魔術銀行と銀の譜面 2
がっしゃんと大きな音がする。
ネアは、傘祭り以降訪れていなかった封印庫の扉を前に、その精緻な歯車の動きや走り回る魔術の仕掛けに目を奪われていた。
廊下にある扉の一つには小さなリースが飾られていて、繊細で美しいウィームの冬らしさがここでも胸を揺らした。
あのリースは、職員の誰がかけたのだろう。
そう思うと、何だか素敵な物語がそこにもあるような気がする。
それともただ、祝祭の季節でこの心がうきうきしているだけだろうか。
「……………シカトラームに呼ばれるとなると、相続が妥当なところか」
扉の前でそう呟くのは、本日の魔術銀行への来店にあたり、入場を助けてくれる魔物その一だ。
所用のあったアクス商会に寄ってから合流してくれたそうで、漆黒の帽子とスリーピースに漆黒のコート姿がいっそ禍々しくも華やかである。
ネアと手を繋いでくれているノアは、創立者としての案内人の役目を兼ねる。
こちらは資格などなくても中に入れる、稀有な唯一の例外なのだった。
「アルテアさんは、シカトラームに入った事はありますか?」
「あるも何も、俺はウィームに屋敷がある。ここにはあれこれ預けているぞ」
「…………なぬ」
この魔術銀行に魔術を預けられるのは、人間だけではないのかと目を瞠ったネアに、アルテアは、ウィームの土地柄を踏まえ途中から人外者達も使えるようになったのだと教えてくれた。
「当初は預け入れは魔術だけだったが、今は、表の銀行に預け入れが難しい財産も受け入れている筈だ。資産価値は高くても、保管が難しい秘宝なんかもあるからな」
「…………そう言えば、パラチンケンに夢中ですっかり聞いていませんでしたが、エーダリア様が氷の銀貨を見たと話していたような…………」
「王族の区画にはあるだろうな。どの区画の金庫に案内するかは、シカトラームに敷かれた因果の魔術が選ぶ。エーダリアは恐らく、雪の城だな…………」
「雪の城…………?」
「シカトラームの区画の名前だ。十二の区画とそれぞれに番地がある。元は魔物の城だからな。中は広いぞ」
「…………ほわ、だんだんと想像を超えてきます…………。アルテアさんも預けているものがあるとは思いませんでした…………」
(でも確かに、ここには定住して領民のようになっている、人ならざる者達がたくさんいるのだから…………)
シカトラームは元々、ウィームを追われた魔術師が、自分の持てる叡智を後世に残すために作った魔術銀行だ。
とは言え現在は、様々な形に利用されている。
特に保管に問題のないお金だけであれば、別に銀行に相当する公共機関はあるのだが、統一戦争の教訓を生かし、ウィームではあまり外に財産を保管する文化がない。
よって、一般的な銀行はあくまでも、給与払いの際の経由地や、投資したいだけのお金を持ち込んでの資産運用を頼む為の場所として認識されている。
各家庭の魔術技術が卓越している為、有事の際にも安心の箪笥預金推奨の土地なのだ。
「ですからここには、後継者のいない固有魔術や、手に入れたものの扱いの難しかった魔術書、未完成ながら後世であれば生かされるかもしれない魔術陣、はたまた呪われた金貨の山など、様々なものが預け入れられておりますよ」
そう教えてくれたのは、封印庫に勤める事務員だった筈の小柄な男性魔術師だ。
実はそれは仮の姿で、このシカトラームの管理者の一人であると言うのだから、実にウィームは奥深い。
彼は厳密には人間ですらなく、シカトラームの入場規制の魔術そのものが命を得た、許可証検査の妖精だ。
他にも、許可証周りで一人の魔物と、内部の管理で二人の妖精と一人の精霊、そして三人の魔物が役職を拝する管理者であるらしい。
役職を持たない一般職員は、全部で二十人ほどおり、彼等もこの確認係の男性のように、普段は別の顔を持つ。
「我々は、お客様が必要とされるときに顕現します。それ以外の時の私達は、自身がシカトラームの守護者であることを知りません。それもまた中々に愉快なことですがね」
そう微笑んだ男性は、守護者ではない時の自分は、同じシカトラームの守護者である妖精の一人と伴侶になっているのだと微笑んだ。
こうしてシカトラームの守護者としての意識が目覚めると、近しい同僚と夫婦であることがいささか気恥ずかしいのだとか。
「とは言え、我々も永遠の存在ではありません。私が失われれば、またシカトラームの魔術から、証明書の確認係としての新たな妖精が生まれる。次の派生までに空白がないということだけが、特殊と言えば特殊でしょうか」
にこにこと微笑むシカトラームの妖精にそう教えて貰い、ネアは、ウィームという領地のその管理とは切り分けた、独立した組織としてシカトラームが存在していることの不思議さを考えた。
(国であれ領地であれ関係なく、シカトラームは、ウィームという土地に住む人に門戸を開く。ここを作った人は、いずれ国という形がなくなることも想定して、その先のウィームをも祖国として守ろうとしたのかしら……………)
だからこそ、その国や領地としての制約に縛られぬよう、シカトラームはどこにも属していない。
独立した小国家のようなもので、特別な魔術の理と、シカトラームの守護者達に守られ、その定めに従い粛々と運営されているのだ。
「…………証明書の提出は終わったようだね」
そこにやって来たのは、バーレンをダナエの元に送り届けてくれていたディノだ。
様子からすると無事に終わったようで、ネアはほっとする。
「ディノ、有難うございました。バーレンさんは大丈夫でしたか?」
「彼は、今回のことは気にしていなかったよ。寧ろ、もしそちらが本命だと困るだろうと言ってくれて、外套は暫し私に預けておいてくれるそうだ」
「まぁ!バーレンさんはいきなり呼び出されてしまったのに、そんなことまで考えてくれたのですね…………」
「ここはもう、彼にとっても大切な場所なのだそうだ。彼もまた、仲間と祖国を失った者だから、君達や、リーエンベルクの騎士達に迎え入れられたことがよほど嬉しかったのだろう」
シカトラームの守護者は、その性質上、顧客のいかなる秘密をも誰にも明かさない。
だからなのか、ディノは証明書の確認係の妖精がいても気にせずに、そんなことを話してくれた。
擬態もせずに万象の魔物としての姿での訪れであっても、確認係の妖精は特に気にする様子はなかった。
やはり、シカトラームは特殊なところなのだ。
「今回のことも、確かバーレンさんの方から、ゼベルさんに言伝して貰おうという提案があったのですよね。いつの間にか仲良しになっていたと、ヒルドさんも驚いていました」
「敢えて正規の申請の形を取り、会員ではないゼベルを挟んで話を持ち込むべきだと、バーレンが提案したそうだ。そこに自分の知らない陰謀が絡んではいけないと考えた、彼らしい資質の判断だね。ゼベルとは、蝕の時に仲良くなったみたいだよ。あと、アメリアのことも気に入ったみたいだ」
ネア達やエーダリア達と仲良くなっても、バーレンにとってのウィームは、知り合いのいる土地に過ぎなかった。
しかし、蝕に立ち向かい騎士達と共に過ごした短い時間と濃密な経験が、バーレンに、リーエンベルクやウィームをどこか自分事な領域であると認識させたのかもしれない。
であれば何だか素敵なことではないかと、ネアは胸の中がほこほこする。
なお、ダナエは、リーエンベルクの料理人達や、美味しいチーズをくれたロマックのこともとても気に入っているらしい。
そんな会話の間に、確認係の妖精はネア達の魔術の繋ぎを調べ終えたようだ。
「はい。こちらの魔物様との契約を、申請通りのものだと確認いたしました。そちらにおります使い魔様との契約も含め、シカトラームへの扉を開かせていただきますね」
この確認係の妖精が現れるのは、ネアのように、譜面台に置かれた銀の譜面の魔術を奏でる力を持たない者が訪れた時だけなのだそうだ。
本来は、後天的に可動域を閉ざされたり、魔術を扱えなくなった者の為の措置だが、ネアの場合は、大きな契約を持っていることでその資格を満たすことが出来た。
申請についてはノアが上手に説明してくれたので、確認も含めとてもスムーズだったのが嬉しい。
無事に審査が通ってほっとしたネア達に、確認係の妖精は、廊下の奥にぽつんと佇んでいる譜面台の方を見た。
そこには、ネアが証明書を広げた時に現れた、優美な装飾が美しい譜面台があった。
広げられた銀の譜面は細やかに光り、じゃりっとした表面の質感が、雪の日の廊下の微かな光をあちこちに乱反射する。
その、星屑が歌うような、どこか秘密めいた煌めきに目を奪われた。
「さて、譜面の魔術は、どなたが奏でられますでしょうか?」
「俺がやる」
「かしこまりました。では、宜しくお願いいたします」
ネアが無事に審査を終えたとは言え、譜面の魔術を奏でる認証は免除されない。
これはウィームの住人かどうかを調べるものなので、例えば、ネアのように使い魔などを得ておらずに魔術を扱えなくなった人は、身内に頼んで代わりに奏でて貰うのだ。
最初、譜面が置かれているのでネアが歌ってみようかと申し出たのだが、とても怯えた目をした魔物達に固く禁じられてしまった。
その代わりに、アルテアが魔術を奏でてくれることになっている。
そんなアルテアの指先が、すっと譜面を辿った。
「都度楽譜を変えてくるが、今回のものは悪くないな…………」
赤紫色の瞳を細めてそう笑い、その直後、まるで聖歌のような美しい詠唱が封印庫の廊下に響いた。
(わ……………!)
思わず呆然とその旋律にも似た不思議な詠唱に飲み込まれ、揺蕩い、ほんの一小節の詠唱が終わる頃には、ネアの心は、今のものを録音して毎晩枕元で流したいという願望にじたばたしていた。
「開錠となります。道が現れますので、シカトラームの誘導に従ってください。それでは良い旅を」
ふわりと片手を動かし、古い時代の宮廷風の一礼をすると、確認係の妖精はしゅわりと消えた。
役目を終えた彼はまた、封印庫の事務室で事務員として働き始めているのだろうか。
いつの間にか、壁の向こうには円形のアーチの壮麗な門があり、その先に続く紫紺色の石に螺鈿細工のように白い模様が浮かび上がる素晴らしい階段を降りてゆけば、不思議な夜色の小川にかかる白い橋があるようだ。
いつもであれば、ネアはその美しく不思議な光景に夢中であっただろう。
しかし今は、その直前に魂を震わせたものが特別過ぎて、それどころではなかった。
「アルテアさん、………い、今の詠唱が、また聴きたいです…………」
「認証の為の詠唱だ。そうそう不用意に口ずさむものじゃないな」
「とても美しくて、甘やかで、胸にがつんと来ました。次の公演が待ちきれません。…………は!アルテアさんが、歌劇の方面に転職してくれれば…………」
「やめろ」
「では、使い魔さんの義務として、毎晩好きな歌を子守唄がわりに歌ってくれますか?」
「お前な………………」
「ネアがアルテアに浮気する……………」
「それか、あの音楽の小箱にアルテアさんをどうにかして閉じ込める……………」
「わーお、猟奇的だなぁ……………」
「いいか、絶対にやるなよ。おい、何で目を逸らした?!」
このまま放っておくとネアが何をするのか油断ならないと思ったのか、アルテアは、また今度気が向けば歌ってやると言ってくれたので、賢い人間はそれをさり気なく約束に昇華しておき、更にはその後の巧みな誘導で一週間以内に設定しておいた。
「アルテアなんて…………」
「ディノも歌ってくれるのですか?」
「歌って欲しいのかい?」
「はい。大切な魔物であるディノの歌を聞けたら、きっと素敵ですよね」
「ご主人様!」
このままでは使い魔に負けてしまうと思ったのか、ディノまで歌ってくれることになり、表現者としての道は進めなかったものの音楽の世界の一端に関わる夢を持っていたネアは、至福の思いで唇を持ち上げた。
「ノアは歌ってくれないのですか?」
「ありゃ、歌って欲しいなら幾らでも歌ってあげるよ。ピアノも弾いてあげようか?」
「……………ピアノも!」
「女の子にせがまれて、小さなお店で、ピアノを弾いて歌を歌った事があるからね。でもまぁ、祝福なんか落としたら大変だから完璧に擬態してたけど、ネアになら僕のまま歌ってあげるよ」
「とっても楽しみにしてますね!」
「……………ピアノも弾くよ」
「まぁ、ディノも弾けるのですか?」
「……………あまりやったことはないけれど、弾けるのではないかな…………」
「むむ、もしや初めての挑戦の分野の発見では…………。ディノは、指先が綺麗なのでピアノが似合いそうですね」
ピアノが弾ける婚約者は素敵だなと考えた邪悪な人間にそう言われ、哀れな魔物は目を輝かせてこくりと頷いた。
ノア曰く、ディノは弾いたことが一度もないということはない筈であるし、誰かの演奏を見ればすぐに再現出来るだろうという事だった。
これはもう、大事な魔物には是非に大好きな曲を覚えて貰おうと心に決め、ネアは期待のあまりに胸が苦しくなる。
(魔物さん達の歌が聞けるし、ピアノも弾いて貰えるなんて!)
「楽しい約束がたくさん増えて、幸せでいっぱいです!」
「可愛い。弾んでる……………」
「おい、弾むな………」
「むぐ!歌えない私は、弾む以外の何で喜びを表現するというのだ。弾みを止めたら歌いますよ!」
「やめろ。シカトラームを崩壊させる気か」
「……………ディノ、アルテアさんが虐めます。私が歌ったくらいで、この素敵な銀行が滅びる筈がありません……………」
「ご主人様……………」
「……………なぜ三つ編みを渡されたのでしょう……………」
確認係の妖精に言われたように、ネア達が進むべき道はシカトラームが示してくれた。
(何て不思議なところだろう…………)
まずネア達は、夜空がさらさらと流れてゆく運河を渡ってお城の中に入った。
そのお城の中には、エントランスの向こうに不思議な夜の街のようなものが広がっているではないか。
しかし、夜空の部分には見事なシャンデリアが煌めき、クーポラのような天蓋は星空の結晶石で出来ているのだった。
かつーん、かつーんと靴音が響く。
雪明りのシャンデリアは、仄暗いこの城内を真夜中の街くらいの照度で夢見心地に照らし上げ、オレンジや檸檬の木の繁る中庭のようなところを囲む回廊や、素晴らしい彫刻の列柱の間を歩いてゆけば、また美しい大回廊などが現われる。
色鮮やかな絵付けをされたタイルがあったり、ネアが今迄に見たことのあるノアのお城とは趣きが違うようだ。
「……………まぁ」
ネアがそこで思わず声を上げてしまったのも無理はないだろう。
目の前の大回廊に、長方形の区画ごとに仕切られ、聖書の挿絵の頁を模したような、象嵌細工の素晴らしい床石が並んでいたのだ。
順路に添って、足元の床がぼうっと光るので、それを踏んで進んでゆけば、城の奥へ奥へと誘われてゆく。
装飾は目を瞠るばかりの美しさの豪奢な城だが、えもいわれぬ暗さのせいでもあるのか、どこか得体の知れない場所という雰囲気が常にあった。
(でも、嫌な感じはしないし、ディノ達も一緒だから怖くなくて、…………怖くないホラーハウスの綺麗な部分だけを楽しんでいる感じかしら…………)
「…………すごいお城ですね。…………むむ、また天井が高くなって、お外に出たように感じてしまいます。でも、あんなに高くに天蓋があって、ここも屋内なのですね……………」
「この城はさ、作った時代がとにかく暇で、暇で、中央の居住区以外のところは迷路みたいにしたかったんだよね。どこの時代のどこの国の建築なのかを曖昧にして、ごった煮みたいにしようとしたんだ。ほら、手間がかかるとたくさん時間が使えるだろう?」
「でも、こんなに不思議でこんなに素晴らしいところなのに、放棄してしまったのですか…………?」
「うーん、僕はやっぱりごちゃごちゃしているのが好きじゃなかったみたいだ」
そう苦笑し、ノアは指先で、こつんと壁を叩いた。
すると、鮮やかな着彩や彫刻が水に映った月のように揺らいで掻き消され、ネアがノアのお城でいつか見たような、氷のような白く曇った塩の結晶石が現われる。
またすぐに装飾が浮かび上がってきて隠れてしまったが、どうやらこの装飾は、シンプルなお城の上に、魔術で張り巡らされたものであるらしい。
「……………灯りが入っていないが、この向こうの区画が、王族のものになる。………シャンデリアが並んでいる奥の廊下が見えるか?」
「むむ。暗さに目が慣れていなければ見えなかったかもしれませんが、ぼんやり見えました!…………まぁ、あちらの廊下の方が、装飾が王宮っぽい雰囲気なのですね」
道中、アルテアが王族の区画へ続く廊下の分かれ道を教えてくれた。
ひょいっと一本左に曲がる細い廊下があるだけなのだが、その向こうには、かなり広い廊下があるようだ。
暗闇の向こうにこちらの灯りを微かに反射して、幾つものシャンデリアが下がっているのが見え、ネアは目を凝らした。
夜の誰もいない王宮のような、人がいるべき筈なのに無人の美術館や博物館のような。
そんな、胸が冒険心にむずむずするような静けさの中を歩き続けていると、左右に甲冑の並ぶ宮殿の廊下のようなところにさしかかった。
「…………ディノ、物語本の定番だと、この甲冑が動いて襲い掛かってきたりするんですよ」
「そうなのかい?持ち上げておいた方がいいかな」
「ありゃ、僕はそんな仕掛けは作ってないから大丈夫だよ」
「…………試練の道だな。甲冑は動くぞ」
ネアの言葉に苦笑した後、アルテアから驚くべき真実を聞かされて唖然とした面持ちで振り返ったノアに、どこか遠い目をしたアルテアは、小さく頷いてみせた。
「………………え、何で金庫室に向かうだけなのに、試練なんかあるのさ?」
「知らん。お前の後から、俺までの間に手を入れた奴に言え」
「…………動くということは、襲ってくるのでしょうか?」
「下手をすると食われるな。因みに、ここから先は沈黙の区画、宝物庫だ」
「食べられてしまった場合のことを考えると、顧客の扱いがぞんざい過ぎると言わざるを得ません………………」
「え、何で食べられるような罠なんて作ったんだろう……………?銀行だよね?」
あんまりな仕掛け廊下にノアはとても混乱しているようだったが、残念ながら、ネア達の順路はこの先のようだ。
となると、この試練の道は通るしかないらしく、一同は何とも言えない表情になる。
やがて、アルテアがふうっと息を吐いた。
「……………ここを通ったことがあるのは、俺だけだろうな。俺が先に行く。躱し方を見ていろよ」
「……………ディノ、このような時には、まずは様子を見て下さいね。物語の典型的な事故の例だと、最初と最後の方が何か大きな災難に見舞われたりするのです」
「最初と最後を避ければいいのだね」
「おい、やめろ。こんなものに引っかかる訳がないだろうが」
アルテアは、呆れ顔で赤紫色の瞳を眇めてそう言ったのだが、ネアは、たいそう事故り易い使い魔であると、厳かに首を横に振っておいた。
ノアは何かを調べているのか、壁や床の装飾に目を凝らしているようだ。
「アルテアさんがちびふわになりますように」
「やめろ。何でだよ」
「事故といえばちびふわなのでは…………?」
「…………お前の方こそ、また妙な事故り方をするなよ?」
「ディノに持ち上げて貰ったので一安心です!」
「シルハーンから手を離すなよ。それと、不用意に妙なものに触るな。自損事故の場合は捨てていくぞ」
「むぐる…………」
まず最初に、アルテアがその廊下を通ることになった。
一歩踏み出した途端に、がっしゃんと重そうな音がして、そこは定番の展開で攻めることにしたのか、分かりやすいぎこちない動きで甲冑の騎士達が動き出した。
ここでネアは、人間用のものとは少し形が違う、独特の甲冑の形状に目を止める。
「ディノ、もしかしてこの甲冑は、竜さんの甲冑ではないでしょうか?」
「そのようだね。角を通す穴の形を見ると、様々な種の竜の甲冑を模しているようだ」
「そうなると、この廊下で甲冑が暴れるようにしたのは、竜さんなのかもしれないですね…………」
視線の先では、アルテアが優美な動きで甲冑達を床に倒している。
「あー、それなら納得かな。なんていうか、仕掛けられた魔術が繊細だけど大雑把っていうか、力押しみたいな感じのする妙な仕掛けなんだよね…………」
「でも、竜さんの仕掛けであれば、アルテアさんは………………アルテアさん!!!」
問題なく進めるだろうと続けて言おうとしたネアは、物量的にどこから現れたのか皆目見当のつかない、巨大な灰色の塊が壁の方から転がり出てきたことに呆然とする。
音もなく静かにごろんと転がり出たその塊は、ネアの目には巨大な鉄のマッシュルームにしか見えない。
「…………前回はなかったな」
カツンと音がして、転がってきたその鋼鉄のマッシュルームのようなものを押さえたアルテアだったが、直後、その表情が変わった。
カツっと鋭い音がして床を踏み込み、アルテアが結界のようなものを立ち上げたのと、鋼鉄のマッシュルームが爆発したのはほぼ同時のことであった。
どかんと音がした。
ネアはあまりにも突然の爆発に、ぎゅっと目を瞑ることしか出来なかったのだが、もうもうと立ち篭める煙が晴れれば、幸いにもアルテアも無事だったようだ。
そう言えばと思い周囲を見回せば、先程まで元気に動いて襲い掛かる素振りを見せていた甲冑たちは、いつの間にか何事もなかったかのように元の位置に戻ってしまっている。
「………………何と恐ろしい銀行なのだ。鉄のマッシュルームめが爆発しました」
「……………何で爆発するようにしたのさ……………。っていうか、ここに来て襲われる意味ってなんだろう…………」
「爆発するんだね………………」
必要性も皆無の謎の仕掛けに、魔物達はとても心が不安定になったようだ。
ネアは、きっとここを管理していた竜が竜的な発想で、せっかくだから罠とかしかけようぜ的な悪ノリをしたのではと思わないでもなかったが、実はネア達には分らない崇高な目的が隠されているのかもしれない。
「アルテアは大丈夫かな…………」
「爆発によりというよりも、鋼鉄のマッシュルームが爆発したことが堪えていそうですね。………む?」
そこで、ぱかりと真っ二つに割れた鋼鉄のマッシュルームの中から、ボラボラに酷似した機械仕掛けの人形みたいなものが飛び出したからか、一人目の挑戦者のアルテアは、若干よろよろしながら試練の廊下を渡り終えた。
「…………次は私達かな。ネア、しっかりつかまっておいで」
「……………ふぁい。アルテアさんを弱らせてしまうなんて、恐ろしい廊下でした」
「うーん、僕も同時に行こうかな。ネアに何かがあるとまずいしね」
「ノア、もしかして、先程に私が言ったことを気にしてます?」
「さ、最後が嫌だからじゃないよ?」
かくして、銀行に来ただけの筈なのにダンジョンに挑む気持ちで、ネア達はその廊下に足を踏み入れた。
案の定、廊下に一歩足を踏み入れると、またしても甲冑達が動き出す。
こうして近くで見ると思っていたよりも大きくて、ネアはしっかりとディノにへばりついた。
そしてそれとは別に、ぎぎぎっと、不吉な音がどこからか聞こえてくる。
「この音ってさ、何だと思う…………?」
「い、嫌な予感がします。建てつけの悪いお部屋の縦開きの窓を閉めるような、嵐で建物が軋むような、何だか怖い音ではありませんか?」
「横の壁ではないようだね。天井だろうか。………早く通り抜けてしまいたいけれど、足元が厄介だね」
「足下……………?…………みぎゃ?!」
ここでネアは、足元の複雑な象嵌細工の床が、賑やかに動き出してしまっていることに漸く気付いた。
歩けるような場所は、床石の継ぎ目の細い鎖模様のようなところだけで、後は象嵌細工の怪物のようなものが跳ね回ったり、波が荒れ狂い雷が落ちたりもしている。
ディノとノアが飄々としているので気付かなかっただけで、既にたいへんな危機に見舞われていると言っても過言ではない。
目を丸くしてふるふるするネアの背中を優しく撫で、ディノは落としたりはしないから怖くないよと微笑んでくれる。
しかしながら、この魔物は綱渡りならぬ床の鎖模様渡りの真っ只中なのだ。
「…………シル、そこは波が引かないと歩けなさそうだね」
「うん。海かなとも思ったけれど、酸の泉のようだ。………そちらにあるのは、ホーエイムの死の森かな」
「持ってた紙片を落してみたけど、触れたものは枯れ落ちるみたいだから、こっちにも行けないかなぁ…………。この仕掛けを作った竜は、王族か賢者あたりの階位はありそうだね」
「おや、天井が動き始めたようだ」
「ぎゃ!壁が!!とげとげが下がって来ます!!」
足下をこれだけ不安定にしておいて、天井までぎりぎりと下がってくるという嫌がらせをかいくぐり、ネア達が無事に向こう側に渡れたのはその五分程後のことである。
ぜいぜいする胸を押さえ、心配したディノからお口に美味しいおやつゼリーを入れてもらって混乱を鎮めながら、ネアは、まるで先程の大騒ぎが嘘のように静まり返った廊下を振り返る。
「むぐるるる。アルテアさんの時より、遥かに難易度が上がっているのが解せません!」
「ほお、お前はボラボラでも良かったんだな?」
「天井からとげとげが下がってくるくらいなら、ボラボラ人形くらいいいではないですか!」
「……………そうか、お前には人形に見えたんだな」
「………………む?」
何だか儚い目をしてそう言った使い魔に、ネアはこてんと首を傾げた。
するとディノが、恐ろしいことを教えてくれた。
「外殻の部分は鉄だったようだけれど、内側に魂の残滓のようなものがあったね。恐らく、ボラボラそのものか、ボラボラの影絵のようなものをあの外殻で覆い、人形のように作り直したものだろう」
「………………なぜそんなことをしたのだ……………」
すっかり目に光が入らなくなってしまったアルテアの方を見て、ネアはそう呟く。
凄艶にも見えた漆黒の装いは未だ汚れ一つないが、眼差しに力がなくなっただけで何とも儚げに見える。
ディノは、なぜこんな仕掛けを作ったのかと不思議そうにしているばかりだったものの、ノアもその表情に色濃く動揺が浮かんでおり、さかんに首を傾げ、誰が自分の城跡にこんな仕掛けを作ってしまったのかと途方に暮れていた。
「…………入口で審査を受けてるし、こうやって誘導灯が光るんだから、正当な権利があってこの中にいるのは疑いようもないのに、その上試練っている?」
「ふぎゅ。いらないと思います。これはもう、完全にどこかのまずい竜さんの趣味なのではないでしょうか?」
「誰が作ったのだろうね………………」
「……………くそ、何でこんなところにまで、ボラボラが…………」
「あまり言いたくはありませんが、ここを帰りも通るのですよね…………?」
「あ、アルテアが固まった…………」
「アルテアが……………」
竜仕様の廊下からはそそくさと離れ、三人はようやく金庫室の一つに辿り着く。
大きな銀と星鉱石の二重の門があり、そのどちらもネア達が近付くとカチャリと鍵が開いた。
その奥にあるのは、森の情景の一部を切り取って結晶化させたような、見事な事象石である。
夜明けの森のようなところに一面に白い百合が咲いていて、その光景を目にした途端、なぜか魔物達ははっとしたように体を揺らした。
(この不思議な扉の中に、何があるのかしら……………?)
あれだけの試練を乗り越えたのだ。
きっと素晴らしいものが待っているに違いないと、ネアはごくりと息を飲んだ。