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魔術銀行と銀の譜面 3




「何が入っているのかまでは分らないが、どんな曰くの金庫なのかは一目瞭然だな」


ようやく辿り着いた金庫を前に、そう呟いたのはアルテアだ。

おやっと視線を巡らせれば、ディノとノアも頷いている。


「とは言え、彼女自身の魔術や、信仰の系譜の魔術は敷かれてはいないようだ。中身は、魔術的な品物ではないと思うよ」

「それなら安心っていう気もするけれど、何でこんなものがネアに解放されるのかなぁ……………」

「ここは、どなたかに由縁のある金庫室なのですか?」

「………………鹿角の聖女だ」



そう答えたのはアルテアだった。



「………………鹿角の聖女さん………………」



ネアが、呆然とその名を反芻している間に、がこんと音がして最後の扉も開いた。



(どうして、その人のものが私に……………?)




扉の向こうは薄暗かった。

火の入った燭台の置かれた小さなテーブルがあり、蝋の溶ける香りと、香炉で焚いた薬草のような匂いがする。

くすんだ黄金の装飾と古びた書架のある、豪奢なようでどこか清貧な印象を受ける小部屋だ。



そこには、ネアが期待したように、金貨の山や財宝が積み上げられているということはなく、その質素な机と机の上に置かれた藍色の革手帳がこの部屋の主賓であるらしい。

他にも様々な要素はあるのだが、部屋の中で最も明るい場所がそこだったのだ。


小さな吐息の音は誰のものだろう。



「あの手帳のようだね」

「ああ、他には仕掛けも…………特筆すべきものもない」

「うーん、あの書架にあるのは、古い記録本ばかりだね。……………修復の魔物と、その信徒達の活動記録かな」

「とは言えなぜ、そんなものをネアに渡そうとしているのかな」



そうディノは不思議そうに首を傾げたが、ネアは、何となくその理由が分ったような気がした。



冬告げの舞踏会で、ニケ王子の訪問は注意喚起の意味もあったのだと教えてくれたシェダーの言葉を思い出し、そうして重ねて何度もネア達が気を引き締めなければいけない、大きな転換期が近付いてきているのではないかと思ったのだ。



(でも、………………まだ私には、不穏な気配はしない)



怖いものや悲しいものが近付く足音は聞こえず、ここはただ、墓所のように静謐で安らかな場所に思えた。

この絶望のその先の静謐を、ネアはよく知っている。



なので、しっかり自分の目で確かめようと、ネアはディノの三つ編みを引っ張って床に下り、その代わりにしっかりと手を繋いで貰った。

ノアが、扉が完全に閉まってしまわないようにしてくれ、四人は金庫室の中に入る。



(この中も夜なんだわ…………)



肌で感じる時間というものがあって、先程まで歩いてきた道は、初夏の夜という感じがしたのだが、この金庫の中のその肌触りは、冬の真夜中だという感じがした。

華やかではなく、特別でもない静かで寒い冬の夜に、こんな風に燭台の灯りで手帳を開いた誰かがいたのかもしれない。



「…………礼拝がある時の、大聖堂のような匂いがしますね」

「悪しきものを退ける為の、香木を焚きしめた香りのようだね」

「もしここが、鹿角の聖女さんのものが収められた金庫なのだとしたら、その魔物さんは、このような香りを好まれた方なのでしょうか?」

「そうではないよ。ただ、彼等は、あまり旅人達が好まないような過酷な土地にも巡礼に出掛けることがあった。その際には、こうして悪しきもの達を退ける為の香木を焚くことが多かったのだろう。それがいつからか、修復の魔物を示すものの一つになったようだ」



金庫の中は板張りの床になっており、歩くとぎしぎしという音が響く。

蝋燭の炎が揺れれば、まるで誰かの私室に入り込んでいるような奇妙な後ろめたさすら感じた。


部屋の壁には豪奢な装飾があり、その彫刻の溝には深い影が落ちる。

石を切り出した彫刻ではなく、木を彫って着彩したようなものなのだろう。

ところどころが摩耗し、欠けていたり黒ずんでいたりもする。



(立派な教会の屋根裏部屋………とか、そんな感じ…………)



書架には頼りなくも思える華奢な木の梯子がかけられ、古びた装丁の大きな本は、背表紙が破れていたり、綴じが緩んで紐の部分が見えてしまっていたりした。

一度紐で真ん中を綴じた紙の束に、背面から立派な装丁を貼り付けただけのものであるらしく、その貼り合せの技術があまり丁寧ではなかったようだ。



四人は小さなテーブルを囲み、その手帳を見下ろす。


これが鹿角の聖女のものであれば、ガーウィンに保管されていて然るべきだという気もするけれど、何か特別なものが隠されているとしたら、やはりこのウィームのような土地なのだろうか。


藍色の手帳は決して大きくはなかった。

文庫本くらいのサイズで、よく使い込まれたものが保管され、古びているという感じがする。



「この手帳は、私が開いた方がいいでしょうか?」

「僕がやるよ。シル、いいかい?」

「ノアベルトに任せようか。ネア、あまり顔を近付けないようにね」

「はい。………ノア、気を付けて下さいね」

「……………待て。………持ち上げない方が良さそうだな、紙の端が崩れかけているぞ」

「おっと、危ない危ない。………………わーお、これってもしかして、崩壊に触れたのかな…………」



きしきしと音がして、かさりと紙が鳴った。


ノアが綺麗な指で慎重に開いた手帳は、革の部分がすっかり強張ってしまっており、また、内側に使われている紙もあまり質が良くないようだ。


現在書籍などで流通している上等で均一な厚さの紙ではなく、手漉きのようなどこか素朴な風合いの紙を綴じ、手帳にしたのだろう。

黄ばんだ紙の縁には破れているところもあり、その縁の一部は、ぱりぱりとした雲母のような結晶に変化しかけている。


これが崩壊に触れたというものなのだろうかと思って首を傾げると、ノアが、高位の魔物の死に触れ、こうして石化してしまったのだろうと教えてくれた。



(…………そう言えば、珊瑚の魔物さんの崩壊に巻き込まれた海竜さんは、石になってしまったと聞いたような気がする…………)



ノアはまず一頁目をしっかりと読み、ふむと唸った。

そこにはとても抽象的な言葉が詩編のように綴られていて、その繊細さの主張のようなものからも、如何にも女性の持ち物という感じがした。



ぱらりと次の頁になり、また次の頁へ。

そこでノアは、ふうっと息を吐いて顔を上げる。



「うん。やっぱり修復の魔物のものだったようだね。…………ほら、ここで、何かを試行錯誤している。これは、彼女の研究記録のようなものだったみたいだ」

「……………血、…………体液や髪の毛、肉の欠片。………………守護のかけ方や、祝福。………………ほお、これは指輪の馴染ませ方のようだな…………」



アルテアがそう呟き、どこか嘲るような冷ややかな嘲笑を浮かべた。

ネアはふと、アルテアはその魔物のことが嫌いだったのだなと確信し、さもありなんと噛み締める。


さして知らない人であるし、遥か昔にこの世界から喪われた魔物だ。

でも伝え残された何かが、アルテアの嗜好ではないような気がする。

寧ろ、かつてネアを襲った黄菊の魔物の方が、遥かに好意的な温度を感じた。



「…………うわ、見てこれ。そう考えると、随分無駄なことをしてるなぁ。…………修復を司るのに、指輪の過分で損なった体を治癒する為に魔物の薬なんているかな?」

「………………ここをご覧。資質に触れさせることを、極限まで減らそうとしていたようだ。指輪を贈ることも含め、長らく共に過ごし自分の資質に過分に触れさせてしまったことで、その人間が損なわれたと思っていたのだろう…………。どうやらその人間は、片目の視力を失ったことがあるらしい」

「指輪を与えたところで、…………浸透を待たなかったのなら、それは体も欠けるだろうな。…………愚かな女だ」



魔物達があれこれ言い合い、ゆっくりと頁が捲られてゆく。


滑るような繊細で美しい文字が連なり、藍色のペンで書かれたその言葉には、時折、その試行錯誤の記録だけではなく、どうしてという悲痛な問いかけが刻まれていた。


ネアも目を瞠って文字を追い、すぐに、この手帳の異様な書き込みの多さの理由に気付いた。



「……………待って下さい、この方は、…………お相手に指輪を馴染ませるまで、十三年も試行錯誤していたのですか?」



そう呟いたネアの言葉に、手帳を見るにあたり、後ろからしっかり抱き締めて腕の中に入れてくれているディノの体が、少しだけ強張ったような気がした。


その時ばかりはノアもアルテアも沈黙を選び、頁を捲る手が止まれば、部屋の中には、揺らめく蝋燭の炎の影だけが動いて見える。



「……………彼女は、指輪の浸透を待たなかったからだろうね。なぜ、指輪が残っている内に付け替えていたのかは分らないけれど、或いは相手の人間の方に、浸透を妨げるような特殊な履歴があったのかもしれない」

「………だとしても、付け替えって無駄じゃない?馴染ませては剥がしてたってことだよね。…………指輪を与える意味がなくなると思うけどなぁ…………」

「……………言われてみれば、最初の頃の私は、よく指輪がなくなって大騒ぎしましたものね……………」

「うん。君が、一人で禁足地の森に行ってしまったこともあった」



ネアの言葉の温度に少しほっとしたのか、ディノの声に微かな安堵が滲む。

ふうっと深い息を吐いて、アルテアが足を踏み替えている。



(私が年数を気にしてしまったから、ディノ達は少しだけ警戒していたみたい?)



緩んで初めて、そこまで張り詰めたのかと考えると不思議ではないか。

十三年もかかるような危険なものなら辞退すると、今更ネアが言い出すとでも思ったのだろうか。



「とは言え、指輪の浸透を待つという行為は、決して秘された作法じゃない。周囲に人間を伴侶にした魔物がいなかったのか、もしくは、低階位の魔物ばかりで、指輪が最初の一個で済んでいる奴しかいなかったか…………」

「………………まぁ、そんな感じかな。ほら、ここに指輪の浸透を待つって記述がある。何だかなぁって思うけど、この辺りで漸く、浸透させて身に馴染んだら新しい指輪を贈るって気付いたんだと思うよ。…………それにしても、十五個か。聞いてたよりずっと苦労してるなぁ………………」



(私の指輪は何個だったかな…………)



二十よりもっと多い筈だが、それはディノが万象だからでもある。

そう考えかけてふっと、何かと何かが繋がりそうに思えたのに、掴みかけた輪郭はすぐに曖昧になってしまった。



(なぜ、シカトラームは私をここに呼んだのかしら…………?)



そして、ネア達を確実にここに導く為に、誰かがバーレンをウィームに呼び寄せさえした。

それが誰だったのかを探るのは簡単だが、その回りくどさを考えるに、恐らく誰の意志だったのかまでは判明しないだろうと、魔物達は思っているようだ。



「そうなると、相手の男もある程度特殊な素体だったんだろう。確か、ファルトティーのレシピを編み出したのはそいつじゃなかったか?」

「………ああ!そう言えば、あの子の恋人の生家は、祓いに特化した薬師の家だったかな。そうなると、シルが言ったみたいに、元々魔術の浸透を妨げる体質だった可能性もあるね……………」

「む、ファルトティーというと、アルテアさんが飲んだあのお酒ですね?」


ネアがそう言えば、こちらを見た使い魔はとても暗い目をしていた。


「……………もう一度言うが、あれは飲むものじゃなく、撒くものだからな…………」

「あんなにどろりとしていたのに、撒くものなのですね…………」

「…………更にもう一度言うが、あの状態のものを布で濾して初めて、ファルトティーになる。到底飲めるような代物じゃなかったぞ」

「濾しきれてないポタージュも、案外美味しかったりしませんか?」

「食用とそうではないものの差だな…………」



またぺらりと頁が捲られる。


長い月日をかけ、そして様々な試行錯誤の後、鹿角の聖女こと修復の魔物は、ゆっくりと後世の誰もが知る悲劇の日に向かっていったのだろう。



最後の方の頁には、風が通らないという謎の表記もあり、その文字の乱れ方が悲しかった。


ネアは羽織ものになった魔物の腕の中で、そんな歪んだ文字をそっと指で指し示す。

苦悩が文字に現れるとしたら、それ以上に鮮やかな筆跡はあるまい。

空気が薄く感じて、ネアは自分に寄り添う大事な魔物の体温をぎゅっと抱き締めた。



「ディノ、風が通らないというのは、何か困った状態なのですか?」



その上で冷静にと思ってそう尋ねたのだが、まずディノは、ネアの肩口にぐりぐりと頭を擦り付け、しっかりと抱き締めてくれた。


それだけで心が緩み、ネアはほわりと微笑めるようになる。



「…………指輪はね、伴侶となる者の体をこちらと繋げ易くする為のものだ。この体の欠片や魔術に触れさせ、そこから予め浸透させておくことを目的としている」

「ふむ。突然交わると、その資質が拒絶反応を引き起こすからだと本で読みました」



ネアがそう言えば、なぜかディノは小さく虐待と呟いた。

ノアやアルテアまで視線を彷徨わせたのだが、伴侶となるお相手の魔術に触れ、その身に祝福や守護を宿すことは、魔物にとっては繊細な問題なのだろうか。



「……………そうならないよう浸透させたものがその魂の底に根を張るには、指輪に凝らせた濃密な魔術を、しっかりと沈ませることが大事なんだ。身の内に魔術を宿す私達とは違って、人間は魔術を通すだけの器官しかないから、内側にこちらの要素を浸透させるのはとても難しい」

「難しいことだったのですね…………」

「うん。せっかく定着させても、魂の底に触れずに浮いてしまって、重ねたものが溢れてしまうと必要量が入り込まなくなる。その為には、しっかりと沈める為の状態を整えなければいけないんだ。その作業を、風通しをするという言い方をするんだよ」



ここでノアが補足してくれたことによると、部屋の窓を一箇所しか開けないと風が通らないように、偏った動きしかない風通しの悪い状態での侵食や定着には、とても時間がかかるらしい。

魔術の流れが健やかで、魂の内側が柔らかくなると、指輪の定着が進むという。



「もしかしてディノは、そんなこともしてくれていたのですか?」

「……………そうだね。そのような工夫もしているよ。ただし、君は私が練り直しているから、魂の深さを最初から知っているのが幸いだった。また、ヒルドの守護やアルテアとの契約なども含めて、比重の違う魔術を身の内に得ることで、いっそうに浸透は深くなる。特に妖精のものは人間に馴染みがいいらしい。…………少し複雑だけれど、君がヒルドの守護を得てからの方が、指輪の浸透は早くなったかな」

「まぁ!ヒルドさんがくれた守護や、アルテアさんが使い魔さんになってくれたことは、そんな風にも私達を助けてくれていたのですね……………」



ネアは、ここであらためて知るそんな事実にも驚いた。


他にも、ダナエから貰った守護や、狩りで得てきた様々な祝福、そして、そこにも得るべきものがあったのかと驚く思いだが、死者の国やあわい、妖精の国や影絵などに落ちることでも魂が震えて柔らかくなり、不安定な環境に身を置くことと引き換えに、その後の浸透を助けてくれたりもする。



(みんながくれた守護も、単純に守りを厚くするというだけではなくて、私の指輪を重ねてゆくことにも役立っていたんだ…………)




「特に助けになっているのは、ボラボラかな」

「………………ボラボラ?」

「おい、こっちを見るな…………」

「彼等のような生き物は、その資質に不可解なところが多く生態にも謎が多いけれど、とても古くから存在するものだ。だからこそ、魔物や妖精、竜や精霊とはまた違う層を揺らすものになるんだよ」

「……………となると、アルテアさんと一緒に釣られてしまったあの日の経験も、身になっているのですね……………」

「うん………………」



ネアは、そんなことまでもという感嘆の面持ちで振り返ったのだが、アルテアは、手帳を覗き込む為に前屈みになっていた姿勢をすっと戻し、酷く暗い目で遠くを見ていた。

図らずもつい先程ボラボラ要素の強いものに遭遇したばかりであるので、今はあまり鮮明に思い出したくないのかもしれない。


分かりやすい程に拒絶感を滲ませ、触れれば壊れてしまいそうな繊細な横顔に、ネアはアルテアの肩をぽんぽんと叩いてやりたくなった。



「アルテアさん、であれば、今後もボラボラの村に行く必要がある場合は、ディノかノアにも同行して貰いましょうね」

「やめろ、俺は二度と行かないぞ」

「ありゃ、伴侶になった後は行かなくても大丈夫だよ」



すかさずノアが、もうボラボラまみれにならなくてもいいのだと教えてくれ、アルテアは微かに救われたような目をした。

これだけの魔物にこんなにも無防備な目をさせてしまうのだから、ボラボラは偉大な生き物なのかもしれない。



「……………ディノ?」


そこでふと、ネアは大事な魔物が息を詰めているような気がして、体を反転させてその顔を見上げた。


視線を戻してこちらを見て、ふっと安心させるように微笑んでくれたディノだったが、どこか困ったような淡い微笑みにネアは眉を下げる。



「何か、心配なことが書いてありましたか?」

「君に怖い思いをさせるようなことはなかったよ。安心していいからね」

「……………ディノが何か怖い思いをすることも?」

「…………そういうものでもないだろう。ただ、彼女はその浸透に手間取ったからこそ、様々な角度から人間を伴侶とすることを研究したようだ。その中には、私が考えてもみなかったような切り口の問いかけや、不思議な試行錯誤もあったのは確かだよ。だから、彼女が何を恐れ、何を退けようとしていたのかを考えていたんだ」



そう説明されてじっとディノを見上げている内に、背後で小さな紙の音が聞こえた気がした。


そこに不都合な真実が記載されており、ネアが目を離した隙に誰かが頁を捲ったのかもしれないが、幸いにもネアは、先程まで開いていた頁をしっかりと読み込んであるのだ。



「今、ディノが見ていた頁には、運命の負荷という文字が書かれていました。その他大勢の認識で運命が固まりになってしまい、こちらの動きを阻害するものであれば、形のないものをどうやって退けてその誓約とするのかと……………」

「……………………うん」



こんな蝋燭の灯りでは、人ならざるものとしての美貌をいっそう鮮やかにする美しい魔物は、困ったように微笑み直す。



「認識や意志のようなものを、因果が結ぶ魔術の形だね。修復は、その相手を多くの信徒達から否定されていたという。それが信仰という形の上で、願いにも紐付くのなら、否定を成す魔術の織りもまた頑強なものだっただろう。そのようなものを、彼女は運命の負荷という表現にしたのかな」

「その場合、沢山の人達が私はディノには相応しくないと考えてしまえば、その思いもまた、運命の負荷になってしまうのでしょうか?」

「……………かもしれない。だから、…………君には話しておくべきだね」



そう微笑み、ディノはそっとネアの頬に手を添えた。

その温度の優しさに目を細め、ネアは吸い込まれそうな水紺色の瞳を見上げる。




「はい。聞かせて下さい」

「…………この前の蝕の時に、ウィリアムに施したものでもあるのだけれど、君と私の関係のどこかに運命の傷をつけるか、或いは何らかの対価を支払って、運命が見えない要素で歪まないように、こちらでも守りを固めようと思っていた」

「……………むむ、それは何だか、とても厄介なものに思えます」

「…………かもしれない。けれど、…………」



微笑んだ唇を微かに開きかけ、ディノは悲しげに瞳を揺らした。

その透き通った淡い孤独の色にはっとして、ネアは、ばすんと大事な魔物に体当たりする。




「ネア…………」

「私はどこにもいかないので、安心して下さいね。隠さず、一緒に対策を考えてくれる為に、そのことを教えてくれたのでしょう?」

「………………かわいい」

「…………む」

「ありゃ、シル、今大事なところだから!弱らないで話を続けて!」

「ネアが可愛いことばかり言う…………」



魔物は少しだけくしゃりと傾いでしまったが、その後も頑張って説明してくれた。




「どちらにせよ、支払うものは小さくはないだろう。………でもね、私は君を失いたくないし、伴侶となれば、君を春告げの祝福だけで守りきらなければならない不安からは遠ざけられる」

「まぁ、そんなにしっかりと守ってくれる素敵なものなのですか?」



ネアがそう言えば、なぜか魔物達はまたもぞもぞと不自然な動きをした。

この辺りにはいずれしっかりと問いたださなければならない問題がありそうだが、今はひとまず、伴侶になれるかどうかの話をした方が良さそうだ。



「……………ネア、怖い思いをさせてごめんね」

「これが怖いことだとは思いませんよ?元々、…………そうですね、最近のディノの儚さを見ていると伴侶になっても無事に保つのだろうかという懸念もありますが……………、約束していたことなのです。それに、幸せなことの為に工夫するのは何だか素敵なことだとも思います。…………だから、一緒に頑張りましょうね?」

「……………うん」



嬉しそうに目をきらきらさせて、ディノはこくりと頷いた。


しかし、もし、とても大事なことを秘密にして無茶をしたら、婚約期間を一日ずつ伸ばしてゆくと残酷な人間から脅されてしまい、びゃっと飛び上がる。



「伸ばさない…………」

「では、対価については、これからは私にも共有して下さい。他の問題もですよ!」

「うん…………」

「……………こいつがここに呼ばれたのは、それを手配した誰かが、この手帳を読ませて、備えを万全にさせる為か?」

「うーん、やっぱりそれが主軸かな。………完全に読み込んだけど、この装丁の粗末さじゃ、手帳に他の仕掛けはないしね」

「部屋の他の部分にも、記されたものはなさそうだな…………。だが、念の為に目を通しておくか」

「そうだね」




そこで、魔物達によるこの金庫室に収められた蔵書や覚書の束の大捜索が始まった。


その間、ネアはディノの膝の上に設置され、椅子になった魔物と、運命の部分の調整と対価についてあれこれ話し合う時間にする。



どったんばったんという音に囲まれながら、ネアは静かにディノと向き合っていた。



「……………上手く言えないのですが、今回のことは、………ヒントのような気がするのです」

「………ヒント、かい?」

「ええ。それはもしかしたら、ディノが既に対策を考えてくれている、運命に纏わる不安要素かもしれません。………………誰かや何かが、私達のこれからに対して不安視している部分があって、この手帳に書かれたことをヒントにして、上手く対処して欲しいということなのではないかなと思うんです。……………ここに導かれた理由が、まったく別の問題に繋がることというようには思えませんから……………」



その言葉が正しいのかは分からない。


でも、この部屋の扉が開いて、そこに置かれた手帳を見た時から、ネアは、啓示や予言のようなものの気配をそこに感じていた。

それは恐ろしいものではなく、良きものの印としてそこにあり、困難に打ち勝つ為のヒントを与えてくれているように思えたのだ。



だからここには祈りの場のような空気が流れていて、ネアが生まれた世界で教えられた、聖なる奇跡にも似たものを連想させるのではないだろうか。



香木の香りと蝋の香りに、いつかの大聖堂で見た香炉の煙を思い出す。

また何かが記憶の端に触れたような気がしたが、思うようには形を成してはくれなかった。




「ディノ、私はここに来た時、初めてレイラさんに会ったあの大聖堂のことを思い出したのです。でもその何が記憶に引っかかっているのか、ただの香りの記憶なのか、そこがはっきりとしません。ディノの方が何かに気付いてくれるかもしれないので、念の為に伝えておきますね。…………あの時、ディノはその場にいなかったので、一緒に居てくれた、エーダリア様やヒルドさん、ダリルさんにお話を聞いた方がいいでしょうか?」

「君が、グレイシアを送り届けた日のことだね。………そこには、レイラの他に誰かいたかい?」

「教え子さんと、レイラさんのお付きの黄色っぽい妖精さん達がいました。それ以上の方となると、私よりもダリルさんの方が把握していそうですね…………」



そう言ったネアに頷き、ディノは後でダリルと話してみるよと言ってくれた。


こういう時にとても心強いのは、記憶や知恵を借りる相手が、人並み以上に頼もしい人物であることだ。


ダリルは勿論のこと、エーダリアやヒルドも。

こちらの懸念を噛み砕き、探している以上の答えを導き出してくれそうな仲間がいるというのは、こんな時ではなくても、とても幸せなことなのだと思う。




その後、結局その部屋からは、何も特別なものは出て来なかった。


手帳はどうやら持ち出せないようなので、気になる記述は、アルテアが写し紙で写し取ってくれ、もう一度ディノとノアが目を通してくれる。




「今日の訪問は、君が思っていたようなものではなかったね。…………がっかりしていないかい?」

「でも今日は、シカトラームを初めて訪問出来ただけでも、何だか楽しい一日でしたよ!内部はとっても不思議で綺麗で、私は入れないと思っていたのに、ディノとアルテアさん、それに何とお城の持ち主だったノアのお蔭で、こうして内部を探検出来たのですから」

「それさ、もう一度試練の廊下を通る、アルテアにも言ってあげて」

「アルテアさん、今日は楽しかったですよね?…………アルテアさん?」



ネアは、くいくいっと袖を引っ張って朗らかに同意を求めてみたのだが、もう一度鋼鉄のマッシュルームが爆発して、中からボラボラ相当が出てくるかもしれないアルテアは、ずっとどこか遠くを見ていた。



しかし、帰り道では行きとは違う順路が示され、ネアは、飾り木の区画にある森のような不思議で綺麗な部屋に、自分の貸金庫を貰えたことを知った。



リーエンベルク、ネアと書かれた雪結晶のプレートに大興奮のネアに、ディノ達もほっとしたように微笑みを緩める。


ネアは、さっそく首飾りや腕輪の金庫の中から、貸金庫に保管しておいても良さそうなものをちょこんと棚や引き出しに設置してみると、大満足でふんすと胸を張る。



「ボラボラの集落で貰った、アップリケのある巾着もここに保管しておきますね。これは山猫で、こちらはペンギンらしき頭に花の咲いた謎生物のアップリケです」

「おい、お前、わざとだろ………………」

「そしてこれが、ちびふわ拓……………」

「……………何だそれは」

「酔っ払いちびふわが、ふかふか枕にぼふんと飛び込んだ際に出来たものです。あまりにも可愛いので、ディノに状態保存の魔術で枕を固めて貰い、このように保管しておいたのでした」



ネアは、首飾りの金庫にはいささか場所を占め過ぎていたちびふわ拓を、丁寧にシカトラームの貸金庫に保管した。


お部屋のどこかに保管しておいても良かったのだが、いつか、もっとずっと後の時代になった後、こんなに愛くるしい生き物がいたというウィームの大切な遺産として、長く受け継いでいきたいと思ったのだ。


アルテアはとても嫌そうにしていたが、ノアも何かを勝手に棚に設置しているので見てみれば、どこからか取り出した銀狐の毛玉守りではないか。



「ノアベルト……………」

「え、シルそんな顔しないでよ。ほら、ちびふわだけじゃ不公平だからさ。それにこれ、家事妖精が何だか装飾をつけてくれて、鞄やベルトに飾れるようにしてあるんだ。シカトラームに相応しいと思わない?」

「いいんじゃないか。バンルみたいに、使い魔との思い出の品物ばかり溜め込んでいる奴もいるからな」

「さては、紫陽花の山猫さんですね。であれば、致し方ありません」



帰り道はとても楽しかったが、金色のリズモに似た素敵な毛玉飾りを発見したネアが手でぱちんとやろうとしてしまい、慌ててその手を掴んだアルテアが、シカトラームに仕掛けられた罠に触れてしまう一幕があった。



目を丸くしたふわふわちびちびの生き物がぽふんと地面に落ちたのは、出口まであと少しというたいそう悲しい位置だ。




「フキュフ?!」

「え、何でこんな出口にまで罠があるのさ。…………絶対にいらないよね……………。罠を何個仕掛けなきゃいけないとか、ノルマでもあった訳?」

「と言うかもう、ちびふわに変えてくる以上は、先代の犠牲の魔物さんの仕掛けなのでは……………」

「グレアムが………………」

「フキュフ―?!」

「大丈夫ですよ、たてがみちびふわ。私を守ろうとしてくれたちびふわのことは、大切に撫でまわしますからね!」

「……………フキュフ」

「ネアが、変なアルテアに浮気する………………」




かくして、愛くるしいちびふわを胸に、様々な冒険や驚き、そして忠告や贈り物をくれた、盛り沢山のシカトラームの一日が終わったのだった。








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