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336. 始まりの音は突然です(本編)



朝の内に降った雨は上がり、その日のウィームには霧が立ち込めていた。

ゆったりと青白く揺らぐ霧の中を歩けば、その霧に光の輪を広げる魔術の火や、森の木々の枝葉で煌めく結晶石の光の影に、人ならざる者達の姿がちらちらと過ぎる。



薄らと透ける妖精の羽や、ばさりと力強く羽ばたくのはどんな生き物だろう。


大きな翼を持つ人型の生き物であれば、雪喰い鳥に出会ってしまうと試練を課される可能性がある。

雪竜達は冬空を切り裂くように飛び交い、久し振りに堪能する美しいウィームの景色を楽しんでいた。

夜空に不思議な橇を見かけた場合は、トナカイの魔物がそこにいるのかもしれない。



しゃりしゃり、きらきらと、近くなったイブメリアの装飾が街のあちこちに見られ始めた。


大きなモミの木のような飾り木を立て、そこにこの不思議な世界らしい美しいオーナメントを飾るのだ。


深い霧の日には昼間から灯る街灯には、魔術の火だけではなくぼうっと燃え上がって光る薔薇の花や、拾い上げ磨かれた月や星の結晶石まで。


幾重にも重なる不思議な煌めきの中を歩き、辿り着いたのは街中の高級商店の立ち並ぶ一画。


茶褐色半透明の石材で建てられた瀟洒な店構えは高級テーラーに見えるのだが、ここは欲望の魔物をオーナーとするアクス商会の本店である。



そんな商会に、ネアとディノ、そしてダリルが足を運んだのは、“会談”という奇妙な商品を納品したいと、アクスから申し出があったからであった。


約束の時間は三枠あり、そのどこかでアクスの会議室を貸し出して、とある人物との会談を可能にする。

そんな商品がリーエンベルクに届いたのだ。




「………やれやれ、呼びつけられたのは久し振りだね。アイザックの奴も何を考えているやら」



こつこつと石造りのエントランスを踏んで、呆れたように呟いたダリルは、商会の二階部分を見上げた。


そのどこかに会談の相手が待っているのだろうが、ウィーム領主の代理妖精を呼び出しておいて、その相手が明かされていないというのもかなりおかしな話だ。


ふわりと揺れたダリルのドレスの裾には、細やかな祝福の煌めきが光の筋を残した。

ネア達には視認出来ないような生き物達にも、大事なウィーム最後の王族を守るこの妖精は大人気だ。

また、息を飲む程の美女に見えるダリル自身にも、命までを捧げても構わないという熱心な信奉者達が多い。



「なぜ私達までご指名なのか、謎だらけの商品ですね……………」

「……………馬鹿王子だけじゃなく、ネアちゃん達を会談相手として指名しているとなると、こちらの組織の内訳をある程度理解していると考えた方がいい。ネアちゃんは一種の場になるから、本来なら色々喋って貰った方が会話が回るし、物事も動くんだろうけど、今回は少しだけ様子をみてくれるかい?」

「はい。お話はダリルさんにお任せするようにしますね。もし、何か返答に困るような問いかけがあった場合は、ふわっと曖昧にしてみせます」

「うん、頼もしいね。…………ディノ、私が読みちがえている部分があれば、知らせて貰えると助かるよ」

「そちらの国の情勢は不透明だからね、君の成すべきことの助けになるようにしよう」

「……………そちらの国?」


そっと頷いたディノの言葉に、ダリルは割れそうに青い瞳を瞠った。

今日は深い飴色の縁の眼鏡をかけていて、手の込んだ作りの漆黒のドレスがそれはそれは美しい。

鮮やかな薔薇色の唇は艶めかしくも凛々しくもあり、書架を守る妖精に相応しい艶姿であった。



「…………ふうん。会談相手は、異国の連中なんだね」


アクスからは、相手の素性は知らされていなかったのだ。

それどころか、事前情報は何もなかったに等しい。

ただ、さる高貴な方が正式な手順を踏まないという非礼を承知の上で、アクス経由で早急に会談の場を持ちたいという、“商品”であっただけ。


用心深く美しい瞳を眇めたダリルに、ディノは思わしげに視線を伏せて頷いた。

それは不愉快そうな眼差しにも見えるし、不安そうな仕草にも見える。

見上げるとこちらの視線に気付いて微笑んでくれたが、何か事情があって引き受けてはくれたものの、本来なら断ったであろう依頼であることは明白であった。



「カルウィの民だろう。あの土地の人間達には、一様に水竜の加護がある。特に王族に与えられる加護の香りは独特なものだ。アイザックも、こちらが気付いてしまうことまでは気にかけていないのだろう。ここからでも良く分るよ」

「………………カルウィだって?」


そう呻いて額を押さえたダリルは、一拍思考を巡らせた後、ふっと鋭い微笑みを浮かべた。

それはいい獲物を見付けたけだもののようで、この上なく優雅で美しい。



「そりゃ、………………ちょうどいい。あちらの動向を窺って目や耳を忍ばせるよりは、そのまま本人に聞いちまった方が早いからね」



そう嗤った書架妖精を見ながら、ネアは、ディノが相手を王族に特定したことにひやりとしていた。

カルウィは王族の多い国ではあるが、ウィームを訪れる王族となると、選択肢はだいぶ狭まってくる。

見ず知らずの誰かがネア達を指名した可能性もあるものの、疑わしいのはエーダリア達を知っているという、ヒルドの羽を毟ろうとした悪辣な王子か、ヴェンツェルが親しくしているニケ王子か。



(ニケ王子だったら、いいのかしら…………)



とは言え、土地に支配の質を持ち、今は国内が不安定だというカルウィの王族が、アクスを介してであれこんなところまで足を運ぶのはただ事ではない。

そちらで何が起きているのだろうと考えれば、ウィリアムやシェダーの身の上が案じられた。



しゃりんと、アクス商会の外装である高級テーラーの扉にかけられた美しいインスの実のリースが、霧に触れて小さな音を立てた。


散りばめられた森結晶が、この祝祭の季節の霧に触れて喜んでいるのだろう。

ぺかりと一度輝きを強め、また胸の奥まで澄み渡りそうな深い緑色の石に戻る。

生き物だけでなく、こんな風にイブメリアに向けて飾られるリースですら、待ち侘びた季節の到来を喜ぶのだ。



そんな小さな出来事に触れて、ネアは胸の奥が重苦しくなった。



(せっかく大好きな季節なのに…………)



のんびりと健やかに過ごし、大事な魔物やリーエンベルクの仲間達と、ただ幸せな息を吸うようにしてこの祝祭の前の華やぎを堪能出来たなら。


遠い異国の血腥い話を聞かされるより、脱走した送り火の魔物を探していたい。

シュタルトの岩塩抗の滑り台を滑ったのはもう二年も前だが、思えばなかなかに季節の風物詩的な任務で楽しかったような気がする。


ディノとの時間を大事に丁寧に過ごそうと思ったばかりだったので、狭量な人間は少しむしゃくしゃするなど密やかに荒ぶり、入り口まで迎えに来てくれたアクスの職員の手前、さっとよそ行きの顔を作った。



「お待ちしておりました。早速、ご案内させていただきます」



そう優雅に一礼した女性に、ディノが小さく首を傾げた。

スーツ姿の美しい女性だ。


「アイザックはいないのかい?」

「お客様のお部屋で、一緒にお待ちになられております」

「それはつまり、彼が、自分はそちらの立ち位置なのだと示しているのかな?」

「………いえ、まさか。ここはウィームですし、御客人とはいえこの土地はアクスの領域です。何か間違いがないようにという意味でも、アイザック様が残られたのでしょう」



返答の最後はひび割れた。


擬態をしていてもこの魔物は万象であるし、アクス商会でアイザックに仕えているのならば、もしかするとそこまでを知っている者なのかもしれない。

誰だって、魔物の王の不興を買いたくはないだろう。



「さて、それはどうだろうね。彼は自身の領域くらいは、離れていても支配出来る筈だよ。…………ダリル、恐らく、来ているのはニケ王子だろう。アイザックは自分の領域での規則をおろそかにするのを何よりも嫌う。であればこの不誠実さは、彼自身の問題に起因する筈だからね」

「…………うーん、ニケ王子か。困ったね。会いたいかって言われると、そうでもないかもしれない。何しろウィームはヴェルリアとは禍根がある。正直なところ、そのヴェルリアに知己がいようが知ったこっちゃないんだからね」

「おや、帰るかい?」

「どうしようかねぇ」



(…………駆け引きが始まった……………)



珍しく老獪な魔物らしさを見せたディノと、凄艶な魔物に寄り添うととんでもなく邪悪な雰囲気を完成させるダリルに、ネアはしずしずと魔物の背中に隠れた。

表情で二人の一計を損なわないよう、ここは無知な人間めは隠れさせていただくに限る。



しかし、アクスの従業員であるらしい女性は確かに目には狼狽を見せたが、すぐさま自分を立て直した。

ぴしりと背筋を伸ばして優雅に微笑むと、意地悪なことを言い出した魔物と妖精に語りかける。



「申し訳ありません、アイザック様は蝕に私用で無茶をされまして。明けてからはその愚行で損失が出た部分の対応にあたりましたので、この時分に珍しいお客様ともなれば、いつもより慎重になっておられるのでしょう」

「へぇ、アイザックが私用で無茶をするなんて珍しいね」

「当商会の代表の不手際にて、ご不快な思いをさせてしまい申し訳ありません。アイザック様には今後このようなことがないように、わたくしの口から申し伝えておきますので、どうぞご容赦下さいませ」



朗らかに会話に応じたダリルは、それであれば仕方ないとは言わなかったが、すっと伸ばされた手に誘われ、そのまま用意された部屋に案内されることに甘んじるようだ。



実際にごねてみせるというよりは、ある程度の逡巡や不快感を見せたということを知らせる為の一幕だったのだろうなと考え、ネアも、ここはいきなり呼びつけられたことへの不快感を最大限に表現するべきか悩んだ。



(でも、明確に色をつけない方がいいのかもしれないわ…………)



とりあえず、あまり表情が変わらないことに感謝しつつ、極限まで無の表情を貫き通そう。



一階の、この商会の実態を隠す為に設けられたテーラーの内部を通り抜け、重厚な飴色の扉をくぐる。

いつかのイブメリアにアルテアからオルゴールを貰った階層ではなく、獲物を売りに来るときに通される貴賓室でもなく、今日のネア達が案内されるのは、見たことのない漆黒の石床の廊下だ。



(凄い、………何て広いのかしら…………)



大国の王宮程の広さはあるだろうか。


廊下は広く、優雅な天井画の意匠も艶やかな天井は、竜でも通るのかと思うくらいに随分と高い。

とは言えその廊下を照らすシャンデリアの間隔は広く、照度も低いので、どこまでも続くような威容を誇る廊下はぞくりとする程に薄暗かった。


磨き上げられた床にはシャンデリアが映り込み、漆黒の水面を歩いてゆくようだ。



「ここはアイザックの城の一部だ。彼の城は造りが特殊で、上にと言うよりは横に広い。その中で自身の居住区と、彼の財産である商会に切り分けた区画がある。迷路のようだと称するものもいるけれど、部屋などの配列には規則性があるからそれに気付けば難しくはないかな」

「まぁ、アイザックさんのお城なのですね」

「ば、万象の君、どうかご容赦下さいませ」



さらりと欲望の魔物の秘密を詳らかにしてゆくディノに、案内をしている女性は今度こそはっきりと慌てた。

ちらちらとダリルの方を見ているので、いざとなれば手段を選ばない書架妖精の耳が怖いらしい。



「おや、君は、私が私の伴侶にかける言葉を遮るのかい?」

「……………とんでもございません」



その時、ネアはおやっと思って目を瞠ったが、特に声を上げるようなことはなかった。


ディノは今、ネアのことを伴侶だとこの女性に伝えた。

それはどこか有無を言わせぬきっぱりとした言葉であったので、もしかすると今後の二人の関係を考えて予行練習中なのかもしれないし、今日ばかりはカルウィの王子を警戒してそういうことにしておくのかもしれない。



やがて四人は大きな扉の前に出た。


漆黒の扉には、複雑な幾何学模様とそれに添うように草花の彫刻が施され、漆黒の闇の向こう側に煙がたなびくように、複雑な色が重なって揺れる。

まるで生きているような不思議な扉だった。



「アイザック様、ミンクです。お客様をお連れしました」


ノックではなくそのように声をかければ、重そうな扉がぎいっと開いた。



ふわりと、異国の香の匂いがしたような気がしたが、その香りを掴もうとした時にはもう、辺りには静謐な雪と冬の香りしか残っていない。


部屋の中はどこまでも漆黒に染め上げられ、ネアには深くこっくりとした深紅の天鵞絨張りの長椅子と、透き通った黒水晶のような猫足のテーブル、そして暗闇の中に浮かび上がるような素晴らしいシャンデリアだけの色が見えた。



「本日は、わたくしどもの商品をお受け取りいたき、誠に有難うございます」



まずは立ち上がって全員に慇懃に頭を下げ、その後にアイザックは、ディノに向き直ってもう一度深々と頭を下げた。

案内してくれた女性はそのまま退出するようで、音もなく背後の扉を閉じる。



「我が君、本日は不躾なお呼び立てになりまして、申し訳ありませんでした」

「それがどのような顛末に結びつくのかを理解した上で、君は私達をここに呼んだのだろう?」


さらりと揺れた漆黒の髪に漆黒の三つ揃い。

華奢な銀縁の眼鏡をかけたアイザックは、そう謝罪の言葉を述べながらもやはり掴みどころがない。

ネアは、大事な魔物に何かをするようであれば、すかさずルドヴィークに言いつけてやろうと、邪悪な人間らしい報復を胸の中で抱き締め、そんなアイザックの後方に立った一人の男性を見た。



(………………っ)



ふっと、心の中をよぎったのはどんなものだったのだろう。

気付いて心を留めた際にはもうその訪れは去っており、ネアはがらんどうの平原で何があったのだろうと首を傾げる。


白い短い髪を持ち青い瞳をした男性が立っている。

肌の色は砂色で、だからこそいっそうに青い瞳が青く見えた。

端正な面立ちにどこか皮肉っぽい目元。

どこにも行けない人の眼差しに、まず最初に思い出したのはオズヴァルトだった。



(……………というより、これは、どこにでもいるそういう人の目なのだわ…………)


古くからある血や組織に属し、その檻の中からこちらを見る人の眼差し。

ともすれば、そこから出られないまま殉じてしまうような、そんな諦観の翳り。



まず彼は、無言で優雅に一礼した。

為政者らしい尊大さもあるにはあるが、どこかさらりとしていて嫌みがない。

ネアは、王族であれば周囲の人達に慕われているだろうなと思いかけ、カルウィという国の特性を思えば、案外変わり者だと思われているのかもしれないと考え直した。


会うのは初めてではないのだが、このように公式に彼の名前を明かされた席で顔を合わせるのは初めてで、この姿こそがニケ王子本来の姿なのだろう。

砂漠にある豊かな国の王族らしい華やかな装いだが、その全てを色味を違えた黒一色で統一していることで華美になり過ぎずに綺麗にまとめている。

腰帯に差した半月刀の柄には宝石がちりばめられ、その色彩だけが彼の装いに色を添えていた。



「やっぱりニケ王子だったか。わざわざアクスまで介してウィームに来たのかい?」


そう答えたダリルは、この王子と面識があるようだ。

ディノは何も言わずに、そちらを見ているネアを腕の中に収めると、見上げたネアの頬をそっと撫でた。



「エーダリア本人は来なかったか。正直なところ、あなたが来てくれることを期待していた。今日は強引な呼び立てになってすまないな。とは言え、俺ごときの要望に容易く応えるあなたではない。得るものがあると思ってご足労いただいたのなら、何か良い土産が用意出来るかもしれない」

「相変わらず、供もなしかい。今のそちらの情勢じゃ、暗殺もあり得るだろうに」

「はは、それについてはおいおい触れよう。招いておいて立たせたままですまなかったな、どうか座って欲しい」


「どうして、この子を指名したのだろう?」



朗らかに笑って非礼を詫びたカルウィの王子は、部屋に入るなり擬態を解き、真珠色の髪を晒したディノを見ても怯みはしなかった。

彼自身も白い髪を持っており、それは終焉の手の内の白色ではないことを、ネアはよく知っている。

青い瞳のその青さは人間の領域のものであったが、雨音の響く秋の夜の雑踏に滲むような、どこか感傷を掻き立てる色であった。



「初めてお目にかかります、万象の君。今日、あなた方をお招きしたのは、これからお話しする、とある呪いのその道筋に、あなた方が据え置かれてしまったから。そのような事情を踏まえ、アクス商会の代表にご相談させていただたところ、このような場を設けていただきました」



胸に手を当ててまた深く一礼し、よどみなくそう答えたニケは、人外者との対面には慣れているのだろう。

彼については様々な話を漏れ聞いているが、あの純白と歌乞いの契約をしているという部分は、かなりの驚きである。

ヴェンツェルは、その情報を得た時には友人のあまりにも無謀な行為に頭を抱えたらしい。



(他にもこの人を慕う魔物は何人もいて、シェダーさんとも顔見知りのようだった)




「呪いねぇ。あまりいい予感がしないのだけど」

「まったくだ。俺自身も、このような呪いを受けるのは初めてで、いささか迷惑している」

「へぇ、自分の身に降りかかったものなのかい。あんたにしちゃあ、珍しい不手際じゃないか」



呆れたような顔をしてすげなくそう言ったダリルが奥になり、ディノを真ん中にしてネアも長椅子の端っこに座る。


ふかふかとしたクッション張りの長椅子は、見事な織り布を張られて肘置き付きの優美な形であるが、このような会議の場で体が沈んでしまわぬよう、普通の応接間にあるような長椅子より少し高さがつけられていた。

一人分の間隔ごとにクッションが張り込まれているので、長椅子あるあるで、隣の人の体重にこちらの体が傾いてしまったりもしない。



黒水晶にエッチングを施したような素晴らしい意匠のテーブルには、柔らかな湯気を立てる紅茶が置かれている。

薔薇のジャムが添えられ、会話の不穏さに相反してなんとも優雅な様子ではないか。



「さて、ここからは、少しばかり私が仕切らせていただきましょう。実は今回の発端になりました呪いですが、アクスで卸させていただいている妖精の商品でして」

「ああ、だから君がここにいるのか」



そう呟いたディノの声はどこまでも硬質だった。

その酷薄ともいえる声音は身が凍える程であったが、ネアはまだ、その理由が分らずに内心首を傾げている。



(…………ニケ王子が、………男性の方だから魔物さんらしい狭量さで?それとも、ニケ王子が持ち込んだ呪いというものがとても困ったものなのかしら。もしくは、ディノにとっても自分の領域であるという認識のあるウィームに、カルウィの王子様が来たことがあまり嬉しくないのかもしれない)



「率直に申し上げれば、婚前祓いの呪いです」



何の前置きもなく、魔物らしい素っ気なさでアイザックはそんな言葉を示した。

たいそう劇的な反応があるかと思えば、いつもは鋭敏に反応するダリルが首を傾げている。

その呪いの名称だけでは、ここに来た理由にはならないらしい。



「人間の王族が、自身の伴侶となるべき相手の周囲の者達を根絶やしにする呪いだね。その血は欲しいが面倒な一族のしがらみは残したくないという、主に亡国の王族や、侵略した国の王族を娶る時に使われる呪いだ」

「ええ。主に南方の国々や、この大陸の上ではカルウィのあたりにのみ敷かれる魔術です。魔術の構成や入用になる対価を踏まえれば、ヴェルクレアなどでは錬成が困難になる、使用される風土を選ぶ呪いと言えるでしょう」

「彼がそれを受けたのであれば、それは彼の問題ではないのかい?婚前祓いの線引きの中に、ヴェルクレアの第一王子達が含まれるとしても、私達には関係のないことだ」


冷淡なディノの言葉に、ニケ王子は小さく苦笑して首を振った。


「俺にかけられたものであれば、予め用意してあった術式破壊や呪い返しでどうにでもなったのですが………………、問題は、俺の花嫁候補がその呪いを背負って押しかけてきたことでして」



(………………それこそ、まったくこちらには関係ないのでは?)



ネアは思わず眉を寄せてしまったが、そんな表情に気付いたニケ王子がちらりとこちらを見たような気がした。


その視線があまりにも無機質で、こちらでもおやっと眉を寄せる。


そう言えばニケ王子は、挨拶の際にネアの方は一度も見なかった。

以前に一度お礼の品物を贈られたことがあるし、海竜の戦でも出会っている。

実際に遭遇したことは秘密なのだとしても、この王子の振る舞い方であれば社交上微笑みかけることくらいはしそうなものなのに。



「カルウィの、旧南陵派の王家の姫君です。その姫君は元々、第一王子の花嫁候補でした。とは言え現在の正妃に敗れその家の者は全員処刑が決まっております。…………ふむ。ネア様の為にもう少し説明を増やしましょうか。カルウィでは、正妃を巡る、………言わば海竜の戦のようなものがあります。何しろ王族が多く暗殺なども多い土地ですから、王位継承権のある王子上位三人に限り、その正妃候補の次点であった姫君達は、次の世に禍根を残さぬよう、敗者は直系の家名をいただく一族までではありますが、全員処刑されるのが習わしなのですよ」

「……………そのようにしてしまっても、立ちゆくのですね……………」



会話の相手はアイザックであったことと、単なる感想で済む話題であったので、そう答えたネアに欲望の魔物は理知的な微笑みを浮かべて頷いた。



「ええ。何しろ王族が多いですから。恨みを飲むかもしれない対向勢力の力をある程度削いでおくという措置ですが、実際には先々代の王妃の一存で始まったしきたりです。三席からの姫君達は後宮に入り、正妃となる姫君の侍女となります。新代の王の生母になれる可能性は残りますが、正妃に仕える者という立場は自分の息子が王になるまでは変わらないというところでしょうか」

「王族の男が圧倒的な権力を得る国だが、女達もまた武器になる。粛清の権限を与えて後宮をきちんと管理させるのが目的のしきたりだね。王族が多いってことは王の手駒が多いっていう強みになる。けれども、王の首を挿げ替えられるっていう弱点でもある訳だ。後宮の女達が、他の王族の男を使って政に介入することを避ける為に、正妃に箔をつける為の儀式でもあるね」



そんな恐ろしいしきたりがあっても、姫君達は正妃の座を競うのだという。

或いはそれはもう、姫達の意志などを反映しない、家々の争いなのかもしれない。



「それにしても、処刑が決まった次点の姫が、ニケ王子の花嫁候補?随分と妙な話じゃないか。…………あんたは表舞台に出る愚は犯さないが、次代の王の候補であるのは明らかだ。国内じゃ継承権は第三席という体にしているとしても、おかしな縁組と言わざるを得ない」

「花嫁殿は随分と魔術に長け、狡猾な女であったらしい。お抱えの魔術師に婚前祓いの呪いを自分にかけさせた上で、自身の家族を魔術の贄として認識させ、その願いの糸を巧妙に俺に紐付けた。…………これに関しては、臣下達にせっつかれていた花嫁探しを、俺が蔑ろにしていたのが原因なのだが、………そして、候補の女の一人に贄を使った高度な妖精の成り替わりの魔術を使い、選定の儀の間だけ自分の魂を移植しておいたらしい。因みに、最後の魔術を売ったのがアクス商会という訳だ」

「ってことは、とある女を花嫁候補として放置しておいたところ、選定の魔術が、実際には問題の姫に繋がっていたという訳かい」

「……………そういうことだ。そこまでの道づくりを出来たということであれば、ある種希代の魔術師でもあるのだろう……………惜しいことにな。さて、カルウィにはもう一つ厄介なしきたりがある。正妃に選ばれなかった姫達が唯一その悲劇を逃れる為には、第五席までの王子の正妃になることだ。その場合のみ、一族は処刑されても姫だけは生き残らせることが出来る」



それは、粛清される一族の血を残す為に使われる、言わば抜け道のようなものだという。


勿論、表向きは処刑される姫君を救う為の措置とされているのだが、実際には愛の上で悲劇の姫君を救う為に施行されたことはなく、殺される筈だった姫を娶る王子は、魔術の契約上、その姫の最初の夫候補であった王子に頭が上がらなくなる。


それを目論み、競争相手である兄弟を陥れる為の罠として使われることが多い。

これもまた、政治的なしがらみによる婚姻の形なのだった。



(だとすれば、これでもまだ何か問題があるのだろうか。うっかりそんな陰謀に巻き込まれてしまったから、手を貸して欲しいということ…………?)




そんな風に考えていたネアだったが、次にニケ王子の口から語られたことは、驚くべきことであった。



「勿論その企みは潰したのだが、この前の蝕で、幾つか不確定要素が重なってしまった。当該の姫は処刑台に送り込んだし、その女との選定の繋ぎの魔術は他の花嫁候補に振り替えたつもりだったのだが…………蝕でその花嫁候補が命を落としてしまってな。振替の魔術だけが浮いた状態で残り、その魔術の条件に適合して呪いの矛先が向いたのが彼女なのだ」



ネアがその説明を飲み込む前に、全員の視線がこちらを向いた。



目を瞠って首を傾げ、ネアはそろりと声を上げる。



「………………つまり、私がニケ王子の花嫁候補だということにされ、尚且つ、婚前祓いなるものをしなければならない呪いにかけられてしまうということでしょうか?」



呆然とそう言ったネアに、ニケ王子は頷いた。



「そういうことになる。靴の礼をこんな形で返すことになってすまないな」












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