寝かしつけの魔物と扉の攻防
その夜明けにリーエンベルクに現れたのは、魔物達を混乱に陥れる恐ろしい刺客だったと、後に塩の魔物はとてもいい笑顔で語った。
しかしながら、語る場所を選ばないと報復もあり得るので、その証言の後に用心深く周囲を見回し、また笑顔になる。
公の席では神妙に震えておくのが、世慣れた塩の魔物の処世術であった。
最初の犠牲者は、やはり最も近くにいた一人の魔物だったようだ。
「…………ぃっく」
夜明け前にその不吉な声を上げて目覚めた怪物は、むくりと起き上がり隣で眠っている真珠色の髪の美しい魔物を見下ろした。
すやすやと眠っている美しい生き物だが、何か対処が足りていないような不思議な焦燥感に駆られる。
これはもう大事にするしかないので、怪物は小さく唸り、何か妙案はないだろうかと首を傾げた。
「……………ネア?」
何か不穏な予感を覚えたのか、ディノは薄く目を開きぱちりと瞬きをした。
真珠色の睫毛が、曇天の日のまだ薄暗い夜明けの兆しの前の最後の夜の光に煌めき、水紺の瞳は光るような澄明さである。
「ネア、具合が悪いのかい?……………っ?!」
もしや工房中毒がまだ快癒しきっていないのだろうかと心配そうな目をした魔物は、次の瞬間、邪悪な人間に襲いかかられてしまう。
飛びかかった人間はまずその魔物によいしょと跨り、目元を染めて震える魔物にごすりと頭突きをする。
そして、両手でわしゃわしゃと大事な魔物の頭を撫でまわした。
「………………ご、ご主人様」
「うむ。この大事な魔物を寝かしつけるのです。何かして欲しいことはありますか?」
「……………して欲しいこと?」
「今は、魔物の寝かしつけ強化期間中なので、素敵で幸せな気持ちで眠れることは何でもしてあげますよ?」
「………………何でも」
ごくりと息を飲んだ魔物は、目元をいっそうに染めて恥じらった。
若干の慄きも残る眼差しは無防備で美しく、ネアはその色をもっと近くで見ようとして、ずずいっと顔を近付ける。
そろりと伸ばされた手が頬に触れ、両手で頬を包まれたので安心してそこに寄り掛かり、もう一度額をこつんと合わせて頭突きしてやった。
「……………祝福ですか?この角度ですと、家族相当のやつですね」
「………………え」
して欲しいけれどこの意外に乙女である魔物は言えないに違いなく、ネアはここは男気であると了承した。
いささかの恥じらいなどもあるものだが、この世界では家族相当の祝福にあたる行為なのだ。
相当ということは、この世界では本来、厳密に家族ではなくてもするくらいの気軽さものである。
ここで家族のように大事に思っていると伝えずして、立派なご主人様と言えようか。
「えいっ」
あまり色めいた掛け声ではないが、魔物が目を瞠って震えているので、ついついそんな風になってしまった。
唐突によじ登ってきたご主人様からそんなことをされた魔物は、あえなくくしゃりとなり寝台の上で弱ってしまう。
ぱたりと手がシーツに落ちてしまったので、ネアは、祝福を受けて大事にされたのできっと溜め込んできた疲れが出たに違いないとふんすと胸を張る。
やはり、時にはこのように疲れを吐き出させてやるのも大事なのだろう。
「ディノ、体調はどうでしょう?」
「……………………熱い」
恥じらうあまり、魔物は片手で目元を覆ってめそめそする。
「む。と言うことは、疲労のあまりに微熱が…………?」
心配になったネアは、額の部分は本人が目元を隠した手で覆ってしまっているのでと、他の部位で熱を確かめることにした。
(確か、熱を測る箇所は、…………口の中と、脇の下。呼吸を妨げると怖いので脇の下にしよう…………)
「うむ」
そう凛々しく頷き、ネアはいそいそと魔物の寝間着を脱がせにかかることにした。
あまりのことに仰天したのはディノである。
「ネア………………?」
吐息を孕むあえやかなその問いかけは震えており、涙目で目元を染めた表情にはいっそ壮絶な色香すらあるのだが、ネアは発熱のせいかもしれないと心配になっただけだった。
「脱がせてから触ります。じっとしていて下さいね?」
「脱がして、………………さわる」
「はい。ディノの肌はすべすべしていて気持ちいいですね。しっかり触らねばなりませんので、…………………む、死んでしまいました」
ここであまりの刺激に耐え切れず、かくりと儚くなった魔物は、目元を覆っていた手もぱさりとシーツの上に落とした。
そのお陰で脱がさずとも熱が測れるようになったので、ネアはもう一度おでこをくっつけてから、熱が出ているとしても支障のない範疇であるという診断を下す。
であれば脱がせて体を冷やすのではなく、毛布でもこもこにして慈しもう。
「一人目の寝かしつけは成功しました。次の獲物……………」
暗い声でそう呟き、ネアはもそもそと寝台を下りると、隣室に控えている魔物のところに忍び寄った。
薄暗い部屋の中には、いつものんびり過ごすお気に入りの長椅子があって、そこにはしどけなく前髪を乱した悪い魔物が眠っている。
これは、客間で休むべきなのに長椅子で寝てしまった悪い魔物なのだ。
「悪い魔物を見付けました…………」
この魔物とは、やはり何らかの熱などに関する話をしていたような記憶がおぼろげに蘇る。
となると、こちらも発熱などしているといけないので、まずは体温を調べるところから始めよう。
客間の、ふかふか伸びやかな眠りを約束する寝台に放り込むのにはさすがに起きて貰うしかないので、寝ている内に色々調べ、目を覚ましたらゆっくり寝るように躾けなければなるまい。
起こさないように忍び寄り、おでこに触れようとしたのだがこちらも片手がおでこに乗っている邪悪な魔物である。
目を擦ろうとしたままの体勢で固まってしまったものか、或いは目元を覆った方が心が安らいだものか。
であれば脇下で計るしかないので、脱がせるしかなさそうだ。
暴れないように押さえ込む為によじよじとその体に登ったところで、その魔物はぎょっとしたように目を覚ました。
「…………ネア?!」
無防備に見開かれた白金の瞳は綺麗だったが、肩口からずり落ちた毛布といい、やはりきちんと休まない悪い魔物には違いない。
ネアはまず、ひどく慄いている魔物の頭をよしよしと撫でてふっと微笑むと、さっそく服を脱がせようと襟元に手をかけた。
「っ、……………ネア、どうしたんだ?…………ネア?」
「ウィリアムさんを脱がして触ります」
「………………え?」
「肌の温度を調べます。そして寝かしつけなければいけないので、一緒に寝室に行きましょうね」
「…………………ネア?!……………ちょ、ちょっと待った。色々と問題が、……………シルハーンはどうしたんだ?」
「ディノもこうして脱がそうとしたところ、儚くなりました。おでこが空いたので、それで事なきを得ましたが、なぜに魔物さんは皆さんおでこを隠すのでしょう?」
「待ってくれ、その、…………すまない、良く分らないんだが、……………っ、」
ボタンを外され、上に羽織っていたシャツの前をばっと開かれたウィリアムは、目元を染め、慌てて上半身を起こす。
患者が逃げようとしていると察したネアは、しっかり上に跨り、逃げないように肩をぐいぐい押した。
「暴れてはなりません!して欲しいことはありますか?」
「…………………して欲しいこと?」
「寝かしつけ強化期間中なので、色々と素敵なことをして差し上げますよ?」
「色々と………………」
呆然とそう呟き、ウィリアムはごくりと息を飲む。
じっとその瞳を覗き込むと、なぜだかはっとしたように視線を逸らされた。
(おでこが空いていた………………!)
その時、ネアはいつの間にかウィリアムのおでこが無防備になっていることに気付いた。
シャツを脱がすので精一杯で、おでこの空き状況に気付いていなかったのだ。
「ていっ!!」
すかさずこつんとおでこを合せて熱を測ったのだが、おでこをぴったり合わせたところで、ウィリアムがひゅっと短い息を鋭く吸うのがわかった。
触れそうな距離で震えた睫毛に、ネアを引っぺがして逃げようとしているのか背中に回された腕を感じる。
「……………ふむ。熱はなさそうですね」
「………………熱?」
「はい。毛布のずり落ちていた悪い魔物さんでしたからね。そして、よく寝給えの祝福は入り用ですか?」
「…………………祝福?」
ここでやっと息をすることを思い出したのか、しっかりと筋肉のついた胸がネアの下で上下した。
途方に暮れたようにこちらを見上げる魔物は、どこか無垢で儚いようにも見える。
ネアは、この魔物がつい最近、目の前で倒れて動かなくなったことを思い出した。
足下に散らばってきらきらと光った失せもの探しの結晶石に、力なく投げ出された手と、さようならと告げた声の切なさも。
「むぅ。…………ウィリアムさんが逃げないように、家族相当にしておきます」
「ネア?………………っ?!」
ふわりと口付けを落とし、体を離せば、終焉の魔物は両手で口元を覆ったまま完全に固まってしまっている。
祝福も与えたし熱は測れたので服を着せる必要があり、ネアはもう一度シャツに手をかけた。
「ま、待ってくれ!!色々とまずい。ネア、一体どうしたんだ?」
「うぃっく。ウィリアムさんを、寝かしつける儀式です。長椅子では体がはみ出ているではないですか。お客様用のお部屋でゆっくり寝て欲しいのです。ささ、一緒に寝室に行きましょうね」
「………………そうか、酔っぱらっているんだな?…………工房中毒の症状が少し残っているな。それで、……………っ?!」
「……………もしかして発熱でしょうか?先程より体温が上がってきているような気がします」
「ちょ、…………どこを触ろうと……………」
「脇の下です!」
この後、服を剥かれたウィリアムはじたばたしたが、ネアはしっかり上から抑え込み、魔物の脇の下に手を突っ込んだ。
いまいち体温を測り難いということがわかったものの、本人からは動揺して体温が上がっただけだからと息も絶え絶えに主張される。
あまりにも真剣にそう言うので、ネアは体を巡る血を冷やすかどうか思案した。
「高熱になる場合は、脇の下や鼠蹊部を冷やすのがいいんですよ。幸い私には、氷の祝福を受けた魔法の手がありますので…………」
「………………鼠蹊部」
「はい。……………みぎゃ?!なぜに逃げるのだ!」
「いいか、ネア。そこは絶対に駄目だ。…………そ、そうだな、朝までもう少しだけ、客間で横になろうと思う。一人で部屋に戻れるから安心していいからな」
「寝かしつけるからには、目を閉じるまでを見守るのが私の役目。逃げようとしても逃がしませんよ!」
「それと、工房中毒の症状が少し出ているみたいだが、アルテアは……………いないのか?…………シルハーンはどうなったのか想像に難くないし、…………ノアベルトか、ヒルドを呼んで来るから、………いいか、それまでこの部屋から出ないようにするんだぞ?」
逃げ行く患者にぐるると唸ったネアを、両手を持ち上げて猛獣でも制するかのように宥めつつ、ウィリアムは素早く逃げていってしまった。
失踪した患者を厳しい眼差しで見送り、ネアは、とは言え走れるのだから健康であるという診断を下す。
祝福が効いて元気になってくれた可能性が高く、ネアはあらためて祝福というものの素晴らしさを肌で感じた。
もしかしたら、ネアの祝福はかなりの効果があるのかもしれない。
「………………次の患者、………うぃっく。次の獲物です。厨房のお家の寝室で寝ていますので、部屋から出たことにはなりません!ふむ。私はなんて賢いのでしょう……………」
確か使い魔はこちらにお休みになっていた筈だと扉を開けると、人気のない厨房は綺麗に片付けられていた。
お鍋が一つだけ出ていて、てくてくと歩み寄り覗き込めば、何やらこっくりした緑色のスープが入っている。
美味しいものかなとくんくんしたが、今は美味しいスープより魔物を寝かしつけるところだったのだと思い出し、慌てて首を振った。
まずは、この屋敷の二階で眠っている魔物の熱を測らねばなるまい。
もはや、なぜ熱を測るのかは忘れてしまったが、ともあれそれは絶対の任務なのである。
ふらふらと階段を上がりながら、ネアはなぜ自分が足音を忍ばせているのか首を傾げたが、きっと患者を脅かさないように気付かれてはならないのだ。
「………………む、開いています……………」
寝室の扉は開いていた。
ふつりと記憶が溢れ、徹夜仕事から帰った父親が、階下にいた娘と息子が心配なのでと、寝室の扉を開いて寝ていたことを思い出し、何だか懐かしい気持ちになる。
しかしながら、すっかり疲れ切っているとせっかく扉を開けていても目を覚まさないのも、世の中の父親の常なのだ。
しめしめと部屋の中に入り、ネアは眠っているアルテアに狙いをつけた。
今度の魔物はいい魔物のようで、おでこをきちんと解放してくれている。
とは言え逃げないように押さえ込む必要があるので、ネアはえいやっとその上に飛び乗った。
「……………っ?!……………おい?!」
すぐさま目を覚まし、ぎょっとしたように赤紫の瞳を瞠ったアルテアに、ネアは生真面目な表情でふすんと頷いた。
「逃げてはなりませんよ。おでこを差し出すのだ」
「おい、……………おまえさては、工房中毒の薬が足りなかったな?」
「じたばたしてはなりません。おでこです!!」
「薬が足りなくて発症したなら、大人しくしてろ!……………っ、おい、何を…………」
じたばたする患者とおでこを合わせるのは危険だと判断し、ネアは脇の下作戦に切り替えた。
頭がごすっとなると大惨事なので、これもまた賢い大人の計略である。
跨って抑え込んだまま上の毛布をべりっと剥いでから、今日はパジャマじゃないのかと少し残念に思いながら、シャツのボタンを外す。
しかしながら、ウィリアムのような着の身着のまま眠った風のシャツではなく、こちらはきちんとくたくたっとした布地の寝巻用のシャツには着替えているらしい。
ぷちぷちと白蝶貝のボタンを外すネアに、アルテアは暫し無言になった。
いかに日頃の体調管理をないがしろにしているものか、脇の下で熱を測られようとしているのが理解出来ない様子である。
「……………待て、………これは何のつもりだ?」
「アルテアさんを脱がして、肌に触ります」
「…………………は?」
「しっかり触るので、暴れてはいけませんよ?それと、何か要求はありますか?」
「…………………要求だと?」
「…………むむぅ。もしや、お腹を撫でて欲しいですか?他の素敵なことでもいいですよ?」
「……………………は?」
「尻尾の付け根は…………尻尾が見当たらないのでどうしたものでしょう……………ういっく」
はっとしたように、アルテアは息を飲んだ。
呆然としていた表情に色が戻り、どこか呆れたような愉快そうな、不思議な眼差しをこちらに向ける。
「……………また妙なことになりやがって、どうすればいいのかを悩むのは、俺の方だろうが……………。ったく、熱に浮かされるにも程があるぞ?」
「………………む?」
その直後、ネアは姑息な使い魔にがしりと捕獲されてしまい、くるりとひっくり返されていつの間にか寝台に押し倒されていた。
ぼふんとふかふかの寝台に寝かされ、小ぶりなシャンデリアの吊り下がる掠れたような青灰色の綺麗な天井が見える。
目をぱちくりさせて何が起きたのだろうと驚いていると、なぜか毛布で巻かれて寝かしつけられてしまった。
ネアを毛布巻きにして自分は寝台から立ち上がったアルテアに眉を顰めていると、ふっとおでこに落とされたのは口付けだろうか。
「なぜに立場が逆転したのだ。解せぬ」
「いいか、大人しく寝てろよ」
今日はこちらが寝かしつける側であるし、祝福もする側なのだとじたばたするネアにそう念を押し、アルテアは席を立つ。
しかし、障害が立ち塞がろうとも、魔物達を寝かしつけなければならない人間は、易々と挫けてしまう訳にはいかないのだった。
ウィリアムは自分で寝室に行って寝るとは言っていたものの、逃げられてしまっている。
アルテアに至ってはすっかり起き出してしまったようなので、階下で何やらお鍋などを触る音が聞こえてきたのを確認してから、ネアはむぐぐっと顔を顰めて作戦を練った。
(この際、起き出した使い魔さんは後回しにしよう。次はノアを寝かせて、その後はヒルドさんかしら……………)
本来ならエーダリアも寝かしつけ対象ではあるが、本日は夜更かし可能な安息日である。
となると、まだ起きて魔術書などを幸せな気持ちで読み耽っているかもしれず、その邪魔をするのは野暮と言うものだろう。
読書での夜更かしや、徹夜に関しては、ネアは理解のある同志であると言わざるを得ない。
同志の志を挫くような真似はしないのが、大人の気遣いというものである。
巻き付けられた毛布を引き剥がし、こっそりと階段を下りた。
まだ寝乱れた前髪を片手で掻き上げ、何やら先程覗き込んだお鍋を火にかけているアルテアの後ろ姿にお腹がむずむずしたが、幸いぐーっと鳴ってしまうことはなくそろりと後ろを抜ける。
「…………ネア?!」
途中で気付かれてばっと振り向かれてしまったが、ネアは素早く走り抜けた。
お鍋の火を消さなければならないアルテアの分が悪く、しゃっと部屋を抜け出し廊下に飛びだすと、そのまま風のような早さでノアの部屋に駆け込む。
ばたんと扉を閉めると扉の向こうで腹立たし気なアルテアの声が聞こえたが、この部屋は特殊な結界が当てられており、権限のある者でなければ勝手に部屋の中に入れないのだ。
最初はノア自身を警戒しての措置であったが、今は、部屋の中でノアが何か魔術的な細工などをしていると危ないので、不用意に家事妖精が犠牲にならないよう、あえて残されている仕掛であった。
ノアが自在に解いておけるので、家事妖精に掃除に入って貰いたい時には、扉にお掃除お願いします札をかけておき、扉の結界を緩めておくという仕組みである。
追っ手がいるこのような場合、扉の付近に留まるのは愚の骨頂である。
ネアは素早く壁伝いに移動し、奥の部屋でくしゃりと寝台に転がっている弟予定の魔物を発見した。
しどけなく布団に絡まって眠っている魔物の前髪はくしゃくしゃで、上には何も着ていないようだ。
枕元のテーブルには綺麗に畳まれたリボンが置かれているのに対し、寝台の上は嵐に巻き込まれたようになっているのがノアらしい。
ネアはよじよじとそんな寝台に這い上がり、横向きに眠るどこかしどけない魔物によいしょと跨る。
しっかり押さえ込もうとすると、なぜか手を掴まれた。
「………………む。……………むぎゃ?!」
ぐいっと引っ張られて抱き込まれてしまい、ネアは何をするのだともがいたが、思いの外力が強く、しっかり拘束されてしまう。
「…………うーん、朝はもう少しごろごろしていようか。続きをするなら後でね」
「むぐる……………。何か不名誉な誤解を受けているとしか思えません。解放を要求します」
「………………ふぁ。……………はいはい、まだ外は暗いよ」
「ぎゃ!変なところを触るのはやめるのだ!!」
淑女の聖域であるお腹周りを触られそうになって、ネアは怒り狂った。
あわいから戻ってすっかり安心して美味しいものを食べ尽くしている日々なので、そのあたりを掴まれでもしたら、口封じに消してしまうしかなくなるではないか。
慌てて逃げ出そうと抵抗すれば、ふっとノアの纏う気配が冷やかになった。
くたくたになって眠っていた無防備さが、魔物らしい獣めいた不機嫌さに取って代わる。
「……………まったく、手がかかる子だな。僕が寝台から蹴り出す前に……………って、ありゃ?」
ぐいっと体の位置を入れ替えられ、上からの覗き込まれるようになったネアを見て、眠そうな青紫色の目をした魔物はぽかんとした。
じわじわっと状況が飲み込めるようになったのか、なぜかひどく動揺した様子で、そろりと体の位置を入れ替える。
「…………恋人さんと間違えているのでは……………」
「うわ、ごめん。………昨日は、君が薬を飲んだ後はもう大丈夫かなって、エーダリア達と少し飲んでいてさ……………って、何で額に手を当ててくるのかな。寝惚けただけで、頭は正常だよ………………!」
「熱を測ります」
「……………ん?熱を測ってるの?」
「はい。ほこほこしていますが、お酒を飲んで寝ていたからでしょうか。それと、全裸で寝ると風邪をひきそうで心配なので、せめて毛糸のパンツは穿いて下さいね」
「……………え、毛糸は絶対なのかな?っていうか、見えた?!」
「何か一枚足すならば、お腹を温めてくれる毛糸のパンツにしましょうね。それとノア、今日は私が寝かしつける係なので、きちんと横になって下さい。何かして欲しいことはありますか?」
「…………もしかしてこれって夢かな。わーお、僕ってまだ寝惚けてる……………?」
「うむ。きちんと横になりましたね。良い子ですので、撫でて差し上げます。ノアが目を閉じれば祝福を授けて、寝かしつけは完了ですね」
「……………え、祝福してくれるの?家族のやつかい?」
「ノアは弟なので、家族相当が妥当でしょうか?なぜか、…………ノアにそれは控えるべきだという記憶があるのですが、なぜだったのかを思い出せません……………」
そう呟いて首を傾げると、塩の魔物は突然良い子度合を増してきた。
きちんと布団にくるまり、良い寝相の見本のように真っ直ぐに天井を向いて目を閉じる。
「ネアの崇高なお役目の為に、ほら、未来の弟は目を閉じたよ。後は祝福で完璧だと思う」
「うむ。祝福します!」
目をぎゅっと閉じて口元をもぞもぞさせている魔物は、やはり無垢な感じがした。
こちらがボールを手に持つと、期待のあまりに尻尾をぶりぶりしてしまう銀狐の目のきらきらを思い出し、ネアはふっと微笑みを深める。
(あ、………でもユーリにも似ているわ)
ずっと昔、なかなか寝付けなかった大事なユーリにも、こんな風におやすみなさいの口付けをしたことがある。
あの時はもう、可愛い弟と過ごせる時間には限りがあるのだと知っていたのだった。
ネアが体を屈めてふわりと口付けを落すと、ノアはきゃっとなってそのままごろごろと寝台を転がった。
安らかに眠るというよりは大興奮なので、やはりこの祝福は、治癒力が高過ぎるのかも知れない。
ネアが、偉大過ぎるというのも考え物だなと贅沢な悩みに眉を下げていた時、ずばんともの凄い音を立てて扉が開いた。
「………………げ、アルテアだ」
むくりと起き上がったノアがそう呟き、扉を力技で蹴破り寝室までやって来たアルテアは、どこか冷気さえ纏うような暗い目をしている。
「ほお、ここに部屋があったのか」
「………………わーお、何で彼は怒っているのかな?」
「良く分りませんが、寝かしつけようとしたのに、スープを作ってしまう困った魔物さんです」
「お前は、工房中毒だという自覚はあるのか?」
「…………ごぼう中毒?」
「ネアが浮気してる……………」
「む。ディノまで起きてしまいましたね。せっかく寝かしつけたのに、なぜ起きてしまったのでしょう?もう一度しますか?」
ご主人様にそんな過激な提案をされた魔物は、目元を染めてへなへなと床に座り込んでしまった。
もはや、ずるいと可愛いしか呟かない魔物になってしまったので、後程丁寧に寝かしつける必要があるのは間違いない。
「それと、ウィリアムはどうした?まさか、あいつにも何かをしたんじゃないだろうな?」
「ウィリアムさんは、祝福を与えたら走って逃げました。元気になってくれるのはいいのですが、どちらかと言うとぐっすり眠って欲しいのです。…………うぃっく」
「…………ありゃ、もしかして酔っ払い…………ってそうか、工房中毒か!」
そう声を上げ、ノアは慌ててネアを捕まえようとした。
しかしこちらの人間は、戸口に立っているアルテアや、工房中毒という言葉に力を振り絞って立ち上がったディノに捕まってはいけないことは、野生の勘で承知しているのである。
更に言えば、ノアの部屋にある特別な仕掛けも知っていた。
「ここは形勢不利と見ました。一時撤退と、戦線の立て直しに入ります!」
「あっ、逃げた」
「ご主人様が逃げた……………」
「馬鹿かお前は!!」
ネアはひらりと華麗に身を翻し、ノアの部屋の一画にある簡単転移陣を踏んだ。
そこは何かと急ぎの話し合いなどを必要とする双方の利便性を考え、ノアの部屋からヒルドの部屋の控えの間の一室に転移出来る特別な魔術が敷かれているのだ。
七割は銀狐使用のその仲良し装置を、ここは是非に活用させていただくこととする。
魔物達の悲しい声を背後に聞きながら、ネアはふわりと転移の薄闇を踏んでふかふかとした絨毯の上に着地した。
しゅたりと着地したネアの目の前に立っていたのは、寝間着のまま部屋の通信板の前に立ち、誰かと話をしていたらしいヒルドだ。
「………………ちょうど、こちらにいらっしゃいましたので、ひとまずは私が対処しましょう。ディノ様にもご連絡しておきますので、ウィリアム様はそのままお休みになって下さって結構ですよ。…………ええ、………いえ、…………ではそれはお任せしても?……………はい。そうさせていただきます」
何らかのやり取りの後、ヒルドは通信を切ってこちらを向いた。
その静謐な眼差しを受け止め、何か自分はとんでもないことをしてしまったのではないだろうかという予感に震えるネアに、ヒルドは艶やかな深い微笑みを向けてくれる。
「…………おや、私の部屋にも来て下さったのですか?」
「…………ふぐ…………ヒルドさんも、寝かしつけます。…………うぃっく…………」
「ええ、ではまず、ネア様にお休みになっていただきましょう。このような夜明け前の時間に、裸足であちこちに行かれていたとなると、不安で心が休まりませんからね。さぁ、まずはこちらに座って下さい。すぐにお湯で濡らしたタオルを持ってきますから、足を拭いて横になるように」
「……………ぎゅ?」
「治る病とは言え、工房中毒は本来、酷く厄介なものですからね。……………ネア様?」
「ふぁい………………」
ひたりと怖いお母さんの目で見つめられ、ネアはしおしおと項垂れた。
ヒルドはひょいっとネアを抱き上げると、いつか保冷庫事件でお世話になった寝台に座らせてくれる。
そのまま自身は浴室の方に行き、水音がしたと思ったらすぐにほかほか濡れタオルを持って戻ってきてくれた。
「ヒルドさんを寝かしつけたいのです…………」
足元に跪いて足を拭いてくれているヒルドに、ネアは悲しく呟いた。
綺麗になった足はどこからか取り出された湯たんぽ装備で寝台の中にしまわれて、ネアは気付けばヒルドの寝台に丁寧に寝かしつけられている。
「ええ、ネア様が眠られたなら、私も眠りましょう」
「…………私の祝福は凄いのですよ」
「おや、自慢の祝福であれば、そうですね…………していただいても?」
「はい!」
効果は保証済みなので、ネアは顔を寄せてくれたヒルドにぐぎぎっと頭を持ち上げて口付けを授けた。
ふっと微笑む瑠璃色の瞳に、確かな安堵を見てネアも嬉しくなる。
「これで、ヒルドさんもたくさん眠れますか?」
「ええ、この祝福があれば間違いなく。さぁ、薬がこちらに届くまで少し目を閉じていて下さい。心細ければ、お側におりますよ」
「くすり…………アルテアさんに、ごぼう中毒だと言われました。こぼう………何かまずいごぼうを食べたのでしょうか…………」
そう呟きながら、ネアはこてんと眠りに落ちた。
ふっと頬に触れた口付けのぬくもりに、子供の頃の母親の子守唄を思い出す。
(ああ、さっきとは違うけれどいい匂い…………)
ぬくぬくと丸まり、裸足のつま先で毛布の下の暖かい湯たんぽを堪能する。
やがて眠りの向こう側で大切な魔物の声がしたが、その時にはもう幸せな眠りの中にいた。
安息日のいつもより少し遅めの朝、朝食の席に着いたネアは首を傾げた。
なぜか、ウィリアムが目を合わせてくれないのと、珍しくこの時間からノアがいる。
アルテアは不機嫌そうであるし、ヒルドはどこか上機嫌だ。
ノアは少しだけ嬉しそうだったのでそちらを見たのだが、なぜかネアの視線に気付くと気まずそうに目を逸らすではないか。
エーダリアからお前は何をしたんだと問われ、ネアは首を捻った。
隣の魔物の方を見れば、なぜかきゃっとなってへなへなになる。
「ネアがずるい……………。可愛く寝かしつけようとする………………」
「寝かしつけようと……………?」
「………………ほお、お前は覚えてもいないのか。当分パイは抜きだな」
「解せぬ。そもそも、使い魔さんはパイを納めなくなったら、何を生業にして生きてゆくのですか?」
「ありゃ、アルテアは拗ねてるってことは、そっちには祝福がいかなかったのかぁ…………」
「……………ノアベルト?」
「うわ、しまった!」
何か失言してしまったものか、ノアがそう青ざめる。
おやっとそちらを見たヒルドに、無言で首をぶんぶんと捥げそうな程振っていた。
「…………何があったのか謎めいています…………」
ネアが困惑しきってそう呟けば、隣の席のアルテアからばしりと頭頂部を叩かれたのだった。