち上がると、へばりついていた魔物もびゃっとなって一緒に立ち上がる。




「…………どうしたのだ?」



不安そうなエーダリアの声に、ネアは震える指で窓の方を指した。




「エーダリア様………………、お庭の木の枝にいる冬籠りの妖精さんが、何か丸いものを誇らしげに首からかけているのですが、…………あれは、通用口の扉にかけられていた、悪いもの避けのリースでは……………」

「リース…………?!」




そう反芻したエーダリアが、見る間に青ざめたのも仕方あるまい。

この時期のリースは、祝祭で現れる悪しきものを退ける為の護符の役割がある。




直後、会食堂の中は大混乱となった。



リーエンベルク全域に非常事態宣言が出され、どこの扉のリースが奪われたのか、大急ぎで確認作業が進められた。



結果、リースを外されたのは、外客棟にある庭向きの扉の一つだと判明した。

内扉で仕切られていて事なきを得たのだが、最初の入り口を突破され、沢山の霜食いに侵入されてしまいなかなかの阿鼻叫喚だったらしい。


これが敷地内そのものも守られているリーエンベルクでなければ、祝祭周りの悪い生き物に侵入されたかもしれず、エーダリア達も騎士達も、かなりひやりとしたようだ。



勿論、件の冬籠りの妖精は、とても厳しく叱られた。

美味しそうな赤い実がついたリースだったが実が食べられないのでむしゃくしゃして、リースを奪って首飾りにしたのだそうだ。



ヒルドに睨まれている間、体がずれ動いていってしまうくらいに震えていたそうなので、もう二度と悪さはしないだろう。



その身柄は森の生き物達に慕われているアメリアに預けられ、祝祭の終わりまでは監察処分になったらしい。







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