祝祭のお菓子と憧れの旋律
その日、ネアの寝室にはとても尊い光景が出現していた。
すっかり不貞腐れてしまい、枕の下に潜り込んだ生き物がおり、そのふかふかの尻尾が枕からはみ出て見えているという光景である。
ネアは、そんな不貞腐れちびふわを構いたくて堪らず、指先を枕の下にずぼっと押し込んでは、けばけばになる尻尾を楽しく見守った。
寝台に寝そべってそんな遊びをしていると、隣にディノが腰掛ける。
「ネア、アルテアはまだ………立ち直れていないのかい?」
「ええ、よほどイブメリア限定のフルーツケーキを食べられないのが我慢ならないようですね。甘いものはお砂糖を使っているので酔っぱらってしまうからと伝えたのですが、この通り枕の下から出て来なくなりました」
「アルテアが…………」
「枕を持ち上げると唸るんですよ」
「アルテアが、…………唸ってしまうんだね…………」
「でも、構って貰えないのも嫌なようで、放っておくと尻尾をぱたぱたさせてきます」
「………………うん」
枕の下に潜り込む為に平べったく体を伸ばしたちびふわは、後ろ足が外向きに開いてしまっていて、愛くるしいの一言に尽きる。
本人は完全に隠れたつもりのようだが、こっそり枕をずらした狡猾な人間の企みにより、後ろ足が見えてしまっているのだ。
しかし、ネアにとってはどんなに尊い姿であれ、不貞腐れているちびふわはきっと悲しいのだろう。
今回の変化は、ライオン風と言うよりはくしゃもこな寝癖風のたてがみちびふわなシカトラーム仕様で、ノアが調べてくれたところ、二時間程で元に戻るらしい。
つまり、イブメリアに向かう祝祭の焼き菓子は、たった二時間我慢すればいいだけなのである。
お酒の風味のするドライフルーツをたっぷり使った、ゼノーシュもお気に入りの一口フルーツケーキは、飴玉のようにくるんと金色の紙に包まれたお洒落で美味しい一品だ。
こちらの世界の個別包装の文化は、なぜかこの飴玉仕様が人気であるらしい。
今回、ネアがたくさん貰ってきたこの祝祭限定のケーキは、ほろ苦い大人の風味のフルーツケーキの真ん中に、とろりと甘さ控えめの酸っぱさが美味しい苺ジャムが入っている。
艶消しの金色の包み紙には、銀色の飾り木の絵が入っていて何とも上品だ。
なお、通常販売のものは消しゴムのような一口大の長方形をしていて、やはり金紙で上品に包まれて箱に入って売っている。
こちらも少しだけ大人のフルーツケーキで、美味しい紅茶と一緒にいただくと上等な淑女という気分が高まるのだ。
「フッキュウ……………」
そして、この分かりやすく拗ねているちびちびふわふわした生き物は、そんな素敵なお菓子を発見したのに、自分が貰えないことにすっかり荒ぶっているのである。
ふさふさの尻尾をぱすぱすして、枕の下にいるからといって傷付いた自分を蔑ろにしていい訳ではないのだとさかんに訴えてくるので、ネアは時折枕の下に指を突っ込んで、何とか宥めようとしているのだというアピールをしていた。
「ちびふわ、その枕は私の枕なので、出て来ないと持ち上げてしまいますよ?」
そう言えば、みっとなって尻尾がけばけばになる。
ちびふわにとっては、この枕は自分が出てもいいと決めるまではそこにあって欲しいもののようだ。
大事な要塞なので、決して手放せないと考えているらしい。
本当は第三席の魔物だった筈のちびふわが荒れ狂ったのは、会食堂でのことである。
ネア達がシカトラームを出てリーエンベルクに戻る頃には、すっかり夕方になっていた。
ノアに頼まれてリーエンベルクを守ってくれていたウィリアムも含め、帰って来てすぐにみんなでお茶をすることとなり、中でのことなどをエーダリア達に報告しているところで、お茶菓子として出現したフルーツケーキを巡る事件が起きたのだ。
(ウィリアムさんは、鹿角の聖女さんが伴侶を失ったのは、自業自得だと考えているみたいだった…………)
シカトラームがネア達に提示したものを知り、ウィリアムは少しだけ考え込んでいたようだ。
そんなウィリアムが語ってくれた鹿角の聖女は、どこか、エーダリアやヒルドの口から語られるネアの前任の歌乞いの少女を思わせた。
(でも、ウィリアムさんがその崩壊までの経緯に苦い思いを抱くのは、その人が失われたことで、ウィリアムさんの負担が増したからでもあるのだろう…………)
この世界から修復が失われると、終焉というものは、より苛烈で取り返しのつかないものになった。
例えば、一人の王の死に端を発する動乱があったとする。
修復の恩寵がなくなり、その悲劇がやり直されないことで、ウィリアムが刈り取る死者達はいっそうに増えたのだ。
そんなウィリアムだが、ネア達が出かけている間に、エーダリアはちゃっかり交友を深めていたらしい。
強要されたお昼寝を終えて、簡単な執務をこなした後にも終焉の魔物と充分にお喋りする時間があったことを喜んだエーダリアは、ネアがよくウィリアムに食べ物を渡しているのを思い出して、厨房にウィリアムのお弁当を頼んでくれていた。
帰り際に、サンドイッチやスープ、焼き菓子などを持たされ、ウィリアムが驚きと喜びの入り混じった微笑みを浮かべていたのが印象的だった。
なお、報告会の中盤から、フルーツケーキが欲しくて荒ぶるちびふわが気になって仕方なかったのか、ウィリアムは、帰り際には頑張って話しかけたりもしてくれたのだが、残念ながらまだご覧の有様である。
(ウィリアムさんから話しかけられた時には、はっとしていたのにな………………)
勿論、今でも魔物としての意識も少なからずあるのだとは思う。
だが、どうしてもフルーツケーキへの憧れを捨てきれず、心が波立ってしまうに違いない。
ノアによると、祝祭に向けたお菓子は普通のお菓子にはない祝福などが込められ、お菓子用の妖精の粉なども入っているので、特に甘くいい匂いが際立っているそうだ。
森の生き物達が荒ぶった際に、祝祭用のお菓子で鎮めることが多いのはその為で、ちびふわが、今迄に出会ったことがないような魅惑のお菓子に思えてしまうのは、仕方ないのではないだろうかと解説してくれた。
そう思うと、そんな美味しいフルーツケーキを三個も食べてしまったネアは、ちびふわの悲しみが胸に響いた。
ネアだって、特別なお菓子を自分だけ食べられなかったら、むしゃくしゃするに違いない。
「むむむ。この無防備なお尻を見ていると、うっかりお菓子をあげたくなってしまいます…………」
「もう半刻もしない程で呪いが解けるのだから、それまでは我慢させるのではなかったのかい?」
「……………そ、そうでした。せっかくもうすぐ呪いが解けるのに、酔っ払いちびふわになってしまったら、一晩ちびふわのままかもしれません。…………そういうことなので、今日は我慢して下さいね」
「フッキュウ……………」
アルテアにだって、夜の予定があるかもしれない。
ネアは何度か、予定が何もなければ酔っぱらってもいいのかなと聞き取り調査を行ってみたのだが、フルーツケーキに目が眩んだちびふわの供述には信憑性が皆無であった。
よって今暫く、フルーツケーキは禁止なのである。
「フキュフ!」
優しくないご主人様に我慢がならなくなったのか、ちびふわは枕の下でじたばた大暴れを始めた。
しかし、小さな体の上に枕が乗っかっているのですぐに疲れてしまうのか、じたばたしてはぴたりと止まるの繰り返しで、その内に外の様子が気になってきたのか、もそもそと枕の隙間から少しだけ顔を覗かせてきた。
ふかふかの枕の隙間から愛くるしい白もふが覗いている姿に、ネアは胸が苦しくなる。
「ちびふわ、今度お泊り出来る日に、フルーツケーキをあげますからね」
「……………フキュフ」
「もしくは、呪いが解けた後のアルテアさんに、今夜の予定がないのかどうかを聞いてから、泊まっても問題ないようであれば、フルーツケーキを食べましょうか?」
「………………フキュフ」
ちびこい前足で、だしだしとシーツを叩いているちびふわの頭をそっと指先で撫で、ネアは一緒に心配してくれているディノを振り返って微笑んだ。
「…………少しだけなら、あげてもいいのかな……………」
「ふふ、ディノはやっぱり小さなふわふわに甘いですねぇ。…………ふむ。そろそろ引っこ抜きましょうか」
「………………引っこ抜くのかい?」
「ええ。このままだと、二人でずっと枕の下を覗き込んでいることになってしまいますからね。えいっ!」
「フキュフ?!」
唐突に、わしりと掴まれて枕の下から引っ張り出されたちびふわは、けばけばになって震えている。
そんな姿もなかなかに愛くるしいのだが、どこか裏切られたような目をして、最後までこの人間の心を揺さぶってくるあざといふわふわだ。
「このままだと可愛いちびふわが見えなくて寂しいので、出てきて下さいね。………む、その様子だと、我に返ったのでしょうか…………」
「………………フキュフ」
抗議の枕下運動から引っ張り出されて悲しい目をしていたちびふわだったが、表の世界に戻り、ネアとディノの顔を見てしまったことで、自分が選択の魔物だったことを思い出したらしい。
たいそう慄いた様子で、けばけばになって震えている。
顔を覗き込むと、気まずそうにさっと視線を逸らされた。
「ディノ、ちびふわにアルテアさんの心が戻って来たようです」
「良かった、アルテアなのだね……………」
心から安堵したようにそう呟いたディノは、まるで何者かに体を乗っ取られてしまった友人の帰還を喜ぶように、そっと手を伸ばして、けばけばになったちびふわを受け取った。
ちびふわはいっそうにけばけばになったが、ディノは、大事そうに正気に戻った友人を抱いている。
「フキュフ」
助けて欲しそうにちびこい手を伸ばす生き物に、ネアは微笑んで首を振った。
「ふふ。良かったですね、ディノに抱っこして貰って」
「フキュフ?!」
「アルテア、あのケーキは元の姿に戻ってからにしようか」
「あらあら、仲良しですねぇ」
「フキュフー?!」
ディノは、慣れない仕草でちびふわの頭をそっと撫でていた。
やはり、銀狐といいもふもふの友人には甘い魔物のようだ。
時計を見るといい時間だったので、雪明りの美しい窓からの景色を楽しみつつ、けばけば具合が使い古した歯ブラシのようになったちびふわを連れて、ネア達は晩餐の為に会食堂に戻った。
会食堂の扉には、祝祭の季節に備えて可愛らしいリースが飾られていて、中に入れば、テーブルの上には冬聖の木の枝がしゃわりと祝福の光を帯びて煌めいている。
この小枝があるだけで、ぐっとこの不思議で美しい季節の冬の艶やかさが際立つようだ。
ネアは、カーテンを開けて窓の外のウィームの冬を見せてくれている、晩餐の席の情景に溜め息を吐く。
雪がやんで月がでたのか、庭の雪明りはたとえようもない美しさだ。
「エーダリア様、遅くなりました」
「いや、…………その、大変だったのだろう」
「そろそろの筈なのですが、まだちびちびふわふわしていますね…………」
「フキュフ………………」
テーブルに着いているのはエーダリアとヒルドで、ノアは、今夜は新しい女の子とデートなのだそうだ。
グラストとゼノーシュは、ザルツ近郊の村に出掛ける任務の関係で、昼食時間がかなり早かったらしく、空腹に耐えきれず夕方にはもう晩餐を終えてしまったらしい。
「まぁ、ディノの大好きなスープがありますよ」
「コンソメのスープだね」
テーブルの上には、優美な白磁のスープボウルがある。
ネアが気付いてそう声をかけると、深い飴色になったこのスープがお気に入りの魔物は、嬉しそうに唇の端を持ち上げた。
今日の晩餐のメニューは、ウィームの伝統的な牛コンソメのスープにお肉のお団子が入ったものと、たっぷり蒸し野菜とベーコンの温かいサラダ風のグラタン。
小ぶりな一口シュニッツェルと、甘い雪傘芋をからっと揚げて塩をまぶしたものに、胡瓜とフェンネルのマリネ。
パンに合わせる為の香草と鶏レバーのパテは、いい材料がたくさん手に入ったものか小さな円形のパテ皿にたっぷり盛られており、昨晩から食卓の何箇所かに常に並んでいる。
臭みもなく濃厚な味わいが堪らなく美味しいパテは、エーダリアの好物の一つなので、一度に沢山作って暫く食べられるようにしてくれるのが、リーエンベルクの食卓の習わしであった。
(わ、たくさん作ってくれたのだわ…………)
シュニッツェルは、どうやらおかわり自由であるらしい。
細やかな衣には削ったチーズが混ぜられているので、そのままでも充分に美味しいのだが、香草ソースやグレービーソースのようなもの、檸檬バターソースなどが用意されているので、こちらも自由に選べる。
「ディノ、ちびふわは…………む」
「……………何だ」
ネアが、それでは、ふわふわのちびふわは是非にこちらのお膝の上でと思って振り返ったところ、そこにはいつの間にか、漆黒のスリーピース姿のアルテアがいるではないか。
ひやりとする程の美貌に、漆黒の装いはとてもよく映えた。
しかし何だか不機嫌そうに目を細めているし、さも酷い目に遭ったと言わんばかりに溜め息を吐いている。
「まぁ、……………もう戻ってしまったのですね。不貞腐れちびふわにはあげられなかったフルーツケーキですが、人型のアルテアさんであれば差し上げられますが、欲しいですか?」
「………………お前がリズモに似ているからという理由で、妙なものに手を出したからだろうが」
アルテアはたいそう渋い表情であったが、ネアが、取っておいたフルーツケーキを差し出すと、白い手袋に包まれた手で当たり前のように受け取ってくれた。
シカトラーム訪問時の服装のままなので、先程まで枕の下で暴れていたもふもふとは思えないくらいに、艶麗な魔物っぷりである。
ネアは、帽子を取って髪を片手で梳いているそんな魔物を見た後、ほかほかと湯気を立てる美味しそうな食事の用意されたテーブルの方に視線を向けた。
「それと、ちびふわサイズなら分けてあげられたのですが、人型になられてしまうと、事前予約がなしでしたのでお食事の準備は…………」
申し訳ない気持ちでおずおずとそう口を開けば、ヒルドが、アルテアの呪いが解ける時間を計算して、臨機応変に人数を増やせるような料理の出し方にして貰ってあると教えてくれた。
「ですから、お時間が許すようであれば、こちらで食べてゆかれますか?」
「ああ。そうする」
「だからシュニッツェルや、グラタンが、おかわり自由の素敵な感じなのですね!ヒルドさん、使い魔さんがご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「いえ、恐らくアルテア様は残られるだろうと思いましたから」
「おい、そもそも、お前が馬鹿なことをしたからだろうが」
「む。助けて貰ったお礼としては、ちびふわをたっぷり撫で回し済だったのでは…………」
べしりと後頭部を叩かれ、ネアは仕方なく、たてがみちびふわにならずに済んだお礼として、アルテアに、もう二個ほどフルーツケーキを差し出してみた。
案外素直に受け取るので、このフルーツケーキは人型でも好きなのかもしれない。
几帳面に脱いだコートを裏返して畳み、そのくせにどこかにぽいっとやって消してしまうと、アルテアはいつものようにネアの隣の席に腰を下した。
リーエンベルクの優秀な給仕妖精は、それまでに、アルテアの席にカトラリーやグラスを並べておいてくれている。
ヒルドが時間を計算の上で話を通しておいてくれたからか、ほどなくお皿の上に切り分けられた野菜グラタンなども運ばれてきて、ネア達と同時のいただきますに間に合った。
「アルテアさん、今夜は大丈夫だったのですか?」
食事が始まり、美味しいグラタンに頬を緩めながらネアがそう尋ねると、こちらを見た使い魔はすっと赤紫色の瞳を眇める。
「お前を連れてシカトラームに行くと決まった段階で、今夜の予定は全て振替えてあるからな。だから、アクスに立ち寄ってからの合流としたんだ」
「…………ということは、今夜の内にもう一度歌ってくれたり…………」
「………………しないだろうな」
ここで、ディノのお皿から届いたグラタンのブロッコリーを、チーズがかかった美味しい部分のアスパラと交換していたネアは、お向かいの席にいるエーダリアが目を瞠って無言でこちらを見ていることに気付いた。
おやっと首を傾げてそちらを見れば、なぜかヒルドも同じような表情をしているではないか。
「………………エーダリア様?」
「……………アルテアが、歌ってくれたのか?」
「いえ、シカトラームの入り口で、譜面の魔術を奏でてくれたのです。アルテアさんの声は、とっても素敵だったんですよ。あの音階も素晴らしくて、何度譜面を持ち帰ってしまいたい欲求に駆られたことか………」
「………………そうか、詠唱だったのだな。てっきり、歌を贈られたのかと思って驚いてしまった……………」
「魔物さんに歌って貰うのは、何か特別なことなのですか?」
エーダリアがあまりにも安堵しているので、不審に思ってそう尋ねてみれば、どこか呆れたような顔をしてこちらを見る。
先程までの、ウィリアムにお弁当を持たせ、シカトラームの試練の廊下の話を目を輝かせて聞いていた表情とは違い、ガレンの長らしい理知的で厳しい眼差しだ。
とは言え、鶏レバーのパテの取り分けには余念がない。
「魔物から歌を贈られるということは、魂を捧げられることに等しい。勿論、その資質に応じて、歌声を披露することを特質とする魔物もいるのだが、それはほんの一握りの者達だけだと聞いている。贈られるということに関しては、……………とやかくはいわないが、決して無理に強請ってはならないぞ」
「……………………まぁ、それは、使い魔さんであっても駄目なのでしょうか?」
「…………本来の隷属に近しい使い魔の契約であれば、そのようなことを聞かないでもないが、…………アルテアは違うだろう?」
「……………………ふぁい」
同じ屋根の下に暮らす人だからこその厳しい声音で窘められ、ネアはふしゅんと項垂れた。
こんなことになると分っていれば、あの時にもっと近くでしっかり聞いたのにと、すっかり動きが鈍くなった手でフォークを動かし、もそもそとお芋を齧る。
「私は歌ってあげるよ。あまり慣れていないけれど、それでもいいかい?」
「ディノ…………」
ネアがすっかり落ち込んでしまったので不憫になったのか、ディノが優しくそう言ってくれる。
そちらを見て涙目で頷き、ネアは失われた喜びについてはもう考えないようにした。
いつもはあれこれ混ぜ返してくるアルテアは無言でシュニッツェルを食べているし、これ幸いとその約束は反故にするつもりなのだろう。
「ネア……………」
その後、ネアがシュニッツェルをたった七枚しか食べなかったからか、食後のデザートが運ばれてくると、ディノが心配そうに声をかけてくれた。
膝の上にそっと三つ編みも乗せて貰い、ネアは、おやっと眉を持ち上げる。
確かに、アルテアの歌声を聴けないということにはとてもがっかりしていたが、であれば今度もまた、シカトラームの詠唱を任せればいいのではないかと、狡猾な人間らしい企みを脳内でこねくり回していた為に、ついつい食事量が減ってしまったのだ。
月に一度はシカトラームに何かを預け入れに行けば、その度にアルテアの歌声が聞ける公算である。
くれぐれも本来の目的を悟られないように、持って行く品物は吟味しなければならない。
「ごめんなさい、心配させてしまいましたね。…………ディノの歌声はとっても素敵でしょうね。ディノの声は大好きなので、その声で歌って貰えたら堪らなく幸せな時間になりそうです!」
「………………かわいい」
「ノアもピアノを弾いてくれるそうですし、ディノもピアノを覚えてくれるなら、私の好きな曲をいつか弾いてくれますか?ウィリアムさんがバイオリンを弾いてくれるそうですし、いつかみんなで一緒に演奏出来たら楽しいですね!」
そう微笑んだネアに、またなぜか、エーダリアとヒルドが呆然とこちらを見ている。
今度はなぜか、アルテアまで同じような表情をしていた。
「……………おい、最後のは何だ」
「演奏会の提案についてですか?」
「ウィリアムのことだ」
「ウィリアムさんに、ピアノや歌のことを話したら、バイオリンが得意なので、今度、聞かせて貰う約束をしたんです。ねぇ、ディノ?」
「私も聴いたことがあるよ。ウィリアムは、自分のバイオリンを持っているくらいだからね」
ディノは昔、そんなウィリアムの演奏を聞かせて貰ったことがあるのだそうだ。
ギードがピアノを得意としており、その二人で一緒に奏でられた音楽はとても素晴らしかったと教えてくれた。
なお、先代の犠牲の魔物については、少々独特な才能の持ち主だったようだ。
君よりももう少し変わった歌声だったよと聞き、ネアはいっそうに犠牲の魔物が好きになった。
是非に今代の彼も、その特殊な才能を持っていてくれるといいのだが。
「ほお、ウィリアムがな……………」
「なんと、ザルツの銀のバイオリンの妖精さんにバイオリンを教えたのは、擬態してお休みを過ごしていた時のウィリアムさんだったのだとか!」
「………………成程な。相変わらず、抜け目のない奴だ」
ネアは、音楽を楽しむ心に抜け目がないも何もないのではと思わずにはいられなかったが、ウィリアムとアルテアは、悪さをしたり刺されたりの複雑な友人関係なので、それもまたアルテア流の感想なのだろう。
聞けば、エーダリアは、王族としても魔術師としてもあれこれ嗜んだので、音楽全般は得意なのだそうだ。
ヒルドは妖精が得意とする笛や、リュートのような撥弦楽器やハープのようなものなどを嗜んではいるが、個人的にはやはり森の系譜の妖精が好む笛が好きだと言う。
その二人も、是非にウィリアムのバイオリンを聴いてみたいというので、ウィリアムには観客が増えたことを伝えておこう。
「アルテアさんも、聴きにきますか?」
「……………あいつに音楽を教えたのは、俺だぞ」
「……………なぬ。ウィリアムさんの音楽の先生は、アルテアさんだったのですか?」
「考えてもみろ。あいつが最初から、その手のものに興味を持つと思うか?」
呆れたようにそう言われたが、ネアはウィリアムの砂漠のテントを思い出し、あんな風に繊細で美しい空間を作る人なのだから、どこから音楽に触れるにせよ、きっと音楽にも惹かれたに違いないとこっそり思う。
イブメリアの歌劇場で一緒に過ごした時も、ウィリアムは満足げな目をして舞台を真っ直ぐに見ていた。
あの時から、音楽は好きなのだろうなと思っていたのだ。
(……………ウィリアムさんのバイオリン……………。普通のバイオリンとは違うのかしら。どんな旋律を奏でるものなのだろう………………)
まだ日にちを決めた訳ではないのだが、その日のことを考えれば、心は弾む。
自分では叶えられずとも、ネアはやはり、音楽が大好きだ。
なのでその場では、みんなであれこれ楽器や、有名な奏者の話をしてすっかりご満悦であった。
その一幕で、薄情な人間は、あれだけ強請った自分の歌はどうでも良くなってしまったと思ったものか、その後、選択の魔物は後に渋々と言う体で歌声を聴かせてくれることになる。
そう言えば、魂どころか、この魔物については既に丸ごと自分のものの筈だったとネアが気付くのは、そのもう少し後のことだった。




