340. 冬告げの舞踏会で暴れます(本編)
冬告げの舞踏会でネアが好きなところは、食事をしてお喋りを楽しんでからのダンスとなるところだ。
これは、冬の美しさを堪能する舞踏会であるが故に、温かな料理や飲み物で体を温めて欲しいという主催者側の配慮で、冬というものが、親しい人々と家やお店で美味しいご飯を食べることを尊ぶ季節だからなのだそうだ。
早々に再会の挨拶が出来たディートリンデ達とネア達は、大きな美しい木の下でこの季節らしい祝祭の料理の数々に舌鼓を打っていた。
はらりと降るのは、肌に触れる前に暗い藍色の光を発して消えてしまう雪片だ。
その舞い下りる美しさだけを楽しむ贅沢さを享受出来る仕掛けには、ここにいる雪のシー、ディートリンデも一役買っているらしい。
「…………これは!」
そこでネアが衝撃の出会いを果たしたのは、つぶつぶの麦の食感を残すむっちりぎゅうぎゅとした食感の堅めのパンを小さめに切ってペースト状のサラミを塗り、濃密な旨味が素晴らしいトマトのジュレと、一滴ずつ凍らせ常温解凍中のぷちりとした花蜜の滴を乗せた宝石のような前菜だ。
ジュレと花蜜が宝石のようで綺麗なのに、口の中では間違いのない鉄板の味わいとなる。
こんな素晴らしい一品はあるだろうかと身震いし、ネアはあと何個食べていいのかを確かめるべく鋭い目でお皿を見渡した。
くすりと笑ったウィリアムが自分のお皿に二つ乗せてくれて、その内の一つをネアのお皿に移設してくれたので喜びに弾めば、ウィリアムが誰かに食べ物を手ずから与えたことが驚きだったものか、周囲がざわつき、ハザーナがまぁまぁと微笑む。
ディートリンデとハザーナの二人と一緒に居て得られる居心地の良さは、この二人の心のあたたかさこそが最大の理由でもあるが、一族の年長者らしい柔和な対応も素敵なのだ。
特にハザーナは、ウィリアムを終焉の君として敬いながらも、どこか包み込むような柔らかな目で見守ってくれている雰囲気があり、ネアは、それがなぜだか嬉しくて堪らなかった。
香草の香りが効いたローストビーフに、林檎のバターソースのかかった鮭のパイ包み。
お食事系かなと思って齧ったら、檸檬の効いたカスタードがとろりとこぼれ出るあつあつのパスティチョットだったりもしつつ、美味しい時間の中で妖精達と最近のウィームに起こったことなどを話す。
特にディートリンデが心配していたのは久し振りの世界的な蝕についてで、ハザーナから不思議な生き物の祝福でウィームが守られたことを聞き、ほっとしていたところだったのだとか。
なのでネアは、家事妖精が発見したふわまるに、エーダリアと一緒にお菓子をあげて祝福を貰った話をして、妖精達をくすくす笑わせた。
そうしてエーダリアが不思議で優しい生き物に出会えたことが嬉しくてならないようで、ディートリンデは何度も目を輝かせて頷いていた。
彼の古くからの友人のハザーナも、大切な愛し子の話が聞けて良かったですねとディートリンデに微笑みかける。
やがて会話はネア達のことに及び、このようなところだから詳細は省くものの、ダーダムウェルのあわいに引き落とされた話も話題に上がった。
巡礼者が悪さをしたこと、ネアが物語のあわいに落とされたこと、ウィリアムが危険に晒されたことなどが会話の中で詳らかにされてゆき、ラエタの巡礼者に一度遭遇したことがあるというディートリンデは、深い深い息を吐いた。
「…………そうか、そのようなことがあったのだな。俺もあの者達の狡猾さを知る身として、事件の悍ましさを想像することまでは出来る。……………とは言え親しい者を失いかけたのだ。俺が安易に、無事で良かったと言える程に簡単なものではないだろう。だが、こうして元気な姿を見れて安心した」
「終焉の君が、無茶をされるところは変わらないのですねぇ。こんなに可愛らしい御嬢さんがいるのですから、少しは控えていただきませんと。今年の冬は、是非皆さんと一緒に、ウィームの森のダイヤモンドダストを見に来て下さいな。私達の系譜には、奇跡や恩寵を司る祝福がありますので、その日はたくさんの祝福を篭めさせていただきますから」
「すまない、ハザーナ。その通りだな。……………ああ、今年の冬は、皆でダイヤモンドダストを見に行くよ。ネア、付き合ってくれるか?」
「ふふ、では、ディノやエーダリア様達も誘ってみんなで行きましょうね!」
「まぁ、それは張り切りませんと。この冬の楽しみが出来てしまったわ」
嬉しそうに微笑んだハザーナが、藍色にダイヤモンドダストのような銀色の光が散らばる羽をぱたぱたさせると、ディートリンデも微笑んで頷いた。
この人達はきっと、大事なウィームの愛し子が来てくれることも嬉しいのだろうと思えば、ネアはこの会は絶対に実現させてみせるとふんすと胸を張った。
やはりこの二人とは離れ難く、ネア達はその後も四人で少しお喋りした。
やがて、二人の妖精に会いに来た粉雪の精霊にその場を譲り、ネアとウィリアムは、会場の中心に少し動く。
「まぁ、アンナさん」
「…………っ?!なんでまた、あんたがいるのよ?!」
「ああ、あの時の雪喰い鳥か………」
道中、ばったり再会した雪喰い鳥の少女にネアが声をかけると、淡い金髪に灰銀の瞳を持つ可憐な少女姿のアンナは、途端に不愉快そうに顔を歪めた。
しかし、ウィリアムが会話に参加した途端、ぴしりと固まりゆっくりとした動きのままで声の主を見上げ、そのままざあっと顔色を悪くする。
「し、終焉のまもの………………またいっしょにいる、終焉のまもの………………」
「ウィリアムさん、雪喰い鳥のアンナさんです。以前悪さをされましたが、ディノやアルテアさんが懲らしめてくれました。なお、秋になると、羽にべたべたするキノコが生えてくるんですよ」
「ああ、その話は聞いている。そう言えば、俺からの挨拶はまだだったかな……………」
「ウ、ウィームには近付いてないんだから!!」
その言葉が全ての免罪符になるかのように、アンナはそう言い残して素晴らしい早さで駆け去っていった。
同伴者の男性を掴んで走り去ってゆく檸檬色のドレス姿を見送り、ネアとウィリアムは顔を見合わせる。
「…………今年はまだ、美味しい鶏肉の話もしていないのに逃げてゆきました…………」
「……………ネア、まさかとは思うが雪喰い鳥は食べないようにな」
「ふふ、アンナさんは食べませんよ。何だか最近、可愛いと思うようになってました………………」
そんな賑やかなアンナとの一幕が去れば、ぱたぱたとこちらに走ってくる人影がある。
これまた賑やかな生き物が来てしまったなと、ネアは既に涙目の魔物を立ち止まって待つことにした。
優雅な立ち振る舞いの人々に驚かれつつこちらに駆け寄ってきた雲の魔物は、ネアにぶつかる前に、ウィリアムががしりと片腕で止めてくれる。
しかし、いつもはウィリアムを恐れているヨシュアは、何か他のことに気を取られていて、それが誰なのかすら分かっていないようだった。
宝石を飾ったターバンから溢れた銀灰色の髪が揺れ、雲の魔物は悲しげに顔を歪める。
「ネア!アルテアを叱るべきだと思うよ!」
「お久し振りです、ヨシュアさん。アルテアさんに苛められてしまったのですか?」
「変な人形を、無理矢理押しつけようとするんだ!僕は人形なんて…………………ほぇ、ウィリアムがいる……………」
そこで漸く、じたばたする自分を押さえているウィリアムに気付いたものか、ヨシュアはさあっと青ざめる。
本当に気付かなかったのだなとネアがいっそ感心していれば、そろりとウィリアムの腕を外して一歩下がり、角度を変えてネアに近付こうとしてまた遮られた。
「ふぇ、…………ネア、ウィリアムが……………」
「ヨシュア、そんなに近付かなくても話は出来るだろう」
「……………だって、アルテアが無茶を言うんだ。アルテアが反省するべきだと思うよ」
「お人形さんを押し付けられそうになっただけではなくて、何か他にも要求されているのですか?」
「人形と引き換えに、煙管を一本寄越せって言うんだ…………」
「まぁ、悪徳商法です!いらないものを無理矢理買わされる必要はないので、断って構いませんよ」
「ネア!」
よくこの邪悪な人間に泣かされてしまう魔物だが、今日は助けてくれるぞと安心したのか、ヨシュアは涙をいっぱい溜めていた瞳を輝かせて笑顔になる。
そうして笑顔を浮かべれば、怜悧に整った美貌の持ち主でもあったのだとあらためて認識してしまうような、何とも美しい笑顔にネアは目を瞠った。
周囲で何事だろうとこちらを見ていた男女も、高階位の魔物の一人が浮かべた艶やかな微笑みに、思わず口元を押さえてしまっている。
魔物は本来、その精神圧で階位の低い者達を魅了することも容易い生き物なのだ。
「じゃあ、アルテアは首を落すといいよ」
「なぜにそんな物騒な叱り方なのだ。せいぜいちびふわ…」
「おいやめろ。そもそも、そいつが欲しがったんだぞ?」
「ぎゃあ!アルテアがいる!!」
「ヨシュア、ネアに触らないようにと言った筈なのに、聞こえなかったのか?」
「ふ、ふぇぇ、ウィリアムもいる………………」
「………………そうして怯えてしまった結果、ヨシュアさんが私の背中の後ろに隠れているので、まずはウィリアムさんもアルテアさんも落ち着いて下さいね」
ネアはこのままだと大変な騒ぎになるであろうと、かくも賢き頭脳で分析し、きりりとそう提言した。
詐欺まがいの押し売りはやめさせなければいけないし、ヨシュアが近付いたぐらいで剣を取り出しそうな魔物にも少し我慢して貰うより他にない。
何しろここは、楽しみにしていた冬告げの舞踏会なのだ。
「ふぇぇ。ネア、アルテアはどうやって排除するんだい?」
「排除はせずに、押し売りを思い留めさせるくらいでしょうか」
「人形が気に入ったと話したのは、お前からだろうが」
呆れたような冷ややかさでそう言ったアルテアは、同伴者たる人形を連れて来てはいる。
その辺に投げ出してこなかっただけましではあるが、どうやらこの人形をヨシュアに押し付けようとしているらしい。
「捨てるって言うから、捨てるなら僕は気に入ったと話しただけだよ。か、買わない………」
「と言うことなので、こちらのヨシュアさんへの押し売りはいけません。悪さをしたらちびふわの刑ですよ!」
「お前な……………」
かつて自分の買えるものが酷く限られていたネアとしては、欲しくもないものの為に対価を支払うのは断固許すまじの姿勢である。
厳しくそう宣言すると、アルテアはまた呆れたような顔をしたが、ひらりと片手を振った。
「ったく、妙な懐かせ方をしやがって」
「むぐ。なぜにおでこをぴしりとやったのだ…………。ウィリアムさん………」
「ああ、叱っておく。………アルテア、俺の同伴者に悪さをしないで下さいね」
「お前の?」
「俺の同伴者ですよ。アルテアは、ええと……………彼女がいますよね?」
「おい、お前、完全にわざとだな?」
ウィリアムとアルテアが向かい合ったところで、ネアは今の内に逃げるのだと、ヨシュアに無言で促した。
涙目でネアにへばりついていた魔物は、こくりと頷いて、思っていたより素早くしゃっと逃げて行く。
それに気付いたアルテアはもう、ヨシュアのことは諦めたのか、目で追うこともしなかった。
(とは言え、そろそろダンスが始まるから、それまでに離れていないと、このお人形さんと踊ることになってしまうのかしら?)
ネアはウィリアムと何か話している使い魔の横顔を見上げ、それはそれで不憫であると眉を下げる。
「アルテアさん、私がその辺りのお嬢さんに一曲踊ってくれるように頼んでみますね。私も踊ればせめて二曲は…」
「やめろ」
「むぐぅ…………」
「何度も言うが、その憐れむような顔もやめろ」
「むぐる…………」
アルテアに鼻を摘まれそうになり、ネアはさっとウィリアムの影に隠れた。
ウィリアムはそんなネアをふわりと片腕で抱き寄せてくれると、そろそろ踊ろうかと微笑んで振り返る。
「アルテアさんは…………」
「アルテアはこのままで大丈夫だ。彼も立派な大人だからな」
「…………ふぁい。アルテアさん、私もウィリアムさんもいるので、寂しく感じても一人ではないですからね?」
「やめろ」
「我慢出来なくなったら合図して下さい。お喋りしにゆきます。…………なにやつ」
ネアはそこで、アルテアの背後の会場の中心で踊る、謎生物が視界に入ってしまい呆然とした。
毛だらけで水色のふわふわとした塊のようなものが、もさもさと踊っているではないか。
楕円形の塊に毛皮を纏わせたような形状だが、ぴょこんとした獣の手足はあるようだ。
そして頭には可愛らしいピンク色のリボンをつけている。
ネアが呆然としている間にアルテアとは一時解散していたものか、気付けば、ウィリアムに手を取られてダンスの輪の方に歩いていた。
それはつまり、謎の生物に近くなるということなので、ネアはますます目を丸くする。
「ネア?………ああ、雪転がりの精霊だな。普段は獰猛だが、一緒にいるレインカルの王子がいると大人しい」
「……………レインカルの王子?」
思いがけない名称に、ネアはぎぎぎっと首を持ち上げてウィリアムの顔を見上げた。
白金色の瞳を細めて笑うと、ウィリアムはそっと唇をネアの耳元に寄せる。
「ああ。レインカルは、女性の方が獰猛で、男性だけがごく稀に人型になる。人型になれる高位のレインカルは、優しくて有名なんだ」
「まぁ、…………レインカルも奥深い生き物でした」
ネアは目を丸くしたままこくりと頷き、謎生物と踊っている一人の青年を見つめる。
くしゃりとした灰色の髪に、灰色の瞳をした美しい青年だ。
微かに下がり気味の目元が優しく、ネアは、二人は随分と仲良しそうだなとほっこりする。
(若干、謎生物の方が大きくて大変そうだけれど、仲良しなんだろうな…………)
ウィリアムに尋ねてみたところ、レインカルの女性は人型になれず、また、すぐに荒れ狂うのでこのような会場には来ないのだと教えてくれた。
その説明を聞いて遠い目になりながら、ネアは、魔物達に似ていると言われるレインカルの女性を一度見ておくべきかの心の葛藤に苛まれた。
「さて、」
そう微笑む声に視線を持ち上げる。
こちらを見た白金の瞳の艶やかさに、頭の上に乗った見慣れない王冠の装い。
その全てがどこか凄艶で美しく、ちかりと光った花蕾のような水晶の王冠につけられた宝石が、この冬告げの会場を囲む御伽の森の美しさをいっそうに引き立てた。
ネアの手を取り腰に手を当ててくれると、ウィリアムは、酷く穏やかな目で微笑んだ。
その唇がさようならと告げてから、まだひと月も経っていない。
でも今は無事でいてくれて、こんな風に去年と同じように冬告げの舞踏会に来ている。
そんな全てが嬉しくて、ネアもほわりと笑顔になってしまう。
「………………踊ろうか」
「はい」
音楽が始まった。
(……………わ、雪が………………!)
踊り始めた途端、王族相当のウィリアムのダンスに周囲がふっと息を詰めて見守るのが分った。
ゆったりと踏み出すステップの中で、会場に降る儚い雪があちこちでしゅわりと光って消える様がいっそうに艶やかになる。
スノードームの中のような不思議な彩りで、飾り木めいた木々の煌めきが尾を引き、ウィリアムの素晴らしいケープが翻る。
そのケープの裏地のはっとするような青い色に目を奪われ、穏やかな喜びに目を細めたウィリアムの表情にまた魅せられる。
すぐに傷付いてしまう人だから、いつもこんな風に微笑んでいて欲しいなと思えば、ノアがとろふわ竜の術符を隠し持っていることを告白するのは躊躇われた。
竜にされてしまったウィリアムは大事にされるしかないので、一度くらい、不本意であってもそのような姿でのんびり過ごして貰うのもいいかもしれない。
ばさりとドレスの裾が揺れる。
裾の前の部分が持ち上がって内側のフリルを覗かせる作りになっているので、その部分がもさもさと動くと、気付いていなかった工夫があるものか、淡い菫色と澄明な水色の布地がダイヤモンドダストのように細やかに光った。
薔薇を模したボリュームがある部分なのだが動き難いということはなく、見た目の華やかさ以上にずっと軽やかに動けるのも嬉しい。
くるりと回して貰えば、ヴェールがふわりと広がる。
手だけを預けて回して貰うこのターンと、一緒に回るふわっとターン。
昨年驚いてしまったウィリアムのダンスの巧みさは相変わらずで、ネアがここですてんと転んでしまってもびくともしないような安定感があった。
(……………楽しい!)
上手く説明出来ないが、ディノやアルテアとのダンスは、どれだけ素晴らしくてもやはりダンスというものに尽きる中、ウィリアムのダンスは、どこか回転木馬のようなものだった。
どっしりと全てを預けて楽しく回して運んで貰うような、独特の不思議なステップを踏む。
それでいて細部の所作が優雅なので、決して力技の荒々しいダンスには見えないのが素晴らしい。
途中、こちらをなぜか驚愕の目で見ているアルテアを見付けたので、大丈夫一人じゃないと微笑みかけておいた。
(あ、…………ロサさんがいる。…………一緒に居る方はだれかしら。ジョーイさんなら、ほこりのこともあるし、お話ししてみたいな。……………ジゼルさんと、ふわふわ狐さん。………………ニエークさんかな………………)
またくるりと回り、ネアは唇の端を持ち上げた。
ふわっとターンでは嬉しくなって目を輝かせれば、ウィリアムが小さく笑う。
はらはらと舞い散る雪の中、こんなに美しい冬の舞踏会会場で、おまけに周囲にいる人々は一人ずつ片っ端から写真に収めて一冊のアルバムにしてしまいたいくらい美しいのだ。
胸がいっぱいになるしかない時間ではないか。
ふと、こちらを見ている素晴らしい薔薇色のドレスの女性がいたような気がしたが、なぜかその時だけウィリアムのターンが早く、さっと見えなくなってしまう。
(誰だったのかしら。物語のような赤い薔薇の………………、む、もしや……………)
案外ウィリアムの元恋人だったロクサーヌかもしれず、ネアはターンが早かったのはそれでかなと考え、そちらには特に注視しないようにした。
触れてもいい過去の恋もあるのだが、この案件は開封禁止という感じがびしばしするのだ。
そのまま二人は三曲踊り、探していたシェダーの姿を見付けて一度中断する。
かつての犠牲の魔物は多くの人々に囲まれていたそうだが、そんな先代の犠牲の魔物が狂乱して滅びたことと合わせ、今代の彼は残忍な部分もあると囁かれており、だからなのか、人垣を乗り越える程には近づきがたくない。
シェダーも気付いてくれたのか、こちらを見ると夢見るような灰色の瞳をふっと和ませた。
挨拶をして加わっていた会話の輪から離れ、シェダーはこちらに来てくれた。
「……………ウィリアム、ネア。ここで会えて良かった」
「シェダー、…………この前は心配をかけた」
「まったくだ。…………だが、その一端は俺にも責任があるし、俺も、君が困った状況に置かれていると分ってからもあわいに下りる余裕がなく、シルハーンに行かせてしまった。…………ネア、君のお蔭でみんなが無事に帰って来られたのだろう。有難う」
最後の一言には万感の思いが滲み、ネアは微笑んで頷いた。
ディノもその全てを話してくれた訳ではないのだが、ウィリアムを失わない為に無茶をしようとしていたのは知っている。
であれば彼は、どれだけの葛藤や不安に直面したのだろうか。
「いいえ、私自身もウィリアムさんがいなければ危なかったのです。きっと、みんなが誰かの橋の役割を果たし、全員で手を繋いで戻って来られたからこそ、こうして無事に素敵な舞踏会でダンスが踊れているのかもしれませんね」
「そう言って貰えると、少し救われる。この前の天秤の問題もあったし、色々と手が回らなくて不安にさせてしまったな」
「ふふ、天秤の魔物さんについては、シェダーさんが来てくれたお蔭でほっとしたのだと、ディノが話してくれました。来てくれて嬉しかったみたいですよ。………その後、ディノとお話し出来ましたか?」
「…………ああ。……………………!………………ああ」
微笑んで頷きかけて、シェダーは灰色の瞳をふっと揺らした。
ネアが何を言いたかったのかを察したものか、深々と頷き小さく微笑みを深める。
蝕の時の話でもなく、天秤の魔物の話でもなく、それは彼の心の在り様に纏わる話。
ネアにとっては、その疑惑に気付いてしまってからずっと、訝しみ案じていた問題であっただけに、シェダーがディノと会話を持てたようでほっとした。
(多分、言わない理由や、公に出来ない事情はあるのだと思う。でも、気付き合うということで救われる部分はきっとある筈だから…………)
「天秤の魔物については、ノアベルトのかけた誓約も助かった。もう二度とウィームに近付くことはないだろうが、何かあったら声をかけてくれ」
「そう言えば、エドワードとも会った話は聞いているか?」
「……………いや。………だが、エドワードか。彼の持つ固有魔術は意外に汎用性が高いから、決して齎すのは不利益ばかりではない男なのだが、如何せん気質が独特だからな…………」
苦笑してそう言ったシェダーに、ネアは、あらためて額縁の魔物について考えさせられた。
そう言えば彼は、封印などに長けた魔物であるらしい。
そんなことを考えた上で今のシェダーの言葉を考えれば、飛び抜けて器用だと言われる犠牲の魔物を以ってしても、彼にしか出来ないと思わせることもきっとあるのだろう。
(もしかして、暗にそういうところもあるから、邪険にしなくていいよと教えてくれたのかしら?)
そう考えたネアはここで、少し離れたところに立つ、以前に見かけた女性とは違うシェダーの同伴者に気付いたが、微笑んで会釈をされただけでこちらには近付いてこようとはしなかった。
感じの良さそうな優しい目をした栗色の髪の女性で、事情さえ許せば是非にお友達になりたかったが、やはりシェダーに関係する問題は慎重になるべきだろう。
困らせてもいけないので我が儘は言えず、ネアは出来る限り最大限に感じよく会釈を返し、いつかのご縁を期待しておくことにする。
(もしあのお嬢さんがシェダーさんのお嫁さんになれば……………む?)
その時、ふっと視界が翳った。
ネアはおやっと眉を顰めて顔を上げ、そこに立っている奇妙な生き物の姿に慄く。
どうやら、この冬告げの舞踏会で遭遇する謎生物は、雪転がりの精霊だけではなかったようだ。
ずももっとこちらを見下ろしているのは、見たことのない赤みがかった灰色の獣だ。
若干後ろ足で立ち上がった熊にも似ているのだが、鼻づらが長く犬っぽい顔つきなのと、長い爪の見える手足の様子は竜にも似ている。
そしてそんな獣はなぜか、はぁはぁと鼻息も荒くネアを凝視しているではないか。
ウィリアムは、シェダーと男同士のお喋りに興じているようだったので、こちらの様子にはまだ気付いていないようだ。
巧妙にもその獣が近寄って落ちる影は、現状ネアだけにかかっており、ウィリアム達はこの接近に気付き難い仕組みである。
「………………ウィリアムさん、何者かが……………ぎゃ!!」
声をひそめた深刻そうなお喋り中ではあるが、これは何だか不穏な予感がする。
そう思ったネアがおずおずと謎生物の大接近をウィリアムに訴えようとしたその時、突如としてその生き物が、がばりとネアを抱きすくめた。
「ネア?!」
「ネア!」
突然の捕獲に怒り狂った人間はじたばたし、すぐさま気付いたウィリアムがその獣の腕の中から助け出してくれる。
シェダーもすかさずネアと獣の間に割って入ってくれたのだが、なぜか、そのまま目を瞠って固まってしまった。
驚いていると気付き、ネアは目を瞬いた。
しかも、驚いているだけではなく、困惑しているようだ。
「シェダーさん……………?」
「……………もしかして、冬宿り……………なのか?」
「おっと、だとすれば、随分と珍しいものが出て来たな……………」
何か怖いものだろうかと不安になったネアに、ウィリアムはそうではないのだと首を振ってくれる。
しかしながらどのような生き物なのかを説明するのは難しいようで、困ったように首を捻っていた。
「この出現の仕方は、悪くない筈なんだが…………」
「現状の認識は変質者でしかありませんが、怖くはないものですか?」
「うーん、…………畏敬の念を抱かせるような振る舞いをする場面もあるが、………今回は違うような気がするな」
「……………ウィリアム、俺達だけでは分が悪いな。冬の系譜の上位の者達が近くにいないか?」
「いや、近くには誰もいないようだ。………確か、吉兆を吉兆のまま維持するにはもてなして酒を飲ませるか、……………花嫁を娶らせるかだった記憶なんだが、…………まさかとは思うが、ネアのことが気に入ったんじゃないだろうな……………?」
「まさかも何も、相当気に入ってるようにしか見えないな。…………先程まで一緒にいたディートリンデ達は?」
「…………………ここから見える位置には、……………ネビア、少し頼まれてくれないか」
怖いものではないと言いながらも困惑しきった様子で、ウィリアムは近くにいたロサに声をかけ、ディートリンデ達を呼びに行って貰ったようだ。
その間も謎生物は目を煌めかせ、おやつを持ったご主人様を見るような憧れの眼差しで、熱心にネアを目で追っている。
しかし、場合によっては殲滅の必要があるのかなと武器を取り出そうとしたところ、慌てたウィリアムにもの凄い勢いで制止された。
「ネア、いいか排除は絶対に駄目だ。下手をすると、冬が枯れ落ちてしまうからな」
「なぬ。…………滅ぼせないとなれば、この…………謎生物は、どうやって追い返せばいいのですか?」
「扱い方を間違えると祟るが、冬の最上位の吉兆でもあるんだ。冬の系譜の最高の祝福を持つ者の前にしか現れない筈なんだが、…………うーん、困ったな………………」
(最上位の吉兆……………)
そう言われて耳を澄ませば確かに、周囲のざわめきはどこか、喜びに満ちていないだろうか。
無責任に縁起のいい生き物に出会えたという感じなのかもしれないが、いきなり抱きつかれたネアからすれば、早くお帰りいただきたい困った生き物である。
どうか、吉兆だけ置いて帰らないかなと思って渋面になっていると、その生き物は小首を傾げた後に、しゅぽんと美味しそうな焼き菓子を取り出し、ネアに差し出してくれた。
「おかし…………」
ネアと謎生物の間に入ってくれているウィリアムとシェダーは、運悪くちょうど、離れた場所からジェスチャーで何らかのメッセージを送ってきている誰かと意志疎通中である。
どうやらそちらは、少し時間を稼いで欲しいという合図を二人に送っているようだ。
そんな様子を確認し、ネアはもう一度お菓子に視線を戻す。
優しい狐色に焼き上がったパウンドケーキのようなもので、たっぷりとドライフルーツが乗って小粋に粉砂糖まではらりと振りかけてある。
もしかしたら何個か見える白っぽいものはチーズかもしれず、甘いとしょっぱいの贅沢なハーモニーであれば、お店で売っていたら一目惚れ買いのお菓子であると言わざるを得ない。
紳士的に直には触れずに、華奢で品のいい白いお皿に乗せてきたのも評価に値する。
じゅるりと喉を鳴らしたネアに、謎生物はこくりと頷いた。
「むむむ、良く出来た生き物ですね。献上品とあれば…」
「馬鹿かお前は!」
貢物であれば受け取るのも吝かではないと前に進み出たネアだったが、すかさず後ろから歩み寄った誰かにぐいっと引き戻されてしまった。
素敵な焼き菓子が遠ざかり、ネアは悲しい声を上げる。
「ウィリアム、こいつから目を離すなと言っただろうが」
「………すみません、ニエークやディートリンデ達の方を見てました。……………ネア?」
「ふぎゅ、……………あの焼き菓子は、完璧な理想の焼き菓子だったのです…………」
「ああいうものが欲しいなら、帰ったら作ってやる。絶対に手を出すなよ?」
「むぐ。それなら我慢します。しかし、美味しいお菓子の素晴らしさが分る方に、悪い人はいません。どうかあの方を傷付けないで差し上げて下さいね」
「……………お前な、危機感がないにも程があるぞ。求婚されていたのが分ってるのか?」
「む?」
その時、こてんと首を傾げたネアの脇を駆け抜けるようにして、大きな壺のようなものを抱えたディートリンデとニエーク、そして肩にふわふわの子狐を乗せ、料理の大皿を持ったジゼルが集まり、素早く獣の周囲を取り囲んだ。
ネアに差し出した焼き菓子を持ったまま不思議そうに首を傾げた謎生物は、ふいに鼻をくんくんさせるとさっとお菓子をしまい、びょいんと喜びに跳ね上がる。
「……………よし、歓迎の酒が間に合ったな……………」
「…………完全に心を弄ばれました。何だったのだ…………」
「うーん、花嫁と酒盛りなら、酒が優先されるのか……………」
「こちらは、花嫁を差し出す訳にはいかないからな。これで一安心だ。…………ウィリアム、念の為にネアが触れられたところを調べてやった方がいい」
そう苦笑して言ったシェダーに、ウィリアムも頷き、お前はいつもどうしてこう事故るんだと大仰に溜め息を吐いたアルテアと三人で、何やらとてもやり遂げた感を出してきている。
だが、突然おかしな生き物に抱き付かれた上にお菓子も貰えなかったネアは、静かな怒りを示すべく、無言でがすがすと床石を踏み荒らして周囲の者達を慄かせたのだった。