雨音の記憶と欠け残りの慟哭
その日は雨の日であったと、彼は言う。
そうして、蝕が始まる日でもあったのだと。
『ふと思い出したんだ。あの日は、午後から蝕が始まるから注意するようにと言われていたんだ。急いで帰ろうとして、…………だが、酷い雨で馬車が思うように走らなかった。………そうして、その男は死んだんだ』
カードに書かれた文字は少しだけ躊躇もあったものか、途中から筆圧が変わったような跡が見受けられた。
その日、彼を躊躇わせたのは、語ることで引き摺られかねないその過去の重さで、その筆圧の変化は、彼が一度立ち止まった証跡だろうか。
もしくは、その事情までを自分が認識しているのだということを、ヴェンツェルに伝えていいのかどうか悩んだからなのだろうか。
けれども、彼が様々な躊躇いを飲み込み届けてくれた忠告は、かつてこの世界の前にあったというその世界で、万象の伴侶は蝕の日に命を落としたということ。
蝕の日というものは、それだけ世界が揺らぐのだということだ。
『だが、参考にはならないかもしれないな。彼は、…………今代の万象の伴侶のようには頑強ではなかった。脆弱な要素を多く持つ不安定な魂の持ち主だった………』
『その要素は、今代の伴侶とはまるで違う条件となると?』
『元は死人だ。その魂を万象が繋いで生き返らせた。…………俺は、死者から生まれた人間なんだ』
その日、彼がどれだけの覚悟でその忠告を伝えてくれたものか。
だからヴェンツェルは、統括の魔物には、先代の万象の伴侶は蝕で命を落としたという伝承がカルウィの方にあるらしいと伝え、彼の忠告を無駄にはしないようにした。
そのままに伝えてしまえば、きっとニケは無事では済まないと、そう考えたのだ。
「だが、それを万象の魔物本人に知られるとは思わなかったぞ……………」
頭を押さえてそう言えば、髪を覆っていた布を外しながら友人は苦笑した。
「俺もだ。知られているとは思わなかった。…………よく考えたら、俺の前の誰かも俺も、今代の万象は彼女ではないと知って興味を失ったくせに、万象が知れば自分を放ってはおかないだろうと考えるのは、ひどく高慢な考えだったな……………」
「無事に済んだからいいものの、お前は人ならざるものに対する、危険意識が足りなさ過ぎるぞ。そのようなものを交渉の道具にすること自体、不敬だという意識はないのか…………」
どさりと椅子に座りながら、溜め息交じりの声でそう呟くと、ニケは小さく声を上げて笑った。
ヴェンツェルは、おかしな座り方をしたからか巻き込まれたローブを足の下から引っ張り出し、もう一度溜め息を吐く。
「意外だな。お前の口から不敬という言葉が聞けるとは思わなかった。鹿角の聖女嫌いのヴェンツェルが、不敬ときたか…………!」
「そちらへの嫌悪感は、主にガーウィンと先代の国の歌乞いのせいだな。魔物の方は魔物らしい身勝手さでもあるが、救えないものまで救わんとして綺麗事を並べ、多くの者達が血の滲むような思いで整えた国を踏み荒す女達ではないか……………」
「ふむ。お前の女性不信の一端は、聖女様という訳か…………」
「言えた立場か?お前も俺も、不実で獰猛な女達からすれば、いい獲物にしか見えないのだろうよ」
「はは、違いない。ぞっとする話だが、友には恵まれたのだから、伴侶くらい我慢するさ」
向かいの椅子に座り、そう笑ったニケはまるで堪えた様子はなかった。
けれどもそう見るのは恐らく彼を知らない者達だけで、ヴェンツェルは、彼が少しだけ怯えているように見えた。
「…………私から、弟を通してあの魔物には話をしておく」
「…………いや、そちらは問題ない。と言うよりも、お前に伝えておいたところまでは、問題はないんだ。当人が価値のない情報だと思っていることでは、怒りなど買うまいさ。だがやはり、婚前祓いで道をつけたのはまずかったな……………」
その言葉に思うところがあったものか、それまで黙っていたのに口を挟んだのは、一緒に来ていた契約の竜であった。
「その通りだ。人間がどのように考えるのかは想像するしかないが、特に魔物は、自分の伴侶を損なわれれば狂乱しかねない生き物だ。どれだけ万象の魔物が彼女を愛しているか、それを人間と彼らの心の動かし方の違いと共に、もう一度よく考えた方がいい。…………例え君でも、契約の子供にそのようなことをされたら、俺はじっとはしていられないだろう。赦されたことの方が驚きなくらいだ」
いつもとは違う硬い口調に、ニケは表情を引き締めると、しっかりとドリーにも謝罪をした。
今回のことは、下手をすればこちらも万象の怒りに触れたかもしれない一幕ではあったのだ。
どんな魔術の叡智が高位の魔物達の手にあり、どこから心の中にしまい込んだ真実を引きずり出されるのかは、誰にも分からない。
「…………なぜ、わざわざこんなことをしたのだ。お前ならば、他にもやり方はあったのではないか?それとも、それ程にカルウィの状況は悪いのか?」
その言葉に青い瞳を細め、ニケは思案に耽るような仕草をしてみせた。
例え頭の中で違うことを考えてはいても、そうして仮初めの表情を作るのが話術に長けた魔術師の特徴だ。
残念ながら弟のエーダリアは、詐欺師まがいの交渉力を持つ魔術師ではなく、工房に篭って魔術書の研究に明け暮れる方の魔術師の気質である。
だからこそ、心を許すのかもしれなかったが。
「残念ながら国の状況は悪いな。だが、近しい内に兄の一人を適当に階位上げさせて、一度第四席にまで俺の評価を下げるつもりだ。まだ王は健在であるし、今の段階で継承争いに巻き込まれても良いことがない。暗殺や呪殺も厄介だが、それについては契約したリフェールが喜んで魔術師達を喰ってくれている。…………年明けまでにはどうにかなるだろう」
「……………であればなぜだ。あらためて問うぞ」
「…………俺は、塩の魔物や統括の魔物に、彼らへの不用意な接触を禁じられていたからな。その上で彼等に道を繋げるには、婚前祓いの呪いの振替でしかなかった」
それは方法論だ。
ヴェンツェルが聞きたいのは、理由であったし、恐らくニケもそれを理解している。
理解した上で話を逸らされたのかと思えば、微かな落胆があった。
彼は友だ。
それは互いが敵同士になり、殺し合うその日まで変わりはしないだろう。
だがやはりどこかで、こんな些細な秘密から道が離れて行くのだろうかと、そんな事を考えていた。
そんなヴェンツェルの手を、ニケはばしりと叩く。
無言で見上げると、呆れたような顔をされた。
「…………誤解するなよ、ヴェンツェル。隠したい訳ではないのだが、説明が難しい。………実はな、俺の前歴となる男は、かつてあの少女に出会ったことがあるんだ………」
「…………ネアのことか?」
「ああ。彼女は迷い子だろう?」
「……………同じ時代に同じ土地にいたのか」
唖然としてそう呟くと、微かにニケは苦笑した。
その微笑みにはどこか遠くを見るような見知らぬ誰かの翳りがあって、ヴェンツェルはそんな目をする彼はあまり好きではない。
彼は彼であるべきなのだ。
それが、公平というものだろう。
「…………まぁ、そんなものだ。その男はその時に、彼女に惹かれた。惹かれたことで自ら破滅したのだが、その時と同じように彼女が、…………息の詰まるような狭い世界の中で、冴え冴えと輝くナイフであるかどうか、それを知りたかったのかもしれない」
「……………まさか、もう終わらせたいとなどと言うなよ?」
「いや、そうではないさ。それは俺自身の感傷ではないからな。だが、…………さすがに今回の花嫁騒動は少し堪えた。………だから、………そこに変わらずに静謐な刃があるかどうか、それをただ、見たいと思ったらしい。…………俺にも自身のその衝動はよく分からないし、だからあの少女に惹かれるということはないが、ただ、知りたかったんだ」
何か言葉を返そうとしたところで、隣のドリーに遮られた。
気付けば、金色の瞳を眇め見たこともないような険しい顔をしている。
「…………それを、万象の魔物は知っているのか?」
「ああ。この件でヴェンツェルを巻き込むつもりはない。あの魔物はそのことも知っていた」
「魔物らしくない判断だ。本当に彼は、君を許したのか?」
ドリーの追求は鋭かったが、ニケは理由があるのだと首を振る。
「かつて、万象の魔物に会いに行った前歴の男がいた。その男の記憶を覗き込み、万象の魔物は、彼女を見付けたのかもしれない。はっきりとではないが、そう取れることを口にしていた。………その邂逅から得るべき者を得られたからこそ、俺を赦していたのだと」
「……………であればいいが。…………ネアはその事を知っているのか?」
「さて、…………あの瞳はやはり読み取り難いな。知っていて俺を脅したものか、ただ、伴侶となる魔物に影響の出かねないやり方で近付いたことで、腹を立てたのか。………どちらにせよ、俺がそういうものであることは、この先永劫に彼女に伝えることはないだろう。さすがにそればかりは、万象も許すまい」
「であればなぜ、それをヴェンツェルに伝えたんだ。知るということはその言葉に縁を繋ぐ。万象が真実を知る者を葬ろうとした時には、ヴェンツェルも対象になりかねないだろう」
びりりと、空気が揺れた。
ドリーは一度も声を荒げはしなかったが、それでも空気は震え、部屋は微かに火の気配を孕みちりりと肌がざらつく。
「これから話すことに、必要な事実だからだ。…………すまない、ドリー。………ヴェンツェルも、確かにこの事実を共有されるのは、厄介なばかりだろう。だが、これから先にいつか、こんな過去が足を掬われるような亀裂になるのなら、それを知っていて欲しかった」
「……………ニケ。お前は、その記憶がいつか自分を損なうと考えているのか?」
「俺ではなく、今代の万象とあの少女の方だ」
「ネア達の……………?」
予期せぬ答えに首を傾げると、ニケはまた遠く淡い微笑みを浮かべる。
ひらりと振られた片手には、うんざりとしたような暗い感情が透けて見えた。
「運命めに、俺の存在を足枷にされては堪らないからな。万が一、あちらがおかしな拗れ方をして、そこに俺の前歴の要素が絡んでいたら知らせて欲しいんだ。…………そうなると、誰かウィームにもこの話をする者が必要になるだろうが…………」
「運命…………?」
それはとても奇妙な表現で、眉を寄せる。
そして、ひどく不穏な響きに背筋が寒くなった。
「何という表現であるべきかを俺は知らないが、世界はかくあるべきという歪んだ浄化作用のようなものだ。………それは、かつて万象の魔物の伴侶だった男を殺したかもしれないし、鹿角の聖女の伴侶を殺したかもしれない。…………それが運命と言うものなのか、或いは因果か、はたまた、この世界に住む生き物達の意思のようなものか……………」
そう言ってから、ニケは置かれたグラスから酒を飲んだ。
からりと氷が鳴り、サナアークの夜に相応しい琥珀色の液体の中で泡が上がる。
本当はそちらに行くべきなのだが、さすがに今再びヴェルクレアに入るのはまずいと、ニケが言い、今夜の約束はこの屋敷になった。
かつて、アフタンを交えて三人で再会を果たした場所は、今夜は遠い過去の話が行き交う。
新月の夜で、砂漠はどこまでも暗い。
「…………この世界が始まった後で、俺の前歴の男は、かつての万象の伴侶を知る者と話をしたことがある。それは体を持たない精霊で、その女はこう言った。………万象や、その他の世界を司る者の伴侶は、世界の転換期に現れる。或いはそれは、その世界の終焉を成す為にそうなるのかもしれない」
「……………っ、」
「或いは、世界の見えざる力が、万象の伴侶はそれではないと、無意識に振るう拒絶の刃かもしれないと。…………まぁ、それで滅びていれば仕方ないが、そんなものがあるのなら、顛末までを見通した意思ではないのかもしれない。例えば、属性の合わない魔術の反発の反応のようなものだ」
「お前は、そうだったと思うのか…………?」
「前にも話したが、俺が最も多くのことを覚えているのが、万象の伴侶であった男の記憶だ。……………あの最期の日は、確かにおかしなことが重なった。…………そこでなぜ、あの守護は届かなかったのか。本来ならしない筈の選択をしたものの、なぜそうなったのか」
なぜその日、蝕が始まるというのに不安定な魂を持つその男は出かけたのか。
なぜその時に限って、彼に指輪を渡した魔物達は、共にいなかったのか。
馬車で出掛けるほどの距離であるし、蝕がなくても本来であれば許されないことであった。
そして実はその数日前に、彼等は一つの選択をしている。
「…………その男の魂の安定性を高める為に、万象の魔物は、伴侶契約の繋がりを深くした。なぜかその時だけ彼女が妙に焦ったんだ。それは、より安全なものをというもので、同時に彼女がその男の伴侶であることをより大勢に示す意味合いもあった。…………ああ、おかしくはない。………おかしくはないさ。…………とは言え、一度は定着した守護を書き換えることに、その男は微かな不安を覚えた。蝕が近いのに、今こんなことをして大丈夫だろうかと。…………だから、今の俺には、その時の記憶の欠片が残っている…………」
「それが、君の不安か」
「辻褄が合わない。それを齎したものに形がないというのは恐ろしい。そういうものだろう?」
遠い世界でのことに、ヴェンツェルは圧倒されてしまい、質問をしたのはドリーだったが、あまりにも遠く、そしてどこか不穏な予兆を孕む過去の重さに、息苦しそうにしているのはニケも同じだった。
ここで漸く、ヴェンツェルは友人の浮かべた恐れの原因に気付いた。
(そうか。そのような不安を抱くのは、この世界で一人だけ……………)
かつてのその最期を知る、彼が一人で抱えるかもしれない、世界の崩壊に向かう懸念。
ただの懸念だとしても、それを一人で抱えるのはどれだけの恐ろしさか。
「鹿角の聖女の時もそうだった」
ニケの前歴の一つは、かつて鹿角の聖女の取り巻きの一人であったらしい。
その時にもそのような不自然な選択があったのだと、彼は考えているようだ。
確かにその時、鹿角の聖女とその恋人は、信仰の一派と一部の魔物や、系譜の妖精達から追い詰められてはいた。
鹿角の聖女には他に伴侶に相応しいと言われていた魔物がいたそうで、彼等がその男を推したことには、勿論意味がある。
「人間を伴侶にする以上、よほど上手くやらないと、やがてその魔物は崩壊する。どう足掻いても、人間の伴侶は魔物より早く死ぬし、それを恐れ続けて共にあるからこそ、伴侶を喪った魔物の絶望は深くなる。………ただ、それを免れた者を知っているが、その魔物が生き延びた理由を見ていると、ネア達は上手くやっているとは思うんだが……………」
ドリーは、雲の魔物を例えにしているらしい。
その雲の魔物の崩壊を留めるに至った一族の者を、ヴェンツェルも知っていた。
三男のオズヴァルトが、その人ならざる一族の者と縁を持ったと聞いたのは少し前のことだ。
危険はないのかと尋ねたヴェンツェルに、霧雨の一族は雲の魔物の庇護を受けており、また恋人であるシーは特に雲の魔物と仲の良い者なのだとオズヴァルトは答えた。
継承権を放棄しても、彼には王家の血が流れている。
もしその血を誰かに悪用されたら、ひどく厄介なことになるだろう。
薄情なことではあるが、あまり交友のなかった弟を案じるというよりも、ヴェンツェルはその可能性を恐れたのだ。
(雲の魔物の崩壊や狂乱を鎮めたのは、彼の友人達であったという…………)
それを思えば確かに、今のネア達の周囲には多くの者達が集まっていた。
例えばアルテアやあの塩の魔物は、ネアがこの世を去っても、万象の魔物の側に留まるだろう。
だがそうだとしても、あの魔物は、伴侶を失ってもなお、この世界に留まりたいと思うだろうか。
それはその時にならないと分からないが、想像するだけで恐ろしく、なぜか胸が痛くなるような不愉快さを伴った。
この立場にあるのだから、別離の絶望などいくらでも見てきた筈なのに。
(それなのに胸が痛むのは、私にとっても、決して他人事ではないからだ…………)
「その不自然さが、お前の懸念なのだな」
「…………ああ。だから俺は、その転覆の穴とはなりたくない。今回の蝕は問題なく過ぎたようだがな。…………今、どういう経緯で既に伴侶の繋ぎを得ているのかくらい想像出来なくもないが、これからまた、あの二人はあらためて魔術の繋ぎを深めるのだろう?…………俺が接触したのは、何か、既に違和感として現れている予兆がないかを確かめたかったということもある」
「……………だがなぁ、だとすれば、お前の接触の方がまずいのではないか?」
「こちらも気付かぬようなところで毒にされるくらいなら、正面から対面してしまった方が良い。そうすれば、彼等が俺を警戒し、疎ましく思えばその対処もするだろう」
そう言ってまたグラスを傾けたニケに、ヴェンツェルは目を瞠る。
彼が語ってくれたことへの驚きや恐れと、同時に微かな苛立ちや呆れがある。
「……………馬鹿者め。お前は、自身すら不安定な時だと言うのに、そんなことにまで向き合おうとしていたのか…………」
「…………さてな。今回は俺なりの贖罪かもしれん。…………かつて、あの少女の家族を殺したのは俺の前歴だからな」
「……………それはお前が背負うべきことなのか?」
隣でそんな因縁まであるのかと頭を抱えてしまったドリーに、思わずそう言えば、ニケはまた一つ不思議な微笑みを浮かべた。
「背負わなくてもいいことだろう。だがなぜか、その問題については、俺も心が動く。…………リソ曰く、記憶から消えない程に深く読み込んだ物語であれば、自分自身の体験や心でなくともやはり心は動くだろうということだから、そんなものなのかもしれないな」
であれば友は、そこに変わらぬ刃を見て安堵したからこそ、彼等を案じるのだろうか。
かつて愛し、かつて自分の前歴にある男を滅ぼした女に、今も心のどこかを動かされるから。
そう思い、帰りの道中でそんな思いを吐露すれば、ドリーは微笑んで小さく首を振った。
「……………それは多分、彼の心に最も印象深く残った記憶の断片でしかないだろう。気付いていないのか、ヴェンツェル?……………ニケが最も心を揺らすのは、先代の万象の魔物に言及する時だ。…………ネアとのことが恋であれば、彼の中に幸福な日々を与えた愛の記憶として残るのはやはり、万象の伴侶であった時間なのだと思う」
「…………そうなのか」
その違いはまだよく分からなかったが、それはそれでまた、難儀なものではないかと思わざるを得ない。
万象の伴侶の記憶を抱えた心で、他の女を愛するのはなかなかに難しそうだ。
「ネアのことを語る彼を見ていると…………適切な表現ではないかもしれないが、………ネアはかつて、その人物にとっての救いだったのかもしれないと思う」
「自分を滅ぼすものが?」
「だからこそ、というものもある。だからニケは、ネアが自分に気付くかどうかよりも、彼女が変わらぬ刃であることを知って安堵したのだろう」
ふと気になって、そう呟いたドリーの横顔を眺めた。
もしかしたらドリーも、自死した兄の火竜の王のことを思えば、終わらせてくれる者がいるということが救いであるという考え方は、分るのかもしれない。
幼い頃に胸を痛めた火竜の王について考えると、ヴェンツェルにもその安堵が少し腑に落ちた。
確かにそれは、ニケの前歴の誰かが、伴侶であった万象に向けた思いとは違うだろう。
滅びであるからこそ惹かれ、その切っ先が鋭いからこそ救われる。
そんな思いはひどく複雑で、純粋に愛した誰かとはやはり階層が違う種の執着なのだ。
(絶望の中の刃だからこそ、焦がれたのかもしれないな…………)
それでも、なお考える。
遠い物語の記憶のような欠け残りの場面は、本の中の誰かに恋をしたような甘やかさは残るのだろうか。
その余韻は、大事な友人から彼らしさを損なうようなことはないだろうか。
考えざるを得ないその耳に、窓の向こうの雨音が届いた。
いつだったかニケは、晩秋の夜の雨音が好きなのだと話していたことを思い出す。
それは自身の前歴に紐付く要素ではあるが、でもそれもまた、自分自身のものでしかないのだと。
「……………私は、ニケが過去の要素に侵食されるのが嫌いだ。だが、その要素もまた、彼自身ではあるのだな」
「ああ。彼の従僕が話していた通り、それは読んだ本の知識や物語を吸収するようなものだと俺は思う。物語の中の女に恋をすることも、心を動かされた登場人物に思い入れを持つこともあるだろう。ヴェンツェルの身を危うくしないのであれば、俺は、それは普通のことだと思うぞ」
「普通、か…………」
「…………………今日、ニケの瞳を見ていて思った。人間は繊細なものなのだな。彼はきっと、もう二度と万象の慟哭を聞きたくはないのだろう。それは、胸が引き裂かれるような悲しい物語の頁を、もう二度と開きたくないというようなことなのだと思う…………」
「ああ、………………ああ、そうか」
漸く得心し、ヴェンツェルは頷いた。
生まれ直し、新しい人間になる度、ニケはその声を聞くのだと話していた。
今はもう、その苦しさに狂い、自ら命を絶つことはなくなったが、それでもあの万象の慟哭は胸を切り裂くのだと。
「…………ニケは、影の国で過去の世界の誰かの記憶に触れたと話していた。…………彼女は伴侶ではなかったが、もし彼女がまだ生きていたのなら、自分は彼女を愛したのだろうと言っていたのを覚えているか?あんな風に案じ、あんな風に喜び、愛してくれる生き物はいないと……………」
「であれば、彼は魔物を伴侶にするかもしれないな」
「………………魔物を?」
「カルウィでは、王族の異種族婚は禁じられていないのだろう?魔物はそのように愛するし、それは今でも変わらない。であれば、ニケの心を動かすのは、やはり魔物かもしれない。それは、かつてネアに恋をしていた一人の男が、万象の魔物を記憶から消せなくなるくらいに愛したように」
「……………ま、待て。ネアとの邂逅は、そんな前のことなのか?!であれば、ネアは一体どこから来た迷い子なのだ?!」
ぎょっとしてそう声を上げれば、ドリーは苦笑して気付いていなかったのかとまた憎たらしいことを言う。
「ニケは、万象の伴侶になった男は、とある者達を殺しその家族に復讐されて死んだのだと、以前にサナアークを訪れた時に話していただろう。自分を殺した女に心を奪われていたが、その心を万象に奪われた憐れな男だと。…………それがきっと、ネアなのだと思う」
「……………そうなると、少なくとも前の世界から呼び落とされているということなのか……………」
「だからネアは、身に宿す魔術があまりにも少なかったり、少し独特な考え方をするのかもしれない。或いは、その土地で育った人間こそが、唯一万象の心を得る何某かの要素があるのかもな………」
さも納得したようにそう微笑んで背中を叩いた契約の竜は、その日の夜の内に、ヴェンツェルが眠っている間にウィームに飛び、万象の魔物とあれこれ話をしたらしい。
そんなことを相談なしにしたのであれば腹立たしいことではあるが、ドリーは万象の魔物にニケの話をした上で、本当に彼の存在は問題がないのかを直接尋ねたと言う。
朝食の席でその話を聞いて、スプーンを取り落としそうになったヴェンツェルの視線にも動じず、言わないことで拗れるのが一番厄介だからと飄々と笑っている。
この竜もまた、こちらが何と言おうと、満足するまでは決して許さないような部分のある、頑固な男だ。
「ディノの答えはとても分り易かった。彼は、ネアの気質だからこそ、彼女がニケと向かい合って、彼はあまり好きではないと答え、自分を好きだと言ってくれたことが、何よりもの証だと考えているようだ。ネアならば、そういうものだったのならやはりそちらをとは言わないと話していて、俺もそうだろうなと納得した。…………それに彼女は、どんなものであれ、その一番上に据えた愛するべきものの為にであれば、その他を切り捨てることが出来る苛烈さがある。ネアが自分をニケから守ろうとしたことで、ネアにとってのその一番上のものが自分であるのだと、ようやく知れて安心出来たと、かなり嬉しそうだった」
「……………私にはお前ほどの納得はないが、確かにあの少女は迷わないだろう。………その決断に苦しみを伴いはしても、決めた者に殉じる頑固さはあるような気がする……………」
「俺達竜もそういうところがある。伴侶や主人を決めた妖精も、伴侶を得る魔物も。………途中で上空を通過したアルバンの山間には夜空に二重の虹がかかっていた。ディノは今、とても幸せそうだ」
そんなことを自分事のように嬉しそうに言うドリーの眼差しに、初めて自分のことを抱き上げた時の、不器用な大きな手の温度を思った。
きっとこの竜も、契約の子供を守る為であれば、それ以外を切り捨てその愛情に殉じる愚かで優しい生き物だ。
『あの慟哭を、俺はもう二度と聞きたくない………………。胸が潰れそうになるんだ…………』
いつかの遠い草原で、そう呟いたニケの震える声。
その時はまだ、そこが前の世界で、相手が万象の魔物だったとまでは語ってはくれなかった。
「ヴェンツェル……………?じっと俺を見ているが、勝手にウィームに行ったことが気に入らないのか?」
「…………………いや、私も、もう少し自分の足元に注意を払おうと考えていた。私のことで、お前に先代の万象のようなひどい思いをさせる訳にはいかないからな……………」
思わずそう言ってしまったヴェンツェルに、柔らかな金色の瞳を細めて契約の竜は嬉しそうに笑った。
夜には子供の頃のように寝かしつけにきたので、さすがにヴェンツェルも閉口せざるを得なかったのだった。