使い魔候補と晩秋の夜雫
その日クロウウィンの街からリーエンベルクに帰ってきたネア達を、門の前で待っているものがいた。
待っていたというよりは偶然の再会であったが、ネアはついつい暗い目になってしまう。
門の警護を任されている騎士達も、いかにもな不審者に困惑した様子ではないか。
クロウウィンの夜は深まり、霧が足元にたなびけば、禁足地の森からは不思議な音楽が聞こえてくる。
ぽわりと揺れた小さな光がふわふわと森を飛び交い、その美しさにふっと心が和らいだ。
しかしながら、今は目の前にいるこの額縁の魔物をどうにかせねばなるまい。
「……………我が君」
ぽそりと呟き胸を押さえてから、きりりと表情を整え直したのはエドワードだ。
つい先ほど、アルテアが異国に捨ててくれた筈の魔物である。
ネアは、ここにまたいるではないかとさっと使い魔の方を振り向いたところ、アルテアも心なしか唖然としていた。
「エドワード、どうして君はここにいるのだろう?」
「ご無沙汰しておりました、我が君。先程はご挨拶が出来ず申し訳ありません。………実はウィームに立ち寄った際には、必ずこの前に立ち、この美しい王宮を……いえ、今はもう領主館でしたか………、ここで暫し鑑賞するのが私の習慣なのです」
かしこまってそう言われてしまうと、ネア達も如何ともし難い。
この魔物はただ、美しいリーエンベルクを眺めて満足しているだけなのである。
ただし、持参の額縁を持ち出し額縁越しに見てはうっとりしているので、騎士達はその行為がリーエンベルクに害なす魔術の儀式ではないと都度判断せねばならずに大迷惑だ。
「では、ここに住まう者達やここを守るものを傷付けてはならないよ」
「はい、勿論ですとも」
胸に手を当ててそう一礼したエドワードは、騎士然とした振る舞いをすると途端に雰囲気を変える。
ネア達と会話をしている時の慇懃無礼さとでも言うべき声音の淡白さが消え、グラストやベージのような誠実な眼差しになるのだ。
「…………まぁ、本当にディノのことが好きなのですねぇ………」
「……………嬉しくない」
感心してそう呟いたネアに、ぺそりと項垂れたディノは慌てて爪先を差し出してくる。
そんな様子を見守り、エドワードはなぜか鋭い眼差しをネアに向けた。
「あなたは、もう少しこの方から離れるように。…………特に、御髪から手を離していただきたい」
「むぐる……………」
「エドワード、この子は私の指輪持ちなのだよ?」
「………………王の?」
早速ネアを大事な王の隣からどかそうとするエドワードに、ディノはなぜか、少しだけ困ったようにそう伝えた。
するとエドワードは目を瞠り、数歩よろめいてからまじまじとネアを見る。
「であればまだ、パンの魔物の方が良いではないですか…………」
「失礼なのです…………」
「ネアはパンの魔物より可愛い………」
「少なくともパンの魔物は、良い香りがしますし、型のままのふくよかな四角さが素晴らしい。良い香りがして、地方によってその特性を違える形があるのも奥行きがあり、良い香りがします」
「寧ろエドワードさんは、猛烈なパンの魔物さん推しなのでは………」
「ネアはパンの魔物より可愛い…………」
「我が君、………その、この人間はあまり美しくはありませんし、香りも香ばしくありませんし、四角くもありませんよ?」
「パンの香り大好きっ子でした…………」
またしてもその議論となり、ネアは憤然として足踏みした。
慌ててネアの頭を撫でてくれるディノだが、どうしてパンの魔物が比較対象なのか、そもそもその部分に大きな疑問があるのではなかろうか。
そんなネア達のやり取りを見て、アルテアとウィリアムは難しい顔をしている。
「おい、指輪の件は言わない方が良かったんじゃないのか……………」
「うーん、誰の庇護下にあるのかを知らずに害を為されるよりはいいでしょうが、何かと厄介なのは間違いないでしょうね。それにしても、アルテアの捨て方が甘かったんじゃないんですか?」
「殆ど世界の反対側だぞ。こいつが執念深いだけだ…………」
一方で、第二席と三席のやり取りを気にかける余裕はなく、衝撃を受けている魔物がいた。
敬愛する王様からパンの魔物よりもこの人間がいいと言われ、エドワードは、小さく悲しげな声でぽそりと呟く。
「…………私には理解出来ない様式美があるのか、或いは王程の方であれば、自らの手にある美貌になど今更何の興味もないものか…………」
「ディノ、こやつを拳で一度ぐしゃっとやっていいですか?」
「ご主人様…………」
荒ぶるご主人様に慄いた魔物は、額縁の魔物にこちらにおわす人間がどれだけ特別で可愛いのかを魔物の王様らしい静謐で美しい声で説明してくれた。
ネアとしてはたいへん有難いのだが、なぜかエドワードはどんどん青ざめてゆく。
それは、理解し難い難問に出会った学者のような、どこか悲壮感漂う絶望の表情であった。
「…………成る程、そのような…………」
「疑惑の目でこちらを見るのをやめて下さい…………」
「しかし、アルテアやウィリアム様とも懇意の様子。…………王の御心や叡智に俺ごときが及ばないのは当然のことですが、アルテアに理解出来るものを読み解けないのは癪です。…………不本意ですが、守護などを与えても構いませんよ」
「…………結構です」
「ふざけるな、今すぐ帰れ」
突然、とんでもない提案をしたエドワードに、ネアは目が死ぬしかなく、アルテアは気色ばんだ。
ディノは、思いがけない展開に悲しげに息を飲んで立ち竦んでいる。
「しかし、その可動域ではすぐに死んでしまうでしょう?俺が理解するまでは、どうか生きていて下さい。アルテアは何かと問題を抱えていますし、仮面の材料として人間の外皮の収集もしているので、まず信用しない方がいい。ウィリアム様は兎に角人間の扱いが雑ですからね…………」
その言葉にネアがそっと振り返ると、ウィリアムはとても慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。
アルテアは既に杖を持ち直している。
(あ、額縁の魔物さんがいなくなるかもしれない…………)
「エドワード、アルテアはこの子の良い使い魔だし、よくネアに懐いている。ウィリアムも、この子をとても大事にしてくれているよ?」
「……………つ、使い魔?!」
「シルハーン!」
慌てたようにディノを制したアルテアだったが、ディノもディノで、友人を貶されたのが少しご立腹だったのだろうか。
どこか得意げにお友達自慢を言えた魔物を、ネアは伸び上がってよしよしと撫でてやる。
アルテアは、使い魔だと明かされてしまって恥ずかしかったのかなと思ったが、表情を見るにどうやらそういう訳でもないらしい。
「…………余計に面倒なことになるぞ」
「む……………?」
また数歩よろめいたエドワードは、片手を額に当てて深く息を吸う。
そして、覚悟の表情を見せた。
「で、…………では、大変不愉快ですが、俺も使い魔にして構いませんよ」
「なぜなのだ。帰り給え」
「アルテアだけに、王の指輪を持つあなたを守らせるのは癪ですからね」
「もはやアルテアさんへの対抗心が理由だと隠しもしないではないですか!動機が不純な方は雇用しません!」
「やれやれ、王への忠義と真理の解明以外に、あなたに仕えるどんな理由があるというんですか。容姿がぱっとしないのは諦めるとしても、良い香りもしませんしね………」
「おのれ、ゆるすまじ」
ネアはどうしてもパンの魔物に劣ると言い募るエドワードに心がくさくさしたが、なぜかよく懐いた使い魔は、その問題については問題だと思っていないようだ。
それどころか、少しだけほっとしたようにも見え、赤紫色の瞳を眇めて片手をひらひらと振る。
「だろうな。だったら尚更、興味もないのに使い魔になる必要もないだろう。帰れよ」
「それであなただけに、その真理を秘匿させるなど、とんでもない。我が君、これから御身の指輪を持つ方のお世話は俺がいたしましょう」
「エドワード、ネアは自分の事は自分で出来るよ。君がここに留まる必要はないのではないかな?」
「可動域がこれ程では、髪結いも出来ないではないのではありませんか?」
「…………自分の髪の毛は結べます」
「ほお、では着替えや入浴はどうするのですか?」
「出来ますし、寧ろそれを手伝おうとしていたのなら、ただの変態と言わざるを得ません…………」
「どのような疑いをかけたのかは想像がつきますが、そのような低俗な趣味はありません。貴族の女子供はその種のことを自分ではしないでしょう?そして、あなたには一片の興味もない。安心して下さい」
低く唸り声を上げたネアは、この分からず屋を黙らせるべく、ポケットに片手を突っ込んだ。
しかし、察しのいい額縁の魔物はすっと視線を逸らしてしまい、わざとらしく胸ポケットから取り出した小さな手帳を見ている。
「………次のリタ派の回顧展までは、三月程ありますからね。それだけあれば、あなたがどのような生き物なのかを知るには充分でしょう。…………とは言え、確かに瞳の色は独特のものですね。人間には、そこまでの多色を持ちながらも可動域の低い者はまずおりません。しかし、その物珍しさだけであれば、瞳だけ取り出して保管しておけばいいのでは…」
ぴしりと、音がした。
ネアはその音に驚いて足元を見て、石畳に見たこともない漆黒の氷のようなものが張り、ひび割れた音だと気が付いた。
(ディノ………………?)
「エドワード」
その声はひたりと暗く、そして夜闇の中で開く大輪の花のように息を飲むほどの鮮やかさであった。
ぐんと質量を増した大気は重たいゼリーのようで、全身の血が下がって体が冷たくなる。
「……………我が君」
その声は囁く程に微かな響きで、エドワードは震える手を自分の胸に当てる。
ざわりと揺れた真珠色の髪は、光を孕むその美しさがいつもの澄明さよりどこか果てし無く暗い。
その暗さに目を射られれば、あまりに隔絶された美貌には例えようもない冷酷さが見えた。
「君の言葉がこの子を傷付けるのであれば、そして君の行いがこの子を煩わせるのであれば、私は君をこの世界からなくしてしまわずにはいられない。…………ここから立ち去るといい」
静かな声はやはり美しかった。
静謐な真夜中の雪原のようで、ネアはあの美術館の絵を思い出す。
(怒ってはいるけれど、………悲しんでいたり、憎んでいたりはしないみたい……………)
そのことに少しほっとして、持たされたままのディノの三つ編みをしっかりと握った。
「ウィリアム、剣はしまうといい」
「……………ええ。しかし、このまま?」
「これは誓約だからね。返答も必要ない。だから、君がそのような行為を強いられる必要もないんだ」
「強いられたものではありませんよ。寧ろ、剣を振り下ろせないのが少し残念ですね」
「なんだ、こいつをバラバラにしないのか?」
そう嗤った魔物達を見回し、ネアはこの程度のことであれば自分の手で報復出来るのにと少しだけはらはらもするけれど、この反応は魔物達の領域のものなのだと、ここは大人しく成り行きを見守ることにした。
(と言うより、怒ってはいるけれどあまり深刻な感じではないみたい…………?)
だからこそ、青ざめて深く一礼したエドワードはしかし、身を竦めながらも決して心を折られてはいない。
「出過ぎた真似をいたしました。俺はどうも、…………額装してその価値を測りたくなる悪癖故に、失言が多いようです。この場は失礼させていただき、この命の限り、あなたの指輪を持つ方には決して害を及ぼさぬと誓います」
ぐっと踏み止まり、震える声でそう言いながらも、エドワードの謝罪は優雅であった。
黒いケープがふわりと揺れて、腰のベルトに巻いた華奢な金鎖がしゃらりと揺れる。
先程、隠し絵の魔物を捕らえた黒いリボンのようなものもひらりと動き、微かな魔術の光を映し、ふつりと消えた。
「………………消えました」
「…………困ったものだ。ごめんね、ネア。不愉快だっただろう。怖くなかったかい?」
いつの間にか、エドワードの姿は消えていた。
転移の仕方にも様々なものがあるが、ぽふんと消えるような転移ではなく、輪郭を透明にしてゆきながら、大気に溶けるようにふっと消えるのが額縁の魔物の転移であるようだ。
不安そうにこちらを見るディノの瞳は、先程の暗さは微塵もなかった。
ただただ、心配そうに、そして愛おしそうにネアを見てくれている。
「いえ、額縁さんは、…………途中から、あのような性格の方なのだなと分かってきました。ディノは最後は怒ってくれましたが、途中まではひたすらに困っていたのは、エドワードさんが決して悪意ではなく、素直に…………ぐっ、そう認めるとぐぬぬとなりますが、…………素直にそう思われているからなのでしょう?」
ディノがあれだけの冷ややかさを向けても尚、エドワードは決してネアに媚びるような眼差しを向けはしなかった。
それはきっと、ウィリアムやアルテアのように階位が近くなくとも、決して安易に傅くだけではないのが魔物だということなのだろう。
彼が敬愛するのはディノであれ、そんなディノの言葉は、彼の価値観をくるりと変えさせる盲目的なものではない。
だからエドワードは、ネアを良いものだとは思わないし、それを良いものだと言うディノの言葉に頷き信じながらも、その評価が不思議でならないのだ。
「…………額縁はね、その資質故に、自分の執着というものを持たない魔物なんだ。その代わりに、自分より優れていると考える他者の執着や持ち物をとても気にかけ、そこから得られる己の選定を、自身の軸とする魔物の一人だ。そして、彼も自身のその偏屈さを理解はしているけれど、それを恥じたり倦厭することはない」
「他の方が評価するものを、理解して尊びたい方なのですね?」
「…………うん。でも、パンの魔物を評価しているのは知らなかったよ」
手を伸ばしてネアをそっと持ち上げ、ディノは困ったように淡く微笑んだ。
リーエンベルクの明かりが横顔に落ちて、睫毛の影に息が止まりそうな程に美しい真珠色の煌めきが揺れる。
隣ではウィリアムが騎士達に声をかけて開門をお願いしてくれており、この成り行きをネア以上にはらはらしながら見守っていたであろう騎士達も、エドワードが立ち去ってほっとしたようだ。
転移で帰っても良かったのに、ネアにクロウウィンの夜を最後まで堪能させる為にと、この魔物達はリーエンベルクまでの道を一緒に歩いてくれたのだった。
「そうして、自分を恥じず曲げないところは、ちょっぴり評価しているのですね?」
「…………そうかもしれないね。彼のことはあまり…………好きではないし、親しくはしなくていいかなと思うけれど、彼は彼らしくあって良いのだと思う」
「そう思うからこそ、ウィリアムさんが私達を守ろうとして、さっくりやらなくてもいいように、帰らせてくれたのでしょうか?」
ネアがそう尋ねると、リーエンベルクの中に戻りながら、美しい万象の魔物は首を傾げた。
「そうなのだろうか。…………ウィリアムがとても怒っているのは分かったけれど、エドワードを傷付ければ、ウィリアムはあまり気分が良くないだろうとも思った」
「シルハーン…………」
ディノの言葉に少し驚いたのか、こちらを見たウィリアムは、目を瞠ると微かに唇の端を持ち上げた。
「きっと、俺は躊躇わずに剣を振るいましたよ。ですが、…………そうですね、確かにエドワードはあのようにしか考えず、あのようにしか喋らないということは、今更だなという部分もありますね…………」
そう言いながら、ウィリアムはちらりとネアの方を見た。
ここでネアが憤然としていれば、この優しい魔物はもう一度剣を構えるかもしれない。
だからネアは、くすりと微笑んだ。
同じように資質故にその行いが偏る魔物であっても、天秤の魔物と額縁の魔物はどこかが決定的に違う。
こうして同日にその二人に遭遇してしまうのは、案外良い経験だったかもしれないと考えていたのだ。
清廉な装いで欺く者と、偏屈だが決して悪意はないおかしな魔物は、ともすれば人間にとってさしたる違いもなく、どちらも脅威に変わりはないのだとしても、ネアはこれからもこんな風に様々な魔物達に出会うのだろう。
「何度かきりんさんを見せたくはなりましたが、私は、エドワードさんのことは嫌いではありませんよ。一緒にいると一定期間毎に武力行使の衝動に駆られるかもしれませんし、お友達にはならなくても良いですが、ウィリアムさんに斬られてしまわなくて良かったかなとも思うのです……………」
「……………やっぱり、エドワードはいらないかな」
「むむ、なぜに突然の過激派発言が…………」
「…………人間は、額縁を好むことが多いからね。彼が許容しなくても、彼を最良とはしなくても、なぜだか人間達は、彼を受け入れることが多いんだ……………」
そう告白して、水紺色の瞳で不安そうにこちらを見る魔物に、ネアはもう一度微笑みを深めた。
「私はとても心が狭いので、あの方とは仲良しにはなりませんよ」
「それならいいのかな…………」
「…………む、アルテアさんは疑わしげな目で見るのをやめるのだ。私は、自損嗜好など持ち合わせておりません」
「どうだかな、お前は結局ああいうものも、手懐けかねないだろうが。過去を振り返ってみろ」
そう言われて首を傾げると、アルテアは、自分の経験を踏まえて話しているのかなと思い至った。
「…………額縁の魔物さんはいりません。獰猛そうだけれど撫でてみたい魅力もある森の獣さんとは違って、あの方はどちらかと言えば、存在を否定はしないものの飼いたいとは思わない茹で肉の魔物のようなもの」
「何でその例えにした…………」
その時、さあっと音を立てて霧雨が降ってきた。
勿論、出会った頃とは違いすかさずネアを雨に濡れないようにしてくれた魔物だが、降り出した最初の雫を弾いた魔術のしゅわりとした煌めきに、ネアは目を奪われる。
すぐにその雨は不可視の壁に遮られるようになってしまうのだが、最初に触れる瞬間はあんな風に光るのだなと、いつもの雨除けとは違う美しさにわくわくした。
「色々なことを見て知っても、まだまだ知らない美しいものがあるのですね」
思わずそう言ったネアに、ディノがはっと息を飲む。
「…………エドワードなんて」
「額縁さんではなくて、ディノが雨を遮ってくれた時に、雨と結界の接触面がぱちぱちしゅわっと光ったのですよ。初めて見たのですが、とっても綺麗でした」
「おや、光っていたということは、これはただの雨ではないかもしれないね」
「…………雨ではないのですか?」
ディノの視線を追って隣を見ると、片方の手袋を外して雨だれに手を伸ばしたアルテアが、ふっと唇の端を持ち上げる。
「晩秋の夜雫だな。特定の土地に大きな魔術の揺らぎが重なることで、凝った魔術が降らせる雨だ。家事妖精達に雨水を貯めさせた方がいいぞ」
「なぬ!すぐさま伝達します!!」
ネアは慌てて屋内に入ると、家事妖精達にそのことを伝えた。
こんな場合の対処法が用意されていなかったら、エーダリア達を捕まえて指示を仰ぐしかないのだが、幸い、予めマニュアルのようなものが用意されていたらしい。
慌てて水晶の桶を持って庭に出て行く家事妖精達に、念の為に同じことを報告した騎士棟からも、同じ頃合いにこちらに戻っていたグラスト達が駆け付ける。
「ネア、教えてくれて有難う。僕、部屋の中にいたから気付かなかったんだ」
「グラストさん、ゼノ、街の見回りお疲れ様でした。この晩秋の夜雫は、とても大切なものなのですね?」
「うん。グラストは騎士だからこれで剣を磨くんだよ」
「ネア殿、晩秋の夜雫だと教えていただいて、助かりました。屋内に入ってしまうと気付かないものですから、何度か機会を逃したまま、今年はまだ一度も貯蔵出来ておらずに困っていたんです…………」
そう微笑んでくれたグラストから、晩秋の夜雫は夜のうちにその雨水を貯蔵し、その雨水に浸した布で鍵や鍵穴を拭くと、そこから悪しきものが入り込まなくなるのだと教えて貰った。
また、武具を手入れすれば斬れ味も良くなるので、騎士達にはとても大切な恵みなのだと言う。
(そう考えると、忙しい一日だったけれど、そのことでリーエンベルクには収穫があったのだわ…………)
せっかくなのでネアも、就寝準備の前に窓辺に出しておいた小鉢に雨水を貯めて、寝る前にウィリアムから貰ったナイフを磨いてみた。
アルテアは隣の部屋をネアの厨房にして、そこであの塩青汁風の工房中毒の薬を作ってくれているし、ウィリアムも、雨水を貯めて愛剣の手入れをしている。
寝巻きに着替えてセーターを羽織ったネアに、ディノは誕生日に貰ったお気に入りのガウンで幸せそうだ。
こんな風にみんながネア達の部屋に揃うのは、実はとても珍しい。
「ネア、また工房中毒になったって本当?!」
どんな関連する弊害があるかわからないのでと報告を上げておいたからか、街中のリースの焚き上げが終わり、こちらに戻るなりノアも部屋に駆けつけてくれた。
なぜかその手には、たくさんのキャラメル林檎の袋を持っている。
すっかり気に入ったそうなので、買い占めたのかなと考えれば何だかほっこりしてしまう。
エーダリアとヒルドも戻ったら様子を見に来てくれようとしていると知って、ネアは慌てて首を振った。
「心配をかけてごめんなさい、ノア。でも、どうかエーダリア様達にはそのまま休んでいただいて下さいね。アルテアさんがお薬を作ってくれていますし、少しだけ体がほこほこしてきましたが、まだ発症前なんですよ」
「…………蝕で古い魔術が敷かれた土地に降りたからかもね。その人工精霊が、早めに気付いてくれて良かったよ。エーダリア曰く、二度目からは酩酊状態みたいな症状も出るらしいんだ…………」
「むむ、酔っ払いのようにもなるのですね…………」
その言葉を聞いた途端、ご主人様の椅子になってご満悦だった魔物がびゃっと体を竦めた。
ウィリアムもぎくりとしたように振り返り、慌てて厨房に薬が出来たかどうか進捗を確かめに行っている。
和やかだった部屋を一瞬にして包んだ恐怖の気配に、ネアはこてんと首を傾げた。
「…………私は、悪酔いはしません」
「ご主人様…………」
「ありゃ、………そ、そうだね。アルテア、一刻も早く薬を仕上げて!!」
「すぐに仕上げる。そいつを押さえておけ」
「シルハーン、ネアを捕まえていて下さい」
「むぐる…………」
その時、ゴーンとどこか遠くでリーエンベルクに真夜中を報せる鐘の音が聞こえた。
その鐘の音は聞き慣れたいつもの柔らかな響きで、ネアはもう怖いとは思わなかった。