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微睡みの香りと戦乱の兆し





夜明け前の深い闇の中で、優しい雨音を聞いていた。



「むぐふ……………」



むくりと起き上がり、ネアは隣に横になっている真珠色の綺麗な魔物を捕まえた。

つやつや光るような髪の毛の色の影が瞳の奥に残り、この魔物を捕獲すると堪らなく贅沢な気分になる。


わしりと掴まれて驚いたのか、ふっと睫毛を揺らして瞳を開きこちらを見た魔物に、ぎゅうぎゅうと頬っぺたを押し付ける。



「…………ネア?」

「むぐ……………」

「寂しくなったのかい?ほら、こちらにおいで」



甘く優しい声にその腕の中に転がり込み、安らかな体温に頬を緩める。

複雑でうっとりするような森や果実めいたいい匂いがして、ネアはふすふすとその香りを吸い込んであまりの幸せに蕩けた。


いい匂いがして優しくて、とても大切で、とても綺麗で、手を伸ばせば触れられるものなのだ。



生きている。

生きている大切なものは、堪らなく優しい。




(あたたかくて、いい匂い……………)





「…………目が覚めたのか?」




少し離れたところから、誰かの声が聞こえた。



これは誰だろうと思いながら、ネアは幸せな眠りの淵にあえて留まっていた。

眠りの中に飛び込むのは簡単だが、今はまだこうしてその境界でうつらうつらしていたい。


なんと贅沢なことをしているのかと、自分の罪深さが怖くなる。




「…………また寝てくれたよ。…………起きていたのかい?」

「ノアベルトが、二度目からは薬の量の調整が微妙に面倒だと話していたからな」

「少し多めに飲ませたから、大丈夫だとは思うけれど、この子は測り難いところがあるからね。君がいてくれて助かった」

「……………なぜか、ウィリアムまでそこで寝ているけれどな」

「彼も心配なのだろう。疲れているなら、客間で寝て欲しいのだけれど、蝕の時のことは全て自分の責任だと、どこかで頑なにそう思ってしまうのかもしれない。…………君もそうかもしれないけれどね」



その声には王様らしい包容力とディノらしい柔和さがあって、ネアは胸の中がちくちくした。



ディノを大事に大事に抱き締めながら、心配症なウィリアムとアルテアのこともぎゅっと抱き締めたい。



しかしながら、残念ながらとても眠いのだ。

であればもう、こうしてディノだけを抱き枕にして慈しむしかなく、場合によってはウィリアムやアルテアをそこに追加すればいい。

ネアは、何と賢い手法だろうと夢の淵で自画自賛した。



様々な困難を乗り越え、ネアはとても気高く賢い人間に成長したようだ。




「…………もし、熱が下がりきらないようであれば、薬をもう一度飲ませるからな」

「うん………。…………アルテア、エドワードがリーエンベルクの前にいたのは、君がそうした方がいいと思ったからだね?」




(……………む)




ふくふくした眠りの淵で、ネアはちょっとばかり深刻めな気配を帯びた会話に、眠りの泉にどぼんと飛び込む体勢のまま振り返った。


そこに飛び込むのは、今暫く待ったほうが良さそうだ。




「……………気付いていた割には冷静だな」



声音だけを聞いていれば、その言葉にはどこか油断のならない悪い魔物らしい響きがあって、けれどもそんな仮面の陰からこちらを窺う慎重な魔物でもあるような気がした。



さあっと雨音が聞こえる。


意識の端を風に揺蕩うリボンのようにひらひらさせながら立ち、何かがそこに触れたような気がして振り返ってみたけれど、あるのはただ静謐で柔らかな眠りの影だけだ。




「君には、そうした方がいいと思う理由があったのだろう?騎士達と話をしたら、エドワードがリーエンベルクの前に来たのは、初めてではないそうだ。私がここに来る前の、三年前、そして五年前と八年前にもあのようなことがあったそうだよ。…………ウィームに住んでいて、彼の動向に注視していた君であれば、知らない筈もない。エドワードがかけられた転移には、遠方を経由させはしたものの、もう一度ウィームに戻された痕跡があった」




(騎士さん達と、いつの間に話をしたのかしら…………)



ネアの前ではしていないような気がするので、であれば入浴中にあえて騎士達に話を聞きに行ってくれたのだろうか。

そう思うと何だか嬉しくて、ネアは口元をもにょりとさせる。




「…………どうせなら、その場で解決した方がいい。そいつのことだ。放っておけば、いつかどこかでエドワードとまた遭遇するだろうし、興味を持ったエドワードは、手段を選ばないことくらいは想像がつく。どれだけ魔物を退ける手段を揃えたところで、あいつもそれなりにしたたかな男だからな。言葉や魔術の理から侵食されれば、ひとたまりもない…………」

「成る程、誰の助けもないところで、ネアがエドワードに悩まされることを心配してくれたのだね。であれば確かに、昨晩であれば私とウィリアムもいたから、…………もしかして、私が彼を不愉快に思うのも君の想定の内だったのかな?」

「…………いや、ウィリアムが斬り捨てると思っていたが、そこはあてが外れた」



ふっと誰かが微笑む気配がした。

それは冷酷で老獪な魔物のどこか満足げな微笑みで、ネアはその温度の凄艶な美しさにどきりとする。



触れてみて指が損なわれるとしても、手を伸ばして掴み取りたいような危険な魅力というものもあるのだ。




「ウィリアムは、優しい魔物だよ。彼は、私ほどには人間に冷淡ではない。門の前には騎士達もいたのだから、あまり無理をさせないでやっておくれ」

「……………成る程な。確かめることに同意したからこそ、あの場でエドワードに喋らせたのか」

「そこは私の領域だと言えば、彼はただ立ち去るだけだろう。それでは到底安心出来ないし、私とて、誓約で繋ぐには彼と会話をする必要があるんだよ。誓約の魔術はとても複雑なものだからね…………」



そう答えた魔物の声はとても優しかったが、それはきっと震えるほどに冷ややかな微笑みだろう。


でもきっと、例えようもなく美しいに違いない。




(つまり、…………ウィリアムさん流の、即座に武力行使でエドワードさんをくしゃりとやった方が確実だったけれど、それはもしかしたら、門の近くにいた騎士さん達を巻き込んだかもしれなかった。………だからディノは、それをウィリアムさんにさせたくなかった…………?)



となると、そのようなことになるとしても取り零しなく鎖をかけようとしたアルテアは、あえてリーエンベルクという場所を囮にしたのだろうか。



(そして多分、ディノはそのことに気付いていたけれど、エドワードさんを確実に退ける為の誓約を交わせるのなら、それでも構わないと思っていた…………?)



さぁさぁと雨音の響く眠りの庭で、ネアはその豊かな泉に飛び込むのはすっかり諦めてしまい、微睡みの縁に腰掛けて魔物達のやり取りに耳を澄ませる。


ディノが、騎士達の安全と、この先の額縁の魔物との縁を天秤にかけてどちらかを選んだのだと思えば少しだけ胸がくつりと揺れたが、思えばこの魔物は、最初からエドワードのことを好まないと正直に話していた。




(そう言えば、追い払った後のあの確認の仕方も、煉瓦の魔物さんや、酵母の魔物さんをどうこうした後の様子に少しだけ似ていたかな…………)



酷薄で身勝手で、でも魔物らしい習性なのだし、今はもう守るべきものと上手く折り合いをつけてくれているのだから、構わないではないか。


そこで良しとしてしまうのは、ネアもまた自分勝手な人間だからでもあるし、この魔物達はいざとなれば、やはり騎士達をどうにかして上手く守ってもくれるだろうなという確信からであった。




「まだ外さないのは、どういう訳だ?」



さて寝ようかなと思えば、また新たな議題が出されてしまい、ネアは心の中で眉を顰める。



「蝕の後だからね、怒られてしまうまではそのままにしておこうかな。人間の世はとても複雑なのだろう?私は、君やアイザックのようにその中で調整を図ったことはないけれど、蝕が世界の揺らぎなら、その揺らぎでひび割れた人間達の国があるかもしれない」

「カルウィには、顕著な波乱の気配がある。あの男がどれだけ巧妙に糸を張り巡らせ、余計なものを剪定しようとしているのかは知らないが、他の王子達の守りも厚そうだからな」

「おや、君は気付いていたんだね」

「蝕の時に確信した。…………シェダーは、………グレアムは、あの時に直接自分でこちらに手を貸しには来なかっただろ。蝕だろうと何だろうと、よほど気が向かなければ人間達には手を出さないヨシュアのような統括もいる。放棄するのは容易いのに、あれだけの状況下で、あの男があわいに下りなかったとなれば、それは下りられなかったからだと考えるのが自然だからな」



天秤の魔物がこちらに来たと聞いて、すぐに駆けつけてくれたシェダーの瞳の色が脳裏に蘇った。


さらりと揺れた白灰色の髪に、夢見るような灰色の瞳。


いつの間にか彼は、ネアにとってどこか特別な魔物の一人になっていて、どう象ればいいのかは分からないけれど、家族のような大事な魔物達とも、仲良くしたいその外側の魔物達ともどこかが違う。



そんな彼をアルテアがグレアムと呼んだことに微かな安堵を覚えつつ、会話の不穏な余韻に首を傾げる。



(つまり、ディノ達に会うことは出来ても、あわいにまで助けに来てくれるだけの余裕はなかったということなのかな。………そこを離れられないというなら、地上で何かが起こっていた…………?)



あの時、危険に晒されていたのはウィリアムだ。


彼が彼であれば、確かにそんな友人を案じて真っ先に自分で下りてしまいそうな気もする。

とは言え、彼の魔術の形式を思えば、例えば、今は一定以上の対価を増やせないという可能性もあったのではないだろうか。




「蝕が明けて、今少しは落ち着いているようだ。大きな変動が起こるとしたら、これからになるだろう。………私がネアを伴侶にするまでは押さえ込むと話していたが、人間の国の動きを全て管理するのは容易ではないと思うからね」

「…………カルウィは特に面倒だな。人間達の思考に、信仰や階級制のしがらみが多い。だから俺は、あの辺りには積極的に関わらないんだ」

「だとしても、ガシャの教会組織の一つを解体したのは、君ではないのかい?」

「………………それはまだ、公にはなっていない筈だ。…………グレアムの情報か?」



微かな警戒の混ざるその声に、ふつりと耳元で微笑む気配がする。


ディノはこれでも、ネアを抱き寄せてくれながら、こんな風にアルテアと厄介な世界情勢の話をしているのだ。



「いや、それに気付いたのは私だよ。グレアムの様子を見て、あのあたりの土地が不安定になるとすれば、少し離れたガシャが次の崩壊の起点になるだろうと思った。そうして目を凝らしてみたら、カルウィの教会組織から派遣された監査官には、君の好むような痕跡があったからね」



小さく呻くような声に、アルテアが頭を抱えているような気がして、ネアは夢の淵でおおっと目を瞠る。


その種の悪巧みや調整に長けているのはもっぱらアルテアの方で、ディノはそんな足跡を見極めたり、並べられたカードを読み解くようなことは不得手だと勝手に思っていた。


この恨めしいような唖然としたような気配からして、アルテアもそう思っていたのではないだろうか。



「まさか、…………今までのものも覗き見ていたんじゃないだろうな…………?」

「それはしていないよ。恐らく、隣でその行為を眺めていても、何をしようとしているのかを考えることもなかっただろう。単純に興味がなかったからね」

「それが今回ばかりは、さして大きくもない信仰頼りの巡礼地に目を向けるまでだったと言うことか」

「…………幾つか、断ち切ることも出来ない因果の糸がある。グレアムはこちらに何かを齎し繋げるようなことは避けるだろうが、ヴェルクレアの第一王子やドリー達は、そしてランシーンでこの子を助けてくれた人間達は、カルウィの王子と深い縁がある。エーダリアもその王子と、またヒルドと共に他の王子とも因縁があるようだし、この子もあの国の水竜達と会ったことがある。…………そのどれもが、湖に投げ込まれる小石になる可能性はあるだろう?」



静かな言葉で語られたその糸は、確かに大陸のほぼ端と端にも等しい国としては、多いようにも思えた。



旧ロクマリアの国土にあたる土地が安定すれば分厚い障壁となるのだが、あの辺りもなかなかに平定の気配はない。

ロクマリアが大きな国過ぎたのだという意見もあり、再びの統一はほぼないだろうというのが、各国の有識者達の見解であった。



(そうなると、ウィームがカルウィに最も近い領地という訳でもないけれど、エーダリア様はガレンの長なのだし、決して無関係を決め込むことは出来ない筈………)



現に、かつての水竜の調査はそのガレン経由での仕事であった。

かの国が荒れれば、そちらに向ける調査や調整の依頼は、国内でもそれなりに需要を高めるのは間違いない。



その場合、あの国との間の細い因果の糸が、導火線代わりにならないと、どうして言えるだろうか。



(だからディノは、………警戒を強めているということかしら。今回のエドワードさんへの対応も、そんなこともあって強引になっていた………?)



そうしてこの魔物は、何かをあえて外さずに残してある。


それは多分ネアに纏わる秘密なのだろうが、事情を話してくれれば受け止めるのにと、いささか寂しい気持ちになった。



(でも、話してしまえばそれはもう対策になる。この魔物達は、知らせないことで私をその領域から遠ざけているつもりなのだろう。………この世界に来たばかりなら、それでも教えて欲しいと荒ぶってしまったと思うけれど、こちらには、知ることで結ばれる魔術の縁とか、よく分からないなりに困ったものがあるから……………)



それを自分で処理出来ないネアが、身勝手に共有こそが美徳であると言う権利はない。

なので、そこは勿論賢い魔物達にお任せしたいのだが、この生き物達は時々暴走し、時々自己犠牲や自己否定をしたり、思ってもいなかったものを叩き壊してきょとんとしていたりもする。



(………種族的な価値観の差が、ここで手痛い……………!!)



特に、政治的なことや国際情勢にかけてはネアはお手上げだ。

そこまでの知略も才もないし、あったとしても、この手の問題は民族性を熟知していない部外者が口を出すべき問題ではない。



自分にできることは何だろうと考え、ネアは早急に戸外の箒を増やしておこうと心に決めた。

素人意見だが、あの箒は今回の問題には向いている気がする。




「グレアムの動きがそこまでわかりやすいなら、ウィリアムもある程度の備えは始めているだろうな。…………何かと正面から殲滅する質だが、そこはやはり終焉らしく戦乱の類の主導には長けている」

「勿論、ウィリアムも幾つか策を巡らせてはいるだろう。…………あの界隈で大きな戦乱が起こる可能性は、高まってはいる。この国からは遠く離れた事ではあるけれど、大陸を治める大国の片割れとして、ヴェルクレアに纏わる戦利品は、その争いを主導する王子達にとっては甘い蜜だ。………ここにあるものは、渡すつもりはないけれどね」

「…………それは、ネアだけじゃないんだろ」

「勿論だよ。この子が大切にするものは一つとして、そのような人間達の思惑に触れさせるつもりはない。………とは言え、国を一つ変えずに維持するとなると、私にも荷が重いかな」

「…………ウィームだけで充分だろ。寧ろ、リーエンベルクを囲めば、後はこの土地の控えがどうにでもする。…………ノアベルトから、心臓の話は聞いているのか?」

「うん、聞いているよ。……………彼は多分、私達と同じことをするだろう」

「その保証はないだろ」

「…………どうかな。彼が愛するものを得て、それを捕らえ、その為なら星や月さえ与えたいのであれば、考えることは私と同じなのではないかな。…………運命とは不思議なものだ。あのような再会だとは、彼自身も考えもしなかっただろうけれどね」



さりりっと誰かの手が髪の毛を撫でた。


その甘さには暗く執拗な執着と魔物らしい高慢な支配欲も滲み、いつもは膝の上で丸まっている猫が牙も爪もあるけだものの顔を覗かせたような酷薄さもある。



(でもきっと、私が爪先を踏まなければ弱ってしまって、私が三つ編みにリボンを結んであげなければしょぼくれてしまう魔物のままでもあって……………)



であれば今は、この優しい手のぬくもりを感じて、魔物達の悪巧みを聞いていよう。



こうして魔物達が線引きをするように、ネアにも大切なものと、残忍に切り捨てる部分の区別はある。



奪い取られた者と守れなかった者は、決してこの目に映る全てがすべからく幸福であれなどという胡散臭いお伽話には手を出さないのだ。




(……………と言うより、今はたまたま聞こえてきてしまっただけで、この魔物達は、いつもどこかでこんな風に話をしているのだと思うし…………)



そもそものその前提があるので、特に驚く必要などもなく。



やがて魔物達の声は甘やかな子守唄のように聞こえてきてしまい、ネアはそろそろこの脆弱な人間めは寝ますかなと、重々しく頷いた。



(…………でも、今日は安息日なのだから、みんな眠ればいいのに。せめて少しだけ、もう少しだけ疲れを取って欲しいな……………)




そう考えながら、眠りの泉に飛び込んだからなのだろうか。



或いはノアの言う、二度目の工房中毒の投薬の難しさがその事態を引き起こしたのかもしれない。




その夜明けに、リーエンベルクにはとても恐ろしい、魔物を眠りに誘う怪物が現れたそうで、ネアは朝食の最中に何人かから目を合わせて貰えないという苦難に見舞われるのだが、それもまた、こんな風に彼等がネアを心配させたことでの因果というものかもしれない。




魔物達には、長命者らしく我慢して貰おうと思う。

幸い、ヒルドはご機嫌であったので、ヒルドには失礼なことはしなかったようだ。








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