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歌う魔物と歌う魔物



はらりと青白い花びらが落ちる。

その薔薇はまるで青い炎が形を成したような眩しさで、ネアはじっと覗き込まないように一歩離れた。


花びらが落ちた筈の薔薇は、けれどもその美しさを変えてはいない。

そこで漸くネアは、花びらが散ったのではなく炎のかけらがこぼれただけなのだと気付いた。



「困りましたね……………」



ここは騎士棟の入り口にあたり、リーエンベルクの敷地内の飾り木を見に行く為に、ネアは真夜中の外出を強行したところであった。


この飾り木は毎年人気なのだが今年はなぜか観覧者が多く、こんな真夜中くらいしか人気のないリーエンベルクに佇む飾り木をじっくり堪能出来ないのだ。



ここに住む者だけの贅沢さで、ネアは誰もいない真夜中の飾り木の美しさを知っている。

夜明けの朝靄の中で光る様や、曇天の雪の日に鈍く煌めく平坦な色合いの美しさも。



(せっかく明日の午前中がお休みになったから、今夜こそはと思ったのだけど…………)



実は今日のお昼過ぎに、ガーウィンとの国境近くで大きな橋の崩落事故があり、ネア達もその原因となった現場を調べる為に駆り出されていた。


崩落現場となったのは古い石造りの橋で、幸いにも川までの高さはさほど高くなく、怪我人が出たくらいで済んでいる。

近くの土地を任されている騎士達と魔術師で救助や復旧には事足りてはいたのだが、万が一他の深刻な理由が絡んでいるとまずいということで、ネア達の出番となったのだ。


このような時、大きな事故が陰謀の陽動である可能性も否定出来ない。


となると、すぐさま動けないのがリーエンベルクの難しいところで、その事故の原因が究明されるまでは、安易に主戦力を動かせないのだ。


よって、エーダリア達とノア、騎士達の多くはリーエンベルクに残り、事故によって混乱した流通などの整備の指揮には、グラストとゼノーシュが、現場検証の立ち合いと復旧の手伝いにはネアとディノが向かうことになった。


こうして分担の出来なかった頃のエーダリアは、何度も歯痒い思いをしたのだそうだ。

ウィームを愛する領主として、或いは有能な統治者として、様々な土地の事件や事故にも迅速に対処したいのだが、まずは現場での判断に頼るところが大きく、事件や事故の規模によっては自分の目で現場を確認したくともそれが許されないことは多かったのだそうだ。


リーエンベルクから誰かが派遣されたとなると、やはり現場の士気は変わってくる。

領内の維持管理の為にも有用な役割であると知ってはいても、今迄のウィームでは現実的な問題が邪魔して使えない手札であった。

それが漸く、個人でも動ける歌乞いの魔物の存在によって、安心して切れるカードになったのだ。



(でも、橋の崩落は石橋の妖精さん達が大急ぎで橋を直してくれていたし、雪の系譜の妖精や精霊さん達も慌ててそれを手伝っていてくれて、思っていたよりも大事にならなくて良かったな…………)



幸いにも、今回の事件は特に深刻な問題ではなく、ネア達の仕事も三時間程で済んだ。


既に老朽化が進んでいた石橋に、たまたまその周辺の土地にだけ一晩で記録的な大雪が降ってしまい、急激な負荷がかかり過ぎた橋が崩れてしまったというのが事故までの経緯であった為、その調査結果を受けて、エーダリア達もほっとした顔になったのが印象的だ。


秋の蝕も領民達には負担であったところに、これからの祝祭や新年に向けた時期に、新たに大きな問題が持ち上がるのはいささかまずい。

初動で崩落現場を調べた土地の騎士達からも問題はなさそうだという報告は上がっていたものの、ディノが調べて正式に問題なしと判明した時、リーエンベルクは安堵に包まれたそうだ。


とは言え蝕などが起きたことも事故の一因とはなっているようで、その際の資質の反転なども含め、様々な要因が重なったことで橋の老朽化も進んでしまったに違いない。

エーダリアの承認の下、ダリルはすぐに復旧と補強に伴う事業を請け負った者達への助成金や、各所への事故の補償金の支払いなど、ウィーム領として出来る限りのことを出来得る限りの早さで進めているという。


復旧が遅れれば、結果としてその周辺の町や流通の流れに大きな影響が出る。

事故現場となった橋が、大事に手入れをされた古い橋で、地元の住民達にも愛された美しい石橋にはたくさんの石橋の妖精達が暮らしていたことも、今回のスピード解決に繋がった。


住処を壊された妖精達は、怒りに満ちた決意の目で、ネア達が現場にいる間の短い時間で石橋を組み直してしまい、駆けつけた騎士達や魔術師達をも呆然とさせていた。


とは言え、家を失った者の対応としてはそれはそうするだろう。




そんなこんながあり、明日がほぼお休みになったネア達は、今夜は夜更かし万歳の気分なのである。

いざ往かんと真夜中の飾り木ツアーを決行したのだが、なぜかそこには燃えるように輝く青い薔薇を持って呆然としている騎士の一人がおり、その騎士の向かいでけばけばになった銀狐が助けて欲しそうにこちらを見ていた。



「…………すみません、巻き込んでしまいまして」

「いえ、こんなものを受け取ってしまったら驚きますよね。…………あの木の上にいるもさもさの……………タオルのような生き物ですね?」



見上げた先には、もさもさに強張った灰色っぽいバスタオルのような生き物が蠢いていた。

この騎士の青年は、どうやらあの生き物に燃える薔薇を貰ってしまったようだ。


一緒に見上げたディノがすすっとネアに体を寄せるのは怖いからだろう。

正直、ここまで謎めいてくるとネアもとても慄いていると言わざるを得ない。



「ええ。この薔薇を咥えて飛んできた後、僕の周囲でなぜか歌を歌い始め、…………そこで危ういと思って結界を立ち上げて、他の騎士を呼んではいるんですが、……………この有様ですから」

「……………狐さん以外の何者をも、あのもさもさタオルが近付けなかったのですね?」

「…………………はい」



ネアの問いかけに悲しげに頷いた青年は、火入れの魔物の事件で一緒だったシバという騎士に話しかけているのをよく見かける、まだ若い騎士の一人だ。


ミルクに混ぜた葡萄ジュースのような髪色をしていて、黒曜石のような瞳が美しい。

雅やかな色彩を持っているが、造作は庶民派なのも好感度が高い。


実は、ネアが名前を知らないくらいの距離感の青年なのだが、思いがけずこんな真夜中に知り合ってしまった。



「あの生き物は何だろう……………」



ネアと一緒に居た魔物は、またしての初めましての不思議な生き物にたいそう怯えている。


見上げるとこちらを見下ろしてくるバスタオル生物は、どうやら騎士棟から誰かが出てくるのを警戒しているらしく、そちらから誰かが出てこようとすると、どこに隠し持っているのか分からない雪玉を投げつけるのだ。


その為、扉の向こうにいる仲間の騎士達が駆けつけられず、騎士達と夜遅くまで遊んでいたらしい銀狐が、自分ならばとここにやって来たそうだ。



ムギムギ鳴いて、自分は敵の攻撃を潜り抜けたのだと主張する銀狐に、ネアは首を傾げた。

ネア達の方は一応様子を見てくるバスタオルは、銀狐には何の反応も示さない。



「狐さんには反応しない…………」

「敵ではないと思っているのかな。君は私の指輪をしているし、三つ編みを持っているからね」

「と言うことは、この三つ編みから手を離すと私も雪玉の餌食に………?」

「ネアが虐待する……………」

「…………その前に魔物に責められるようです」



木の上の生き物は、こうしてリーエンベルクの敷地内に入れた以上は、害のない生き物なのは間違いない筈だ。

とは言え薔薇を捧げられ歌まで歌われてしまった以上、青年はここから容易には離れられないだろう。


ネアは、何かと不便なので、まずはこの青年の名前を知りたいのだが、謎の訪問者がいる以上はそれも憚られる。



ここでふと、騎士棟の入り口のところに落ちている雪玉にディノが目を止めた。

ふつりと目を瞠り、木の上の生き物を見上げる。



「……………もしかすると、枝氷柱の系譜の魔物の、…………亜種かもしれないね」

「えだつらら。…………あれは、魔物さんなのですか?」

「…………うん。落ちている雪片に魔物の魔術の残滓が見えるから、多分魔物なのだろう」



気配などから魔物だというところまでは判明したようだが、ディノにもそれ以上は断定は出来ないということであるらしい。


亜種ではなく元々いる魔物なのだとしても、少なくともディノは、この生き物は知らないようであるし、ネアがどうだろうかと視線を向けた銀狐も、ふるふると首を横に振っていた。



(でも、魔物さんなのだとしたら…………)



ネアは最近、魔物から歌を贈られることの意味をエーダリアから教えて貰ったばかりだ。

この生き物は、歌を歌っただけではなく、こんなにも美しい薔薇を持ってきたくらいなのだから、もはや一連の行動は求婚と見做してもいいのではないだろうか。



「このもさもささんは好きですか?例えば、…………その、恋人にしてもいいくらいに?」



なのでネアは、思い切ってそう尋ねてみた。

いざとなればゼベルの例もあることだし、伴侶がもふもふというのも悪くはない。


けれども、唐突にそんなことを尋ねられた騎士はとても狼狽し、ザルツの音楽院に住む幼馴染の女の子が好きなのだと慌てて弁明した。

どうやらこの人のいい青年は、ネアからこのもさもさとの仲を疑われたと思ってしまったようだ。



その直後のことだった。



木の上のバスタオル生物が突然荒れ狂い、その青年めがけてばすばすと雪玉を投げつけ始めたではないか。


そして、ぎゃっと呻いて雪の上に倒れた青年の手から、青白く燃える薔薇を奪うと、ぶーんとどこかに飛び去ってゆく。




「…………激しい恋でした」

「…………怒ったようだね」



青白い薔薇の光が森の方に消えてゆくのを見守り、ネアは胸を撫で下ろした。

あの生き物は恋に破れて傷付いただろうが、おかしな訪問はひとまず解決したと見てもいいだろう。



倒れて呻いている青年のことは、すぐに、同期の見習い騎士とエドモンが助け起こしに来た。

幸い呪いなどもなく、雪玉はただの雪玉だと知り、一同はほっと胸を撫で下ろす。



投げ込まれる雪玉におかしなものが添付されているとまずいので扉を開けられなかったのだと、ネア達はお礼を言われ、なぜかそっと崇められる。


するとなぜか、ネアの前に立ちふさがった銀狐が、自分も雪玉攻撃を受けなかった猛者なのだとふさふさの胸毛を見せつけて胸を張っていた。



どうやらこちらの銀狐は、ネア達が野外劇場で過ごした日の夕刻に、新しい恋かなと話していた女性との二度目のデートで筆舌に尽くしがたい恐怖を味わったらしい。

その日は銀狐姿で騎士達のところに逃げ込んで来て、ずっとぶるぶると震えていたそうで、一報を受け、呆れた様子のヒルドが回収したのだとか。


今夜も銀狐姿でいるところを見ると、銀狐姿でみんなに甘やかして欲しい気分なのだろう。



「狐さんは、あのもさもさに攻撃されませんでしたね。さすがの狐さんです」



なのでネアは、褒めて欲しそうな銀狐にそう言ってやり、ムギーと喜びの弾み回りをさせた。

銀狐はそのまま、手を伸ばして撫でてくれたエドモンにごしごしと体を擦り付けている。


ここはもう大丈夫そうだと判断し、ネアは騎士達と銀狐に手を振ってその場を離れた。




はらはらと、雪が夜空から落ちてくる。



白い息を吐いて花びらのような雪が舞い落ちるのを見上げ、ネアは少し先に見えて来たリーエンベルクの飾り木にほわっと笑顔になった。



「…………綺麗ですね」

「君は、飾り木が好きだね」

「ええ。…………私の誕生日は、イブメリアによく似た祝祭の近くでしたが、ディノに出会うまでの長い時間を、私はその誕生日も祝祭も一人で過ごす事が多かったんです。…………だからきっと、憧れや安堵も込めて、私は、イブメリアに纏わるものが大好きなのだと思います」




そう言ったネアに、腕の中から三つ編みが引き抜かれるのと同時に、婚約者な魔物がふわりと羽織りものに変化した。




「これから、何度でもこうして見に来よう。もう私がいるのだから、君はただ、欲しいものを欲しいと言えばいいんだ」

「私も、きちんとディノの欲しいものをあげられていますか?」

「うん。…………君がここにいて、生きて動いているし、君が私にそうして微笑みかけてくれるからね」

「ふふ、じゃあ、ディノも欲しいものがあったら欲しいと言って下さいね」

「……………紐で繋ぐなら…」

「状況に応じて判断しますので、今回はそちらの申し出は却下します」

「……………ご主人様…………」


紐繋ぎを断られた魔物はぺそりと項垂れたが、ネアが後ろ向きにごつんと体当たりしてやると元気が出たようだ。

羽織ものの魔物と歩幅を合せて歩くのは厄介なので、ネアがご褒美の体で三つ編みを引っ張って歩いてみれば、嬉しそうに恥じらいながら付いて来てくれる。



ぼさりと、どこかで雪の落ちる音がした。

ネアは歩きながら、先程からどうにも気になって堪らないことを魔物に尋ねてみる。



「ディノ、…………あの騎士さんが、先程のバスタオル生物が歌ったと話していたのですが………」

「随分と珍しい花を贈ろうとしたようだし、求愛の歌だったのだろうね」

「……………その、あの形状でどんな歌を歌ったのでしょう?」

「…………………歌えるのなら、喋れるのだろうか」

「むむむ…………きちんと歌詞のある歌だと難しそうなので、時折狐さんが、鳴き弾みながら歩いているときのような感じかもしれませんね………」

「………………不思議なものだね。あのような生き物もまた、歌や贈り物で自身の心を捧げようとするのだとは考えたこともなかった……………」



ぽつりと、ディノは酷く感慨深そうにそう呟いた。


二人は大きなリーエンベルクの飾り木の前に立ち、きらきらと夜の光に揺れる歴史のあるオーナメントに飾られ、雪を纏った美しい一本の木を見上げていた。


星屑の飾りや、雪結晶など高価な飾りも見受けられるが、どこか歴史を感じさせる、天鵞絨生地に刺繍を施し綿を詰めたような、かつてここが国であった頃に作られたに違いないものを見ると、胸が温かくなる。


エッチングで美しい細工を施された氷結晶の中に星屑を閉じ込めた飾りは、内側でぼうっと燃える星屑の青白い煌めきが、えもいわれぬ美しさだ。

エッチングの模様のところだけが、光をひときわ明るく透かして浮かび上がり、リース飾りの繊細な彫り物がなんとも素晴らしい。




「でも、…………何だか素敵なことですね。あんなバスタオル生物ですら、歌をうたってくれるのです。あんな風に燃える綺麗な薔薇を持ってきてくれて………………む?」



そこでネアは、ふっと視界が翳ったことに気付き、振り返った。

そこにはいつの間にか、黒い毛皮のコートを羽織った一人の魔物が立っている。




「まぁ…………。なぜにこんな深夜に遊びに来てしまったのでしょう?何か怖い夢でも見てしまいましたか?」

「なんでだよ」



どこか憂鬱そうな眼差しでそう言い返したのは、使い魔でもある選択の魔物だ。


どうしてこんなところにいるのだろうと考え、ネアは、アルテアもこの飾り木を見に来たのだろうかと考えた。

よくリーエンベルクに泊まる魔物なのだから、ネア達のようにこんな深夜の方がゆっくりと鑑賞出来ることを知っていたのかもしれない。


貰ったガウンを羽織ったディノと、リーエンベルク敷地内用の白みがかった灰色のコートを羽織ったネアに対し、盛装姿に近しい装いのアルテアは、いかにも夜会帰りといった風情だ。



このような時期に人間達がこぞって華やかな催しに興じるように、魔物達にとっても賑やかな季節なのだろうか。

そんなことを、ふと考える。



「…………で、何が歌ったんだ?」

「む?……………歌ったのは、バスタオル生物です。………このくらいの、バスマットくらいの大きさのバスタオル素材な灰色か薄い水色っぽいもさもさした毛並みの生き物で、青白く燃えるような素敵な薔薇を持って来たのですよ」



どうやらこちらの話が聞こえてしまったものか、そう尋ねたアルテアに、ネアは先程見かけた生き物の説明をした。


ディノが途中で修正してくれて、どうやらその生き物の体毛は、銀灰色であったことが判明する。

そうなると、なかなかに稀有な生き物なのではなかろうかとネアが首を捻っていると、なぜか渋面になってしまったアルテアから、ばすんと頭の上に片手を乗せられた。



「ったく、お前は一日も目を離しておけないのか。妙なものに隙を見せるなと、あれ程言わなかったか?」

「…………………む?」



ネアはそう叱られて漸く、そのバスタオルに求婚されたのがネアだと、アルテアが勘違いしていることに気付いた。

何だか責めるような様子であるので、自分は無罪だと訴えようとしたのだが、それより前に驚くべき発言がなされ、ネアはすっと唇を引き結んだ。



「………………そんなに歌が聞きたいなら、歌ってやる。ただし、一曲だぞ」

「………………!……………ア、アルテアさんの好きな曲でいいです!!」

「………………ネアが浮気する……………」

「ディノも一緒に聴きましょう?アルテアさんの声は素敵ですよね!」

「アルテアなんて………………」



ディノは、歌われるなんてと少しだけめそめそしたが、とは言え実はこの魔物は、先んじて野外劇場で観劇をした日の夜に一足先に歌ってくれた魔物なのである。


甘く低く、胸に沈み込むような美しい歌声にネアはうっとりとしてしまい、大興奮でもう一度と強請ったのだが、それはさすがに大胆過ぎると、目元を染めた魔物は恥じらって巣に隠れてしまった。


つまり、そんなことがあったばかりなので、ご主人様に先に歌を贈ったのが自分だという自負があるからか、ディノは思っていたよりは荒ぶらなかった。



「で、では、何の歌を歌ってくれるのですか?」

「……………おい、ここは外だろうが」

「でも、こんなに綺麗な飾り木があるので、きっと素敵な気分になりますよ?」

「………………ったく。音の壁も必要になるんだぞ?」



何となく、押すなら今しかないような気がしたので、ネアは強欲な人間らしくぐいぐい押してみることにした。


バスタオル生物が歌ったのがネアではないと判明した途端、歌う気力が失われてしまうかもしれないではないか。

であれば、アルテアが勘違いに気付いてしまう前に歌って貰うしかないと考えた、か弱い人間の狡さをどうか許して欲しい。



ディノの三つ編みを握って立っていたネアは、ひょいっと両脇の下に手を入れられ、アルテアの前に移設されると、両肩に手を乗せられた。


向かい合って歌っているところが見られる訳ではないらしく、拘束の上背後から聞かされるようだ。

映像込みで記憶したかったのだが、そこはアルテアとて気恥ずかしいのかもしれない。


ネアが引き離されてしまってしょんぼりしたのか、ディノが、再びそっと三つ編みを握らせてきた。

ネアは大事な魔物が寂しくないようににぎにぎしてみせ、ディノを安堵させてから歌声を待つ。




ふっと、冬の夜の空気が揺れた。




(…………………わ、)



胸を打つのは、ふくよかで艶やかな魔物による至福の歌声。

その美しさと震えるような心の響きに酔いしれ、ネアはリーエンベルクの正面に建てられた飾り木を眺める。


きらきらしゃわりと煌めくオーナメントが枝葉に積もった雪に映り込み、青白い雪の上にはきらきら光る飾り木の色とりどりの影が伸びていた。



(そうか、この歌声がこんなにも豊かで美しいのは、これがアルテアさんの魂の形だからなのかもしれない……………)



同じように美しく、低く伸びやかで艶のある甘い声の区分も、ディノとはそこまで大きく変わらない筈なのに、歌い方や聞こえてくる歌そのものはどこまでも違うものに聴こえる。


それはなぜだろうと考えて、ネアはそんな真理に思い至った。




「…………………私はなんて贅沢ものなのでしょう。いつかアルテアさんが、もう飽きたと森に帰ってしまっても、この夜のことは一生忘れません…………」



それは、夜に住まうものの優しい恋の歌だった。



恋というよりは賛歌にも似た詩的な歌詞なので、これが有名な歌劇の中の一節だと知らなければ、ただ、美しい夜の情景を、愛する人に語って聞かせる歌に思えただろう。


でもネアは、この世界に来て、また自分の好きな音楽を最初から探さねばならなかった人間の貪欲さで、発掘したばかりのこの曲が大好きになったところなのだ。

その物語も、どこで歌声を途切れさせ、歌い手である魔物が小さく微笑むのかも、とてもよく知っている。



「……………契約の破棄はなしだと、言わなかったか?」

「でも、もし、自分が自分たる為には、そうでなければならないのだと、森に帰りたくなる日もあるかもしれません。魔物さんは、そういう生き物ではないでしょうか。……………だとしても、こんな素敵な思い出を貰ったのですから、私は、ディノと今日のことをずっと覚えていて、アルテアさんの面影を偲びますね」

「…………………お前な」



自由でなければと自分を殺してしまうものであれば、それを我慢させたくはない。


それは、歌声の違いからも伝わってくるディノとの違いで、この魔物はやはりどこか、鎖をかけて飼い殺しにしてしまってはならないような、人の手に負えない気儘なものだという感じがした。


だからもし、約束が足枷になって草臥れてしまうくらいなら、それを外す勇気を持たなければと思う。



そう思うのは、でもそうしなければ自分の心は死んでしまうのだと、かつて中庸であることに背を向けたネア自身の渇望を思い出したからであった。



しかし、そんな思いで見上げたアルテアは、なぜか呆れたような優しい目をしていた。



「むぎゃ!」



そして、ネアのおでこをびしりと指先で弾く。


攻撃されたおでこを押さえてよろめいたネアは、すぐさま可哀想にと駆け寄ってきたディノに抱き締められた。



「…………アルテア」


微かに咎めるような声音のディノに、婀娜っぽい黒い毛皮のコート姿の魔物は飄々と笑う。



「お前もお前だ。安易に、魔物の歌なんぞ、こいつに聴かせるな」



けれども、そんな苦言を受けて微笑んだディノは、時折この魔物が見せる老獪で高位の者らしい、穏やかで静謐な瞳をしていた。


様々な場面で語られる万象の、全てに不慣れな無垢さとは正反対に位置する、王としての老成と理解の眼差しとでも言えばいいのだろうか。


そしてこんな時、ネアはその魔物の王としてのディノが、柔らかな微笑みを浮かべて友人を見る姿がとても好きだった。



「それでもと、君は思うだろう。この子が望むものがどんなものなのかを知り、それが本来の望みの形とは違うものでも、そんなものを与えたいと切り出すこともあるのではないかな。それに、君と私の守り方や執着は形が違う。……………もし、それが私と同じものであれば、私はとうに君をどこかにやってしまっているよ」



その言葉にアルテアは一瞬たじろいだようにも見えたが、すぐにやれやれと肩を竦めると、なぜだかこちらを責めるような凄艶な眼差しで一瞥する。



「もう二度と、妙なものに歌わせるなよ?資質や商業用で歌声をばら撒く奴ら以外のものは、俺とシルハーンまでだ。いいな?」

「…………弟なノアと、ウィリアムさんも歌ってくれる予定なのです…………」

「ノアベルトはともかく、ウィリアムはやめておけ」

「むぐぅ……………」



いつの間にか、外はまた雪が降り出していた。



しんしんと降り積もるその雪の中で、ネアは森に飛んでいってしまった、不思議な生き物を思う。



(……………大好きな人達がいて、こんな風にその優しさに甘やかされていると、それを得られなかった頃の怖さを思い出すことがある…………………)



だからあの生き物にも、いつか、安心して慈しめる誰かが現われればいいのだけれど。

そう思い、心の中で幸運を祈っておいたところ、バスタオル生物は後日ウィームの近くで再び目撃された。



ウィームの街でたびたび目撃されていた失恋続きの小さな竜と番になったようで、子犬大の竜がバスタオル状の伴侶にくるまれていちゃいちゃしている、堪らなく愛くるしい姿が見られるようになり、ウィーム領民の新たな癒しになったようだ。



なお、バスタオル状の生き物は、枝氷柱の魔物寄りの氷柱を守る穏やかな性質を持つ、雷鳥の魔物の亜種であることが判明したそうだ。


ガレンの希少生物専門の魔術師も、度々観察に来ているという噂である。






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